主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
狂愛の檻と、光の揺り籠⑤
眩いばかりの魔導光が、大理石の床に幾重ものきらめきを反射させている。
レイストール王宮の大広間は、今や王国中から集まった貴族たちの熱気と、色鮮やかなドレスの波で埋め尽くされていた。
本日は、美少年にして文武両道の誉れ高い第一王子レオ・レイストールに相応しい婚約者を見出すための、 格式高き舞踏会。
大広間の最上段に設けられた玉座の傍らで、レオは威厳に満ちた佇まいのまま立っていた。
今日の彼の装いは、次期国王としての風格をこれ以上ないほどに際立たせる、純白の礼服だった。
胸元には王家の紋章が金色に輝き、肩から流れる深紅の外套が、彼のプラチナブロンドの髪と、新緑の瞳の美しさを一層引き立てている。
「よく似合っているよ、レオ。本当に、見違えるほど立派になったね」
隣に立つ父アルフレッドが、父親としての、そして王としての深い慈愛を込めて、優しく声をかけた。
その表情には我が子の成長を誇る暖かさがあるが、同時に、レオの背後に漂う「アルヴィーノに似た底知れぬ覇気」への一抹の不安も隠されている。
「ええ、本当に。私たちの自慢の息子です。今日の主役はあなたなのですから、胸を張りなさい」
母エルザもまた、しとやかな微笑みを浮かべ、かつて自身の胎内にいた小さな命が、これほどまでに完璧な「光の王子」へと育ったことに目を細めていた。
「ありがとうございます、父上、母上。レイストール王家の名に恥じぬよう、振る舞う所存です」
レオはふっと、完璧に統制された美しい微笑を返し、 淑やかに一礼した。
その姿はどこまでも清廉で、 誰もがかしずきたくなる本物の王子そのものだった。
やがて、オーケストラの優雅な旋律が響き渡り、 華やかな舞踏会が幕を開けた。
次々と挨拶に訪れる高位貴族たち。
令嬢たちは皆、レオの洗練された美貌と完璧な騎士の礼に頬を染め、 彼の視線を惹きつけようと躍起になっている。
レオはその一人一人に対し、非の打ち所がない貴族の仮面を貼り付け、 淀みない言葉で応対を続けていた。
しかし、その新緑の瞳の奥は、 目の前の令嬢たちの誰一人として映してはいなかった。
令嬢たちの相手をしながら、レオの怜悧な頭脳は、 ひとつの「盲点」に気づき、 猛烈な速度で策謀を巡らせ始めていた。
(――そうだ。 私はなぜ、今まで気づかなかったのでしょう)
大広間の壁際、貴族たちの影に隠れるようにして、静かにこちらを見守っている水色の長い髪。
いつもと変わらず、白くふわふわとした衣服を纏い、 「お兄ちゃん」として弟の晴れ舞台を嬉しそうに見つめているルミの姿が、レオの視界に飛び込んできた。
その隣には、漆黒の軍服を隙なく纏い、周囲を威圧する叔父アルヴィーノが不機嫌そうに佇んでいる。
(叔父上とルミにぃは、外の世界ではあくまで『主と従者』。どれほど深く愛し合っていようと、この公の場である舞踏会で、手を取り合って踊ることなど決して許されない)
王国の法と、アルヴィーノ自身が敷いた完璧な主従の仮面が、二人を縛り付けている。
(……ですが、私は違う)
レオの胸の奥で、昏い歓喜の火花が爆ぜた。
(私はルミにぃにとって、永遠に『可愛い弟』だ。ならば――『歳の離れた最愛の弟が、 兄への親愛を示してダンスを申し込む』という名目であれば、この公衆の面前であっても、何一つ不自然ではない!)
