主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠⑰


アイゼンハルト帝国の首都を覆う朝靄は、まるで凝固した血のように重く、昏い灰色をしていた。

白亜の塔の前、広大な石畳の広場には、早朝から押し寄せた群衆の放つ、熱病のような熱気が満ちていた。
その中心に聳え立つのは、鈍い鉄の光を放つ処刑台。
その頂点で、巨大な断頭台の刃が、曇天の光を浴びて不気味に凍りついている。

広場を見下ろす物陰。
煤け、汚れ、擦り切れた外套を深く被った一人の男が、彫像のように佇んでいた。

レイストール王国の第一王子レオ。
今のその姿に、かつての「光の王子」の気高さは微塵もない。
服は血と泥に汚れ、プラチナブロンドの髪は埃に塗れ、肌は死人のように青白い。
だが、フードの奥でぎらぎらと燃盛る緑の瞳だけは、神を呪う悪魔のそれだった。

限界をとうに超えた肉体が、悲鳴を上げることすら忘れている。
数日間の不眠不休の行軍、頭を焼き尽くすような知略の応酬。
すべての疲労と睡魔は、彼の脳内に巣食う「リリィを我が檻へ」という狂信的な執念の炎によって、一瞬で消し飛ばされていた。

(まだだ。まだ動く動線(ライン)ではない)

アルヴィーノに骨の髄まで叩き込まれた冷徹さが、逸る心臓を冷酷に抑えつける。
作戦書通り、事前に放った潜入員によって地下水道の掌握は完了している。
アイゼンハルトの精鋭たちの意識を逸らすための「偽の国境紛争」の報も、今頃は皇帝の元へと届き始めているはずだ。
盤面は完全に、レオの引いた線の上を滑り出していた。

重重しい鉄の扉が開く音が、広場に響き渡る。

「不浄の子を、処刑台へ!」

衛兵の罵声と共に、引き摺られるようにして現れたのは、雪のように白い髪をした少女リリィだった。
あの時と変わらぬ白いドレスを纏った彼女の身体は、驚くほど小さく、脆かった。
長く幽閉されていたせいで、大人の人間に囲まれる恐怖にガタガタと 身体を震わせている。
だが、その赤い瞳には、涙すら浮かんでいなかった。
それは、すべてを諦めきった、完全な虚無の表情。
かつて白薔薇の生け垣の奥で、絶望するレオに向かって「だいじょーぶ、ですか……?」とか細い声をかけてくれた、あの微かな暖かさは、今の彼女にはもう残されていない。
ただ、かつて実の母親の首を撥ねたというその断頭台へ、自らの死を受け入れて従順に歩を進めている。

リリィの身体が、処刑人の手によって冷たい木の台へと押し付けられた。
長い白い髪が手際よく避けられ、その細く、白い首筋が、鈍く輝くギロチンの刃の真下へと固定される。

「静粛に!」

処刑台の上、アイゼンハルト帝国の皇帝が、尊大に両腕を広げて演説を始めた。

「我が帝国に仇なす不義の血、不浄の象徴を、本日この場を以て完全に断つ! これぞ帝国の正義であり――」

民衆が熱狂の声を上げる。
だが、その尊大な声も、群衆の歓声も、レオの耳には一切届かない。
レオの視界は今、リリィの白い首筋と、それを狙う鉄の刃、ただ一点のみを捉えていた。

(……見つめなさい、リリィ)

レオの唇が、狂気的な歪みを見せる。

(誰も貴方を助けない。世界中の誰も、貴方の死を悼まない。その絶望の底で、私の光だけを脳髄に焼き付けなさい――)

