主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠㊱

「……落ち着きましたか、リリィ」
「はい……っ。レオ様、お洋服、ぬらしてしまって……ごめんなさい、です……」
「いいえ、構いません。貴方の涙を受け止めることくらい、いくらでもします」

ようやく泣き止み、少し気恥ずかしそうに俯くリリィの涙を、レオは自身の指先で優しく拭った。
まだお互いに泣き腫らした酷い顔をしてはいるが、その胸にある確執はもう綺麗に消え去っている。
レオはゆっくりと立ち上がると、リリィに向かってそっと右手を差し出した。

「さあ、行きましょう。リリィを連れて、父上の元へ行かなければなりません。……私一人の力では何もできなかった。だからこそ、私達のために動いてくださった父上に、ちゃんとお礼を言わなければ」
「はい……。わたしも、おうさまと、おきさきさまに……お礼を、言いたいです……」

リリィが辿どたどしくも真っ直ぐな瞳で頷き、その小さな手をレオの手のひらに重ねる。

その柔らかな温もりを感じながら、レオは胸の奥で、静かに、けれど苛烈なまでの決意を固めていた。
昨夜、父の胸で子供のように泣きじゃくった私は、もうここに置いていく。
これからは、ただ我が儘にリリィを囲うだけの子供ではない。
ちゃんとレイストール王国の王子らしく、この国を背負う資格を身につけ、名実ともにリリィを完璧に守れる「大人」になってみせる、と。
リリィの手を優しく引きながら廊下を進み、新王の執務室の前へと辿り着く。
レオは深く息を吸い込み、未来を切り開くための第一歩として、その重厚な扉を静かに押し開けた。

「父上、母上。失礼いたし――……」

凛とした王子の声を響かせようとしたレオだったが、部屋に入った瞬間、その言葉は呆然と途切れることとなった。

「あはは……もう、これ本当に今日中に終わるのかな……。誰か僕の代わりにこの『国境沿い更地化問題』の決済をしてくれないかな……」
「まあまあ、アルフレッド様。これを乗り切れば、可愛い息子とリリィさんの未来が手に入るのです。ほら、お茶をお代わりいたしますね」

そこに居たのは、威厳に満ちた新王の姿など微塵もなく、机の上の終わらない書類の山に物理的に埋もれ、魂が抜けかけた顔でペンを動かしている父アルフレッド。
そして、そんな夫の肩を優しく揉みながら、呆れたような、けれど深い愛情を込めて労っている母、正妃エルザの姿だった。
決意に満ちて部屋の扉を開けたレオと、おずおずと顔を覗かせるリリィ。
二人の王子の来訪に、書類の隙間からアルフレッドが「あ、レオ……」と、何とも言えない情けない笑顔を向けたのだった。

「あはは……。おはよう、二人とも。よく眠れたかい?」

書類の山の隙間からひょっこりと顔を覗かせたアルフレッドの顔は、お世辞にも「一国の王」として万全とは言えないものだった。
目の下には色濃い隈が刻まれ、その微笑みは完全に限界を迎えた人間のそれである。
レオは差し出された挨拶を返しつつも、目の前の異常な光景に、思わず眉をひそめた。

(……なぜ、父上はこれほどまでに書類に埋もれているのでしょうか……)

外交戦は昨日、完璧な形で勝利の結末を迎えたはず。
アイゼンハルト帝国との戦後処理や賠償金の交渉書類だとしても、この量はあまりにも異常だ。
不可解そうに首を傾げ、机の上に散らばる『被害報告書』『魔力汚染による補償請求』といった不穏な文字を目で追っていたレオだったが、ふと、ある一つの可能性に思い至った。

国境沿い。
一千の精鋭の消滅。死体すら残らない塵の山。

「……あ」

少しの思考の末、レオの脳裏にすべてを察した電流が走る。
この未曾有の物理的破壊を引き起こし、そのまま事後処理を一切放棄して逃亡できる不届き者など、この国に一人しか存在しない。

(……叔父上のせいだ)

