主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠㉑


王宮の執務室。窓から差し込む陽光が虚しく思えるほど、室内には凍てつくような緊張感が張り詰めていた。
新王アルフレッドの前に佇むのは、漆黒の軍服を隙なく纏った弟、アルヴィーノ。
その細く切れ長の深い紫色の瞳は、いつもと変わらず感情の起伏を一切感じさせない。

「――次の北方への軍事遠征ですが。今回はレオを同行させます」
「な……っ!?」

唐突にもたらされた弟の報告に、アルフレッドは手にしていたペンを取り落とした。
あまりに突然の宣告に碧眼を驚きに丸くしたのも束の間、彼は即座に机を叩いて立ち上がり、猛然と反対の意を示した。

「駄目だ! 絶対に認めない! アルヴィーノ、一体何を考えているんだ! なぜ次の遠征に、わざわざレオを連れて行く必要がある?」

アルフレッドは、未だ癒えぬ胃の痛みを堪えるように眉間を押さえ、我が子を庇うように言葉を重ねる。

「彼は次期国王だ。戦場に赴くよりも、今はここで王としての責務を、内政の仕事を学ぶ必要がある。ただでさえ、先日のリリィさんの件で隣国との外交文書の改ざんや辻褄合わせに追われているんだ。これ以上、彼に危険な真似をさせるわけにはいかない!」

至極真っ当な父親としての、そして王としての正論。
だが、アルヴィーノはその苦言をどこ吹く風と受け流し、自身の背後に一歩引いて控えていた甥へと、ゆっくりと視線を巡らせた。その薄い唇が、意地悪く、歪な形に釣り上がる。

「……だそうですよ、レオ?」

アルヴィーノはわざとらしく肩をすくめ、昏い愉悦を孕んだ声で促した。

「貴方の偉大なる父上であり、この国の王は、貴方にここで大人しく書類仕事に追われていろと仰っている。さあ、回答しなさい」

促されたレオは、静かに一歩前へと踏み出した。
その端正な顔立ちは、かつての無邪気な「光の王子」のものではない。
どこか叔父の冷酷さに似た、静謐で揺るぎない策士の面を被っている。
レオはアルフレッドを真っ直ぐに見据え、一切の澱みのない敬語で、淡々と自身の回答を紡ぎ始めた。

「――陛下。お言葉ですが、私はその内政の仕事を学ぶ時間を、すべて軍事遠征の経験に充てたいと考えております」
「レオ、君は何を言って――」
「父上の仰る『王としての責務』が、この国内で平穏に書類を裁くことであるならば、私にとってそれは最優先事項ではありません。私が今、最も欲しているのは、机上の空論ではなく、戦場という極限状態における圧倒的な統率力、そして敵を確実に屠るための実戦の智力です」

レオの声には、一片の迷いも、父親への甘えもなかった。

「リリィをこの国に匿い続けると決めた瞬間から、私は世界を敵に回す覚悟を完了しております。万が一、隣国が彼女を求めて我が国に牙を剥いた時、書類を綺麗に整理する技術では、彼女を、そしてこの国を守ることはできません。私は叔父上の背中から、あらゆる欺瞞を、冷酷な戦術のすべてを奪い取るために同行を志願いたしました。これは、王としての仕事から逃げるためではなく……私が私の望みを完璧に独占するための、必然たる選択です」

「私が私の望みを独占するため」。
その、どこまでも傲慢で狂気的な決意の言葉。
かつてルミを狙っていた時のような外堀を埋める生温さは消え去り、今や完全に「魔王の刃」として自らを研ぎ澄まそうとしている息子の姿が、そこにあった。

「……っ」

アルフレッドは言葉を失い、そのままガタリと椅子に深く座り直した。
そして、猛烈な頭痛と再発した胃の痛みに耐えかねたように、両手で顔を覆い、深く、深く頭を抱え込んだ。

(ああ、神よ……。お前が無理矢理レオを連れて行こうとしているのではなく、レオの方が望んで魔王に染まりにいっているなんて……。優しく朗らかに育ってほしかった僕の息子が、完全に、取り返しのつかない方向へ泥濘に足を踏み入れている……)

