主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
狂愛の檻と、光の揺り籠⑮
それから始まったのは、戦略会議という名の、ただの地獄だった。
「――不採用です。論ずるに値しない」
何度目かも分からない冷徹な声と共に、レオが寝る間を惜しんで書き上げた羊皮紙が、容赦なく机の上に放り捨てられた。
アルヴィーノは、書類に一度視線を走らせただけで、そのすべてを見限る。紫の細い瞳には、退屈さすら滲んでいた。
「隣国の防衛網の隙を突く? 浅はかですね。その隙自体が、侵入者を誘い込むための罠である可能性をなぜ考慮しない。貴方の立てる計画には、常に『敵がこちらの想定通りに動く』という甘えがある。実戦でそのような慢心を抱けば、貴方だけでなく、連れて行った兵も、そしてその少女も、文字通り塵に変わりますよ」
「……っ」
レオは言葉を失い、拳を固く握り締めた。
この戦略なら完璧だ、今度こそリリィを救い出せる――そう確信して提出した計画は、アルヴィーノの圧倒的な戦術眼の前で、ことごとく、一瞬にして玉砕していった。
すべてを否定される日々。
自分の知略など、この「魔王」の前ではただの砂の城に過ぎないのだと、毎日、毎時間、突きつけられ続けた。
しかし、レオに立ち止まる時間など与えられない。
昼間は、次期国王としていつも通りの帝王学の講義が待っている。
頭が割れるような思考の連続。
その後は、息を継ぐ暇もなく剣術の厳しい修行。
容赦なく打ち込まれる木剣を全身の骨がきしむ音を聞きながら受け流し、体力を限界まで削り取られる。
そして夜。本来なら泥のように眠るべきその時間が、レオにとっての本番だった。
自室の机に向かい、微かな蝋燭の光を頼りに、隣国の地図と睨み合う。
地脈の流れ、警備兵の交代周期、あの呪詛の枷を解くための魔力計算。
疲労で視界がかすみ、文字が歪んで見える。思考が混濁し、ペンを持つ指先が震えた。
カチ、と頭が下がり、限界を迎えた意識が闇に落ちそうになった、その瞬間。
「その程度ですか、レオ」
背後の闇から、冷酷な声が鼓膜を打った。
いつの間にか部屋に音もなく佇んでいたアルヴィーノが、鋭い視線でレオを見下ろしている。
「眠りたいのなら、そのまま一生眠っていなさい。貴方がそうして意識を手放している間にも、白亜の塔の少女は冷え切った床の上で、泥のような残飯を喉に詰まらせている。貴方のその程度の執着など、ただの若気の至りだったと、明日兄上に報告しておきましょう」
その言葉は、睡魔に襲われていたレオの脳髄を、極寒の氷水のように覚醒させた。
「……違、います……!」
レオは血の滲むような声を絞り出し、ガタガタと震える身体を無理やり机に向かわせた。
眠るな。考えるのをやめるな。
自分が瞼を閉じるその一瞬、彼女はあの檻の中で泣いているのだ。
叔父にどれだけ罵倒されようと、無能だと切り捨てられようと、プライドなどとうに捨てた。
「私は……諦めない。必ず、完璧な戦略を立ててみせる……!」
狂気にも似た執念だけが、レオの衰弱しきった身体を動かしていた。
その痛々しいほどにギラついた甥の背中を、アルヴィーノはただ静かに、深い闇のような瞳で見つめ続けていた。
◆
ある日の午後。
執務室に隣接する回廊に、張り詰めた沈黙が流れていた。
そこにはアルフレッド、アルヴィーノ、そして疲れ果てたレオの三人が顔を揃えていた。
レオの顔色は酷く青白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
立っているのすら奇跡のようなその痛々しい姿に、アルフレッドはついに耐えかねたように、弟へ向けて厳しい視線を走らせた。
「アルヴィーノ、もういい加減にしなさい。……レオを、少し休ませてやるんだ」
それは、普段の朗らかな彼からは想像もつかないほど、低く、重みのある苦言だった。
