主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠㉝

レオの私室は、まるで時が止まったかのような深い静寂に包まれていた。

ベッドの上では、あれほど激しく泣きじゃくっていたリリィが、小さな身体を縮めて丸くなり、すやすやと眠りの中に落ちていた。
白く長い髪は枕に乱れて広がり、その赤い目元は痛々しいほどに腫れ上がっている。

そのベッドの傍らで、レオは暗闇に紛れるようにして座り込み、己の拳を血がにじむほど強く握り締めていた。

(……私は、どこまで無力なのでしょうか)

最愛の少女をこの手で完璧に囲うと誓ったはずだった。だが、現実はどうだ。
自分の構築した稚拙な戦略も、突き詰めすぎた不完全な交渉術も、大人たちの前では容易く破綻した。
叔父に限界を突きつけられ、実父に未熟さを指摘され、結局、自分一人では、リリィを脅かす有象無象から彼女を守ることすらできなかった。

「私が、もっと優れていれば……。大人たちの力など借りずとも、私一人の力で、彼女の完璧な檻を完成させられたというのに……!」

悔しさと自責の念が胸をかき毟る。
父の「対話」と、叔父の「暴力」という最強のカードを利用して外堀を埋めた。
それは戦略としては正解だったかもしれない。
だが、レオのプライドはズタズタだった。
他人の力を借りねば何もできない己の未熟さが、底知れぬ無力感となって彼を苛み続けていた。

コン、コン、と。
その静寂を引き裂くように、控えめなノックの音が響いた。

「――レオ、入るよ」

静かに扉を押し開けて入ってきたのは、すべてを終えた実父、新王アルフレッドだった。
その手には、一枚の重々しい書類が握られている。

アルフレッドはベッドで眠るリリィの姿に一度優しい視線を向けた後、暗闇の中で自責の念に押し潰されそうになっている息子へと歩み寄った。
そして、その長い指先で、サイン済みの書類をレオの前へと静かに差し出した。

「終わったよ、レオ。……これが、アイゼンハルト帝国の全権使節団が泣く泣くサインしていった協定書だ」

カサリ、と書類がレオの目の前に置かれる。

「これで、彼らは二度と彼女に手を出すことはできない。彼女の所有権は永久に放棄され、国際法に基づいた完璧な我が国の庇護下に置かれることになった。……アルヴィーノの軍も、敵の先遣隊を完全に塵へと還した。もう、彼女の安全を脅かすものはどこにもいないよ」

差し出された、完全勝利の証明。
それはレオが望み、大人たちを動かして手に入れた、リリィを守るための完璧な檻の完成を意味していた。
差し出された協定書を睨みつけながら、レオの身体は小刻みに震えていた。

「……これが、完璧な正解ですか」

ぽつり、と掠れた声がこぼれる。
それは父が勝ち取った、これ以上ない完全な勝利の証明。
だが、レオにとっては己の無能さを突きつける、冷酷な宣告に他ならなかった。

「悔しい……! 悔しくて仕方がありません、父上……ッ!」

我慢しきれなくなった感情が、激しい言葉となってアルフレッドへとぶつけられる。
レオは椅子を蹴立てて立ち上がり、血走った目で実父を睨み据えた。

「私は彼女を、リリィを私だけの力で完璧に囲い込みたかった! なのに、私が用意した策は穴だらけで、彼女を泣かせ、結局は父上の『対話』と叔父上の『暴力』に頼らなければ何もできなかった! 世界を敵に回すと言いながら、私は大人の手の平の上で踊っていただけの、ただの無力な……っ」

激昂していた声が、急激に湿り気を帯びて歪む。
言い進めるうちに、胸の奥底に溜まっていた泥のような無力感と情けなさが決壊した。
リリィの前では決して見せられなかった「子供」の顔が、実父の前で、ボロボロと崩れていく。

「何も、できない……っ。私は、誰も守れない……!」

あれほど傲慢に「魔王」たらんとしていた少年の瞳から、大粒の涙が溢れ出た。
視界が涙で滲み、悔しさに唇を噛み締めすぎて血が滲む。

そんな息子の姿を、アルフレッドはただ静かに、深い慈愛に満ちた碧眼で見つめていた。
彼は歩み寄り、泣き崩れそうになるレオの細い肩を、包み込むようにそっと抱き寄せる。

