主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠㉖

「――レオ。もういい、そこまでにしなさい」

アルフレッドの制止の声が、深夜の執務室に重く響いた。

それから更に時は流れていた。
机の上に広げられた何十枚もの書状と地図の群。
その中心で、レオは血走った目を書類に落としたまま、微動だにしない。
睡眠を削り、己の知力の限りを尽くして構築してきたはずの交渉術も、戦略も、ここ数日で完全に破綻し始めていた。
相手国の狡猾な外交官どもは、レオの突き詰めすぎた、あまりにも隙のない完璧な包囲網を逆に「不当な脅迫」として国際社会に訴え出る構えを見せ始めていたのだ。

若きレオの知略は優れている。
だが、絶対的な経験不足が、ここにきて致命的な綻びを生んでいた。
アルフレッドは深く息を吐き、これ以上は息子の精神がもたない、ここが今の彼の限界だと悟った。
碧眼に宿る新王としての冷徹な光が、壁際に立つ漆黒の軍服の弟へと向けられる。

「アルヴィーノ。交渉は僕が引き取る。だが、交渉が決裂した際の『戦略』だけでも、君に委ねたい。現状、レオの策では相手の包囲を突破できない」
「……」

アルヴィーノは癖のある紫の髪をわずかに揺らし、深い紫色の瞳でレオを見つめた。
己の限界を突きつけられ、屈辱と焦燥にその肩を微かに震わせている甥。
リリィという至高の果実を独占せんとするその執念は未だ衰えていないが、盤面は完全に手詰まりを起こしている。
アルヴィーノはゆっくりと歩を進め、レオの机の前に立ち、冷淡な問いを投げかける。

「レオ。貴方の父上は、そうおっしゃっていますが、どうしますか?」
「……」
「このままでは貴方の『檻』は、外側から脆くも崩れ去る。これ以上の無様な失敗を重ねる前に、全てを私に任せますか? 私であれば、貴方の不完全な策など使わずとも、リリィを狙う羽虫ごと、あの国を合法的に圧殺してみせますが」

慈悲なき軍師の、容赦のない揺さぶり。
私に任せれば、リリィの安全は保証される。
だがそれは同時に、レオ自身が「自分の力では彼女を永遠に独占できなかった」と敗北を認めることに他ならなかった。
レオの奥歯が、ギリ、と鈍い音を立てる。
脳裏を過るのは、あのふかふかのベッドで安心しきって眠るリリィの寝顔。
そして、己の無力に怯え、部屋の片隅で震えているであろう彼女の姿だ。
叔父上に任せれば確実だ。
しかし、それではリリィの『世界のすべて』になることはできない。
レオは硬く拳を握り締め、ゆっくりと、しかし明確に首を横に振った。

「……いいえ、叔父上」

掠れた、だが狂気的な光を宿した声音で、レオは二人を見据えた。

「まだです。私の組み立てが甘かった。……もう一度、最初から考え直します。私自身の力で、彼女の檻を完成させてみせる」

これ以上の言葉は不要とばかりに、レオは一礼すると、書類の束を掴んで執務室を飛び出すように退散していった。
その背中を見送りながら、アルヴィーノは薄い唇の端を僅かに釣り上げた。

「頑固なことだ。実に見苦しく……そして、素晴らしい執着ですね、兄上」
「アルヴィーノ、面白がっている場合じゃないよ」

アルフレッドが頭を痛める中、若き魔王は、己の限界という壁の向こう側にある「次の一手」を求めて、再び暗黒の思考へと沈んでいく。
レオの足音が廊下の向こうへ完全に消え去ると、執務室には重苦しい沈静が戻ってきた。
残されたのは、レイストールの「光」と「影」を担う二人の兄弟。
アルフレッドは疲れたように椅子の背にもたれかかり、眉間を深く揉みほぐした。
その姿を見つめながら、アルヴィーノは壁際からゆっくりと歩み寄り、チェス盤の前に立つ。