我が子の身を案じる父親としての、そして一国の王としての拒絶の意志。
だが、漆黒の軍服に身を包んだ軍師は、眉一つ動かさなかった。
アルヴィーノは視線を兄へ向け、至極淡々と、冷徹な声を返す。
「私は、彼に休むななどとは一言も言っていませんよ、陛下」
「言葉の綾を弄するな。寝る間も惜しんで課題を課し、追い詰めているのはお前だろう」
「勘違いしないでいただきたい。私は『休みたいのなら休めばいい』と言っているのです。ただ――」
アルヴィーノは視線をアルフレッドから、その傍らで俯くレオへと移した。
その瞳は、凍てつく冬の夜のようだった。
「彼に、今、休む暇などあるのか、と問うているだけです」
「……っ、それは休むなと言っているのと同義だ!」
アルフレッドが声を荒らげる。
彼にとって、限界を超えた人間にさらに鞭打つようなアルヴィーノの論理は、到底容認できるものではなかった。
対話と言い聞かせで解決しようとする王の光が、魔王の闇を激しく咎める。
二人の間に、一触即発の、ひりつくような緊張感が走った。
そのとき。
張り詰めた空気を切り裂くように、掠れた、しかし妙に芯のある声が響いた。
「……父上。……いえ、陛下」
レオだった。
彼は震える膝を自身の意志で押さえつけ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、身体の衰弱とは裏腹に、恐ろしいほどの執念の炎が爆ぜている。
「大丈夫、ですから。……私は、まだやれます」
「レオ、だが君の身体は――」
「これは、私が望んだことです」
アルフレッドの言葉を遮り、レオは実の父親を真っ直ぐに見据えた。
叔父の言う通りだ。
自分が休んでいるその一秒、一分が、あの白亜の塔で泥を啜る彼女の絶望に直結している。
休む暇など、最初からどこにも存在しない。
ここで倒れるくらいなら、自らの血を燃料にしてでも思考を回し続ける。
「お気遣いは感謝いたします。ですが……私は絶対に、立ち止まりません」
弱々しくも、狂気的な決意を孕んだ息子の言葉に、アルフレッドは言葉を失い、ただ痛ましげに表情を歪めるしかなかった。
その様子を、アルヴィーノはただ満足げに、冷酷な微笑を浮かべて見つめていた。
◆
王宮の夜は、ただ静かに、そして残酷に更けていく。
アルヴィーノの私室、あるいは薄暗い執務室の床には、もはや数え切れないほどの羊皮紙の破片が、まるで惨劇のあとの白い花びらのように散らばっていた。
「やり直しです。敵の第二陣の動きを楽観視しすぎている」
「やり直し。これでは退路が狭すぎる。ただの罠です」
「やり直し――」
冷徹な声が響くたび、レオの魂が、プライドが、微塵切りにされていく。
あの日、父親であるアルフレッドの制止を振り切り、自ら地獄へ残ることを選んでから、レオの日々はさらに過酷さを増していた。
差し出される作戦書は一瞥だけで破り捨てられ、その度にレオは、血走った眼で再びペンを握る。
睡眠を奪われ、思考を限界まで研ぎ澄まされ、肉体も精神も、文字通り死の淵を彷彿とさせるほどに衰弱していた。
そんな狂気と緊迫の空間を、静かに見守る一つの影があった。
「……アルヴィーノ様、レオ。お茶、淹れたよ」
水色の長髪を揺らし、白いロリータ服を纏ったルミが、湯気の立つティーカップを乗せたトレイを手に、音もなく部屋に入ってきた。
ルミの心境は複雑だった。
かつて自分に向けて狂気的な執着を向けていたレオ。
その彼が、今はボロ雑巾のように弱り果て、目の前でアルヴィーノに徹底的に踏み躙られている。
アルヴィーノの、兵を駒としか思わない「慈悲なき軍師」としての本領が、実の甥に対してこれでもかと発揮されていた。
普通なら、目を背けたくなるような凄惨な光景。
だが、ルミは知っている。
アルヴィーノがなぜこれほどまでに冷酷にレオを扱っているのかを。
それは、レオの歪んだ執着の矛先を完全にリリィへと固定し、二度と自分たちの不可侵の世界(檻)へ近づけさせないための、最も確実で残酷な防衛策なのだ。
