主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
狂愛の檻と、光の揺り籠⑨
それから数日の月日が、何事もなかったかのように王宮を流れていった。
狂乱の嵐が去った後、レオは驚くほど静かに日常へと戻った。
次期国王として、自身に与えられた膨大な職務――領地からの報告書の精査、内政の議論、騎士団の演習の視察――そのすべてを、遅滞なく、完璧に全うしている。
しかし、その姿はまるで、精巧に作られたゼンマイ仕掛けの人形のようだった。
「……承知いたしました。この件は、こちらの修正案で進めてください」
進言に訪れた文官へ向けられる声には、かつて周囲を魅了した瑞々しい響きはなく、ただ平坦で、乾いた響きしか持ち合わせていない。
新緑の瞳は美しく透き通っているものの、そこには何の光も、何の覇気も宿っていなかった。
何かを渇望することも、怒ることも、笑うことすら忘れたかのように、レオはただ、上から与えられるタスクを淡々と、機械的に熟すだけの日々を送っている。
魂がどこか別の場所に置き去りにされたようなその姿は、痛々しいほどに静かだった。
――そして、あの事件以来、ルミがレオの前に姿を現すことは、二度となかった。
私室の片隅で、ルミは膝を抱え、水色の長い髪を落として酷く深く悔いていた。
「お兄ちゃん」として、無邪気にレオを可愛がり、距離を縮めていた自分のすべての行動。
それが、レオの中に狂おしいほどの執着の炎を灯し、彼を暗い禁忌の道へと追い詰めてしまったのだと、今になって気づいたからだ。
無知は罪だった。
自分の無垢さが、大切な「弟」をここまで壊してしまった。
ルミは自分の選択を少しも後悔していなかったが、レオをこのような悍ましい結末に引きずり込んだ原因が自分にあるという事実に、胸を抉られるような罪悪感を抱き、ただ遠くから彼の無事を祈ることしかできなかった。
そんな二人とは対照的に、アルヴィーノはどこまでも「いつも通り」だった。
軍議を統制し、チェス盤の駒を動かし、私室に戻ればルミを甘やかに溺愛する。
甥がどれほど魂を摩耗させていようとも、彼にとっては「我が小鳥を脅かした外敵が、身の程を知って引き下がった」というだけの話だった。
そこには一切の感傷も、容赦もない。
徹底して冷酷非情な魔王のまま、彼は自身の絶対的な世界を維持し続けていた。
「……レオ」
執務室の机を挟み、書類を差し出す息子の姿を、アルフレッドはただじっと見つめていることしかできなかった。
完璧に職務を熟すレオの、そのあまりにも生気のない横顔。
あの日、自分が放った「最初からスペースはなかった」という言葉が、息子の狂気を止める代わりに、彼の心そのものを完全に叩き潰してしまったのだと、アルフレッドは嫌というほど理解していた。
だが、こうするしかなかったのだ。
そう自分に言い聞かせても、目の前にいる、抜け殻のようになってしまった我が子を見ていると、胸が張り裂けそうになる。
かけられる言葉は、もう何もなかった。
慰めも、励ましも、今のレオにとってはただの無意味な雑音でしかない。
王宮の回廊に、淡々と、けれど確実に破滅の余韻を残しながら、静かな冬のような時間が刻まれていく。
かつて「光の王子」と呼ばれた少年は、すべてを失った暗闇の淵で、ただ静かに、冷たい息を吐き出し続けていた。
◆
激動の嵐が去り、王宮を包む冬のような静寂は、数週間が過ぎてもなお、解ける気配を見せなかった。
レオは変わらず、生気のない新緑の瞳で、淡々と職務を熟し続けている。
その完璧すぎる仕事ぶりが、かえって彼の「心の死」を際立たせ、周囲の文官たちを密かに戦慄させていた。
ルミは相変わらず罪悪感に身を焦がし、レオの視界に入らぬよう身を潜め続けている。