「――処刑執行!」

皇帝の冷酷な合図と共に、処刑人がレバーに手をかけた。
カチャリ、と重々しい金属音が響き、固定されていた巨大な鉄の刃が、重力に従って 猛然と滑り落ちる。

リリィが恐怖に、ぎゅっと目を閉じた。
刃が、彼女の白い肌に触れる、まさに、その一瞬前。

「――『反転(インヴァース)』」

広場の「空白」に、冷徹な一言が突き刺さった。

ドォン!! と、断頭台の直下が爆発したかのような衝撃波が吹き荒れる地属性魔法の応用。
それと同時に、レオが事前に仕込んでいた煙幕の魔導具が、一瞬で処刑台の視界を完全な闇へと変えた。

「な、何事だ!」
「敵襲! 兵を、兵を集めろ!」

大混乱に陥る広場。
だが、その暗闇と怒号の中で、レオの身体は、幾度も頭の中で走らせた最短の動線を完璧にトレースしていた。
驚愕で硬直する処刑人の首を、懐から抜いた短剣で一息に切り裂き、台座へと跳ぶ。

「……え……?」

死の衝撃を待っていたリリィが、恐る恐る目を開けた。
その赤い瞳に映ったのは、青白い顔に狂気の笑みを浮かべ、泥と血に汚れながら自分を見つめる、プラチナブロンドの少年――レオの姿だった。

「リリィ……!」

レオはギロチンの拘束と彼女の足についた枷を一瞬で破壊すると、その華奢な身体を、壊れ物を扱うように、しかし絶対に離さないという強固な力で抱き上げた。

「レオ……様……? わたし、は……」
「大丈夫です。もう、貴方を傷つけるものは何一つありません」

大人の人間を恐れる彼女にとって、自分と同世代の、そして一度言葉を交わしたレオの腕の中だけが、このパニックの中で唯一の「世界の形」だった。
リリィは震える手で、レオの汚れた外套をぎゅっと掴んだ。
背後から、アイゼンハルトの精鋭たちの怒号と足音が迫る。

「逃がすな! 賊だ! 娘を奪還せよ!」

だが、今のレオは、かつて無様に這いつくばった敗北者ではない。アルヴィーノという怪物に磨り潰され、盤面のすべてを支配する術を得た『真の策士』だ。
レオは追手の方すら見ず、あらかじめ確保していた処刑台の床裏――地下水道への隠し扉へと飛び込んだ。
彼らが地下へ侵入した瞬間、入り口に仕掛けられていた罠が発動し、重厚な石壁が轟音を立てて崩落、退路を完全に遮断する。
敵の追撃ルート、思考の先、そのすべてを読み切った「完璧な必勝の策」が、今、完全に実を結んでいた。



暗く、冷たい地下水道を、レオはリリィを抱いたまま、ただ一心不乱に走り続けた。
どれほどの時間が経ったか分からない。
アイゼンハルトの国境を越え、事前に用意していた隠密用の馬車へと滑り込み、ただひたすらに、愛しい雛鳥をレイストールへと運ぶ。
馬車の揺れの中、レオは一秒たりともリリィを腕から離さなかった。
己の体温を彼女に分け与えるように。
彼女の記憶のすべてを、自分という存在で塗り替えるように。

そして、長い緊迫の旅路の果て。
ついに馬車の窓から、見慣れたレイストール王国の、堅牢にして美しい城壁が見えてきた。

「……見えた」

馬車のシートに深く背を預け、レオは掠れた声で呟いた。
その顔には、凄まじいまでの疲労の色が浮かんでいる。
だが、その緑の瞳にあるのは、かつてルミを失った時に味わった絶望の欠片もない。
ただ、自らの知略で、自らの手で、完璧な獲物を掠め取ったという、底知れない支配の悦びだけだった。

腕の中で、リリィは恐怖と疲れから、小さく寝息を立てていた。
その白い髪を、レオは血の滲む指先で優しく、愛おしげになぞる。

「リリィ。ここが、貴方の新しい家です」

優しく、けれど絶対に逃げられない、最も甘美で冷徹な、私だけの檻(せかい)。

「もう、誰も貴方を怖がらせない。誰も貴方を否定しない。……だから、貴方は一生、私の腕の中で、私だけを見て、生きていけばいいのです」

王宮の門が、重々しい音を立てて開く。
無様に敗北し、血を吐くようにして深淵へと降りた「光の王子」は、アイゼンハルトの白き不浄の姫をその腕に抱き、本物の『怪物(策士)』として、レイストールへと帰還した。