そして何より、ルミ自身、アルヴィーノのその傲慢で絶対的な独占欲を心地よく受け入れている身だ。
だからこそ、どれだけ目の前のレオが擦り切れていこうとも、ルミがそこに口を挟むことは許されない。
公的にも、私的にも、彼を止める大義名分など、ルミにはなかった。
ルミにできるのは、ただ、静かにお茶を差し出すことだけだった。
「置いておきなさい、ルミ」
アルヴィーノはルミに向ける時だけ、その紫の瞳の奥に僅かな、しかし濃厚な甘さを滲ませる。
ルミの頭を優しく、愛おしげに一度だけ撫でると、すぐにその視線は床に這いつくばるレオへと戻り、再び冷徹な氷へと変わる。
「……ありがとうございます、ルミにぃ」
レオは掠れた声でそう呟き、差し出されたカップに手を伸ばした。
だが、その指先は疲労でガタガタと震え、陶器の触れ合うカチカチという音が虚しく響く。
かつてなら、ルミがお茶を淹れてくれたというだけで、狂おしいほどの喜びを顔に出していただろう。だが今のレオには、そんな余裕すら残されていなかった。
ルミは、そんなレオの震える手を、そして彼の眼の奥でどろりと燃え続ける、リリィへの「新たなる執着の炎」を黙って見つめた。
(……ごめんね、レオ。俺には、こうやってお茶を出すことしかできない)
ルミは小さく胸の中で呟き、一歩後ろへ下がる。
自分が救うべきは、目の前の憐れな少年ではない。
自分を救ってくれた、世界でただ一人の主人であり番である、アルヴィーノ・レイストールだけなのだから。
「レオ。お茶を飲む暇があるのなら、早く次の策を組み立てなさい。夜明けまで、あと二時間もありませんよ」
アルヴィーノの冷酷な煽りが、再び部屋の空気を支配する。
レオは震える手で温かい紅茶を喉へ流し込むと、その熱さで無理やり意識を覚醒させ、再び羊皮紙へと向かった。
踏み躙る魔王と、泥を啜りながら怪物へと変貌していく若き策士。
その歪な師弟関係を、ルミはただ、主の影に寄り添いながら静かに見つめ続けていた。
それから始まったのは、戦略会議という名の、ただの地獄だった。
「――不採用です。論ずるに値しない」
何度目かも分からない冷徹な声と共に、レオが寝る間を惜しんで書き上げた羊皮紙が、容赦なく机の上に放り捨てられた。
アルヴィーノは、書類に一度視線を走らせただけで、そのすべてを見限る。紫の細い瞳には、退屈さすら滲んでいた。
「隣国の防衛網の隙を突く? 浅はかですね。その隙自体が、侵入者を誘い込むための罠である可能性をなぜ考慮しない。貴方の立てる計画には、常に『敵がこちらの想定通りに動く』という甘えがある。実戦でそのような慢心を抱けば、貴方だけでなく、連れて行った兵も、そしてその少女も、文字通り塵に変わりますよ」
「……っ」
レオは言葉を失い、拳を固く握り締めた。
この戦略なら完璧だ、今度こそリリィを救い出せる――そう確信して提出した計画は、アルヴィーノの圧倒的な戦術眼の前で、ことごとく、一瞬にして玉砕していった。
すべてを否定される日々。
自分の知略など、この「魔王」の前ではただの砂の城に過ぎないのだと、毎日、毎時間、突きつけられ続けた。
しかし、レオに立ち止まる時間など与えられない。
昼間は、次期国王としていつも通りの帝王学の講義が待っている。
頭が割れるような思考の連続。
その後は、息を継ぐ暇もなく剣術の厳しい修行。
容赦なく打ち込まれる木剣を全身の骨がきしむ音を聞きながら受け流し、体力を限界まで削り取られる。
そして夜。本来なら泥のように眠るべきその時間が、レオにとっての本番だった。
自室の机に向かい、微かな蝋燭の光を頼りに、隣国の地図と睨み合う。
地脈の流れ、警備兵の交代周期、あの呪詛の枷を解くための魔力計算。
疲労で視界がかすみ、文字が歪んで見える。思考が混濁し、ペンを持つ指先が震えた。
カチ、と頭が下がり、限界を迎えた意識が闇に落ちそうになった、その瞬間。
