主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
狂愛の檻と、光の揺り籠㉛
戦場から遥か離れた中央会談場。そこには、先ほどまでの張り詰めた法論とは一線を画す、真の絶望が満ちていた。
「――ほ、報告いたしますッ!」
悲鳴に近い声を上げて転がり込んできたのは、アイゼンハルト帝国の通信兵だった。
その顔は土気色を通り越し、幽霊でも見たかのように白く強張っている。
「我が国の、先遣隊が……国境沿いに展開していた我が軍の精鋭、一千余名が……全滅、いたしました! 生存者、ゼロ……! 死体すら、一人分も残されておらず……文字通り、全軍が『消滅』したとのことです……ッ!」
「……何だと……?」
アイゼンハルトの外交官たちの手が、がたがたと震え出した。
全滅。それも、死体すら残らないほどの完全な消滅。
国境沿いに、一体どのような化け物が潜んでいたというのか。あり得ない。
我が国の精鋭が、大した交戦の報もなく、一瞬にして地上から消え去るなど。
「まさか……貴様ら、最初から裏で軍を動かしていたのか……っ!」
外交官の一人が、怒りと恐怖に顔を血走らせ、円卓を激しく叩いて立ち上がった。
その剥き出しの戦慄きを正面から受け止めながら、アルフレッドは少しも動じることなく、ただいつも通りの朗らかな、どこか飄々とした笑みを湛えていた。
新緑の碧眼には、冷徹な王としての光が静かに宿っている。
「裏で軍を、ですか? 人聞きの悪いことを仰らないでいただきたい」
アルフレッドは手元の書類をトントン、と綺麗に揃えながら、至極平然と言葉を返した。
その声音には一片の揺らぎもない。
「我が国の軍師率いる近衛部隊は、あくまで国境沿いの防衛演習を行っていたに過ぎません。そこへ、我が国に事前の通告もなく、完全武装のまま不法に国境を侵犯してきた武装集団が突撃してきた。……我が軍としては、不測のテロ行為に対処し、自衛の権利を行使した。ただ、それだけのことですよ」
「自衛だと……!? 一千の精鋭を一人残らず塵にする自衛などあるか! 貴様らレイストールは、光の王国などではない……! やっていることは死神だ、悪魔だ、本物の魔王の所業ではないかッ!」
口から泡を飛ばし、狂ったように自分たちを罵倒してくる相手。
死神、悪魔、魔王。
かつて善性だけだった頃のアルフレッドであれば、その言葉に心を痛め、自身の選択を悔いたかもしれない。
だが、酸いも甘いも噛み分け、優しさだけでは大切な者を守れないと知った今の彼にとって、そのような罵詈雑言は何の痛みももたらさなかった。
「悪魔、結構。魔王、それもまた結構です。……我が国をそのように恐れていただけるのであれば、これからの話し合いも、非常にスムーズに進みそうですね」
アルフレッドは冷ややかに微笑み、じわじわと相手を追い詰めるための、本当の「腕の見せ所」へと打って出た。
「さて、アイゼンハルト帝国の皆様。我が国の領土へ許可なく武装軍隊を侵入させ、不当なテロ行為を働いたこと。そして、公式な手続きも経ずに我が国の保護下にある者を拉致しようとしたこと。……これらは明らかな戦時国際法違反であり、我が国に対する事実上の『宣戦布告』と受け取らざるを得ません」
「な……っ!?」
「我が国は周辺諸国に対し、貴国が犯したこれら全ての蛮行を、証拠を以て公表する用意があります。我が国と同盟を結ぶ各国が、この事実を知ればどう動くか……賢明な貴方方なら、容易に想像がつきますね?」
アルフレッドの言葉が進むたび、相手の外交官たちの顔から血の気が引いていく。