国王執務室の空気は、今日も胃が捩れるほどの緊張感に満ちていた。
アルフレッドは、長椅子に腰掛けて優雅に書類を捲る弟――アルヴィーノに対し、鋭い、刺すような視線を向けていた。
(お前、本当にとんでもないことをやってくれたな……)
言外にそう告げるアルフレッドの碧眼には、父親としての怒りと、剥き出しの圧が籠もっている。
ルミの拒絶が決定打だったとはいえ、わざとレオを挑発し、最後の最後に完璧な絶望のどん底へ叩き落としたのは、目の前にいる冷酷非情な軍師だ。
だが、そんな兄からの無言の猛圧を受けてもなお、アルヴィーノは眉一つ動かさず、至極飄々とした態度を崩さない。
「随分と物騒な視線ですね、兄上。書類に穴が空きそうだ」
「……誰のせいで私がこんなに頭を抱えていると思っているんだ。レオはあれから、まるで魂を抜かれた人形のようだ。公務に支障はないが……このままでは、あの子は本当に壊れてしまう」
アルフレッドは机に両肘を突き、深く、重い溜息とともに顔を覆った。
どれほど自分が「光の中で生きろ」と願おうとも、一度完全に叩き潰された息子の心が、一朝一夕で直る気配など微塵もない。
次期国王としての器を失いかねない我が子の痛々しい状況に、王はただ無力感に苛まれていた。
そんな兄の限界を察したのか、アルヴィーノは手元にあったチェスの駒を一つ進めるように、静かに書類を閉じた。
その紫の瞳に、軍師としての冷徹な光が宿る。
「兄上。壊れた器を元通りに修復することなど不可能です。――ですが、その空っぽになった器に、別の『何か』を満たすことならできる」
「別の、何か……?」
アルフレッドが怪訝そうに顔を上げた。
アルヴィーノは軍服の懐から、一通の古びた、しかし厳重に封印された書状を取り出し、執務机の上へと滑らせた。
「我が軍の情報網が掴んだ、一通の密告書です。北西の峻厳なる山脈に囲まれた軍事国家、『アイゼンハルト帝国』どこかにある白亜の塔――そこに、不浄の象徴として幽閉されている、哀れな姫君がいます」
アイゼンハルト帝国。
レイストール王国とも国境を接する、厳格で冷酷な南東の覇権国家。
「名はリリィ。国王の不義の子として生まれ、存在そのものを歴史から消され、長く光の届かぬ塔に閉じ込められている。……長く幽閉されていた影響で、大人の人間を病的なまでに恐れ、声もまともに出せないほどに心が摩耗しているとか」
アルフレッドは差し出された密告書を手に取り、眉をひそめた。
「他国の、幽閉された姫……。それが、レオと何の関係があるんだ? まさか、彼にその姫を救い出させ、新たな恋でもさせようというのか? そんな単純なことで、今のレオの執着が消えるはずが――」
「まさか。そんな甘い話ではありませんよ、兄上」
アルヴィーノの唇が、酷薄な弧を描いた。
「彼の歪んだ本質は、ルミという『弱者』を自らの庇護下に置き、外堀から支配し、独占しようとした執着です。ならば、ルミよりも遥かに脆く、他に行き場のない、完璧な弱者を与えればどうなるか。……自分を恐れ、縋るしか生きる術のない『白き雛』を前にした時、彼の中の『狂愛』が、どちらを向くかという実験です」
アルフレッドの背筋に、冷たいものが走った。
アルヴィーノは、レオの心を救おうとしているのではない。
レオの中に眠る狂気ともいえる本能を、この哀れな姫という新たな生贄(ターゲット)によって呼び覚まし、ルミから視線を逸らさせようとしているのだ。
「アイゼンハルト帝国の現体制には、我が国としても揺さぶりをかけたいところ。公務の変形として、レオにこの姫の奪還、および保護を命じてはいかがですか?――彼に、新たな『檻』の作り方を思い出させてあげるのです」
悪魔の囁きのような提案。
アルフレッドは密告書を握りしめ、言葉を失った。
