主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠⑥


数年の歳月は、王宮内の歪な均衡をさらに深化させていた。
第一王子レオは、今や誰もがその知略と武勇を恐れるほどの、冷徹で完璧な「光の王子」としての地位を不動のものにしていた。
父アルフレッドの言葉通り、完璧な弟の仮面を被りながら、王宮の内外を問わず、ルミの周囲の「外堀」を音も立てずにじわじわと埋め尽くす――その執念の網の目は、すでに完成へと近づきつつあった。

そんなある日の昼下がり。
国王アルフレッドの執務室に、再び重苦しい空気が流れていた。

「――アルヴィーノ。すまないが、動いてもらいたい」

デスクに広げられた大陸の地図を指さしながら、アルフレッドが低い声を響かせた。
その碧眼には、長年の心労と、大陸の情勢を憂う王としての冷徹な光が宿っている。

「東方の辺境にある小国、『バルトロメウス公国』だ。度重なる国境線の調停に対し、再三の警告にもかかわらず、未だに判を押そうとしない。表向きはただの頑迷な小国を装っているが……我が方の密偵の報告によれば、裏で過激派と密通している形跡がある」

バルトロメウス公国。
領土こそ狭小だが、険しい山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、その裏で張り巡らされた密約の根は深い。
放置すれば、レイストール王国の東側を脅かす巨大な火種になりかねない、 非常に厄介な「毒芽」だった。

「これ以上の対話は無意味だ。……手遅れになる前に、その芽を完全に摘んできてほしい」
「――承知いたしました、陛下」

アルヴィーノは隙のない挙作で一礼した。
漆黒の軍服に身を包んだその佇まいは、数年前と何ら変わらず、むしろ周囲の空気を凍りつかせる覇気は増している。

「大国を後ろ盾に得て、 己の身の程を見失った愚者どもです。二度と我が国に不敬を働けぬよう、その傲慢ごと、 根絶やしにしてご覧に入れましょう」
「ああ。……頼むよ」

アルフレッドは短く応じ、 祈るようにデスクに両手を突いた。
国の平穏のためには、 この冷酷無比な「慈悲なき軍師」の力が必要不可欠だった。
だが同時に、 彼が動くということは、 凄惨な血の雨が降ることを意味している。
アルヴィーノは翻した外套の裾を闇に揺らし、 執務室の重厚な扉を開けた。

「お待たせしました、 ルミ。 出陣です」

扉の外の回廊には、 じっと主の帰りを待っていたルミの姿があった。
今日のルミの装いは、 王宮内での白くふわふわとしたロリータ服ではない。
戦場への随行、 あるいは他国への公式な出陣の際にのみ着用を許される、 レイストール王国軍師直属の「紺色の従者服」だった。
深い夜空を思わせる紺青の生地に、 金の刺繍が厳かに施された上質な上着。
首元には白いタイが端正に結ばれ、 いつもより少し大人びた、 凛とした雰囲気を醸し出している。

「はい、 アルヴィーノ様。 材料の準備も、 馬車の配置も、 すべて完了しています」

ルミは水色の長い髪を一つに束ね、 瑞々しい瞳をまっすぐにアルヴィーノへと向けた。
どんなに危険な戦地であっても、 この男の傍らこそが自分の居場所であると、 その表情が雄弁に物語っている。

「よくできました。……行きましょう。我が愛しい従者」

アルヴィーノはルミの紺色の肩をそっと抱き寄せるようにして、 長い回廊を歩き出した。
二人の足音が、 静まり返った王宮に規則正しく響き渡る。

主と従者。
誰もが介入できない、 縦の絶対的な絆。
しかし、 二人が王宮の門へと向かうその道すがら――。

回廊の暗がりに佇む、 純白の礼服を纏ったひとつの影が、 その後ろ姿をじっと見つめていた。
成長し、 誰よりも美しく、 そして誰よりも昏い知性を宿した第一王子レオ。
その新緑の瞳は、 ルミの纏う「紺色の従者服」を、 そして彼を連れ去る叔父の背中を、 凍りつくような冷徹さで見据えていた。

