主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠⑩


三日の猶予は瞬く間に過ぎ、出発の朝が訪れた。

レイストール王国の王旗を掲げた豪奢な馬車は、厳重な近衛兵の護衛に守られながら、北西の国境を目指して静かに走り出した。
目指すは、険しい岩山と冷徹な軍律に支配された国――アイゼンハルト帝国。

ガタゴトと規則正しく揺れる馬車の車内は、重苦しい沈黙に支配されていた。
向かい合う座席に座る親子。
アルフレッドは、窓外へと流れていく見慣れた王都の景色を眺めつつも、その意識のすべてを対面に座る我が子へと向けていた。

レオは、やはりあの日から何一つ変わっていなかった。
仕立てのいい旅装に身を包み、背筋を正して座る姿は気品に満ちている。
しかし、その膝の上に広げられた厚い地政学の勉学書を見つめる新緑の瞳には、何の光も灯っていない。
ページを繰る白く細い指先は、まるで定められた規則に従って動く機械のようだった。
車内の狭い空間だからこそ、息子から発せられるその痛々しいほどの「覇気の無さ」が、アルフレッドの胸を鋭く締め付ける。

「……レオ」

耐えかねたように、アルフレッドが静かに声をかけた。
レオは、父の声に迷いなく反応し、視線を本から上げた。
乱れのない動作、完璧な姿勢。だが、向けられた新緑の瞳は、底の割れた深淵のように昏く、濁ったままだ。

「はい、父上。何かご指示でしょうか。アイゼンハルトとの魔導演習に関する協定書であれば、すでに全条項の暗記と、我が国に有利となる修正案の構築を終えておりますが」

抑揚のない、乾いた声。
彼はただ、与えられた「次期国王としての職務」を完璧に熟すことで、自らの壊れた心を埋め立てようとしていた。
それ以外の何にも興味を持たず、何を渇望することもない。

「いや、仕事の話ではないんだ」

アルフレッドは優しく、けれどどこか悲痛な色を帯びた碧眼で息子を見つめ、小さく首を振った。

「今回の外交は、少々長引く予定だ。あちらの皇帝との謁見だけでなく、国境付近の査察も含めれば、しばらくの間はアイゼンハルトに滞在することになる」

アルフレッドは言葉を一度区切り、馬車の窓の外、遠くに見え始めた峻厳な山脈へと視線を向けた。
あの大地の最深部、白亜の塔に幽閉されているという「白き姫リリィ」。
その素性を探り、レオの空っぽになった器に新たな運命を注ぎ込むための、これは長い旅になる。

「だから……現地に着いたら、少しは息抜きもしてくれ」
「息抜き、ですか」

レオは、その言葉の意味を頭の中で翻訳するかのように、小さく呟いた。

「国を離れ、見知らぬ異国の風土に触れることも、次期国王としての器を広げるための大事な経験だ。四六時中、そんな風に難しい本ばかりを読んでいる必要はない。あちらの王宮の庭園を散策するなり、街の様子を見るなり……君の好きなように時間を使っていいんだよ」

それは、アルフレッドならではの、痛々しい我が子を想う不器用な気遣いだった。
ルミの気配が残るレイストールから引き剥がし、異国の冷たい空気の中で、少しでも心の傷を癒やしてほしい。
張り詰めた心の糸を、ほんの少しでも緩めてほしいという、父親としての切実な願い。

「……分かりました。父上のお気遣いに感謝いたします」

しかし、レオの返答には、何の感情の起伏も、感謝の熱も含まれていなかった。
彼はただ、従順に頭を下げると、再び膝の上の勉学書へと視線を落とした。淡々と文字を追うその横顔には、やはり何の覇気も戻らない。