だが、抜け殻のようになった息子を救うためには、この毒を以て毒を制すような軍師の策に、乗る以外の選択肢は残されていなかった。
◆
その日、国王執務室に足を踏み入れたレオの姿は、やはり数週間前と何一つ変わっていなかった。
寸分の乱れもない仕立ての礼服。
完璧な角度の拝礼。
しかし、その一連の美しい動作には、生きている人間の生気が完全に欠落している。
プラチナブロンドの髪の隙間から覗く新緑の瞳は、まるで底の割れた深淵のように昏く、濁ったまま。
声をかければ淀みなく言葉を返すが、そこには何の感情も、何の起伏も存在しない。
「父上、お呼びでしょうか。本日の内政に関する報告書であれば、すでにすべて目を通し、署名を終えておりますが」
抑揚のない、乾いた声。
アルフレッドは、机を挟んで佇む我が子のその痛々しい姿に、一瞬だけ胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
アルヴィーノからあの密告書を渡されてから数日、アルフレッドは悩み、考え抜いた。
弟の提案は、レオの歪んだ支配欲を別の少女へと向けさせる、いわば「毒を以て毒を制す」悪魔の策だ。
だが同時に、このままこのルミの気配が残り、敗北の記憶が染みついたこの場所にレオを留め置いておけば、息子の心は本当に修復不可能なほどに腐食し、いつか完全に瓦解してしまう。
それだけは、父親として絶対に避けたかった。
「いや、今日の公務の話ではないんだ、レオ」
アルフレッドは努めて穏やかな、けれど威厳に満ちた声を響かせた。
「数日後、私は外交のために、南東のアイゼンハルト帝国へ赴く。……レオ、君も私に同行しなさい」
その言葉に、レオは拒絶も承諾も示さず、ただ静かに視線を上げた。
その瞳には、かつてルミを巡って知略を巡らせていた頃の、あのギラギラとした執着の光は微塵もない。
「……アイゼンハルト、ですか。あそこは軍事規律が厳格な国。次期国王としての見聞を広めるための随行、と理解してよろしいでしょうか」
「ああ、その通りだ。あちらの皇帝とも、国境付近の魔導演習に関する協定について直接話さねばならなくてね。君の持つ鋭い内政の視線が、交渉の席で必要になる」
アルフレッドは、あえて「白き姫リリィ」の存在を完全に伏せた。
アルヴィーノがもたらした情報には、アイゼンハルトのどこかにある白亜の塔に、不義の子である姫が幽閉されているという「素性」しか記されていない。
その姫が本当に実在するのか、どのような状態にあるのか、現地の情報網を直接動かし、独自に調査を進めて全容を掴むまでは、レオに余計な情報を与えるべきではないと判断したのだ。
何より、これはアルフレッドなりの、不器用で、けれど切実な親心(きづかい)だった。
外交という大義名分を与え、強制的にこのレイストール王国の重苦しい空気から引き剥がす。
旅路の冷たい風に吹かれ、異国の見知らぬ景色に身を置くことで、少しでもレオの胸に空いた巨大な空洞が、傷が、癒えるきっかけになればいい。
今はただ、その一縷の望みに賭けるしかなかった。
「……分かりました。陛下の随行員として、恥じぬよう準備を進めます」
レオは、やはり感情の乗らない声で淡々と応じ、深く一礼した。
「出発は三日後だ。体調を整えておくように」
「は。失礼いたします」
踵を返し、音もなく執務室を去っていく息子の背中を、アルフレッドは祈るような、そしてどこか悲痛な眼差しで見つめ続けていた。
行き先は、峻厳なる山脈に囲まれた、冷徹なるアイゼンハルト帝国。
そこで待ち受ける、光の届かぬ塔に閉じ込められた「白き雛」との邂逅が、破滅したレオの運命を再びどう狂わせていくのか。
この時のアルフレッドには、まだ知る由もなかった。
◆
所変わってアルヴィーノの執務室。
窓から差し込むうららかな陽光とは対照的に、室内にはどこか沈んだ、重苦しい空気が漂っていた。