(バルトロメウス公国……。 叔父上、 貴方が王宮を離れ、 その絶対的な支配の目が届かなくなるこの瞬間を……私は、 ずっと待っていたのですよ)

完璧な弟の仮面の下で、 レオの唇の端が、 狂気的な愉悦を孕んでゆっくりと持ち上がる。
二人の化け物が恐るべき破滅へと向かう中、 誰も知らない裏側で、 レオの編み上げた「外堀を埋める罠」の歯車が、 ついに冷酷な音を立てて噛み合い、 動き出そうとしていた。


東方の辺境、切り立った断崖と険しい岩山に囲まれた要害――バルトロメウス公国へと続く街道を、数台の馬車が静かに進んでいた。
アイゼンハルト帝国の過激派と密通し、調停の判を拒み続ける不遜な小国。
その毒芽を根絶やしにするため、第二王子アルヴィーノは、緊迫した空気を孕む軍の先頭に立っていた。
その斜め後ろ、漆黒の軍服に寄り添うように座るのは、紺色の従者服を纏ったルミだ。
水色の髪を一つに束ね、主の横顔をじっと見つめるその瞳には、どれほど凄惨な戦地に赴こうとも、この男の傍らこそが己のすべてであるという絶対の信頼が宿っていた。

――だが、その「魔王」の目が王宮から完全に離れたその瞬間こそを、レオは待っていた。

「……今こそ、すべての外堀を埋める時だ」

主人のいなくなった冷たい回廊で、第一王子レオは新緑の瞳にドス黒い炎を燃え上がらせていた。
ルミを叔父の檻から引き剥がし、永遠に自分のものにするための「最初の作戦」。
レオが画策したのは、バルトロメウス公国への補給路および情報伝達網の『完全な掌握』、そしてルミを王宮へ強制召還するための『偽の王命』の発行だった。

軍師直属の隠密部隊に秘密裏に接触し、王家の印章を偽造して偽の伝令を走らせる。
アルヴィーノを戦地で孤立させ、危機に陥ったルミを「完璧な弟」として救い出し、そのまま自身の秘匿領地へと囲い込む――それが、十代前半の策士が血を吐くような努力の末に編み上げた、完璧なはずのシナリオだった。

しかし、その傲慢な牙は、あまりにも残酷な現実によって叩き折られることになる。

「――そこまでだ、レオ」

深夜、偽の王命を帯びた伝令を放とうとしたまさにその瞬間。
王宮の地下回廊は、突如として現れた国王直属の近衛兵たちによって完全に包囲された。
松明の赤い光に照らされ、行く手を阻まれたレオが息を呑む。
その中央から歩み出てきたのは、他でもない、実の父親である国王アルフレッドだった。

「な、ぜ……。私の計画は、完璧だったはずです……!」

レオの声が、初めて屈辱と動揺で激しく震えた。
偽造した印章、隠密への接触、暗号化された書簡。
叔父の戦術書をすべて暗記し、完璧に搦め手を回したはずだった。

だが、アルフレッドは深く、 酷く哀しげに首を振った。

「完璧なものか。……稚拙すぎるよ、レオ」

アルフレッドの碧眼には、激しい胃痛を堪えるような苦悶と、我が子への憐れみが滲んでいた。

「君がどれほど天才的な頭脳を持っていようと、まだ十代前半の子供だ。王宮の予算の不自然な動き、近衛の動静、そして何より……君が接触した裏の者たちは、元を辿ればすべて私とアルヴィーノが統括している情報網の一部なんだよ。君の作戦は、始まった瞬間からすべて私に筒抜けだったんだ」
「――っ!」

レオの顔から、さっと血の気が引いていく。
完璧に外堀を埋めていた捕食者のつもりだった。
だが実際は、大人たちが作り上げた巨大な掌の上で、小さな泥船を必死に漕いでいただけだったのだ。
叔父の模倣に走り、付け焼き刃の知略で挑んだ作戦は、本物の王権の前であっけなく、 無残に瓦解した。
近衛兵たちに偽の書簡を取り上げられ、完全に武装を解除されたレオは、 膝から床へと崩れ落ちた。
純白の礼服が、 冷たい地下の塵に汚れていく。
アルフレッドは近衛たちを下がらせると、 静まり返った回廊で、 崩れ落ちた我が子の前にゆっくりと膝をついた。
そして、 その震える肩を、 強い力で抱きしめた。