戦力によって背後の脅威を完璧に圧殺された今、彼らにはもう、交渉の席で戦うための手札など一枚も残されていなかった。
「ですが、私は寛大です。これ以上の無用な血を流すことは、僕の本意ではない」
アルフレッドはふっと表情を和らげ、まるで慈悲深い王そのものの顔で、逃げられない条件を円卓の上に提示した。
「これより、我が国が提示する新たな協定書にサインを。内容は簡単です。彼女に対する一切の所有権の永久放棄。および、今回の国境侵犯に関する莫大な賠償金の支払い。……これらを受け入れるのであれば、今回の『不幸な事故』は、我が国の胸の内だけに収めて差し上げましょう」
断れば、国が滅ぶ。
アルフレッドの放つ圧倒的な「正論」と、背後に控える魔王の「暴力」の挟み撃ちに、アイゼンハルトの使節団はただ、絶望の中でペンを握るしかなかった。
牙を隠した光の王による、完璧な外交戦の勝利。
レオが望み、アルフレッドが体現した「完璧な環境」が、いま合法的に構築されようとしていた。
アイゼンハルト帝国の外交官たちは、まさに苦虫を噛み潰したような顔で、わなわなと拳を震わせていた。
突きつけられた条件は、国家としてのプライドを粉々に打ち砕く、あまりにも苛烈なもの。
しかし、国境沿いにいた一千の精鋭を一瞬で消滅させた「魔王軍」の恐怖と、それを平然と外交の武器に変えるアルフレッドの底知れなさを前に、彼らに拒否権など残されているはずもなかった。
「……、くっ……!」
代表の外交官は、血が滲むほどに唇を噛み締めながら、差し出された協定書へと羽ペンを走らせた。
その手は屈辱と恐怖で激しく震え、インクが紙面に歪に擦れる。
未来永劫、リリィの所有権を完全放棄すること。
そして、レイストール王国への莫大な賠償金を支払うこと。
カサリ、とペンが置かれる。
それは、かつてリリィを虐げ、今またその白い首に鎖を繋ごうとした故国の、完全なる敗北の証明だった。
「――確かに。賢明な御決断、感謝いたします」
アルフレッドはサインのなされた協定書を美しく手にとり、入念に確認すると、ふっと満足そうに微笑んだ。
その新緑の碧眼には、大切な身内と、息子の愛した少女を完璧に守り抜いたという、王としての確固たる矜持が宿っている。
ここに、国を揺るがしかねなかった地獄の外交戦は、レイストール王国の完全勝利という形で幕を閉じた。
「それでは、皆様。これにて話し合いは終了です。国境までの道中、我が国の軍師の部隊が『親切に』護衛いたしますので、どうぞご安心してお帰りください」
「ひ、っ……!」
アルフレッドのどこまでも朗らかな、しかし最大級の脅迫を含んだ見送りの言葉に、外交官たちは悲鳴のような息を漏らした。
あの死神のような魔王が、まだ自分たちのすぐ近くにいる。その事実に、彼らの精神は完全に崩壊しかけていた。
「撤退だ……! 早く、一刻も早くこの国から離れるぞ……!」
使節団の面々は、もはや外交官としての威厳など微塵もなく、我先にと席を蹴立てた。
あまりの恐怖に腰が抜け、お互いの足をもつれさせながら、縋り付くようにして部屋の扉へと殺到する。
ある者は壁に肩をぶつけ、ある者は転びそうになりながら、命からがらといった様子で執務室から逃げ出していった。
バタン、と重厚な扉が閉まり、室内には再び穏やかな静寂が戻る。
残されたアルフレッドは、手の中の協定書を愛おしげに見つめ、深く息を吐き出した。
自身の「対話」と、弟アルヴィーノの「暴力」、そして何より、それらを完璧に引き出した息子レオの「執念」。
全てが噛み合い、リリィを囲うための『国という名の巨大な檻』の基礎は、いま完全に完成したのだ。