ルミは紺色の従者服に身を包み、机の上に積まれた軍事演習の報告書を仕分けるという、いつもの職務をこなしていた。
しかし、その手元は先ほどから何度も止まり、水色の長い髪を揺らしては、小さな唇から儚げな溜息ばかりが零れ落ちる。
「はぁ……」
一応、従者としての形は保っている。
けれど、その心は未だ数週間前のあの日に囚われたまま、一歩も前に進めていなかった。
書類の束を見つめるルミの脳裏に、何度も何度も、あの時のレオの絶叫が、涙で血走った新緑の瞳が蘇る。
自分が無邪気に「お兄ちゃん」を気取り、良かれと思って注いできた無自覚な親愛。
それが、歳の離れた大切な弟をどれほど狂わせ、追い詰め、最終的にあそこまで無残に叩き潰す原因になってしまったのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が鋭利な刃物で抉られるように痛む。
カサリ、と力なく書類を置いたルミの頭上で、静かな、けれど深く甘やかな声音が響いた。
「……ルミ。そんなに溜息ばかりついていては、せっかくの美味しい紅茶が冷めてしまいますよ」
執務机の後ろ、黒革の椅子に深く腰掛けたアルヴィーノが、手にした万年筆を置いてルミを見つめていた。
紫髪の間から覗く切れ長の紫瞳には、軍議の時の冷徹さは微塵もなく、ただ愛しい伴侶を案じる、底なしの包容力だけが湛えられている。
「あ……アルヴィーノ様。ごめんなさい、俺、また……」
「謝る必要はありません。――彼のことなら、そのうちなんとかなりますよ。兄上が直々に、荒療治を兼ねて連れ出すようですからね」
アルヴィーノは長椅子から立ち上がると、迷いのない足取りでルミの元へと歩み寄り、その華奢な肩を後ろからそっと抱きすくめた。
漆黒の軍服から香る、いつもの落ち着く匂いがルミを包み込む。
「だから貴方が、これ以上その小さな心を痛める必要はどこにもないのです。我が小鳥は、ただ私の腕の中で、穏やかに笑っていればいい」
主としての、そして伴侶としての、絶対的な甘い肯定。
いつもなら、それだけで蕩けるような幸福に満たされるはずだった。
けれど、今のルミの胸に深く刺さった楔は、その甘やな言葉だけで容易に抜けるものではなかった。
「……うん。ありがとう、アルヴィーノ様。でもね、俺……やっぱり、どうしても考えちゃうんだ」
ルミは自身の胸元で、アルヴィーノの大きな手に自分の手を重ね、きゅっと握りしめた。
水色の瞳が、隠しきれない罪悪感と悲しみで潤んでいく。
「俺がもっと早く、レオの気持ちに気づいていれば……。あんなふうに、レオを追い詰める前に、ちゃんと一人の男の子として向き合って、話ができていれば……。レオがあんな顔をして、立ち上がれなくなるくらい傷つくことはなかったんじゃないかって、どうしても考えちゃうの」
ルミの声が、微かに震える。
「俺はアルヴィーノが大好きだから、レオの気持ちには一生答えられなかった。それは、何回記憶を消されたって変わらない。……だけど、だからこそ、もっと違う伝え方があったんじゃないかって。俺のせいで、レオの心を、未来を、あんなふうにめちゃくちゃに壊しちゃったんだもん……」
ぽつり、とルミの目から溢れた涙が、仕分け途中の書類に小さな染みを作った。
ルミは、アルヴィーノへの愛を微塵も疑っていない。
けれど同時に、自分を無条件に慕ってくれていた弟分を、己の無垢さゆえに奈落の底へ叩き落としてしまったという事実は、彼にとってあまりにも重い十字架だった。
背後から抱きしめるアルヴィーノは、そんなルミの痛切な後悔を、何も言わずにただ深い沈黙で受け止めていた。
すべてを自分の手の中に囲い込み、泥を払ってやりたい「魔王」の独占欲。