どれほどアルヴィーノが独占欲に狂おうとも、 「弟」という無敵の盾の前に、 叔父は異議を唱えることすらできない。
公の場で堂々とルミにぃの手を取り、 その細い腰を抱き、 自分だけの腕の中に閉じ込めることができる。
完璧な弟の仮面を被り、 外側からじわじわと外堀を埋めていく。
父アルフレッドのあの助言が、 今ここに、 最も歪で完璧な形となって結実しようとしていた。
(見ていてください、 叔父上。 貴方がどれほどルミにぃを檻に囲おうと、 私は『弟』として、 貴方の手の届かない聖域からあの人を奪い去ってみせます)
「殿下、 恐れながら次の曲を――」
話しかけてきた令嬢の声を、 レオは優雅に手で制した。
「申し訳ありません。 次の曲は、 既に先約がありまして」
令嬢が呆気に取られる中、 レオは深紅の外套を翻し、 大理石の床を堂々たる歩調で踏みしめながら、 壁際で佇むルミの元へと歩みを進めた。
その新緑の瞳には、 獲物を確実に追い詰めた捕食者の、 狂気的なまでの知性と執着がぎらぎらと輝いていた。
優雅なワルツの旋律が響き渡る大広間で、純白の礼服を纏ったレオは、まっすぐにルミの前へと進み出た。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に彼らへと集まる。
今日、誰もがその手を取ることを切望した「光の王子」が、 婚約者候補の令嬢たちをすべて差し置いて、壁際に佇む水色の髪の少年の前で足を止めたのだから。
レオは流れるような所作で片膝を床につき、白い手袋に包まれた右手を、 恭しくルミへと差し出した。
「ルミにぃ。……私と、一曲踊っていただけませんか?」
その仕草はどこまでも騎士らしく、 完璧な王子そのものだった。だが、 伏せられた長い睫毛の奥で、 レオの新緑の瞳は狂おしいほどの熱を孕んでルミを捉えていた。
「えっ……? お、俺と……っ?」
ルミは驚き、 瑞々しい水色の瞳を大きく見開いた。
周囲のざわめきと、 跪くレオの圧倒的な美貌に気圧され、 白いフリルの袖をきゅっと握りしめる。
「で、でも、これはレオの婚約者を見つけるための舞踏会だよ? 俺なんかじゃなくて、あっちの綺麗な令嬢たちと踊るべきじゃ……」
困惑したルミは、助けを求めるように、 恐るべき威圧感を放って隣に佇むアルヴィーノを恐る恐る見上げた。
そのルミの瞳を見た瞬間、 レオの胸の奥が冷たく凍りついた。
ルミの水色の瞳には、 明確な「熱」が宿っていた。
困惑の裏で、(本当は、 アルヴィーノ様と踊りたいな……)という、切ないほどの恋慕が透けて見えていたのだ。
もし許されるのなら、今すぐこの場で、漆黒の軍服を纏う男の胸に飛び込みたいのだと、その眼差しが雄弁に物語っていた。
それを受け止めるアルヴィーノの紫の瞳が、 わずかに細められる。
実の弟と、自身の最愛の伴侶。
二人の視線の交差を冷徹に見つめていた軍師は、唇の端を酷く冷ややかに持ち上げると、ルミの背をそっと促すように、低く滑らかな声を響かせた。
「ルミ。 一曲だけでも、 踊ってきたらどうですか?」
「アルヴィーノ様……?」
「公の場とはいえ、 歳の離れた『可愛い弟』からの、 無垢な親愛の申し出です。 兄としてそれに応えるのは、 決して不自然なことではありませんよ」
アルヴィーノの声音には、 余裕に満ちた絶対的な勝者の響きがあった。
(どれほど足掻こうと、 この男の心にあるのは私だけだ。 哀れな小僧に、 束の間の『弟としての特権』を施してやれ)
言葉の裏に隠された、 残酷なまでの格の違い。
その言葉を聞いたルミは、 ぱっと表情を明るくした。
アルヴィーノが許してくれたという喜びと、いつもの無邪気な「お兄ちゃん」としての使命感が、 彼の胸を満たしていく。
「うん、 そっか! まぁ、 可愛い弟の頼みなら仕方ないっか! 俺、 お兄ちゃんだもんね!」
ルミはえへへと嬉しそうに笑うと、 躊躇うことなくレオの手の上に、 自身の白く細い手を重ねた。
「喜んで。 よろしくね、 レオ」
「――っ、 はい。 よろしくお願いします、 ルミにぃ」
ルミの小さな手の温もりが伝わった瞬間、 レオの胸中は、 激しく歪んだ感情で満たされた。
ルミの心は今もあの魔王に囚われたままで、 自分を選ぶ理由はどこまでも「お兄ちゃんだから」という、 残酷で強固な檻。
その事実が、 鉛のようにレオの心を圧し潰そうとする。
しかし――それと同時に、 レオの策士としての頭脳は、 別の狂った歓喜を弾き出していた。
(いいでしょう、 叔父上。 貴方がどれほど余裕を崩さなくとも……今、 この公衆の面前でルミにぃの手を取り、 その腰を抱くことができるのは、 叔父上、 貴方ではなく『この私』です)
アルヴィーノには逆立ちしても真似できない、 「弟」という名の絶対的な聖域。