アルフレッドは静かに窓の外の青空を見上げ、泥沼の戦いを潜り抜けた息子たちの未来に、静かな祈りを捧げるのだった。
戦場から遥か離れた中央会談場。そこには、先ほどまでの張り詰めた法論とは一線を画す、真の絶望が満ちていた。
「――ほ、報告いたしますッ!」
悲鳴に近い声を上げて転がり込んできたのは、アイゼンハルト帝国の通信兵だった。
その顔は土気色を通り越し、幽霊でも見たかのように白く強張っている。
「我が国の、先遣隊が……国境沿いに展開していた我が軍の精鋭、一千余名が……全滅、いたしました! 生存者、ゼロ……! 死体すら、一人分も残されておらず……文字通り、全軍が『消滅』したとのことです……ッ!」
「……何だと……?」
アイゼンハルトの外交官たちの手が、がたがたと震え出した。
全滅。それも、死体すら残らないほどの完全な消滅。
国境沿いに、一体どのような化け物が潜んでいたというのか。あり得ない。
我が国の精鋭が、大した交戦の報もなく、一瞬にして地上から消え去るなど。
「まさか……貴様ら、最初から裏で軍を動かしていたのか……っ!」
外交官の一人が、怒りと恐怖に顔を血走らせ、円卓を激しく叩いて立ち上がった。
その剥き出しの戦慄きを正面から受け止めながら、アルフレッドは少しも動じることなく、ただいつも通りの朗らかな、どこか飄々とした笑みを湛えていた。
新緑の碧眼には、冷徹な王としての光が静かに宿っている。
「裏で軍を、ですか? 人聞きの悪いことを仰らないでいただきたい」
アルフレッドは手元の書類をトントン、と綺麗に揃えながら、至極平然と言葉を返した。
その声音には一片の揺らぎもない。
「我が国の軍師率いる近衛部隊は、あくまで国境沿いの防衛演習を行っていたに過ぎません。そこへ、我が国に事前の通告もなく、完全武装のまま不法に国境を侵犯してきた武装集団が突撃してきた。……我が軍としては、不測のテロ行為に対処し、自衛の権利を行使した。ただ、それだけのことですよ」
「自衛だと……!? 一千の精鋭を一人残らず塵にする自衛などあるか! 貴様らレイストールは、光の王国などではない……! やっていることは死神だ、悪魔だ、本物の魔王の所業ではないかッ!」
口から泡を飛ばし、狂ったように自分たちを罵倒してくる相手。
死神、悪魔、魔王。
かつて善性だけだった頃のアルフレッドであれば、その言葉に心を痛め、自身の選択を悔いたかもしれない。
だが、酸いも甘いも噛み分け、優しさだけでは大切な者を守れないと知った今の彼にとって、そのような罵詈雑言は何の痛みももたらさなかった。
「悪魔、結構。魔王、それもまた結構です。……我が国をそのように恐れていただけるのであれば、これからの話し合いも、非常にスムーズに進みそうですね」
アルフレッドは冷ややかに微笑み、じわじわと相手を追い詰めるための、本当の「腕の見せ所」へと打って出た。
「さて、アイゼンハルト帝国の皆様。我が国の領土へ許可なく武装軍隊を侵入させ、不当なテロ行為を働いたこと。そして、公式な手続きも経ずに我が国の保護下にある者を拉致しようとしたこと。……これらは明らかな戦時国際法違反であり、我が国に対する事実上の『宣戦布告』と受け取らざるを得ません」
「な……っ!?」
「我が国は周辺諸国に対し、貴国が犯したこれら全ての蛮行を、証拠を以て公表する用意があります。我が国と同盟を結ぶ各国が、この事実を知ればどう動くか……賢明な貴方方なら、容易に想像がつきますね?」
アルフレッドの言葉が進むたび、相手の外交官たちの顔から血の気が引いていく。
戦力によって背後の脅威を完璧に圧殺された今、彼らにはもう、交渉の席で戦うための手札など一枚も残されていなかった。