しかし、伴侶のこの心優しい「傷」さえもまた、自分が愛したルミという少年の魂の美しさなのだと、アルヴィーノは誰よりも理解していた。
それから数日の月日が、何事もなかったかのように王宮を流れていった。
狂乱の嵐が去った後、レオは驚くほど静かに日常へと戻った。
次期国王として、自身に与えられた膨大な職務――領地からの報告書の精査、内政の議論、騎士団の演習の視察――そのすべてを、遅滞なく、完璧に全うしている。
しかし、その姿はまるで、精巧に作られたゼンマイ仕掛けの人形のようだった。
「……承知いたしました。この件は、こちらの修正案で進めてください」
進言に訪れた文官へ向けられる声には、かつて周囲を魅了した瑞々しい響きはなく、ただ平坦で、乾いた響きしか持ち合わせていない。
新緑の瞳は美しく透き通っているものの、そこには何の光も、何の覇気も宿っていなかった。
何かを渇望することも、怒ることも、笑うことすら忘れたかのように、レオはただ、上から与えられるタスクを淡々と、機械的に熟すだけの日々を送っている。
魂がどこか別の場所に置き去りにされたようなその姿は、痛々しいほどに静かだった。
――そして、あの事件以来、ルミがレオの前に姿を現すことは、二度となかった。
私室の片隅で、ルミは膝を抱え、水色の長い髪を落として酷く深く悔いていた。
「お兄ちゃん」として、無邪気にレオを可愛がり、距離を縮めていた自分のすべての行動。
それが、レオの中に狂おしいほどの執着の炎を灯し、彼を暗い禁忌の道へと追い詰めてしまったのだと、今になって気づいたからだ。
無知は罪だった。
自分の無垢さが、大切な「弟」をここまで壊してしまった。
ルミは自分の選択を少しも後悔していなかったが、レオをこのような悍ましい結末に引きずり込んだ原因が自分にあるという事実に、胸を抉られるような罪悪感を抱き、ただ遠くから彼の無事を祈ることしかできなかった。
そんな二人とは対照的に、アルヴィーノはどこまでも「いつも通り」だった。
軍議を統制し、チェス盤の駒を動かし、私室に戻ればルミを甘やかに溺愛する。
甥がどれほど魂を摩耗させていようとも、彼にとっては「我が小鳥を脅かした外敵が、身の程を知って引き下がった」というだけの話だった。
そこには一切の感傷も、容赦もない。
徹底して冷酷非情な魔王のまま、彼は自身の絶対的な世界を維持し続けていた。
「……レオ」
執務室の机を挟み、書類を差し出す息子の姿を、アルフレッドはただじっと見つめていることしかできなかった。
完璧に職務を熟すレオの、そのあまりにも生気のない横顔。
あの日、自分が放った「最初からスペースはなかった」という言葉が、息子の狂気を止める代わりに、彼の心そのものを完全に叩き潰してしまったのだと、アルフレッドは嫌というほど理解していた。
だが、こうするしかなかったのだ。
そう自分に言い聞かせても、目の前にいる、抜け殻のようになってしまった我が子を見ていると、胸が張り裂けそうになる。
かけられる言葉は、もう何もなかった。
慰めも、励ましも、今のレオにとってはただの無意味な雑音でしかない。
王宮の回廊に、淡々と、けれど確実に破滅の余韻を残しながら、静かな冬のような時間が刻まれていく。
かつて「光の王子」と呼ばれた少年は、すべてを失った暗闇の淵で、ただ静かに、冷たい息を吐き出し続けていた。
◆
激動の嵐が去り、王宮を包む冬のような静寂は、数週間が過ぎてもなお、解ける気配を見せなかった。
レオは変わらず、生気のない新緑の瞳で、淡々と職務を熟し続けている。
その完璧すぎる仕事ぶりが、かえって彼の「心の死」を際立たせ、周囲の文官たちを密かに戦慄させていた。
ルミは相変わらず罪悪感に身を焦がし、レオの視界に入らぬよう身を潜め続けている。
国王執務室の空気は、今日も胃が捩れるほどの緊張感に満ちていた。