レオはルミの手を引いて立ち上がると、 これ見よがしに、 叔父の目の前でルミの細い腰へと手を回した。
大広間の中心、 眩い光が降り注ぐダンスフロアの輪の中へと、 二人でゆっくりと進み出ていく。
「わあ、 みんな見てるよ。 なんだか緊張しちゃうな……」
少し頬を赤らめて身を寄せてくるルミを、 レオは自身の大きな身体で包み込むようにして、 優美にステップを踏み出した。
白い礼服と白いロリータ服が重なり合い、 まるで一対の美しい天使が舞っているかのような光景が、 広いフロアを支配していく。
貴族たちが感嘆の声を漏らし、 壁際ではアルヴィーノが、 紫の瞳を鋭く昏く尖らせてその光景をじっと見つめている。
(ルミにぃ。 貴方の心に誰がいようと、 貴方の身体を、 その優しい温もりを、 今この世界に見せつけて独占しているのは私だ)
ルミを腕の中に抱きすくめながら、 レオは完璧な王子の微笑みの裏で、笑みを深く、 深く刻み込んでいた。
歪んだ勝利感と、 満たされぬ飢餓感が綯い交ぜになったまま、 策士の罠は、 さらに深くルミの足元へとしがみついていくのだった。
華やかなワルツの旋律が響き渡る大広間の壁際。
絢爛たる光の輪から一段引いたその影には、まるで周囲の喧騒を拒絶するかのような、濃密な静寂が横たわっていた。
漆黒の軍服を隙なく纏ったアルヴィーノは、微動だにせずダンスフロアを見つめていた。
その視線の先には、純白の礼服に身を包んだレオと、その腕の中でややぎこちなくステップを踏む、ルミの姿がある。
レオがその大きな身体でルミを包み込み、まるで己の所有物であることを誇示するように優美に舞うたび、周囲の貴族たちからはため息のような感嘆が漏れていた。
あそこまで露骨にルミを独占されながらも、アルヴィーノは表情一つ変えていなかった。
「……アルヴィーノ」
その漆黒の背中に、どこか縋るような、そして深い危機感を孕んだ声音がかけられた。
隣に進み出てきたのは、アルフレッドだった。
一国の王としての威厳を辛うじて保ちつつも、その碧眼には隠しきれない焦燥と、持病のようになりつつある胃の痛みが色濃く滲んでいる。
アルフレッドは、我が子がルミの手を取り、その腰を抱いてフロアの中心へ消えていった一部始終を見ていた。
そして、それをあまりにも容易く許したこの実の弟の「不自然な寛容」が、恐ろしくてならなかったのだ。
「君が……あの子の申し出を素直に受け入れるなど、にわかには信じられないな。一体、何を企んでいるんだい?」
アルフレッドは声を潜め、探るように弟の横顔を見つめた。
冷酷無比な軍師であり、我が物への独占欲においては右に出る者のいない「魔王」が、ただ黙って甥に獲物を譲るはずがない。
フロアの裏でどのような血生臭い罠が動いているのかと、アルフレッドの心臓は警鐘を鳴らし続けていた。
しかし、アルヴィーノは視線をフロアに向けたまま、ふっと冷ややかに唇の端を持ち上げただけだった。
「別に、何も考えてなどいませんよ、陛下」
その声はどこまでも滑らかで、 恐ろしいほどに飄々としていた。
「あれは歳の離れた『可愛い弟』としての、無垢な親愛の申し出。兄であるルミがそれに応えるのは当然のこと。主である私が、従者のささやかな家族の情誼を邪魔する理由など、どこにもありません」
「白々しい……! 君がそんな常識論で動く人間ではないことくらい、実の兄である僕が一番よく知っている!」
アルフレッドはデスクを叩きつけたい衝動を必死に抑え、 怒りと懇願の入り混じった声を絞り出した。
「レオのあの瞳を見たかい? あの一見完璧な格好良さの裏で、あの子の心は君への激しい殺意と、ルミくんへの歪んだ独占欲で完全に焼き切れているんだ。それを君が『差』を見せつけて煽るから……! 頼む、アルヴィーノ。今夜はレオの婚約者を探すための、国にとっても最重要の舞踏会なんだ。これ以上の刺激は、本当に破滅を招く。頼むから……大人しくしていてくれ」
王としてのプライドすら投げ捨て、必死に頭を下げるように懇願するアルフレッド。
ここで二人の化け物が正面衝突すれば、この美しい大広間は一瞬にして血の海に変わり、国の未来ごと崩壊しかねない。
それほどまでに、レオの「外堀を埋める狂気」と、アルヴィーノの「慈悲なき絶対性」は、危険な臨界点に達していた。
だが、アルヴィーノの紫の瞳に宿る冷徹な光は、 兄の血を吐くような訴えすらも、ただの雑音として切り捨てていた。
「大人しく、ですか」
アルヴィーノはゆっくりと視線を動かし、 絶望に顔を歪めるアルフレッドを真っ直ぐに見下ろした。
その双眸にあるのは、一切の妥協を許さない、 捕食者の絶対的な傲慢さだった。
「勘違いしないでいただきたい。私は何も、レオを煽るために行かせたわけではない。……ただ、教えてあげたのですよ。現実というものを」