「レオ……頼むから、 もうこんな危ない道に足を踏み入れるのはやめてくれ」

アルフレッドの声は、 涙に濡れていた。

「君は次期国王だ。 誰よりも賢く、 誰よりも真っ当に、 光の中で生きるべき人間なんだよ。 ルミくんへの気持ちがどれほど深くても、 力ずくで奪うような、 叔父の真似をして闇に堕ちるような真似はしないでくれ……! 頼む、 まっすぐに、 真っ当に生きておくれ……!」

実の息子に、 化け物になってほしくない。
泥にまみれた暴君ではなく、 人々に愛される本物の王になってほしい――父親としての、 悲痛なまでの訴えだった。
父親の温かい胸の中で、 レオは動かなかった。
屈辱に唇を噛み締め、 爪が手のひらに食い込んで血が滲む。

(ああ、 私は……なんて無力だ。 叔父上を模しただけの、 浅はかな子供の、 稚拙な悪あがきだったというのですか)

ルミを絶賛させ、 愉悦に浸っていた自分が滑稽でならない。
だが、 アルフレッドの必死の懇願を受けながらも、 レオの新緑の瞳から「狂気」が消え去ることはなかった。

「……よく、 分かりました、 父上」

レオは父親の腕の中で、酷く低く、地を這うような声で呟いた。
だが、その新緑の瞳の奥底に揺らめく昏い炎を、アルフレッドは見逃さなかった。
あの日、執務室で「外側からじっくりと」と言い含めた時と同じだ。
我が子は今、表面的には従順を装いながら、その天才的な頭脳で「次の、より確実な搦め手」を弾き出そうとしている。
一度へし折られた牙を、さらに毒深く研ぎ澄まそうとしているのだ。
アルフレッドの碧眼に、深い絶望と、王としての冷徹な覚悟が宿る。

「いいや、分かっていないね、レオ」

アルフレッドは我が子の肩を掴み、自身の胸から引き離した。
そして、冷たい地下の床に崩れ落ちたままのレオを見下ろし、容赦のない声音を響かせた。

「君は、今回の失敗をただの『準備不足』や『子供の稚拙さ』によるものだと思っているのだろう? 次はもっと完璧に、誰にも見つからないように外堀を埋めれば、ルミくんをアルヴィーノから奪えると考えている。……それが、君の決定的な傲慢だ」
「……何が、言いたいのですか」

レオの声から「従順な弟」の響きが消え、剥き出しの敵意が混じる。

「君がどれほど完璧な檻を編み上げようと、ルミくんとアルヴィーノの絆を断ち切ることは絶対にできない。なぜなら、二人の結びつきは、君が考えているような生温い恋愛感情や、主従という立場だけで縛られたものではないからだ」

アルフレッドは一息に、二人が歩んできた血と絶望の経緯を、我が子に突きつけるために言葉を紡ぎ始めた。

「君は、あの二人の間にどれほど深く、強固な結びつきがあるかを知らない。 ルミくんがまだ心を閉ざし、研究所の闇の中で怯えていた時、その手を引いて光の当たる世界へと救い出したのはアルヴィーノなんだ。そして、冷酷非情で他者を駒としか思っていなかったアルヴィーノに、『心』を教え、彼を人間に引き戻したのはルミくんだ」

アルフレッドの脳裏に、かつて傷つきながらも寄り添い合い、紆余曲折を経てようやく結ばれた弟と男の娘の姿が浮かぶ。
新王として、二人の婚約を公式に認めた時の重みを、彼は忘れてはいなかった。

「二人の間にあるのは、ただの契約じゃない。互いの命と魂を救い合った、絶対的な絆であり、本物の愛だ。たとえ僕が国王の権力を使おうと、誰がどんな策略を巡らせようと、あの二人の歴史を上書きして介入することなど、誰にも不可能なんだよ。レオ……君がどれほど焦がれても、ルミくんの心の一番深い場所には、最初からアルヴィーノしか入れないんだ」