アルフレッドは、長椅子に腰掛けて優雅に書類を捲る弟――アルヴィーノに対し、鋭い、刺すような視線を向けていた。
(お前、本当にとんでもないことをやってくれたな……)
言外にそう告げるアルフレッドの碧眼には、父親としての怒りと、剥き出しの圧が籠もっている。
ルミの拒絶が決定打だったとはいえ、わざとレオを挑発し、最後の最後に完璧な絶望のどん底へ叩き落としたのは、目の前にいる冷酷非情な軍師だ。
だが、そんな兄からの無言の猛圧を受けてもなお、アルヴィーノは眉一つ動かさず、至極飄々とした態度を崩さない。
「随分と物騒な視線ですね、兄上。書類に穴が空きそうだ」
「……誰のせいで私がこんなに頭を抱えていると思っているんだ。レオはあれから、まるで魂を抜かれた人形のようだ。公務に支障はないが……このままでは、あの子は本当に壊れてしまう」
アルフレッドは机に両肘を突き、深く、重い溜息とともに顔を覆った。
どれほど自分が「光の中で生きろ」と願おうとも、一度完全に叩き潰された息子の心が、一朝一夕で直る気配など微塵もない。
次期国王としての器を失いかねない我が子の痛々しい状況に、王はただ無力感に苛まれていた。
そんな兄の限界を察したのか、アルヴィーノは手元にあったチェスの駒を一つ進めるように、静かに書類を閉じた。
その紫の瞳に、軍師としての冷徹な光が宿る。
「兄上。壊れた器を元通りに修復することなど不可能です。――ですが、その空っぽになった器に、別の『何か』を満たすことならできる」
「別の、何か……?」
アルフレッドが怪訝そうに顔を上げた。
アルヴィーノは軍服の懐から、一通の古びた、しかし厳重に封印された書状を取り出し、執務机の上へと滑らせた。
「我が軍の情報網が掴んだ、一通の密告書です。北西の峻厳なる山脈に囲まれた軍事国家、『アイゼンハルト帝国』どこかにある白亜の塔――そこに、不浄の象徴として幽閉されている、哀れな姫君がいます」
アイゼンハルト帝国。
レイストール王国とも国境を接する、厳格で冷酷な南東の覇権国家。
「名はリリィ。国王の不義の子として生まれ、存在そのものを歴史から消され、長く光の届かぬ塔に閉じ込められている。……長く幽閉されていた影響で、大人の人間を病的なまでに恐れ、声もまともに出せないほどに心が摩耗しているとか」
アルフレッドは差し出された密告書を手に取り、眉をひそめた。
「他国の、幽閉された姫……。それが、レオと何の関係があるんだ? まさか、彼にその姫を救い出させ、新たな恋でもさせようというのか? そんな単純なことで、今のレオの執着が消えるはずが――」
「まさか。そんな甘い話ではありませんよ、兄上」
アルヴィーノの唇が、酷薄な弧を描いた。
「彼の歪んだ本質は、ルミという『弱者』を自らの庇護下に置き、外堀から支配し、独占しようとした執着です。ならば、ルミよりも遥かに脆く、他に行き場のない、完璧な弱者を与えればどうなるか。……自分を恐れ、縋るしか生きる術のない『白き雛』を前にした時、彼の中の『狂愛』が、どちらを向くかという実験です」
アルフレッドの背筋に、冷たいものが走った。
アルヴィーノは、レオの心を救おうとしているのではない。
レオの中に眠る狂気ともいえる本能を、この哀れな姫という新たな生贄(ターゲット)によって呼び覚まし、ルミから視線を逸らさせようとしているのだ。
「アイゼンハルト帝国の現体制には、我が国としても揺さぶりをかけたいところ。公務の変形として、レオにこの姫の奪還、および保護を命じてはいかがですか?――彼に、新たな『檻』の作り方を思い出させてあげるのです」
悪魔の囁きのような提案。
アルフレッドは密告書を握りしめ、言葉を失った。
だが、抜け殻のようになった息子を救うためには、この毒を以て毒を制すような軍師の策に、乗る以外の選択肢は残されていなかった。