「現実、だと……?」
「ええ」
アルヴィーノは再び、フロアの端でレオにエスコートされながら、 どこか戸惑ったようにこちらに視線を投げかけてくるルミへと目を戻した。
「レオがどれほど完璧な王子を演じようと、どれほど『弟の特権』を振りかざしてルミの身体を抱こうと……ルミの瞳が探しているのは、 常にこの私だ。私の許しがなければ、 あの方はルミの手を握ることさえできなかった。……その圧倒的な敗北感を、 彼は今、 踊りながらその身で味わっているはずです」
アルヴィーノの言う通りだった。
フロアの中心で踊るレオは、 確かにルミを腕の中に抱き、 ご満悦の微笑を浮かべていた。
しかしその新緑の瞳は、 確かに気づいていたのだ。
ルミのステップがぎこちないのは緊張のせいだけではない。
ルミの意識の数割が、 常に壁際に佇む「紫色の影」へと向けられ、 その許しに感謝し、 早くあの人の元へ戻りたいと願っていることに。
「彼が足掻けば足掻くほど、 ルミの心にある『弟』という境界線は、 より強固に、 決して越えられぬ絶壁となってあの方の前に立ちはだかる。 ……私が手を下すまでもありませんよ、 兄上」
冷酷に言い放つアルヴィーノの言葉は、 正確に未来の残酷さを予言していた。
しかし、 アルフレッドの絶望は深く沈んでいくばかりだった。
なぜなら、 その「決して越えられぬ絶壁」を突きつけられたレオが、 それでも大人しく引き下がるようなタマではないことを、 彼は先日の対話で悟っていたからだ。
絶壁があるならば、 外側からすべての土台を削り崩し、 ルミごと自分の深淵へと落とせばいい。
レオの策謀は、 今まさにその方向へと舵を切っている。
「君たちは……本当に、 救えないな……」
アルフレッドは目元を片手で覆い、 呻くように呟いた。
眩い光の中、 完璧な弟の仮面の下で底知れぬ狂気の檻を編み上げるレオ。
闇の影から、 揺るぎない絶対的な支配をもって甥の心を圧し潰すアルヴィーノ。
そして、 二人の男の執着の狭間で、 何も知らずにただ優しく微笑むルミ。
優雅なオーケストラの調べが終曲へと向かう中、 大広間を包む光は、 まるで嵐の前の静けさのように、 酷く冷たく、 張り詰めた緊張感を孕んで明滅していた。
優雅なワルツの最後の旋律が、大理石の天井に吸い込まれるようにして消えていく。
フロアの中心で、レオはゆっくりとルミの細い腰から手を離し、完璧な騎士の礼を執った。
純白の礼服の裾が静かに揺れ、その新緑の瞳には、狂おしいほどの歓喜と充足感が満ち満ちていた。
公衆の面前で、堂々とルミを我が腕の中に引き留め、その体温を独占した。
叔父であるアルヴィーノがどれほど不快に思おうと、この時間だけは「弟」である自分だけのものだったのだ。
その歪んだ勝利感が、レオの胸を深く満たしていた。
「ふう……っ、ありがとう、レオ! 久しぶりに踊ったから少し緊張しちゃったけど、上手にリードしてくれて助かっちゃった」
ルミは胸に手を当てて小さく息を吐くと、いつものように無邪気で、 陽だまりのように温かい笑顔をレオに向けた。
ルミにとっては、これは「可愛い弟」の晴れ舞台に文字通り華を添え、お兄ちゃんとしての責務を立派に全うできたという、純粋な達成感に過ぎない。
その水色の瞳には、レオが期待するような一人の「男」に対する熱情など、やはり一滴も存在しなかった。
「いいえ。私の方こそ、ルミにぃと踊れて本当に幸せでしたよ」
レオは心を引き裂くような現実の冷たさを、完璧な王子の微笑の下に瞬時に隠蔽した。
曲が終われば、 夢の時間は終わりを告げる。
「では、私はあちらへ」と告げたレオは、再び次期国王としての冷徹な仮面を被り、 婚約者候補たる令嬢たちが待ち受ける貴族の群れの中へと、 迷いのない足取りで戻っていった。
それを見送ったルミもまた、 弾むような足取りで、 壁際の影――漆黒の軍服を纏って佇む、 大好きな人の元へと吸い寄せられるように歩み寄っていく。
二人の道は、 そこで美しく、 そして残酷に分かたれた。
貴族たちの輪に戻ったレオの振る舞いは、 まさに非の打ち所がなかった。
「レオ殿下、 素晴らしいダンスでしたわ」「お見事なステップでございました」と口々に称賛を寄せる高位貴族の令嬢たち。
レオはその一人一人に対し、 蕩けるような甘い微笑みと、 徹底的に洗練された礼儀をもって言葉を交わしていった。
次々に差し出される白い手袋の手を取り、 伴奏に合わせてフロアへと滑り出していく。
次期の王妃を選ぶための義務。
国を統べるための駒としての婚姻。
レオはそれらの令嬢たちの腰を抱き、 軽やかに舞いながらも、 その脳脳、 その指先は、 先ほどまで抱いていた「白くてふわふわな温もり」の残香だけを狂おしく追い求めていた。