父親としての、そして新王としての、残酷なまでの正論の指摘。

「……っ」

レオの新緑の瞳が、激しい衝撃に大きく見開かれた。
苦虫を噛み潰したような、あるいは胸を刃で抉られたような絶望の陰が、その息を呑むような美貌を覆う。
二人の絆の深さは、レオ自身が一番よく分かっていた。
レオが命を削るようにして積み上げてきた剣術も、魔術も、戦術書の暗記も。
ルミの前で演じ続けた完璧な弟の微笑みも。
そのすべては、二人が地獄の底で分かち合った本物の血の歴史の前では、児戯にも等しい、ただの砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。

ルミがアルヴィーノを見る時の、あの蕩けるような、すべてを捧げた眼差し。
あれは、世界を敵に回してでも自分を救い出してくれた男に対する、魂の報酬。
自分がどれほど「格好いい弟」になろうとも、そんな生温い努力では、あの領域に指先一つ触れることすら叶わない。

完全なる、絶望。
レオの心は、底知れぬ漆黒の沼へと真っ逆さまに叩き落とされた。純白の礼服が、自身の無力さと惨めさを際立たせるように、地下の闇に白く浮き上がっている。

「……う、あ……」

喉の奥から、 獣のような、 押し殺した呻きが漏れる。
あまりの衝撃に、 レオの身体は小刻みに震え、 床に突いた両手から血が滴り落ちた。
父親の言う通りだ。
自分は何も知らなかった。
二人の絆の深さを、 その絶望の重さを知らずに、 ただ外側を囲えば手に入ると思い上がっていたのだ。

アルフレッドは、 ぐったりと項垂れた我が子の姿に、 ようやく牙が抜けたかと、 痛む胃を押さえながら微かに安堵の息を吐いた。 これで諦めて、 まっすぐな光の道を歩んでくれれば、 と。

しかし。
絶望の底に沈んだレオの脳内で、 その狂気は、 壊れるどころか――より悍ましく、 ドロドロとした「最悪の形」へと再結晶を始めていた。

(――ああ、 そうですか。 地獄の底で結ばれた、 魂の絆、 ですか)

項垂れたレオの顔の影で、 瞳の光が完全に消え去る。
どろりとした、 腐った沼のような漆黒の感情が、 胸の奥から溢れ出て、 全身の血を黒く染め上げていく。

(真っ当な手段では届かない。 絆の深さでも勝てない。 ……ならば、 叔父上。 その強固な絆ごと、 叩き割って差し上げましょう)

諦める? 否、 逆だ。
二人の絆がそれほどまでに絶対であるならば、 綺麗に奪うことなど最初から不可能なのだ。
ならば、 その絆を内側から腐らせ、 猜疑心で引き裂き、 互いに殺し合わせるしかない。

(ルミにぃ。 貴方の『神』が、 貴方の手によって、 あるいは私の策謀によって無残に肉塊へと変わった時……貴方は一体、 どんな顔をするのでしょうね。 絶望し、 狂い、 誰も信じられなくなった貴方を、 私は『可愛い弟』として、 永遠に私の檻に閉じ込めて差し上げます)

正面から奪えないのなら、 世界ごと、 二人の歴史ごと破壊し、 その残骸を润め捕る。

「……ありがとうございます、 父上。 私の思い上がりを、 丁寧に教えてくださって」

ゆっくりと顔を上げたレオの表情には、 もはや悲哀も屈辱もなかった。
そこにあるのは、 完全に人間としての情緒を捨て去り、 叔父を越える「最凶の策士」として完全覚醒した、 悍ましいほどの微笑みだった。

「これからは、 自分の『身の程』を弁えて、 動かせていただきますね」

その声音の、 底知れぬ冷たさに、 アルフレッドは背筋に氷を突き立てられたような激しい悪寒を覚えた。
牙を折ったはずだった。
だが、 折れた牙の跡から生えてきたのは、 国をも滅ぼしかねない、 禍々しい未知の毒牙だった。

暗い地下回廊の奥底で、 少年王子の形をした「怪物」が、 静かに、 狂気的な笑みを深めていた。
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