「いいんだよ、レオ。悔しがる必要なんて、どこにもない」

アルフレッドの声は、どこまでも優しく、朗らかだった。
傷ついた少年の心を全肯定で包み込むような、父親の温かさ。

「君は、自分一人で全てを背負おうとしすぎだ。自分の稚拙さを呪い、無力さに泣くのは、君がそれだけリリィくんを真剣に守ろうとした証拠だよ。だけどね、忘れないでほしい。君はまだ、僕たちの足元にも及ばない『子供』なんだ」
「っ、う……、あ……」
「ゆっくりでいい。急いで強くなろうとして、自分の心を壊してしまったら元も子もない。君はこれから時間をかけて、ゆっくりと大人になればいいんだ。そのために、僕やアルヴィーノという、ずるくて強い大人が傍にいるんだからね」

急がなくていい、まだ子供なのだから。
その許しの言葉が、張り詰めていたレオの心の枷を完全に融かした。

「う、あ、あああ……ッ!!」

レオはアルフレッドの衣服の胸元に顔を埋め、幼子のように声を上げて泣きじゃくった。
リリィを守りたいという執念、大人になれない焦燥、プライドを打ち砕かれた屈辱。
その全てを、父親の胸の中で吐き出すように、声を涸らして泣き続ける。

ベッドの上では、リリィが静かに眠っている。
外の世界では、アルヴィーノが敵を塵へと還し、ルミを甘やかしている。
そしてこの部屋では、傷つき泣き叫ぶ若き魔王の雛を、光の王が静かに抱き留めていた。

歪な愛の檻の底で、少年は己の無力を知り、本当の意味で「大人」になるための、長くて昏い一歩を踏み出そうとしていた。

声を上げて、感情の全てを吐き出すように一晩中泣き続けたレオ。
だが、どんなに背伸びをして魔王の真似事をしようとも、その身体はまだ年若い少年そのものだった。
やがて昇り始めた朝日の光がカーテンの隙間から差し込む頃には、レオもすっかり泣き疲れて、アルフレッドの胸の中で泥のように眠ってしまっていた。

「……本当、まだ可愛い子供なんだからね」

アルフレッドは愛おしげに息子の寝顔を見つめ、そっと苦笑した。

起こさないように細心の注意を払いながら、レオの軽い身体を両腕でそっと抱き上げる。
そして、ベッドで小さく丸くなって眠るリリィの隣へ、優しく横たわらせた。
お互いの温もりを求めるように、自然と距離を縮める二人の子供たち。
その上にふわりと毛布を掛け直してやると、アルフレッドは満足そうに微笑み、音を立てずに部屋を後にした。

パタン、と静かに扉が閉まる。

廊下に出た瞬間、新王アルフレッドはそれまでの威厳に満ちた表情をふにゃりと崩し、両腕を天高く突き上げた。

「んん――っ! あー、やっと終わったぁぁ――!!」

大きく伸びをして、溜まっていた疲れを吐き出す。
一国の王として、父親として、外交戦に裏の軍事作戦、さらには息子の夜泣きの付き合いまで。さすがのアルフレッドも心身ともに限界近かった。

「よし、あとは残った書類を片付けるだけだね。頑張ろう」

自分で自分に気合を入れ直し、すっかり馴染んだ新王の執務室へと足を向ける。
重厚な扉を開け、中へ入るとそこには、机の傍らにすっと佇み、彼を待っている人物の姿があった。

「お疲れ様です、アルフレッド様」

凛とした、しかしどこか悪戯っぽい響きを含んだ声音。
そこにいたのは、彼の妻であるエルザだった。
美しく整えられた仕立ての良いドレスを纏い、彼女は完璧な一礼でアルフレッドを出迎える。その手には、まるで彼の帰還を予期していたかのように、淹れたての温かいお茶が用意されていた。

「エルザ。待っていてくれたのかい?」

アルフレッドがほっとしたように眉を下げると、エルザは小さく微笑み、お茶の入ったカップを机へと置いた。

「ええ。国境でのアルヴィーノ様の動きも、中央会談場でのアイゼンハルト帝国の顛末も、全て報告を受けております。本当に……息が詰まるような大立ち回りでした」

彼女の瞳には、国を揺るがす危機を完璧にコントロールし、リリィの身の安全と莫大な賠償金を毟り取ってきた夫への、深い敬意が宿っている。

「ありがとう。でも、一番頑張ったのはレオさ。自分の無力を知って、あんなにボロボロになるまで泣いたんだ。これからは、もっと良い男、良い王に育ってくれると思うよ」

アルフレッドがソファへ深く腰掛け、お茶を一口啜って息をつく。
そうしてようやく訪れた穏やかな朝のひと時を噛み締めるのだった。
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