主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
レイストール王城の一室。
窓の外では、今日もどこかで戦の煙が上がっている。
その景色を背に、アルヴィーノは机上に広げられた黒と白の盤面を静かに見つめていた。
駒はすでにいくつか動かされている。
敵陣に深く切り込んだ白の騎士。
包囲を狙う黒の城。
中央で睨み合う王と王。
盤面は、彼の頭の中にある“戦場”そのものだった。
扉が叩かれ、私兵の伝達係が膝をつく。
「……報告がございます。南方の森に、非合法の研究施設があるとの噂を。闇魔法の実験体が――」
アルヴィーノの指先が、盤上の白い駒の上で止まった。
ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
「闇魔法、ですか」
淡々とした声。
興味という感情はそこにはない。
ただ、盤面に新しい“駒”が置かれたのだと理解しただけ。
希少な闇魔法。
制御不能。
暴走の危険あり。
(……扱い方次第で、王を詰められる)
その一手が、彼の中で静かに確定する。
アルヴィーノは白い騎士を指先で軽く弾き、敵陣深くへと進めた。
その動きは、これから自分が向かう先を示すかのようだった。
「兵を集めなさい。二十もいれば十分でしょう」
「は、はい……! 目的は――」
「必要ありません。私が行くと言えば、それでいいのです」
アルヴィーノは盤面から視線を離し、外套を羽織って部屋を出ると、城の裏手にある広い修練場へと向かう。
そこには、すでに二十名の兵が整列していた。
皆、軽装。
鎧は最低限、動きやすさを優先した装備。
そして全員が、よく訓練された馬の手綱を握っている。
彼らはアルヴィーノの命令で集められたのではない。
“呼ばれた”から来たのだ。
呼ばれたら来る。
来なければ死ぬ。
それだけの関係。
修練場の空気は張り詰めていた。
兵たちは誰一人として声を発しない。
アルヴィーノが姿を現した瞬間、全員の背筋がわずかに震えた。
「行きますよ」
ただ、それだけ。
説明も作戦もない、必要ないからだ。
修練場の端には、黒塗りの馬車が一台。
アルヴィーノ専用のものだ。
兵たちは馬に跨り、半数が馬車の前へ、残りが後ろへ 自然と二列の隊形を作る。
王族の護衛としては当然の配置。
だが、兵たちがこの位置につく理由は“守るため”ではない。
――アルヴィーノの進路を邪魔しないためだ。
アルヴィーノは馬車に乗り込み、扉を閉めた。
次の瞬間、馬車が静かに動き出す。
前列の兵は馬車より先に進み、道を切り開く。
だが、彼らは決して気を抜けない。
速度が落ちれば、馬車は容赦なく後ろから押し潰す。
アルヴィーノは止まらない。
兵の命より、目的の方が重い。
後列の兵は、馬車の後ろを一定の距離で追う。
遅れれば置いていかれる。
助けはない。
それがアルヴィーノの“軍”だった。
馬車の中で、アルヴィーノは窓の外を眺めながら静かに思考を巡らせる。
(闇魔法の実験体……制御不能、暴走の危険あり。――つまり、価値がある)
森に入る頃には、前列の兵の馬の足音がわずかに乱れ、緊張が伝わってくるようだった。
だが、アルヴィーノの表情は変わらない。
まるで、これから向かう先がただの散歩道であるかのように。
やがて馬車が止まる。
扉が開き、アルヴィーノが外へ降りる。
前後の兵たちが馬から降り、整列する。
その先に薄汚れた建物があった。
苔むした壁。
閉ざされた鉄扉。
外からでも分かる、異様な気配。
アルヴィーノは一度だけ目を細めた。
(……ここにいるのですね。私の“駒”が)
「突入します。抵抗する者は全て排除しなさい」
静かな命令。
その裏にあるのは、兵の命など砂粒ほどの価値もないという事実。
兵たちが動き出す。
アルヴィーノはその後ろを歩く。
足音は静かで、まるで舞踏会に向かう貴族のように優雅だった。
――そして、地下室の扉の前に立つ。
アルヴィーノは一度も迷わず、ただ淡々と命じた。
「……開けなさい」
次の瞬間、地獄の扉が蹴り破られた。
◆
その日、地下室に響いた悲鳴は、いつものものとは違っていた。
痛みによる叫びではない。
もっと鋭く、もっと短く、そして突然に途切れた。
次の瞬間、焦げた肉の匂いが空気を満たす。
少年は顔を上げることすらできず、ただ震えながら耳を塞いだ。
――ドンッ。
地下室の扉が、外側から蹴り破られた。
差し込んだ光は、少年にとってあまりにも眩しく、痛いほどだった。
光を見るのは、どれほどぶりだっただろう。
その光の中に立っていたのは、返り血を浴びながらも一切乱れのない姿の青年だった。
外を知らない彼でも知っている人物。