崩壊しかけた胃壁を抱えながら、アルフレッドは我が子の歪みきった成長と、それを満足そうに見つめる弟の冷酷な視線に、ただただ絶望の溜息を吐き出すしかなかった。

「――だそうですので、連れていきます」

アルフレッドが頭を抱え、絶望の深淵に沈んでいる最中、アルヴィーノは至極淡々と告げた。
懐から取り出した北方遠征の詳細な日程表を、机の上に容赦なく滑り込ませる。

「では陛下。後処理と留守中の内政、よろしくお願いいたします」

一礼ともつかない無機質な動作の後、アルヴィーノは漆黒の軍服を翻し、足早に執務室を出て行った。
レオもまた、机に突っ伏したままの父親に無言で一礼を捧げ、叔父の後を追うように部屋を後にした。

重厚な扉が閉まり、静まり返った王宮の回廊。
前を歩くアルヴィーノが、不意に足を止めて振り返った。
その細く切れ長な紫の瞳が、レオを冷酷に射抜く。

「当然のことですが、レオ。軍事遠征中、あの少女を連れて行くことは不可能です。彼女はここに置いていきなさい」
「……っ」
「戦場は貴方が思うほど生易しいものではない。彼女を守りながら私の戦略を学ぶなど、片腹痛い。留守の間、彼女の身の安全と隠匿は私の息の掛かった者に手配させますが……数週間の間、貴方は彼女と離れることになる。それを、貴方の口から直接、あの少女に説明しなさい」

アルヴィーノの言葉は絶対の命令だった。
レオは一瞬、胸の奥を鋭い刃で抉られたような躊躇いを見せた。
リリィを自分の視界から外すこと、彼女を再び一人の空間に残していくことへの、本能的な拒絶と独占欲。
しかし、より強固な力を得るためには避けて通れぬ試練だと理解している。

「……承知いたしました。私から、彼女に話します」

レオは低く応じ、叔父の前から退いて自身の部屋へと帰っていった。
部屋の扉を静かに開けると、そこには、相変わらずレオの大きなベッドの真ん中で、小さな身体を丸めて眠る白い髪の少女の姿があった。
ふかふかの布団に包まれ、安心しきったその寝顔。

レオはベッドサイドに膝を突き、その愛おしい少女の肩にそっと手を置いた。

「リリィ。……リリィ、起きてください」
「……ん……、レオ様……?」

微かな声に呼応して、長い白髪の間から、宝石のような赤い瞳がゆっくりと開いた。
寝ぼけ眼でレオを見つめる彼女の姿に、胸が締め付けられるような愛おしさを覚えながらも、レオは極めて冷徹に、声を落として事情を説明し始めた。

「リリィ、よく聞いてください。私は……明日から数週間の間、この王宮を離れ、北方の軍事遠征へと赴くことになりました。貴方をあのような暗がりに二度と戻さないための、本物の力を手に入れるためです。……ですからその間、貴方をこの部屋に置いていかなければなりません」

レオの言葉が進むにつれ、リリィの赤い瞳から見る見るうちに光が失われ、怯えの色が広がっていく。
彼女は跳ね起きるようにして布団を掴むと、小さな身体を激しく震わせ、レオの衣服の裾を縋るようにして握り締めた。

「おいて、いかないで……ください……っ」

鈴の鳴るような声が、今度は恐怖に引き裂かれそうに震えている。

「私、一人で待つのは……怖いです……。レオ様がいないと、またあの冷たい壁の中に、暗い地下に連れて行かれちゃう……。誰もいないお部屋で、一人きりで待つのは……いや、です……」

涙がその白い頬を伝い、レオのシーツに染みを作っていく。
白亜の塔で味わった無限の孤独と絶望が、再び彼女の小さな心を侵食しようとしていた。
その怯える姿を目の当たりにし、レオの胸の奥にある狂気的な独占欲が、激しく疼き始めるのを止められなかった。
縋り付くリリィの小さな手を、レオはそっと包み込むように握り締めた。

(置いて行きたくない。このまま私の檻(へや)に閉じ込め、私の視界の届く場所で、永遠にその髪を撫でていたい――)

それが、レオの胸の内にある剥き出しの本心だった。
彼女を一人にすることの危険も、彼女が味わう恐怖も、誰よりレオ自身が一番理解している。
引き剥がされるような衝動に駆られ、今すぐにでも遠征の辞退を叔父に申し出たいとさえ思った。

だが、脳裏を過るのはアルヴィーノの冷徹な眼差し。
一時的な情に流され、圧倒的な「智力」と「武力」を得る機会を逃せば、遠くない未来、隣国という巨大な暴力の前にリリィを再び奪われることになる。
それは絶対に、死んでも容認できない。