◆
その日、国王執務室に足を踏み入れたレオの姿は、やはり数週間前と何一つ変わっていなかった。
寸分の乱れもない仕立ての礼服。
完璧な角度の拝礼。
しかし、その一連の美しい動作には、生きている人間の生気が完全に欠落している。
プラチナブロンドの髪の隙間から覗く新緑の瞳は、まるで底の割れた深淵のように昏く、濁ったまま。
声をかければ淀みなく言葉を返すが、そこには何の感情も、何の起伏も存在しない。
「父上、お呼びでしょうか。本日の内政に関する報告書であれば、すでにすべて目を通し、署名を終えておりますが」
抑揚のない、乾いた声。
アルフレッドは、机を挟んで佇む我が子のその痛々しい姿に、一瞬だけ胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
アルヴィーノからあの密告書を渡されてから数日、アルフレッドは悩み、考え抜いた。
弟の提案は、レオの歪んだ支配欲を別の少女へと向けさせる、いわば「毒を以て毒を制す」悪魔の策だ。
だが同時に、このままこのルミの気配が残り、敗北の記憶が染みついたこの場所にレオを留め置いておけば、息子の心は本当に修復不可能なほどに腐食し、いつか完全に瓦解してしまう。
それだけは、父親として絶対に避けたかった。
「いや、今日の公務の話ではないんだ、レオ」
アルフレッドは努めて穏やかな、けれど威厳に満ちた声を響かせた。
「数日後、私は外交のために、南東のアイゼンハルト帝国へ赴く。……レオ、君も私に同行しなさい」
その言葉に、レオは拒絶も承諾も示さず、ただ静かに視線を上げた。
その瞳には、かつてルミを巡って知略を巡らせていた頃の、あのギラギラとした執着の光は微塵もない。
「……アイゼンハルト、ですか。あそこは軍事規律が厳格な国。次期国王としての見聞を広めるための随行、と理解してよろしいでしょうか」
「ああ、その通りだ。あちらの皇帝とも、国境付近の魔導演習に関する協定について直接話さねばならなくてね。君の持つ鋭い内政の視線が、交渉の席で必要になる」
アルフレッドは、あえて「白き姫リリィ」の存在を完全に伏せた。
アルヴィーノがもたらした情報には、アイゼンハルトのどこかにある白亜の塔に、不義の子である姫が幽閉されているという「素性」しか記されていない。
その姫が本当に実在するのか、どのような状態にあるのか、現地の情報網を直接動かし、独自に調査を進めて全容を掴むまでは、レオに余計な情報を与えるべきではないと判断したのだ。
何より、これはアルフレッドなりの、不器用で、けれど切実な親心(きづかい)だった。
外交という大義名分を与え、強制的にこのレイストール王国の重苦しい空気から引き剥がす。
旅路の冷たい風に吹かれ、異国の見知らぬ景色に身を置くことで、少しでもレオの胸に空いた巨大な空洞が、傷が、癒えるきっかけになればいい。
今はただ、その一縷の望みに賭けるしかなかった。
「……分かりました。陛下の随行員として、恥じぬよう準備を進めます」
レオは、やはり感情の乗らない声で淡々と応じ、深く一礼した。
「出発は三日後だ。体調を整えておくように」
「は。失礼いたします」
踵を返し、音もなく執務室を去っていく息子の背中を、アルフレッドは祈るような、そしてどこか悲痛な眼差しで見つめ続けていた。
行き先は、峻厳なる山脈に囲まれた、冷徹なるアイゼンハルト帝国。
そこで待ち受ける、光の届かぬ塔に閉じ込められた「白き雛」との邂逅が、破滅したレオの運命を再びどう狂わせていくのか。
この時のアルフレッドには、まだ知る由もなかった。
◆
所変わってアルヴィーノの執務室。
窓から差し込むうららかな陽光とは対照的に、室内にはどこか沈んだ、重苦しい空気が漂っていた。