この国の第二王子で戦場には必ずと言っていいほど現れる慈悲なき軍師。
それが、アルヴィーノ王子だった。
そんな彼が今この薄汚れた研究所に来ていた。
だが、彼の手は汚れていない。
血に濡れているのは、彼の後ろに控える“駒”たち――
アルヴィーノの命令ひとつで動き、殺し、そして使い捨てられる存在で。
「……片付けなさい」
アルヴィーノが静かに命じると、駒たちは無言で動き出した。
地下室にいた大人たちは、悲鳴を上げる暇もなく処理されていく。
焼かれ、斬られ、潰され、消えていく。
アルヴィーノは一度も視線を向けない。
まるで、そこに“物”しかないかのように。
駒の一体が負傷すると、アルヴィーノは冷ややかに言った。
「使えないなら、そこで朽ちなさい」
駒はその場に崩れ落ちた。
死にたくない、助けてくれといった命乞いすら彼の耳には入らない。
助けられることも、労われることもない。
ただ、役目を終えた道具として捨てられるだけ。
そんな地獄のような光景の中で、アルヴィーノはただ一人、少年の方へ歩み寄った。
ボロ布のような服。
傷だらけの身体。
光のない瞳。
アルヴィーノはその姿を見下ろし、静かに息を吐いた。
(……ほう。これが“失敗作”と呼ばれていた実験体ですか)
その瞳には、哀れみも怒りもない。
ただ、価値を測る冷徹な計算だけが宿っていた。
魔力の暴走。
制御不能。
廃棄対象。
――だが、それは“磨けば光る原石”の証でもある。
(調教すれば、最高の駒になる。いや……私だけの兵器になる)
アルヴィーノは少年の前に膝をつき、目線を合わせた。
その動作は、まるで舞踏会で淑女に挨拶するかのように優雅だった。
「かわいそうに。ひどい目に遭いましたね。もう大丈夫ですよ」
その声は甘く、柔らかく、完璧に優しい“形”をしていた。
だが、温度は一切ない。
差し出された白い手。
少年は怯えた。
その手を取れば、また新しい地獄が始まるかもしれない。
けれど、生まれて初めて向けられた“優しいように見える”眼差しに、抗う術はなかった。
乾き骨ばった小さな手が、恐る恐るその手に触れる。
「……今日から、貴方は私のものです。名前が必要ですね。そう……『ルミ』。それが貴方の新しい名前です」
アルヴィーノはルミを抱き上げた。
その背後では、駒たちが最後の死体を処理している。
役目を終えた駒は、その場に捨て置かれた。
アルヴィーノは振り返りもせず、ただルミだけを抱えて地獄を後にした。
窓の外では、今日もどこかで戦の煙が上がっている。
その景色を背に、アルヴィーノは机上に広げられた黒と白の盤面を静かに見つめていた。
駒はすでにいくつか動かされている。
敵陣に深く切り込んだ白の騎士。
包囲を狙う黒の城。
中央で睨み合う王と王。
盤面は、彼の頭の中にある“戦場”そのものだった。
扉が叩かれ、私兵の伝達係が膝をつく。
「……報告がございます。南方の森に、非合法の研究施設があるとの噂を。闇魔法の実験体が――」
アルヴィーノの指先が、盤上の白い駒の上で止まった。
ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
「闇魔法、ですか」
淡々とした声。
興味という感情はそこにはない。
ただ、盤面に新しい“駒”が置かれたのだと理解しただけ。
希少な闇魔法。
制御不能。
暴走の危険あり。
(……扱い方次第で、王を詰められる)
その一手が、彼の中で静かに確定する。
アルヴィーノは白い騎士を指先で軽く弾き、敵陣深くへと進めた。
その動きは、これから自分が向かう先を示すかのようだった。
「兵を集めなさい。二十もいれば十分でしょう」
「は、はい……! 目的は――」
「必要ありません。私が行くと言えば、それでいいのです」
アルヴィーノは盤面から視線を離し、外套を羽織って部屋を出ると、城の裏手にある広い修練場へと向かう。
そこには、すでに二十名の兵が整列していた。
皆、軽装。
鎧は最低限、動きやすさを優先した装備。
そして全員が、よく訓練された馬の手綱を握っている。
彼らはアルヴィーノの命令で集められたのではない。
“呼ばれた”から来たのだ。
呼ばれたら来る。
来なければ死ぬ。
それだけの関係。
修練場の空気は張り詰めていた。
兵たちは誰一人として声を発しない。
アルヴィーノが姿を現した瞬間、全員の背筋がわずかに震えた。
「行きますよ」
ただ、それだけ。
説明も作戦もない、必要ないからだ。
修練場の端には、黒塗りの馬車が一台。
アルヴィーノ専用のものだ。
兵たちは馬に跨り、半数が馬車の前へ、残りが後ろへ 自然と二列の隊形を作る。
王族の護衛としては当然の配置。
だが、兵たちがこの位置につく理由は“守るため”ではない。