「さて、兄上。意地を張る子供は下がりましたが、今後のことを話し合わねばなりませんね。……相手の外交使節団の到着まで、もう時間は残されていません」

アルヴィーノの丁寧な、しかし冷徹な促しに、アルフレッドは新緑の碧眼を上げた。

「分かっている。……リリィさんの故国からの不当な引き渡し要求に対して、我が国はあくまで『人道的な保護』を大義名分として掲げる。周辺諸国を味方に付け、向こうの国際法違反を突く。僕の交渉としては、これで一歩も引かない構えだ」
「相変わらずの、美しい正論ですね」

アルヴィーノは細く切れ長の瞳を細め、フッと冷ややかな笑みを漏らした。長い指先が、チェス盤の白のキングを弄ぶ。

「ですが、甘い。綺麗事の交渉だけで退くほど、あの国は理性的ではありませんよ、兄上。我が国の『光』である貴方が表舞台で言葉を尽くす裏で、私は既に北方遠征の精鋭を国境沿いに配備しています。私の提示する戦略は一つ。交渉が決裂した瞬間に、奴らの先遣隊を文字通り『塵も残さず消滅』させる」
「アルヴィーノ!」

アルフレッドの声が鋭く響き、机を叩く音が室内に虚しく反響した。

「それでは対話の意味がない! 先んじて軍を動かせば、我が国が戦端を開いたと言いがかりをつけられる。そうなれば周辺国との貿易も、築き上げてきた信頼も全て失うことになるんだ。僕はこれ以上の無用な血を流させたくはない」
「無用、ですか。かつてよりは王としての威厳を身に付けられたようですが、その善性はやはり変わりませんか」

アルヴィーノは手の中のキングを盤上に戻し、今度は黒のナイトを力強く進めた。
その声音に潜む冷酷さが一段と増す。

「言葉で解決できるのは、互いに守るべき法を持った者同士の時だけです。リリィという希少な『駒』を奪うためなら手段を選ばぬ羽虫どもに、牙を持たぬ言葉など、負け犬の遠吠えに等しい。圧倒的な恐怖による支配――それこそが、我がレイストールへの手出しを永久に諦めさせる、最も合理的で迅速な戦略です」
「恐怖による支配は、いつか反発を生む! そんな歪んだ檻では、彼女を本当の意味で守ることはできない。環境を、法を整えることが先決だ」
「法を整える時間すら、私たちの刃で稼ぐのだと言っているのです」

やはり、二人の意見はどこまでいっても噛み合わなかった。
「対話」によって自陣の完璧な環境を構築しようとするアルフレッドの光の王道。
「暴力と恐怖」によって脅威そのものを合法的に圧殺しようとするアルヴィーノの影の覇道。
互いが国の最高峰の頭脳であり、リリィを、そしてこの国を守ろうとする意志は同じであるはずなのに、そのアプローチは水と油のように反発し合う。

「……平行線ですね、兄上」

アルヴィーノは深く冷たい瞳でアルフレッドを見据え、小さく首を振った。

「貴方の交渉が破綻した時、私の軍が動く。……それだけは覚悟しておいていただきたい。冷たき刃を振るうのが、新王となった貴方のために私が交わした誓いですから」

そう言い残し、アルヴィーノは漆黒の軍服を翻して執務室を後にした。
一人残されたアルフレッドは、天井を仰ぎ、深く重い溜息を吐き出す。
噛み合わない大人たちの戦略の狭間で、限界を迎えつつあるレオがどのような「答え」を導き出すのか。不穏な嵐の気配が、確実にレイストール城を包み込み始めていた。


静寂に包まれたレオの私室は、重苦しい焦燥感に満たされていた。

机の上に乱雑に広げられた地図、法典、他国の情勢を記した書状の数々。
その中心で、レオは髪を一本の手で強く掻き毟りながら、血走った目を書類に走らせていた。

「……否、この法を適用すれば周辺国の干渉を招く。ならば、叔父上の言うように軍を動かすか? ……いや、それでは父上の言う通り我が国が大義名分を失う。私が、私が完璧な檻を構築しなければ、リリィが……」