(いくらでも踊りましょう。 誰が相手でも構わない。 ……外堀を埋めるためなら、 私はどのような婚姻すらも利用してみせる)
新緑の瞳の奥で、 冷徹な策謀の歯車が静かに噛み合い、 狂気的な執着を燃料にして回転を上げていく。
そうして、 華やかな夜は更け、 舞踏会もいよいよ終幕へと近づいていた。
宮廷楽団の指揮者が、 今夜を締めくくる「最後の1曲」のためのタクトを振り上げる。
哀愁を帯びた、 ひときわ重厚で美しい旋律が、 大広間を満たした時だった。
それまで、 壁際の暗がりに、 彫刻のように微動だにせず佇んでいた漆黒の影が、 静かに動き出した。
アルヴィーノ・レイストール。
「慈悲なき軍師」であり、 誰もが本能的な恐怖を覚えるその男が、 漆黒の外套を低く翻し、 堂々たる歩調でフロアへと歩みを進めたのだ。
周囲の貴族たちが、 その圧倒的な覇気に圧されて自然と道を開けていく。
アルヴィーノの紫の瞳は、 令嬢と踊りながらも、 常に自分たちを監視していた甥のレオを、 まっすぐに射抜いていた。
(レオ。 『弟の特権』などという、 欺瞞の時間はここまでだ)
アルヴィーノは、 フロアの傍らで自分を信じ切った瞳で見上げてくるルミの前で、 ぴたりと足を止めた。
公の場。
主と従者。
誰もが二人の関係をそう見ている。
だが、 アルヴィーノはそんな「外側の境界」など、 鼻から蹂躙するつもりだった。
彼は自身の完璧な主従のルールを、 己の手で傲然と踏み付けにする。
アルヴィーノは、 驚きに目を見張るルミの前に立つと、 漆黒の手袋に包まれた右手を、 傲慢なほどに、 けれど絶対的な支配の熱を込めて、 差し出した。
「ルミ。 最後の曲です。 伴(とも)をしなさい」
「え……っ、 アルヴィーノ様……!? で、 でも、 ここは……っ」
ルミの顔が、 瞬時に真っ赤に染まる。
周囲の貴族たちが、 王国の冷徹な軍師が従者をダンスに誘うという異常な光景に、 息を呑んでざわめき始める。
だが、 アルヴィーノは引き下がらなかった。
否、 そもそも引き下がるという概念など、 この魔王には存在しない。
彼は困惑するルミの手首を、 逃がさないように強引に、 かつ壊れ物を扱うように深く掴み取ると、 そのままフロアの中心へと引き寄せた。
「外だから、 と言いましたね。 ……構いません。 私が許す。 貴方のすべては、 私の支配下にあるのですから」
「あ……う、 うん……っ」
ルミの水色の瞳に、 涙を誘うような、 狂おしいほどの情愛の熱が灯る。
先ほどレオと踊っていた時の「ぎこちなさ」は一瞬で消え去り、 ルミはアルヴィーノの広い胸へと、 完全に身を委ねるようにしてその首に手を回した。
漆黒の軍服と、 白いロリータ服。
二人の身体が完全に密着し、 最後のワルツの旋律に乗って、 圧倒的なまでの「王と伴侶」の覇気を放ちながら、 激しく、 美しく回り始める。
それは、 舞踏会に集まったすべての貴族に対する、 そして――何よりも、 別の令嬢の手を握るレオに対する、 容赦のない、 絶対的な「宣戦布告」だった。
(見なさい、レオ。 ルミが真に身を委ね、 恋慕の瞳を向けるのは誰なのかを)
アルヴィーノの紫の瞳が、 ダンスの最中、 遠くで令嬢を抱きすくめるレオの視線を、 正面から冷酷に捉え、 嘲笑うように細められた。
令嬢の手を握ったまま、 レオの全身の血が、 一瞬で沸騰したように激しく逆流した。
完璧だった王子の仮面が、 内側からの激しい嫉妬と憎悪によって、 ピキリと音を立てて歪んでいく。
(――叔父上……っ!!)
ルミにぃのあの、 蕩けるような、 全てを捧げた顔。
自分がどれほど欲しても手に入らなかった、 伴侶としての甘い眼差しが、 すべてあの男に向けられている。
公の場という檻を、 自ら力ずくで破壊してルミにぃを独占する、 あの魔王の圧倒的な強さ。
悔しさと、 己の無力さへの激しい怒りが、 レオの新緑の瞳を完全にドス黒い深淵へと染め上げていく。
しかし、 レオはもう、 叫び声をあげるような子供ではなかった。
父アルフレッドの言葉が、 脳裏で冷酷に、 幾重にもリフレインする。
『外側から、 じっくりと――』
(ええ、 わかりました。 正面から奪えないのなら、 叔父上……貴方のその傲慢な支配ごと、 根底からすべてを腐らせ、 崩壊させてみせましょう。 ルミにぃの周囲のすべてを、 私の手で埋め尽くすその日まで)
華やかな最後の曲が響き渡る大広間で、 激しい独占欲をぶつけ合う二人の化け物の視線が、 火花を散らして激突する。
何も知らずにアルヴィーノの腕の中で幸せそうに目を細めるルミの足元で、 レオの編み上げる檻は、 いよいよその鋭い棘を伸ばし、 逃れられぬ破滅への罠を完成させようとしていた。
◆
華やかな大広間を埋め尽くしていた貴族たちの波が、夜の更けるとともに、一人、また一人と去っていく。