――アルヴィーノの進路を邪魔しないためだ。
アルヴィーノは馬車に乗り込み、扉を閉めた。
次の瞬間、馬車が静かに動き出す。
前列の兵は馬車より先に進み、道を切り開く。
だが、彼らは決して気を抜けない。
速度が落ちれば、馬車は容赦なく後ろから押し潰す。
アルヴィーノは止まらない。
兵の命より、目的の方が重い。
後列の兵は、馬車の後ろを一定の距離で追う。
遅れれば置いていかれる。
助けはない。
それがアルヴィーノの“軍”だった。
馬車の中で、アルヴィーノは窓の外を眺めながら静かに思考を巡らせる。
(闇魔法の実験体……制御不能、暴走の危険あり。――つまり、価値がある)
森に入る頃には、前列の兵の馬の足音がわずかに乱れ、緊張が伝わってくるようだった。
だが、アルヴィーノの表情は変わらない。
まるで、これから向かう先がただの散歩道であるかのように。
やがて馬車が止まる。
扉が開き、アルヴィーノが外へ降りる。
前後の兵たちが馬から降り、整列する。
その先に薄汚れた建物があった。
苔むした壁。
閉ざされた鉄扉。
外からでも分かる、異様な気配。
アルヴィーノは一度だけ目を細めた。
(……ここにいるのですね。私の“駒”が)
「突入します。抵抗する者は全て排除しなさい」
静かな命令。
その裏にあるのは、兵の命など砂粒ほどの価値もないという事実。
兵たちが動き出す。
アルヴィーノはその後ろを歩く。
足音は静かで、まるで舞踏会に向かう貴族のように優雅だった。
――そして、地下室の扉の前に立つ。
アルヴィーノは一度も迷わず、ただ淡々と命じた。
「……開けなさい」
次の瞬間、地獄の扉が蹴り破られた。
◆
その日、地下室に響いた悲鳴は、いつものものとは違っていた。
痛みによる叫びではない。
もっと鋭く、もっと短く、そして突然に途切れた。
次の瞬間、焦げた肉の匂いが空気を満たす。
少年は顔を上げることすらできず、ただ震えながら耳を塞いだ。
――ドンッ。
地下室の扉が、外側から蹴り破られた。
差し込んだ光は、少年にとってあまりにも眩しく、痛いほどだった。
光を見るのは、どれほどぶりだっただろう。
その光の中に立っていたのは、返り血を浴びながらも一切乱れのない姿の青年だった。
外を知らない彼でも知っている人物。
この国の第二王子で戦場には必ずと言っていいほど現れる慈悲なき軍師。
それが、アルヴィーノ王子だった。
そんな彼が今この薄汚れた研究所に来ていた。
だが、彼の手は汚れていない。
血に濡れているのは、彼の後ろに控える“駒”たち――
アルヴィーノの命令ひとつで動き、殺し、そして使い捨てられる存在で。
「……片付けなさい」
アルヴィーノが静かに命じると、駒たちは無言で動き出した。
地下室にいた大人たちは、悲鳴を上げる暇もなく処理されていく。
焼かれ、斬られ、潰され、消えていく。
アルヴィーノは一度も視線を向けない。
まるで、そこに“物”しかないかのように。
駒の一体が負傷すると、アルヴィーノは冷ややかに言った。
「使えないなら、そこで朽ちなさい」
駒はその場に崩れ落ちた。
死にたくない、助けてくれといった命乞いすら彼の耳には入らない。
助けられることも、労われることもない。
ただ、役目を終えた道具として捨てられるだけ。
そんな地獄のような光景の中で、アルヴィーノはただ一人、少年の方へ歩み寄った。
ボロ布のような服。
傷だらけの身体。
光のない瞳。
アルヴィーノはその姿を見下ろし、静かに息を吐いた。
(……ほう。これが“失敗作”と呼ばれていた実験体ですか)
その瞳には、哀れみも怒りもない。
ただ、価値を測る冷徹な計算だけが宿っていた。
魔力の暴走。
制御不能。
廃棄対象。
――だが、それは“磨けば光る原石”の証でもある。
(調教すれば、最高の駒になる。いや……私だけの兵器になる)
アルヴィーノは少年の前に膝をつき、目線を合わせた。
その動作は、まるで舞踏会で淑女に挨拶するかのように優雅だった。
「かわいそうに。ひどい目に遭いましたね。もう大丈夫ですよ」
その声は甘く、柔らかく、完璧に優しい“形”をしていた。
だが、温度は一切ない。
差し出された白い手。
少年は怯えた。
その手を取れば、また新しい地獄が始まるかもしれない。
けれど、生まれて初めて向けられた“優しいように見える”眼差しに、抗う術はなかった。
乾き骨ばった小さな手が、恐る恐るその手に触れる。
「……今日から、貴方は私のものです。名前が必要ですね。そう……『ルミ』。それが貴方の新しい名前です」
アルヴィーノはルミを抱き上げた。
その背後では、駒たちが最後の死体を処理している。
役目を終えた駒は、その場に捨て置かれた。
アルヴィーノは振り返りもせず、ただルミだけを抱えて地獄を後にした。