レイストール王国の国境を越え、未明の森を駆け抜けて、レオはついに自国の秘密拠点へと帰還した。

腕の中には、疲れ果てて眠りについたリリィの小さな身体がある。
その確かな重みだけが、今のレオの意識を現世に繋ぎ止めていた。
極限状態の精神と、魔力の枯渇。
一歩歩を進めるたびに、脳髄を直に炙られているような激痛が走り、視界は白く霞んでいる。
ただ、彼女を離してはならないという狂気的な意志だけで、レオの足は動いていた。
拠点の重い石扉を開け、薄暗い通路を進んだ先。
開けた広間の中心に、その男は平然と佇んでいた。

出迎える者は、他に誰もいない。
漆黒の軍服を隙なく纏い、微塵の揺らぎもない冷徹な佇まいで、アルヴィーノがただ一人、そこにいた。

「……叔父上」

レオは掠れた声を絞り出し、衣服に染み付いた他国の兵たちの返り血もそのままに、一礼した。
王族としての最低限の礼節を保とうとするのは、彼の中に残された最後のプライドだった。

「ただいま、戻りました。……リリィを、連れて帰りました」

アルヴィーノは細く切れ長な深い紫色の瞳を動かし、レオの腕の中にいる少女と、粉砕された枷のあった彼女の足首へと視線を落とした。
それから、血の滲むような日々を経て、見違えるほど冷酷で鋭利な策士の目を手に入れた甥の顔を、静かに見つめる。
沈黙が広間を支配する中、アルヴィーノは僅かにその薄い唇を釣り上げた。

「……国家級の呪詛を内側から反転させ、地脈の合流点を潰しての隠滅。そして、追手を完全に撒いての迅速な撤退ですか。貴方の立てた稚拙な作戦の数々を見ていた身としては、いささか出来過ぎているとさえ言えますね」

それは、彼が他者に向けるものとしては、破格の評価だった。

「一応は、褒めて差し上げましょう、レオ。貴方は自らの無力を知り、泥を舐め、そして真に望むものをその手で掴み取った。軍師の駒として、最低限の役割は果たしたと言えます」
「ありがき……幸せ、に、存じます……」

その言葉を聞き届けた瞬間、レオの中で張り詰めていた最後の糸が、音を立てて切れた。
急速に世界の輪郭が遠のいていく。
膝の感覚が消え、身体が重力に従って前へと傾いた。
レオは倒れ込む寸前、本能的に腕の中のリリィを庇うようにして、そのまま冷たい石畳の上へと崩れ落ちた。
意識は完全に闇へと没し、浅い呼吸だけがその場に残される。

物言わぬ肉塊のようになった甥と、その腕の中で身を縮める少女を、アルヴィーノは感情の失せた目で見下ろした。

「おい、来なさい」

アルヴィーノが短く背後に声をかけると、闇の中から、漆黒の軽装鎧を身に纏った直属の兵が二名、音もなく姿を現した。

「その二人を救護室へ運びなさい。レオは魔力の過剰消費による昏睡、少女は衰弱が激しい。専属の治癒魔導士を呼び、直ちに手当を。……ただし、私の許可があるまでは、この二人の帰還をアルフレッド兄上やルミには絶対に漏らすな。いいですね」
「ハッ!」

兵たちは短く応じると、気絶したレオとリリィを衝撃を与えないよう手際よく抱き起こし、迅速に通路の奥へと連れて行った。
誰もいなくなった広間に、微かな血の香りと、引きちぎられた運命の残骸だけが漂う。
アルヴィーノは軍服の手袋を小さく整えると、甥がかつての自分と同じように、愛という名の底なしの深淵へ足を踏み入れたことに満足したように、一度だけ昏く微笑み、そのまま音もなくその場から退散した。
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