馬車の轍の音が遠ざかり、あれほど眩かった魔導光の灯火が少しずつ落とされていく中、空間には祭りのあとのような、 ひやりとした冷たい静寂が広がりつつあった。
扉の前に立ち、 退出する高位貴族たちを完璧な礼儀で見送っているのは、 レオだった。
「本日はありがとうございました。 貴方方との会話は、 非常に有意義でしたよ」
純白の礼服に身を包んだレオは、 疲弊の色を一切見せず、 淀みない言葉と非の打ち所のない微笑みを令嬢たちに手渡していた。
その姿は、 誰もが次期国王としての資質を確信するほどに洗練されている。
だが、 その新緑の瞳の奥は、 完全に凍りついていた。
ただ機械的に言葉を紡ぎ、 貴族たちを見送るレオの意識は、 大広間の一角――今なお残る、 濃密な闇の気配へと向けられていた。
そこには、 アルフレッドとアルヴィーノが並んで佇み、 レオのその完璧な背中を見守っていた。
アルヴィーノの漆黒の軍服の影。
そこには、 先ほどの「最後の1曲」の余熱が冷めやらないルミの姿があった。
白くてふわふわなロリータ服の裾を小さく揺らしながら、 ルミはアルヴィーノの腕の外套をぎゅっと掴み、 隠れるようにして寄り添っている。
その白い頬は未だに薔薇色に火照り、 水色の瞳は、 潤んだ熱を帯びたまま、 憧憬を込めてアルヴィーノを見上げていた。
公の場での禁忌を犯してまで自分を求めてくれた、 あの強い抱擁の感触が、 ルミの心を今なお激しく歓喜で支配しているのだ。
我が子が放つ張り詰めた狂気と、 実の弟が撒き散らした身勝手な独占欲の残滓。
その狭間に立たされたアルフレッドは、 絞り出すような低い声音で、 隣の弟へ向けて静かに怒りを告げた。
「……アルヴィーノ。 お前は一体、 何をしてくれたんだ」
その碧眼には、 一国の王としての冷徹な怒りと、 父親としての底知れぬ絶望が宿っていた。
「あれほど『大人しくしていてくれ』と、 僕はあれほど頼んだはずだ。 レオの婚約者を探すための最重要な夜に、 君はわざわざ公衆の面前でルミくんの手を取り、 踊って見せた。 自分が敷いた主従の法を自ら破り、 レオを、 そして周囲の貴族たちを煽るような真似をして……何のつもりだ」
アルフレッドの拳は、 激しい怒りで微かに震えていた。
兄の血を吐くような訴えを無視し、 我が子の心を決定的に踏みにじった弟の暴挙。
それが許せなかった。
しかし、 アルヴィーノはレオを見つめたまま、 眉一つ動かさなかった。
完璧に統制された軍師の顔のまま、 酷く滑らかに、 傲然と言い放つ。
「何、 と言われても困りますね、 陛下。 私はただ、 義務を果たしたまでです」
「義務だと……?」
「ええ」
アルヴィーノは視線だけを動かし、 自身の影で頬を赤らめているルミへと、 酷く深い紫の瞳を向けた。
「私はルミの主であり、 ルミは私の従者だ。 主に『伴をしなさい』と請われれば、 従者はそれを拒む権利を持たない。 私はただ、 私の所有物である従者にダンスを命じ、 従者はそれに従った。 ……ただの主従の、 事務的なやり取りですよ」
「アルヴィーノ……っ」
「これほど都合のいい関係はないでしょう?」
アルヴィーノの唇の端が、 愉悦を孕んで僅かに持ち上がる。
「『主従』という完璧な縦の関係があるからこそ、 私はルミに命令を下し、 誰の介入も許さず、 この腕の中に縛り付けることができる。 歳の離れた『可愛い弟』などという、 対等で生温い家族の情誼(じょうぎ)よりも、 遥かに強固で、 確実な支配だ。 ……それを、 彼に今一度、 理解させてあげたのですよ」
言葉の裏に隠された、 残酷なまでの格の違い。
レオがどれほど「弟」としての信頼を築こうとも、 アルヴィーノが「主」として一言命じれば、 ルミはその身体ごとアルヴィーノの元へ跪く。
その絶対的な現実を、 最後の曲ですべての貴族の前で見せつけたのだ。
「――お前というやつは……!!」
アルフレッドはついに耐えかねたように、 激しい頭痛とともに自身の額を深く押さえ、 苦悶の表情で頭を抱え込んだ。
胃の奥が雑巾のように雑に絞られるような、 焼けるような激痛。
アルフレッドの必死の制止も、 懇願も、 この二人の化け物の前では何の意味もなさなかった。
光の王子として育てたはずの我が子は、 叔父の背中を睨みつけながら深い深淵へと沈み、 その叔父は、 甥の牙をへし折るためにさらに冷酷な現実を突きつける。
「頼むから……頼むから、 これ以上レオを刺激しないでくれ、 アルヴィーノ……」
アルフレッドは声を震わせ、 祈るように呟いた。