ルミは紺色の従者服に身を包み、机の上に積まれた軍事演習の報告書を仕分けるという、いつもの職務をこなしていた。
しかし、その手元は先ほどから何度も止まり、水色の長い髪を揺らしては、小さな唇から儚げな溜息ばかりが零れ落ちる。
「はぁ……」
一応、従者としての形は保っている。
けれど、その心は未だ数週間前のあの日に囚われたまま、一歩も前に進めていなかった。
書類の束を見つめるルミの脳裏に、何度も何度も、あの時のレオの絶叫が、涙で血走った新緑の瞳が蘇る。
自分が無邪気に「お兄ちゃん」を気取り、良かれと思って注いできた無自覚な親愛。
それが、歳の離れた大切な弟をどれほど狂わせ、追い詰め、最終的にあそこまで無残に叩き潰す原因になってしまったのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が鋭利な刃物で抉られるように痛む。
カサリ、と力なく書類を置いたルミの頭上で、静かな、けれど深く甘やかな声音が響いた。
「……ルミ。そんなに溜息ばかりついていては、せっかくの美味しい紅茶が冷めてしまいますよ」
執務机の後ろ、黒革の椅子に深く腰掛けたアルヴィーノが、手にした万年筆を置いてルミを見つめていた。
紫髪の間から覗く切れ長の紫瞳には、軍議の時の冷徹さは微塵もなく、ただ愛しい伴侶を案じる、底なしの包容力だけが湛えられている。
「あ……アルヴィーノ様。ごめんなさい、俺、また……」
「謝る必要はありません。――彼のことなら、そのうちなんとかなりますよ。兄上が直々に、荒療治を兼ねて連れ出すようですからね」
アルヴィーノは長椅子から立ち上がると、迷いのない足取りでルミの元へと歩み寄り、その華奢な肩を後ろからそっと抱きすくめた。
漆黒の軍服から香る、いつもの落ち着く匂いがルミを包み込む。
「だから貴方が、これ以上その小さな心を痛める必要はどこにもないのです。我が小鳥は、ただ私の腕の中で、穏やかに笑っていればいい」
主としての、そして伴侶としての、絶対的な甘い肯定。
いつもなら、それだけで蕩けるような幸福に満たされるはずだった。
けれど、今のルミの胸に深く刺さった楔は、その甘やな言葉だけで容易に抜けるものではなかった。
「……うん。ありがとう、アルヴィーノ様。でもね、俺……やっぱり、どうしても考えちゃうんだ」
ルミは自身の胸元で、アルヴィーノの大きな手に自分の手を重ね、きゅっと握りしめた。
水色の瞳が、隠しきれない罪悪感と悲しみで潤んでいく。
「俺がもっと早く、レオの気持ちに気づいていれば……。あんなふうに、レオを追い詰める前に、ちゃんと一人の男の子として向き合って、話ができていれば……。レオがあんな顔をして、立ち上がれなくなるくらい傷つくことはなかったんじゃないかって、どうしても考えちゃうの」
ルミの声が、微かに震える。
「俺はアルヴィーノが大好きだから、レオの気持ちには一生答えられなかった。それは、何回記憶を消されたって変わらない。……だけど、だからこそ、もっと違う伝え方があったんじゃないかって。俺のせいで、レオの心を、未来を、あんなふうにめちゃくちゃに壊しちゃったんだもん……」
ぽつり、とルミの目から溢れた涙が、仕分け途中の書類に小さな染みを作った。
ルミは、アルヴィーノへの愛を微塵も疑っていない。
けれど同時に、自分を無条件に慕ってくれていた弟分を、己の無垢さゆえに奈落の底へ叩き落としてしまったという事実は、彼にとってあまりにも重い十字架だった。
背後から抱きしめるアルヴィーノは、そんなルミの痛切な後悔を、何も言わずにただ深い沈黙で受け止めていた。
すべてを自分の手の中に囲い込み、泥を払ってやりたい「魔王」の独占欲。
しかし、伴侶のこの心優しい「傷」さえもまた、自分が愛したルミという少年の魂の美しさなのだと、アルヴィーノは誰よりも理解していた。