「リリィ。……私の目を見てください」

レオはベッドに腰掛け、リリィの細い肩を優しく、しかし引き留めるようにしっかりと抱き寄せた。
怯えに濡れた赤い瞳が、レオを真っ直ぐに見つめ返す。

「本心では、私も貴方を一秒たりとも置いて行きたくはありません。できることなら、この腕の中にずっと閉じ込めておきたい。……ですが、これは貴方をあの暗がりに二度と戻さないための、必要な試練なのです。私に、本物の力を蓄えさせてください」

レオはリリィの白い髪をそっと耳にかけ、その 頬を流れる涙を親指で優しく拭った。

「安心してください。貴方が心配するようなことは、何一つ起きません。私がいない間、叔父上の……アルヴィーノ叔父上の直属の、非常に優秀な影たちが、貴方の身を死守します。あの白亜の塔の警備兵など足元にも及ばない、本物の漆黒の盾です。彼らが、私の部屋の周囲を完璧に遮断し、どんな害意も貴方に近づけさせはしません」
「でも……っ」
「それに」

言葉を遮るように、レオはリリィの額に自身の額をそっと重ねた。
互いの吐息が触れ合うほどの至近距離で、レオは甘く、そして呪いのような深い誓いを囁く。

「遠征に出るのは、明日からです。……ですから、今日はもうどこへも行きません。日が暮れて、夜が更けて、明日の朝が来るまで……私はずっと、貴方のそばにいます。貴方が眠るまで、その手を離しません」
「あ……」

今日はずっと、そばにいてくれる。
その言葉と、自分を包み込むレオの確かな温もりに、リリィの激しい動揺が少しずつ収まっていく。
まだ不安げに赤い瞳を揺らしながらも、彼女はレオの胸にそっと顔を埋め、衣服を掴む手にきゅっと力を込めた。

「……ほんとうに、ずっと、いてくれますか……?」
「ええ、約束します。私の世界には、もう貴方しかいないのですから」

おどおどとしたリリィが、小さな身体を預けてくる。
レオはその柔らかな存在を強く抱き締めながら、胸の奥で、さらに昏く、鋭い執着の炎を燃え上がらせていた。


北方遠征の当日の朝。
部屋の重い木扉が、静かに「コンコン」と小気味よい音を立ててノックされた。
すでに遠征用の軽装鎧を身に纏い、出発の準備を終えていたレオが振り返ると、扉が開いて入ってきたのは、水色の長い髪を揺らした少年――ルミだった。
その小さな両手には、衣服や日用品が詰め込まれた大きめの鞄、いわゆる「お泊まりセット」がしっかりと抱えられている。
突然の来訪者、それも奇妙な荷物を持ったルミの姿に、レオは微かに眉をひそめた。
ベッドの上で小さく丸くなっていたリリィも、驚いたように赤い瞳をパチくりとさせている。

「……ルミにぃ? その荷物は一体何ですか」
「ん? あ、これ、お泊まりの準備!」

ルミはいつもと同じような声音で、抱えた鞄を少し持ち上げてみせた。

「アルヴィーノに言われたんだ。『レオが遠征に行っている間、彼女が寂しがって泣くから、その部屋に泊まり込んで一緒にいてあげなさい』って。お留守番の任務、任されたの!」

その言葉を聞いた瞬間、レオはすべてを察した。
前日、アルヴィーノは「自分の息の掛かった者が守る」と言っていた。
それは直属の暗部による厳重な警備だけでなく、心を閉ざしていた過去を持ち、今は王宮で信頼できる数少ない存在であるルミを、リリィの「心の拠り所」として配置するという、叔父なりの冷徹かつ完璧な配慮だったのだ。

「叔父上が、そんなことを……」
「あ、それと、レオ、早く行かないとダメだよ」

ルミは水色の瞳でレオを真っ直ぐに見つめ、部屋の外の廊下を指差した。

「アルヴィーノ、もうお城の正面玄関で待ってる! すっごく不機嫌そうな顔してた。早く行かないと、本当に一人で置いていかれちゃうよ?」
「……っ、それは困りますね」

軍師としての叔父は、時間を破る者を容赦なく切り捨てる。
レオは小さく息を吐くと、ベッドの上のリリィへと向き直った。
リリィはルミの登場にまだ少しおどおどとしていたが、「一人きりではない」という事実を理解したのか、昨日ほどの絶望的な怯えは見せていない。