「あの子は……レオはもう、 傷ついて引き下がるような子供ではないんだ。 君がそうやって圧倒的な力の差を見せつければ見せつけるほど、 あの子は『真っ当な手段では君に勝てない』と学習し、 より緻密で、 より逃げ場のない『最悪の罠』を裏で編み上げることになる。 君がルミくんを檻に囲うなら、 あの子は国ごと、 君のその檻ごと、 ルミくんを自分の深淵へ引きずり落とすつもりだぞ……!」
それは、 善性の王だからこそ予見できた、 最悪の未来の崩壊劇だった。
「……フン。 ならば、 どこまで足掻けるか見ものですね」
アルヴィーノは兄の絶望を冷徹に切り捨てると、 掴まれていたルミの手をそっと自身の大きな手で包み直し、 翻した漆黒の外套の影へとルミを完全に隠すようにして、 歩き出した。
「行きましょう、 ルミ。 夜風が冷えます」
「あ、 うん……っ。 アルヴィーノ様……」
ルミはアルヴィーノの歩調に合わせ、 幸せそうに寄り添いながら、 大広間の奥へと消えていく。
去っていく黒と白の背中を、 貴族を送り出し終えたレオが、 遠くからじっと見つめていた。
完全に孤立した大広間の中心で、 レオの落とす影は、 床一面を侵食するように長く、 昏く伸びている。
その新緑の瞳には、 もはや「完璧な弟」の光など一滴も残されてはいなかった。
(外側から、 じっくりと……。 ええ、 叔父上。 貴方のその『主従』という傲慢な絆ごと、 すべての土台を削り崩して差し上げます。 ルミにぃが、 私の檻の中でしか息ができなくなるその日まで)
王宮の平穏な日常の裏側で、 二人の化け物の執着は完全に臨界点を突破し、 逃げ場のない破滅への歯車が、 凄まじい轟音を立てて回り始めていた。
眩いばかりの魔導光が、大理石の床に幾重ものきらめきを反射させている。
レイストール王宮の大広間は、今や王国中から集まった貴族たちの熱気と、色鮮やかなドレスの波で埋め尽くされていた。
本日は、美少年にして文武両道の誉れ高い第一王子レオ・レイストールに相応しい婚約者を見出すための、 格式高き舞踏会。
大広間の最上段に設けられた玉座の傍らで、レオは威厳に満ちた佇まいのまま立っていた。
今日の彼の装いは、次期国王としての風格をこれ以上ないほどに際立たせる、純白の礼服だった。
胸元には王家の紋章が金色に輝き、肩から流れる深紅の外套が、彼のプラチナブロンドの髪と、新緑の瞳の美しさを一層引き立てている。
「よく似合っているよ、レオ。本当に、見違えるほど立派になったね」
隣に立つ父アルフレッドが、父親としての、そして王としての深い慈愛を込めて、優しく声をかけた。
その表情には我が子の成長を誇る暖かさがあるが、同時に、レオの背後に漂う「アルヴィーノに似た底知れぬ覇気」への一抹の不安も隠されている。
「ええ、本当に。私たちの自慢の息子です。今日の主役はあなたなのですから、胸を張りなさい」
母エルザもまた、しとやかな微笑みを浮かべ、かつて自身の胎内にいた小さな命が、これほどまでに完璧な「光の王子」へと育ったことに目を細めていた。
「ありがとうございます、父上、母上。レイストール王家の名に恥じぬよう、振る舞う所存です」
レオはふっと、完璧に統制された美しい微笑を返し、 淑やかに一礼した。
その姿はどこまでも清廉で、 誰もがかしずきたくなる本物の王子そのものだった。
やがて、オーケストラの優雅な旋律が響き渡り、 華やかな舞踏会が幕を開けた。
次々と挨拶に訪れる高位貴族たち。
令嬢たちは皆、レオの洗練された美貌と完璧な騎士の礼に頬を染め、 彼の視線を惹きつけようと躍起になっている。
レオはその一人一人に対し、非の打ち所がない貴族の仮面を貼り付け、 淀みない言葉で応対を続けていた。
しかし、その新緑の瞳の奥は、 目の前の令嬢たちの誰一人として映してはいなかった。
令嬢たちの相手をしながら、レオの怜悧な頭脳は、 ひとつの「盲点」に気づき、 猛烈な速度で策謀を巡らせ始めていた。
(――そうだ。 私はなぜ、今まで気づかなかったのでしょう)
大広間の壁際、貴族たちの影に隠れるようにして、静かにこちらを見守っている水色の長い髪。
いつもと変わらず、白くふわふわとした衣服を纏い、 「お兄ちゃん」として弟の晴れ舞台を嬉しそうに見つめているルミの姿が、レオの視界に飛び込んできた。
その隣には、漆黒の軍服を隙なく纏い、周囲を威圧する叔父アルヴィーノが不機嫌そうに佇んでいる。
(叔父上とルミにぃは、外の世界ではあくまで『主と従者』。どれほど深く愛し合っていようと、この公の場である舞踏会で、手を取り合って踊ることなど決して許されない)
王国の法と、アルヴィーノ自身が敷いた完璧な主従の仮面が、二人を縛り付けている。
(……ですが、私は違う)
レオの胸の奥で、昏い歓喜の火花が爆ぜた。
(私はルミにぃにとって、永遠に『可愛い弟』だ。ならば――『歳の離れた最愛の弟が、 兄への親愛を示してダンスを申し込む』という名目であれば、この公衆の面前であっても、何一つ不自然ではない!)