「その程度ですか、レオ」
背後の闇から、冷酷な声が鼓膜を打った。
いつの間にか部屋に音もなく佇んでいたアルヴィーノが、鋭い視線でレオを見下ろしている。
「眠りたいのなら、そのまま一生眠っていなさい。貴方がそうして意識を手放している間にも、白亜の塔の少女は冷え切った床の上で、泥のような残飯を喉に詰まらせている。貴方のその程度の執着など、ただの若気の至りだったと、明日兄上に報告しておきましょう」
その言葉は、睡魔に襲われていたレオの脳髄を、極寒の氷水のように覚醒させた。
「……違、います……!」
レオは血の滲むような声を絞り出し、ガタガタと震える身体を無理やり机に向かわせた。
眠るな。考えるのをやめるな。
自分が瞼を閉じるその一瞬、彼女はあの檻の中で泣いているのだ。
叔父にどれだけ罵倒されようと、無能だと切り捨てられようと、プライドなどとうに捨てた。
「私は……諦めない。必ず、完璧な戦略を立ててみせる……!」
狂気にも似た執念だけが、レオの衰弱しきった身体を動かしていた。
その痛々しいほどにギラついた甥の背中を、アルヴィーノはただ静かに、深い闇のような瞳で見つめ続けていた。
◆
ある日の午後。
執務室に隣接する回廊に、張り詰めた沈黙が流れていた。
そこにはアルフレッド、アルヴィーノ、そして疲れ果てたレオの三人が顔を揃えていた。
レオの顔色は酷く青白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
立っているのすら奇跡のようなその痛々しい姿に、アルフレッドはついに耐えかねたように、弟へ向けて厳しい視線を走らせた。
「アルヴィーノ、もういい加減にしなさい。……レオを、少し休ませてやるんだ」
それは、普段の朗らかな彼からは想像もつかないほど、低く、重みのある苦言だった。
我が子の身を案じる父親としての、そして一国の王としての拒絶の意志。
だが、漆黒の軍服に身を包んだ軍師は、眉一つ動かさなかった。
アルヴィーノは視線を兄へ向け、至極淡々と、冷徹な声を返す。
「私は、彼に休むななどとは一言も言っていませんよ、陛下」
「言葉の綾を弄するな。寝る間も惜しんで課題を課し、追い詰めているのはお前だろう」
「勘違いしないでいただきたい。私は『休みたいのなら休めばいい』と言っているのです。ただ――」
アルヴィーノは視線をアルフレッドから、その傍らで俯くレオへと移した。
その瞳は、凍てつく冬の夜のようだった。
「彼に、今、休む暇などあるのか、と問うているだけです」
「……っ、それは休むなと言っているのと同義だ!」
アルフレッドが声を荒らげる。
彼にとって、限界を超えた人間にさらに鞭打つようなアルヴィーノの論理は、到底容認できるものではなかった。
対話と言い聞かせで解決しようとする王の光が、魔王の闇を激しく咎める。
二人の間に、一触即発の、ひりつくような緊張感が走った。
そのとき。
張り詰めた空気を切り裂くように、掠れた、しかし妙に芯のある声が響いた。
「……父上。……いえ、陛下」
レオだった。
彼は震える膝を自身の意志で押さえつけ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、身体の衰弱とは裏腹に、恐ろしいほどの執念の炎が爆ぜている。
「大丈夫、ですから。……私は、まだやれます」
「レオ、だが君の身体は――」
「これは、私が望んだことです」
アルフレッドの言葉を遮り、レオは実の父親を真っ直ぐに見据えた。
叔父の言う通りだ。
自分が休んでいるその一秒、一分が、あの白亜の塔で泥を啜る彼女の絶望に直結している。
休む暇など、最初からどこにも存在しない。
ここで倒れるくらいなら、自らの血を燃料にしてでも思考を回し続ける。
「お気遣いは感謝いたします。ですが……私は絶対に、立ち止まりません」
弱々しくも、狂気的な決意を孕んだ息子の言葉に、アルフレッドは言葉を失い、ただ痛ましげに表情を歪めるしかなかった。