すべてを理解したレオは、あまりの申し訳なさと身内の横暴に対する羞恥心から、一歩前に出て深く腰を折った。

「父上、母上……。本当に、申し訳ございません。私達のために、叔父上達がそこまで派手に暴れてしまわれたのですね……」

レオの様子を見て、リリィも慌ててその小さな身体を縮め、辿々しくも一生懸命に頭を下げた。

「おうさま……おきさきさま……。わたしのせいで、おしごと、たくさん……ごめんなさい、です……っ」

健気に謝罪する二人の子供たちの姿に、アルフレッドは思わずふにゃりと目元を和らげ、隣に立つエルザと顔を見合わせて苦笑した。

「まあまあ、二人とも頭を上げておくれ。リリィくんが謝ることなんて何一つないんだよ。……アルヴィーノが加減というものを知らないのは、今に始まったことじゃないからね。いつものことさ」
「そうですよ、リリィさん。それにアルヴィーノ様は、これに託けて二ヶ月の休暇を毟り取って温泉街へ行ってしまわれたのです。ですから、悪いのはすべてあの自由人たちなのですよ」

エルザがクスリと笑いながら補足すると、アルフレッドは「お饅頭のお土産、本当に買ってきてくれるかなぁ……」と遠い目をしながらペンを動かし始める。

その父の疲れ切った背中と、未だに減る気配のない書類の山を見つめていたレオは、自身の小さな拳をきゅっと握り締めた。
昨日、私は父上の胸で「大人になる」と決意したはずだ。
ならば、ここでただ見ているだけなど、未来の王としても、リリィの伴侶としても許されない。
レオはきりっと凛々しく顔を上げると、新緑の瞳に強い光を宿して言い放った。

「父上。私にも、その書類仕事をお手伝いさせてください!」
「――え?」

レオの突然の申し出に、アルフレッドは握っていたペンをぴたりと止め、驚いたように目を丸くした。
隣に立つエルザも、美しく整えられた眉を微かに上げ、予想外の息子の言葉に驚きを隠せない様子だった。
二人は一度、顔を見合わせる。
アルフレッドの脳裏には、昨夜、自分の胸の中で子供のように声を上げて泣きじゃくり、ようやく今朝眠りについたばかりの息子の姿が焼き付いていた。

「……気持ちはとても嬉しいよ、レオ。でも、まだ本調子じゃないだろう? 一晩中あんなに泣いたんだ、今日はリリィくんと一緒に、お庭でも散歩してゆっくり休んでおいで」

アルフレッドは父親としての優しい微笑みを浮かべ、穏やかにそれを断ろうとした。
エルザもまた、心配そうにレオの腫ぼったい目元を見つめている。
しかし、昨日までの未熟な自分を捨て、「大人」になると決意したレオの瞳は、少しも揺らがなかった。

「いいえ、父上。私なら完全に目覚めております」

レオは引くことなく、まっすぐな足取りで室内の応接ソファへと向かった。
その小さな背中には、王子としての気高き矜持が確かに宿っている。

「自分の無力さを知った私が、ここでただ甘えて休んでいるなど、未来の王としてもリリィの伴侶としても許されません。さあ、そちらの書類の束を私に。仕分けくらいであれば、今の私にも十分に可能です」

ソファにすとんと腰掛け、レオは早く書類を渡してほしいと父を見つめる。
そのレオの隣に、リリィもトコトコと付いて歩き、戸惑いながらも彼の隣へとちょこんと腰掛けた。
そして、小さな手をぎゅっと握り締め、アルフレッドたちに向かって辿々しく、けれど一生懸命に言葉を紡ぐ。

「わたしも……レオ様といっしょに、お手伝い……します。文字を、読むのは……すこし、むずかしい、ですけれど……かみを、そろえることなら……できます、から……っ」

二人の子供たちの、あまりにも健気で、強い決意に満ちた眼差し。
それを受け止めたアルフレッドは、しばらく唖然としていたが、やがて降参したようにふっと目元を和らげ、深く笑みをこぼした。

「……参ったな。エルザ、どうやら僕たちの息子は、僕が思っているよりもずっと早く、大人になろうとしているみたいだ」
「ふふ、頼もしいことですね、アルフレッド様。あの子の決意、無下にしては政治を司る王の名が廃りますわ」

エルザが楽しげにクスリと笑うと、アルフレッドは机の上の書類の山から、比較的簡単な被害状況の仕分け書類をいくつか手に取った。

「分かったよ、レオ、リリィさん。それじゃあ、僕の特別補佐官として、その書類の仕分けをお願いできるかい?」
「はい、喜んで!」

レオはきりりとした表情で応じ、父から受け取った書類をリリィと分け合う。
こうして、終わらない書類の山に、若き二人の小さな手が加わった。
賑やかで、どこか温かい、レイストール王国の新しい朝の光が、執務室の中を満たしていった。
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