ガタゴトと、馬車は冷酷な足取りで進んでいく。
己を縛っていた歪んだ狂愛の鎖を失い、完全な虚無へと堕ちた光の王子彼がその旅路の果てに、大人の人間を病的なまでに恐れる儚き「白き雛」と出会った時、その凍りついた心に一体何が灯るのか。
馬車は冷たい風を切り裂きながら、静かに国境を越えていった。



アイゼンハルト帝国の冷徹な皇帝との謁見を終え、張り詰めた公式行事が一段落した昼下がり。
レオは、父アルフレッドの言葉に従い、息抜きという名の空白の時間を埋めるため、帝国の広大な王宮庭園へと足を向けていた。

レイストール王国の華やかな庭園とは異なり、アイゼンハルトの庭園はどこか幾何学的で、厳格な美しさに支配されている。
冷たい北西の風が通り抜ける中、レオは人通りのない奥まった一画を見つけ、大理石のベンチへと静かに腰を下ろした。

ふと視線を上げると、目の前には、見事なまでに純白の薔薇が咲き誇る高い生け垣が姿を現した。 
寒冷な気候に耐え、気高く花開いた白薔薇の群生。
その圧倒的な白さを視界に収めた瞬間、レオの脳裏に、数週間前の記憶の断片が、望みもしないのに鮮明に浮かび上がった。

『あ、レオ! 見て見て、この薔薇。すごく綺麗に咲いてたから、少し摘んでアルヴィーノの執務室に飾るんだ! アルヴィーノ、いつも難しい顔をしてるから、これを見て少しでも笑ってくれるといいなぁ』

――無邪気に笑う、水色の髪の少年。
自分をただの「可愛い弟」として扱い、その世界の中心にいる叔父への愛を、一点の曇りもなく語っていた姿。

「……くっ」

胸を抉られるような愛おしさは、一瞬にして、あの日の悍ましい記憶へと強制的に書き換えられた。

『俺は、アルヴィーノが好きだから。何回記憶を消されたって、俺はまた、絶対にアルヴィーノを見つけて、もう一度あの人を好きになるよ』
『君の入るスペースなど、あの中にはなかったんだよ』

押し倒したソファの感触、拒絶の涙、父親の容赦なき断罪の声。
過去の幻影が頭の中で濁流となって渦巻くと同時に、レオは激しい頭痛に襲われ、思わず額を押さえて深く俯いた。

「はぁ、はぁ……っ……」

何の意味もない。
どんなに剣を極め、知略を磨き、異国の地へ来ようとも、自分はまだ、あの水色の檻から一歩も出られていない。
失うものなど何もないはずの虚無の心に、なおも執着の毒がこびりついて離れない現実に、レオはただ暗い地面を見つめて自嘲の息を漏らした。

――その時だった。

カサリ、と近くの木々の隙間から小さな音がした。

「――っ?」

長年の剣術の訓練による条件反射で、レオの視線が鋭くその方向へと向く。
覇気は失われていても、次期国王としての警戒心までは死んでいない。
新緑の瞳を細め、侵入者を捉えようとしたレオの視界に飛び込んできたのは――。
豪奢な薔薇の茂みの陰から、ひょこっと顔を覗かせている、一人の可愛らしい少女の姿だった。
その子は、燃えるような、しかしどこか優しく吸い込まれそうな赤い瞳をしていた。
見慣れない仕立ての上質なドレスを纏ったその少女は、レオの端正な、けれど完全に生気を失っている横顔を、ずっと陰から見守っていたのだろう。
その赤い両眸には、歳の頃の近いレオに対する、深い、そして純粋な心配の光が、ありありと浮かんでいた。

「あ……」

目が合うと、少女は気まずそうに、しかし逃げ出すこともせず、ただその場でおろおろと小さな手を弄んだ。
ルミに完全に拒絶され、世界中のすべてに拒まれて深い闇の底に沈んでいたレオ。
その冷え切った新緑の視界の中に、初めてアルヴィーノの影も、ルミへの執着も介さない、全く新しい「赤い光」が静かに差し込もうとしていた。
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