主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠⑪


木々の隙間から覗くその少女の姿が、薔薇の陰からゆっくりと露わになる。
彼女の髪は、まるで冬の初雪をそのまま紡いだかのように、美しく、そして長い白髪だった。
日の光を浴びて淡くきらめくその髪と、吸い込まれそうなほどに澄んだ真っ赤な瞳。
その対比は、どこか幻想的な異国の妖精を思わせるほどに可憐だった。
少女はおろおろと視線を泳がせ、白いドレスの裾を小さな手できゅっと握りしめながらも、恐る恐る、レオの方へと一歩ずつ歩み寄ってきた。
レオはその場から動かず、ただ無言で、その不思議な少女の接近を見つめていた。
いつもなら、見知らぬ者が間合いに入れば即座に警戒の結界を展開するか、あるいは完璧な王子の微笑みで距離を置くところだ。
だが、今のレオにはそんな気力すらなく、ただガラス玉のような新緑の瞳で、赤い瞳を見つめ返すことしかできなかった。
レオのすぐ目の前まで来ると、少女はさらに小さく身を縮め、上目遣いに顔を覗き込んできた。
そして、今にも消え入ってしまいそうな、耳を澄まさないと聞こえないくらいのか細い声で、ぽつりと言葉を紡いだ。

「だ、だいじょーぶ……ですか……?」
「――え?」

レオの眉が、微かに動いた。
その問いかけには、王族に対する追従も、次期国王への下心も、一切含まれていなかった。
ただ、庭園の片隅で、今にも消えてしまいそうなほど深く冷たい絶望の闇を纏って立ち尽くしていたレオの姿を見て、放っておけずに声をかけた――そんな、純粋で無垢な心配の心だけが、その赤い瞳の奥から伝わってきた。
ルミから完璧に拒絶され、誰からもその「男としての傷」を顧みられることのなかったレオの心に、少女の小さな一言が、波紋のように静かに広がっていく。
レオが何かを答えようと、その青白い唇を僅かに開いた、その時だった。

『――レオ殿下! レオ殿下、どちらにいらっしゃいますか!』

遠くの回廊から、レオを探す隣国の城の侍従たちの声が、騒がしく響き渡った。

「っ……!」

その声に、少女はビクッと目に見えて身体を震わせた。
まるで、見つかってはならない秘密の逢瀬を咎められたかのように、真っ赤な瞳を大きく見開いて怯えの表情を浮かべる。
少女はもう一度だけ、名残惜しそうにレオの顔を見上げると、何かを言いかけるように小さな唇を動かした。
しかし、近づいてくる足音に焦ったのか、そのままくるりと背を向け、白く長い髪を風になびかせながら、早足でその場を逃げ出すように駆けていってしまった。

「あ……待って――」

レオの手が、無意識のうちに空中に伸ばされる。
しかし、その指先が彼女の白い髪に触れることはなく、少女の小さな背中は、薔薇の生垣の向こうへと、あっという間に消え去っていった。

差し出されたままの、レオの右手のひら。
そこには何も残っていない。
けれど、数ヶ月間の冷酷な魔王の嘲笑、そして大好きな人の残酷な拒絶だけで満たされていたレオの視界に、確かに一瞬だけ、鮮烈な「白と赤」の残像が焼き付いていた。

「レオ、ここにいたのかい。次の夜会の打ち合わせが……」

足音と共に現れたアルフレッドが、息子の様子にふと声を詰まらせる。
そこに立っていたレオは、ここ数日間の「生気を失った人形」ではなかった。
伸ばした手をゆっくりと下ろしながら、その新緑の瞳の奥で、消えかかっていた小さな『光』が、微かに、しかし確かにゆらりと色を取り戻し始めていた。


あの薔薇の庭園での出来事から、さらに数日。

レオの様子には、明らかに変化が現れていた。
相変わらず次期国王としての覇気には欠けるものの、ここ数日間の「死んだ魚のような目」ではない。
今の彼の新緑の瞳は、何かを渇望するように、城の回廊や庭園の陰を鋭く、そして熱心に彷徨わせていた。

(……どこにいる)

隙さえあれば、レオはあの白髪と赤い瞳の少女の影を探し求めていた。
ルミに完璧に振られ、心にポッカリと空いた巨大な奈落の底。
そこへ、あの消え入りそうな声で「だいじょーぶですか」と問いかけてくれた少女の残像が、今や唯一の、飢餓感を癒やす光のようになっていたのだ。

あの少女は一体誰なのか。
なぜ誰もいない庭園の奥にいたのか。
そして、なぜあんなに怯えて逃げ出してしまったのか――。
一度その天才的な頭脳が「未知の存在(ターゲット)」を認識すると、眠っていた執着気質の一端が、静かに、しかし確実に鎌首をもたげ始めていた。

ある日の午後。
レオがまた、少女と出会った庭園へと続く西回廊の片隅で、壁の陰や物置の奥をじっと見つめていると。

「――あの、レオ殿下? そこで何か、探し物でもなされていらっしゃいますか?」

背後から、控えめな声が掛けられた。
振り返ると、この城に仕える初老の侍女が、洗濯物の籠を抱えたまま、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
他国の、それも次期国王たる美少年が、数日前から城のあちこちを不審にうろついているのだから、気になって当然だろう。
いつもなら完璧な「無害な王子」の微笑みで誤魔化すところだ。
だが、焦燥感に駆られていたレオは、今が情報を得る好機だと判断し、意を決して一歩前へ出た。
新緑の瞳に、ほんの少しの真剣な光を灯して問いかける。

