主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠⑳

アルフレッドとの対峙を経て、リリィの存在がレイストール王国の最高機密として処理されてからも、レオの日常の歩みが止まることはなかった。

かつてルミを振り向かせようと躍起になっていた時のように、あるいはそれ以上の狂気的な執念を孕んで、レオは日々の勉学と剣術修行に没頭していた。
次期国王としての帝王学の講義では、講師すらも気圧されるほどの冷徹な戦術眼を披露し、修練場では、骨がきしむような激しい剣撃を繰り出し続ける。
すべては、隣国という脅威からリリィを完璧に隠匿し、万が一の時には世界を敵に回してでも彼女を毟り取るための、絶対的な「力」を蓄えるためであった。

そんなレオが汗と血を流している間。
主のいなくなったレオの私室で、リリィは一人、静かなお留守番の時間を過ごしていた。

「……すごいです……」

リリィは部屋の絨毯を素足で踏み締めながら、赤く大きな瞳をきょろきょろと動かし、おどおどとした足取りで部屋の中を見て回っていた。

物心ついた頃から閉じ込められていた、あの冷え切った白亜の塔。
そこには、薄汚れた豪奢なドレスと、冷たい石の壁、そして家畜のような残飯しかなかった。
リリィにとって「部屋」とは、孤独と絶望を閉じ込めるための檻と同義だったのだ。

けれど、レオが与えてくれたこの空間は、まるで違っていた。

部屋の片隅にある大きな本棚には、革張りの重厚な魔導書や、見たこともない遠い異国の歴史書が、天井に届かんばかりにぎっしりと並んでいる。
机の上を見れば、繊細な細工が施された万年筆や、レオが日々思考を巡らせているであろう複雑な数式が書かれた羊皮紙、そして、叔父であるアルヴィーノと盤を挟んで戦っていたのであろう、黒曜石と白水晶で作られた美しいチェス盤が、静かに日の光を浴びていた。

「これは……なん、でしょう……」

窓際に置かれた飾り棚に近づき、リリィはそっと指先を伸ばした。
そこには、ガラスの小瓶に入った色鮮やかな南方の砂や、精巧に作られた光属性の魔導具のランプなど、白亜の塔には決して存在しなかった「世界の破片」が、たくさん並んでいる。

見るものすべてが新しく、どこか温かい。
リリィは、まるで初めておもちゃ箱をひっくり返した子供のように、次から次へと目移りしては、その美しい品々にそっと触れていく。

部屋の空気には、微かにレオの香りが残っていた。
檻ではない、自分を優しく守ってくれるための本当の部屋。
リリィはその中に満ちるレオの気配に包まれながら、ほんの少しだけ緊張を解き、幼い好奇心のままに、初めて手に入れた「自由な空間」を愛おしそうに探索し続けるのだった。
部屋中を見て回ったリリィが、最後にたどり着いたのは、部屋の奥に設えられたレオのベッドだった。

おどおどとした手つきで、そっとそのシーツに触れてみる。
――それだけで、リリィの赤い瞳は驚きに大きく見開かれた。

白亜の塔にあったのは、湿気を含んで硬く冷え切った、薄い藁の寝床だけだった。
夜になるたび、寒さに身体を震わせ、孤独に耐えるための場所。
けれど、レオのベッドはまるで違っていた。
上質な絹のシーツの下には、羽毛がたっぷりと詰め込まれた、信じられないほどに厚くふかふかのマットレス。
触れるだけで、手の平からじんわりと優しい暖かさが伝わってくる。

「……ふわふわ、です……」

リリィは誘われるようにして、ゆっくりとベッドの上へと這い上がった。
そっと身体を横たえた瞬間、極上の柔らかさが、彼女の小さく痩せた身体を包み込む。
まるで温かい陽だまりの雲に抱かれているかのような心地よさに、思わず小さな吐息が漏れた。

白亜の塔には決してなかった、本物の柔らかさ、暖かさ。
リリィは瞬く間に、その至高の揺り籠の虜になってしまった。
レオの微かな香りに包まれている安心感も手伝って、彼女の瞼は急激に重くなっていく。
リリィはシーツをきゅっと胸元まで引き上げると、小さな身体を丸め、幸福に満ちた微笑みを浮かべながら、深い眠りへと落ちていった。

――数時間後。

ガチャリ、と静かに部屋の扉が開いた。

帝王学の過酷な講義を終え、修練場で剣術の猛特訓を終えて帰ってきたレオだった。
その身体からは湯気が立ち上り、衣服には泥と汗が染み付いている。
今日もルミの時以上に己を追い込み、身体中がきしむような疲労感に苛まれていた。

「リリィ、ただいま戻りま――」

声をかけようとしたレオの言葉が、途中で止まった。
夕暮れの茜色の光が差し込む部屋の奥。
自身の大きなベッドの真ん中で、白い髪を揺らし、丸くなって眠っている愛おしい少女の姿が、レオの目に飛び込んできたからだ。