「ですが、私は寛大です。これ以上の無用な血を流すことは、僕の本意ではない」
アルフレッドはふっと表情を和らげ、まるで慈悲深い王そのものの顔で、逃げられない条件を円卓の上に提示した。
「これより、我が国が提示する新たな協定書にサインを。内容は簡単です。彼女に対する一切の所有権の永久放棄。および、今回の国境侵犯に関する莫大な賠償金の支払い。……これらを受け入れるのであれば、今回の『不幸な事故』は、我が国の胸の内だけに収めて差し上げましょう」
断れば、国が滅ぶ。
アルフレッドの放つ圧倒的な「正論」と、背後に控える魔王の「暴力」の挟み撃ちに、アイゼンハルトの使節団はただ、絶望の中でペンを握るしかなかった。
牙を隠した光の王による、完璧な外交戦の勝利。
レオが望み、アルフレッドが体現した「完璧な環境」が、いま合法的に構築されようとしていた。
アイゼンハルト帝国の外交官たちは、まさに苦虫を噛み潰したような顔で、わなわなと拳を震わせていた。
突きつけられた条件は、国家としてのプライドを粉々に打ち砕く、あまりにも苛烈なもの。
しかし、国境沿いにいた一千の精鋭を一瞬で消滅させた「魔王軍」の恐怖と、それを平然と外交の武器に変えるアルフレッドの底知れなさを前に、彼らに拒否権など残されているはずもなかった。
「……、くっ……!」
代表の外交官は、血が滲むほどに唇を噛み締めながら、差し出された協定書へと羽ペンを走らせた。
その手は屈辱と恐怖で激しく震え、インクが紙面に歪に擦れる。
未来永劫、リリィの所有権を完全放棄すること。
そして、レイストール王国への莫大な賠償金を支払うこと。
カサリ、とペンが置かれる。
それは、かつてリリィを虐げ、今またその白い首に鎖を繋ごうとした故国の、完全なる敗北の証明だった。
「――確かに。賢明な御決断、感謝いたします」
アルフレッドはサインのなされた協定書を美しく手にとり、入念に確認すると、ふっと満足そうに微笑んだ。
その新緑の碧眼には、大切な身内と、息子の愛した少女を完璧に守り抜いたという、王としての確固たる矜持が宿っている。
ここに、国を揺るがしかねなかった地獄の外交戦は、レイストール王国の完全勝利という形で幕を閉じた。
「それでは、皆様。これにて話し合いは終了です。国境までの道中、我が国の軍師の部隊が『親切に』護衛いたしますので、どうぞご安心してお帰りください」
「ひ、っ……!」
アルフレッドのどこまでも朗らかな、しかし最大級の脅迫を含んだ見送りの言葉に、外交官たちは悲鳴のような息を漏らした。
あの死神のような魔王が、まだ自分たちのすぐ近くにいる。その事実に、彼らの精神は完全に崩壊しかけていた。
「撤退だ……! 早く、一刻も早くこの国から離れるぞ……!」
使節団の面々は、もはや外交官としての威厳など微塵もなく、我先にと席を蹴立てた。
あまりの恐怖に腰が抜け、お互いの足をもつれさせながら、縋り付くようにして部屋の扉へと殺到する。
ある者は壁に肩をぶつけ、ある者は転びそうになりながら、命からがらといった様子で執務室から逃げ出していった。
バタン、と重厚な扉が閉まり、室内には再び穏やかな静寂が戻る。
残されたアルフレッドは、手の中の協定書を愛おしげに見つめ、深く息を吐き出した。
自身の「対話」と、弟アルヴィーノの「暴力」、そして何より、それらを完璧に引き出した息子レオの「執念」。
全てが噛み合い、リリィを囲うための『国という名の巨大な檻』の基礎は、いま完全に完成したのだ。
アルフレッドは静かに窓の外の青空を見上げ、泥沼の戦いを潜り抜けた息子たちの未来に、静かな祈りを捧げるのだった。