「リリィ。……行ってきます」

レオはリリィの前に膝を突き、その白い髪にそっと触れた。

「ルミにぃがいれば、寂しくはありませんね。彼は信頼できる人です。何かあれば、すぐに彼に、あるいは周囲の影たちに伝えてください。……いいですね?」
「は、はい……。レオ様、お気をつけて……。待って、います」

リリィは不安を堪えながらも、健気にこくりと頷いた。
レオはその赤い瞳を名残惜しそうに見つめ直してから立ち上がり、部屋の入り口に佇むルミへと視線を移した。
次期国王としての冷徹な策士の目が、一瞬だけ、深い信頼の色を帯びる。

「ルミにぃ。リリィを……私の大切な人を、お願いします」
「うん! 任せて! ちゃんと無事に帰ってきてね!」

ルミの短い返事を聞き届け、レオは漆黒の外套を翻した。
もう、躊躇いはない。
彼女を完璧に独占し、二度と誰にも脅かされない力を手に入れるため、レオは正面玄関で待つ「魔王」アルヴィーノのもとへと、確かな足取りで駆けて行った。


レオが慌てて部屋を飛び出していった後、主のいなくなった私室には、白い髪の少女リリィと、水色の髪を揺らすルミの二人が残された。

「レオのやつ、めちゃくちゃ焦って走ってった。アルヴィーノ、怒るとマジで怖いからねー」

ルミは持ってきた大きめの鞄を床にドサリと置くと、へらっと無邪気な笑顔を浮かべた。
腰まである長い水色の髪に、透き通るような水色の瞳。
白いロリータ系の可愛い服を身に纏ったその姿は、どこからどう見ても可憐な女の子にしか見えないが、口を開けば「俺」という少年らしい一人称が飛び出す。
突然の賑やかな乱入者に、リリィはベッドの上で驚いたように赤い瞳を丸くし、おどおどと身体を縮めていた。

「あ、えっと……あの……」
「あ、ごめんごめん! 驚かせちゃったね。 俺はルミ。レオの従兄(にい)ちゃんだよ。気楽に『ルミにぃ』って呼んでよ! レオもいつも俺のこと、そう呼んでたし!」

ルミはベッドの側に歩み寄ると、リリィと目線を合わせるように屈み込み、にこっと屈託のない笑みを向けた。
かつて非人道的な研究所で心を閉ざしていたルミだったが、アルヴィーノに救われてからは、こうして喜怒哀楽を素直に表せるようになっていた。
だからこそ、同じように心を痛めてきたリリィの怯えが、放っておけなかったのだ。

「遠征の間、一人だと寂しいでしょ? だからアルヴィーノに『あいつの部屋に泊まって、ちゃんと彼女の面倒見てやれ』って言われたんだ。これから数日間、俺があなたのお留守番の相手ってわけ! よろしくね、リリィちゃん!」
「ルミ、様……。あ、お留守番……一緒に、いてくれるのですか……?」
「様なんていらないって! そうそう、ずっと一緒にいる。美味しいお菓子もいっぱい持ってきてるし、お城の面白い話もたくさん教えてあげるからさ」

ルミの放つ無邪気で温かい空気は、リリィの強張っていた心を少しずつ、確実に解きほぐしていった。
レオがいない寂しさは消えなくても、「一人ではない」という安心感が、彼女の胸にじんわりと広がっていく。

一方、その頃。
お城の正面玄関へと息を切らせて駆けつけたレオは、軍馬の横で腕を組み、底冷えするようなオーラを放っているアルヴィーノの前に飛び込んだ。

「ハァ……ハァ……っ。叔父上、お待たせいたしました……!」

アルヴィーノは細く切れ長な紫の瞳を向け、懐中時計をパチンと閉じた。

「……出発の三分前ですか。置いていかれなかっただけ、少しは成長したと褒めて差し上げましょう」
「……ありがたき、幸せに存じます」

レオは居住まいを正し、息を整えながら深く一礼した。
ルミにぃをリリィの側に置いてくれた、叔父なりの完璧な配慮に心からの感謝を抱きつつも、ここからは一切の甘えが許されない地獄の遠征が始まる。
レオは昏く鋭い光をその瞳に宿し、魔王の背中を追うようにして、馬へと飛び乗るのだった。
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