以前は、恐怖と寒さに怯え、いつ終わるとも知れない絶望に震えていた。
いま、ここで眠るリリィの顔には、そんな陰りはひとかけらもない。
ふかふかの布団に包まれ、心から安心しきった、酷く幸せそうな寝顔を見せている。
しばしの間、レオはその場に立ち尽くし、ただその光景を真っ直ぐに見つめていた。

 (ああ……私は、このために)

脳髄を削るような戦略会議も、叔父からの冷酷な叱責も、父に覚悟を問われたあの重圧も。
すべては、この小さな少女に、この穏やかで幸福な眠りを与えるためだったのだ。
レオの瞳から、戦術を練るときのような昏く鋭い光が消え、深い、底なしの愛着を孕んだ眼差しへと変わる。

「……可愛い人」

レオは足音を消してベッドサイドへと近づくと、膝を突き、眠る彼女の頬にそっと、触れるか触れないかの距離で指先を寄せた。
ルミを求めていた頃の甘い自分は、もういない。
今の自分にあるのは、この少女を世界から隠し通し、永遠に自分の檻の中で幸せに満たしてあげるという、狂気的な独占欲だけだ。

レオは、彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、リリィの白い髪をそっと撫でた。
そして、自身の執着の証である彼女の幸せな寝顔を、飽きることなく、ただ静かに見守り続けるのだった。


レイストール王宮の地下、常人ならば立ち入ることすら躊躇う薄暗い書庫の奥。
魔導書の黴臭い空気と魔力の残滓が漂うその空間に、レオは一人で足を踏み入れていた。
目の前に佇むのは、叔父であるアルヴィーノ。
細く切れ長な紫の瞳は、まるで侵入者の魂の価値を測るように、冷徹な光を放っている。
レオはアルヴィーノの数歩手前で足を止め、逃げ場のない視線を受け止めながら、静かに、しかし深く頭を下げた。

「叔父上。私を……貴方の本当の弟子にしてください。彼女を守り、この国で完全に独占するためには、今の私の力ではあまりにも足りない。もっと強く、もっと賢くならなければならないのです」

それは、先の救出劇での「一時的な手助け」を請うものとは意味が違っていた。
己の未来のすべてを、魔王の闇に捧げるという誓約に等しい。
アルヴィーノは手元にあった古い羊皮紙を閉じると、ふっと冷たい息を漏らした。
その表情には、甥を嘲笑うような色すら滲んでいる。

「……面白い冗談ですね、レオ。貴方の父親は、光の魔力を極め、新王として自国民に絶大な信頼を得ているアルフレッド陛下だ。正当な強さと王としての在り方を学ぶのであれば、私の元ではなく、陛下の元へ行くのが筋というものでしょう。なぜ、実の父親ではなく、私を師に選ぶのですか?」

突き放すような、試すような叔父の問い。
だが、レオの瞳に宿る昏い炎は、微塵も揺らがなかった。
彼はゆっくりと顔を上げ、アルヴィーノを真っ直ぐに見据える。

「……綺麗事だけでは、リリィを救えないと知ったからです」

レオの声には、かつての「光の王子」としての瑞々しさはなく、どこか凍てついた響きがあった。

「父上の優しさは気高い。ですが、隣国が彼女を求めて剣を抜いた時、父上はまず、国家の平穏と民の命を秤にかけるでしょう。それが王としての正しさだからです。……しかし、私は違う。世界がどうなろうと、私はリリィを誰にも渡したくない。綺麗で真っ直ぐな強さなど、彼女を縛る国際法(ルール)の前には無力です。国を欺き、呪詛を反転させ、破滅の果てに獲物を檻に閉じ込める……そのための冷酷な智力と力を得るには、叔父上、貴方以外に適任はいません」

己の狂気的な独占欲を、一切の飾りのない敬語で淡々と言い切った。
自らの父親の「善性」を理解した上で、それを見限り、叔父の「魔王の闇」を明確に求めてみせたのだ。
その言葉を聞いたアルヴィーノは、しばしの間、沈黙した。
紫の瞳の奥で、冷徹な軍師としての計算と、ほんの僅かな――己と同じ深淵に堕ちてきた血族への愉悦が混ざり合う。
やがて、アルヴィーノはゆっくりと椅子から立ち上がった。漆黒の軍服が擦れる音が、死神の囁きのように静寂に響く。

「いいでしょう」

アルヴィーノはレオの目の前で立ち止まり、その圧倒的な威圧感をもって見下ろした。

「ですが、最後に問います。レオ、貴方にその『覚悟』はありますか? 私の教えは、貴方がこれまで培ってきた王子としての誇りも、優しさも、すべてを削ぎ落とす地獄となる。一度でも私を見限れば、私は貴方をその場で駒として切り捨てる。自らの心を殺し、真の魔王の刃となる覚悟が……貴方にありますか?」
「――ございます」

レオは即座に、澱みのない声で応じた。
ひざまずき、己の忠誠を捧げるように頭を下げる。
その胸の奥にあるのは、自室のベッドで幸せそうに丸くなって眠る、白い髪の少女の姿だけだった。
彼女という唯一の光のためなら、どれほどの闇に染まろうとも構わない。

こうして、光の王子の皮を被った若き策士と、慈悲なき魔王による、本当の地獄の教導が幕を開けた。
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