「……少し、尋ねたいことがあります。この城に、髪が初雪のように白く、真っ赤な瞳をした、私と同じくらいの年の女の子はいないでしょうか。数日前、あの庭園の奥で出会ったのですが……」
「――っ!?」

その特徴を口にした瞬間。
侍女はまるで、絶対に触れてはならない呪いの名前でも聞いたかのように、息を呑んで激しく目を見開いた。
抱えていた籠の手がガタガタと震え、中のリネンが床へと滑り落ちる。

「あ、あの、それは……」
「知っているのですね? 彼女は誰なんですか。なぜ、私を探す声を聞いただけで、あんなに怯えて逃げ出さなければならなかったのです?」

レオがその端正な美貌を近づけ、重ねて問い詰める。
その瞬間、かつて魔王アルヴィーノをすら圧殺せんとした、レオの生まれ持った「王の覇気」が、無意識のうちに薄く漏れ出していた。
しかし、侍女はレオの追及に答えるどころか、みるみるうちにその顔を青ざめさせ、悲痛なほどに顔を曇らせた。
そして、ガタガタと 震える唇をぎゅっと噛み締めると、そのまま深く、深く俯いて口を噤んでしまったのだ。

「申し訳、ございません……。私のような下働きの口から、あの方についてお話しできることは……何も……っ」

怯え、哀れみ、そして何か巨大な『不条理の闇』を孕んだ沈黙。
何も話そうとしない侍女の態度に、レオの新緑の瞳の奥で、眠っていたはずの「執着の炎」が、不気味な黒い輝きを伴ってパチパチと音を立てて再燃し始めた。

(話せない……? この城の人間が、一介の少女の存在に対して、これほどまでに口を閉ざす理由は何だ? ――なるほど。あの少女もまた、ルミにぃと同じように、この城の歪んだ闇の中に囚われているというわけですか)

少女の背後にある、どろりとした秘密の気配。
ルミ争奪戦で完璧な敗北を喫し、一時は完全にへし折られていた狂気の頭脳(システム)が、その『不穏な謎』を検知した瞬間。
今度は「救済と独占」のベクトルをその白い髪の少女へと定め、猛烈な勢いで再起動(アップデート)を開始しようとしていた。


昨日の、あの侍女の異常なまでの怯え方と沈黙。
それが逆に、レオの胸の奥で燻っていた火種に、文字通り極上のガソリンを注ぐ結果となった。

(あの子は、この城の何らかの歪みに囚われている。ルミにぃが、かつてあの研究所の闇に囚われていた時のように……)

次の日。
レオは吸い寄せられるように、あの初雪の髪の少女と出会った薔薇の庭園へと足を運んでいた。
次期国王としての公式なスケジュールや、父アルフレッドの心配そうな視線を完璧な「表向きの優等生システム」でやり過ごし、僅かにできた空白の時間。
ここなら、彼女にまた会えるかもしれない。
いや、会わなければならない。そんな、理屈を超えた強烈な飢餓感がレオの足を突き動かしていた。

初夏の強い日差しが、大理石の噴水をきらきらと輝かせている。
しかし、どれほど目を凝らしても、生垣の陰にも、薔薇の茂みの奥にも、あの白い髪の影は見当たらない。

一刻、二刻と、無情にも時間だけが過ぎていく。
さすがにこれ以上ここに留まれば、侍従たちが不審に思い、再び父上が胃を押さえながら呼び戻しに来るだろう。

(……やはり、もう無理なのか。あの侍女の様子からしても、彼女は自由に外に出ることすら許されない身の上なのかもしれない……)

諦め、自嘲気味に息を吐いて、レオが踵を返そうとした、まさにその矢先だった。

――ガサッ。

静寂な庭園に、微かな、しかし確かに何かが草木を分ける音が響いた。

「――っ!」

レオは弾かれたように顔を上げ、その音のした方向を鋭く見据えた。
薔薇の生垣が小さく揺れ、そこからおずおずと姿を現したのは――他でもない、レオが狂おしいほどに待ち侘びていた、あの少女だった。
彼女は今日も、汚れ一つない純白のドレスを纏い、初雪のような長い髪を風に揺らしていた。
その真っ赤な瞳は、昨日よりもさらに不安げで、まるで大きな決意を胸に、ここへ命がけで足を運んできたかのように、細い肩を小さく震わせている。
少女はレオの姿をその瞳に捉えると、パッと表情を明るく、いや、どこか救われたような色に染めた。
けれど、次の瞬間にはまた、自分がここにいることが見つかってはならないと言わんばかりに、きょろきょろと周囲を怯えたように見回す。

「あ……あの……っ」

か細い、今にも消え入りそうな声が、薔薇の香りを乗せてレオの耳に届く。
ルミに完璧に振られ、世界のすべてから拒絶されたと思っていたレオ。
その目の前で、再び姿を現した「自分だけを心配してくれた赤い光」。

「……待っていた、ずっと」

レオの新緑の瞳に、数日前までは存在しなかった、底知れぬほど昏く、そして圧倒的に美しい「執着の光」が、不気味なほどの輝きを伴ってギラリと蘇った。
あの子が闇に囚われているのなら、今度こそ、我が『光』のすべてをもって、誰の手も届かない完璧な檻(救済)へと連れ去って差し上げる――。

天才的な王子の第二章のシステムが、ガチリと音を立てて、最悪の形で再起動を果たした瞬間だった。
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