ぶつぶつと掠れた声で独り言を呟き、羽ペンを握る指先を震わせる。
叔父であるアルヴィーノに限界を突きつけられ、父であるアルフレッドに策の破綻を指摘された。
己の知力の限りを尽くしても、未だリリィを完璧に囲い込むための正解へと辿り着けない。
その焦燥が、彼を狂気の一歩手前まで追い詰めていた。
そんなレオの姿を、部屋の片隅から心配そうに見守る影があった。
白く長い髪を小さく揺らし、リリィは息を詰めるようにして彼を見つめていた。
数週間前、自分が庭園に出てしまったあの一瞬の過ち。
それが、大好きなレオをこれほどまでに追い詰め、壊そうとしている。

(私のせいで……。私が、余計なことをしたから、レオ様がこんなに苦しんでいる……)

心の中に渦巻く自責の念が、リリィの限界を容易く超えた。
レオを助けたいのに、自分には何もできない。
その無力感と恐怖が胸を突き上げ、リリィの赤い瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。

「うっ……、ひぐっ……」

押し殺そうとしても、嗚咽が漏れ出す。
絨毯に涙が点々と染みを作っていく音さえ、今の静まり返った部屋には大きく響いた。

「――リリィ!?」

呟きをピタリと止め、レオが弾かれたように顔を上げた。
泣き崩れる彼女の姿が目に飛び込んできた瞬間、脳内の複雑な戦略や交渉術など、すべてが消し飛んだ。
レオは椅子を激しく蹴立て、狂おしいほどの焦燥を伴って彼女の元へと駆け寄る。

「リリィ、どうしたのですか!? どこか痛むのですか、それとも――」
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、レオ様……!」

リリィは床に膝を突いたまま、レオの衣服の裾をか細い指先で強く握り締めた。
顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、狂ったように謝罪の言葉を繰り返す。

「私のせいです……私が、お外になんて出なければ、こんなことにならなかったのに……! 私のせいで、レオ様が……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

おどおどと怯え、自分を激しく責め苛む少女。
レオは胸を破り裂かれるような衝撃を覚えながら、その小さな身体を壊れ物を扱うようにきつく抱き締めた。

「違います、リリィ。貴方は何も悪くない。悪いのは貴方を奪おうとする有象無象だ。だから、泣かないでください……お願いだ……」

その背を優しく撫で、必死に優しい言葉を紡いで溺れさせようとする。
叔父から教わった「愛の檻」の技術をなぞるように、必死に慰めの言葉を囁き続けた。

だが、リリィの涙は止まらなかった。
一度決壊した自責と恐怖の感情は、優しくされればされるほど、レオへの申し訳なさとなって彼女の心を激しく打ちのめす。
過呼吸気味に肩を揺らし、ごめんなさい、と、消え入りそうな声で泣き続けるリリィ。
腕の中でぼろぼろと崩れていく最愛の少女を見つめながら、レオの胸の奥で、何かが完全に弾け飛んだ。

(……これ以上、この子に怯えを、涙を流させてなるものか)

父の言う「対話」を交えた正論も、叔父の言う「暴力」による覇道も、今の自分には完璧に扱い切れない。
それらを両立させようと机の上で綺麗にチェスを指そうとしていたから、大切なリリィの心をこれほどまでに傷つけてしまったのだ。
大人たちのやり方に付き合っている時間など、もう一秒たりとも無い。
レオの瞳から、完全に迷いが消え失せた。
代わりに宿ったのは、アルヴィーノをも凌駕せんとする、絶対的な「魔王」の狂気。
リリィを完璧に救い、己だけのものにするために。
レオは、それまで頑なに拒んでいた、ある最悪で確実な「決断」を心に下した。
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