その様子を、アルヴィーノはただ満足げに、冷酷な微笑を浮かべて見つめていた。
◆
王宮の夜は、ただ静かに、そして残酷に更けていく。
アルヴィーノの私室、あるいは薄暗い執務室の床には、もはや数え切れないほどの羊皮紙の破片が、まるで惨劇のあとの白い花びらのように散らばっていた。
「やり直しです。敵の第二陣の動きを楽観視しすぎている」
「やり直し。これでは退路が狭すぎる。ただの罠です」
「やり直し――」
冷徹な声が響くたび、レオの魂が、プライドが、微塵切りにされていく。
あの日、父親であるアルフレッドの制止を振り切り、自ら地獄へ残ることを選んでから、レオの日々はさらに過酷さを増していた。
差し出される作戦書は一瞥だけで破り捨てられ、その度にレオは、血走った眼で再びペンを握る。
睡眠を奪われ、思考を限界まで研ぎ澄まされ、肉体も精神も、文字通り死の淵を彷彿とさせるほどに衰弱していた。
そんな狂気と緊迫の空間を、静かに見守る一つの影があった。
「……アルヴィーノ様、レオ。お茶、淹れたよ」
水色の長髪を揺らし、白いロリータ服を纏ったルミが、湯気の立つティーカップを乗せたトレイを手に、音もなく部屋に入ってきた。
ルミの心境は複雑だった。
かつて自分に向けて狂気的な執着を向けていたレオ。
その彼が、今はボロ雑巾のように弱り果て、目の前でアルヴィーノに徹底的に踏み躙られている。
アルヴィーノの、兵を駒としか思わない「慈悲なき軍師」としての本領が、実の甥に対してこれでもかと発揮されていた。
普通なら、目を背けたくなるような凄惨な光景。
だが、ルミは知っている。
アルヴィーノがなぜこれほどまでに冷酷にレオを扱っているのかを。
それは、レオの歪んだ執着の矛先を完全にリリィへと固定し、二度と自分たちの不可侵の世界(檻)へ近づけさせないための、最も確実で残酷な防衛策なのだ。
そして何より、ルミ自身、アルヴィーノのその傲慢で絶対的な独占欲を心地よく受け入れている身だ。
だからこそ、どれだけ目の前のレオが擦り切れていこうとも、ルミがそこに口を挟むことは許されない。
公的にも、私的にも、彼を止める大義名分など、ルミにはなかった。
ルミにできるのは、ただ、静かにお茶を差し出すことだけだった。
「置いておきなさい、ルミ」
アルヴィーノはルミに向ける時だけ、その紫の瞳の奥に僅かな、しかし濃厚な甘さを滲ませる。
ルミの頭を優しく、愛おしげに一度だけ撫でると、すぐにその視線は床に這いつくばるレオへと戻り、再び冷徹な氷へと変わる。
「……ありがとうございます、ルミにぃ」
レオは掠れた声でそう呟き、差し出されたカップに手を伸ばした。
だが、その指先は疲労でガタガタと震え、陶器の触れ合うカチカチという音が虚しく響く。
かつてなら、ルミがお茶を淹れてくれたというだけで、狂おしいほどの喜びを顔に出していただろう。だが今のレオには、そんな余裕すら残されていなかった。
ルミは、そんなレオの震える手を、そして彼の眼の奥でどろりと燃え続ける、リリィへの「新たなる執着の炎」を黙って見つめた。
(……ごめんね、レオ。俺には、こうやってお茶を出すことしかできない)
ルミは小さく胸の中で呟き、一歩後ろへ下がる。
自分が救うべきは、目の前の憐れな少年ではない。
自分を救ってくれた、世界でただ一人の主人であり番である、アルヴィーノ・レイストールだけなのだから。
「レオ。お茶を飲む暇があるのなら、早く次の策を組み立てなさい。夜明けまで、あと二時間もありませんよ」
アルヴィーノの冷酷な煽りが、再び部屋の空気を支配する。
レオは震える手で温かい紅茶を喉へ流し込むと、その熱さで無理やり意識を覚醒させ、再び羊皮紙へと向かった。
踏み躙る魔王と、泥を啜りながら怪物へと変貌していく若き策士。
その歪な師弟関係を、ルミはただ、主の影に寄り添いながら静かに見つめ続けていた。