どれほどアルヴィーノが独占欲に狂おうとも、 「弟」という無敵の盾の前に、 叔父は異議を唱えることすらできない。
公の場で堂々とルミにぃの手を取り、 その細い腰を抱き、 自分だけの腕の中に閉じ込めることができる。
完璧な弟の仮面を被り、 外側からじわじわと外堀を埋めていく。
父アルフレッドのあの助言が、 今ここに、 最も歪で完璧な形となって結実しようとしていた。
(見ていてください、 叔父上。 貴方がどれほどルミにぃを檻に囲おうと、 私は『弟』として、 貴方の手の届かない聖域からあの人を奪い去ってみせます)
「殿下、 恐れながら次の曲を――」
話しかけてきた令嬢の声を、 レオは優雅に手で制した。
「申し訳ありません。 次の曲は、 既に先約がありまして」
令嬢が呆気に取られる中、 レオは深紅の外套を翻し、 大理石の床を堂々たる歩調で踏みしめながら、 壁際で佇むルミの元へと歩みを進めた。
その新緑の瞳には、 獲物を確実に追い詰めた捕食者の、 狂気的なまでの知性と執着がぎらぎらと輝いていた。
優雅なワルツの旋律が響き渡る大広間で、純白の礼服を纏ったレオは、まっすぐにルミの前へと進み出た。
周囲の貴族たちの視線が、一斉に彼らへと集まる。
今日、誰もがその手を取ることを切望した「光の王子」が、 婚約者候補の令嬢たちをすべて差し置いて、壁際に佇む水色の髪の少年の前で足を止めたのだから。
レオは流れるような所作で片膝を床につき、白い手袋に包まれた右手を、 恭しくルミへと差し出した。
「ルミにぃ。……私と、一曲踊っていただけませんか?」
その仕草はどこまでも騎士らしく、 完璧な王子そのものだった。だが、 伏せられた長い睫毛の奥で、 レオの新緑の瞳は狂おしいほどの熱を孕んでルミを捉えていた。
「えっ……? お、俺と……っ?」
ルミは驚き、 瑞々しい水色の瞳を大きく見開いた。
周囲のざわめきと、 跪くレオの圧倒的な美貌に気圧され、 白いフリルの袖をきゅっと握りしめる。
「で、でも、これはレオの婚約者を見つけるための舞踏会だよ? 俺なんかじゃなくて、あっちの綺麗な令嬢たちと踊るべきじゃ……」
困惑したルミは、助けを求めるように、 恐るべき威圧感を放って隣に佇むアルヴィーノを恐る恐る見上げた。
そのルミの瞳を見た瞬間、 レオの胸の奥が冷たく凍りついた。
ルミの水色の瞳には、 明確な「熱」が宿っていた。
困惑の裏で、(本当は、 アルヴィーノ様と踊りたいな……)という、切ないほどの恋慕が透けて見えていたのだ。
もし許されるのなら、今すぐこの場で、漆黒の軍服を纏う男の胸に飛び込みたいのだと、その眼差しが雄弁に物語っていた。
それを受け止めるアルヴィーノの紫の瞳が、 わずかに細められる。
実の弟と、自身の最愛の伴侶。
二人の視線の交差を冷徹に見つめていた軍師は、唇の端を酷く冷ややかに持ち上げると、ルミの背をそっと促すように、低く滑らかな声を響かせた。
「ルミ。 一曲だけでも、 踊ってきたらどうですか?」
「アルヴィーノ様……?」
「公の場とはいえ、 歳の離れた『可愛い弟』からの、 無垢な親愛の申し出です。 兄としてそれに応えるのは、 決して不自然なことではありませんよ」
アルヴィーノの声音には、 余裕に満ちた絶対的な勝者の響きがあった。
(どれほど足掻こうと、 この男の心にあるのは私だけだ。 哀れな小僧に、 束の間の『弟としての特権』を施してやれ)
言葉の裏に隠された、 残酷なまでの格の違い。
その言葉を聞いたルミは、 ぱっと表情を明るくした。
アルヴィーノが許してくれたという喜びと、いつもの無邪気な「お兄ちゃん」としての使命感が、 彼の胸を満たしていく。
「うん、 そっか! まぁ、 可愛い弟の頼みなら仕方ないっか! 俺、 お兄ちゃんだもんね!」
ルミはえへへと嬉しそうに笑うと、 躊躇うことなくレオの手の上に、 自身の白く細い手を重ねた。
「喜んで。 よろしくね、 レオ」
「――っ、 はい。 よろしくお願いします、 ルミにぃ」
ルミの小さな手の温もりが伝わった瞬間、 レオの胸中は、 激しく歪んだ感情で満たされた。
ルミの心は今もあの魔王に囚われたままで、 自分を選ぶ理由はどこまでも「お兄ちゃんだから」という、 残酷で強固な檻。
その事実が、 鉛のようにレオの心を圧し潰そうとする。
しかし――それと同時に、 レオの策士としての頭脳は、 別の狂った歓喜を弾き出していた。
(いいでしょう、 叔父上。 貴方がどれほど余裕を崩さなくとも……今、 この公衆の面前でルミにぃの手を取り、 その腰を抱くことができるのは、 叔父上、 貴方ではなく『この私』です)
アルヴィーノには逆立ちしても真似できない、 「弟」という名の絶対的な聖域。
レオはルミの手を引いて立ち上がると、 これ見よがしに、 叔父の目の前でルミの細い腰へと手を回した。
大広間の中心、 眩い光が降り注ぐダンスフロアの輪の中へと、 二人でゆっくりと進み出ていく。
「わあ、 みんな見てるよ。 なんだか緊張しちゃうな……」
少し頬を赤らめて身を寄せてくるルミを、 レオは自身の大きな身体で包み込むようにして、 優美にステップを踏み出した。
白い礼服と白いロリータ服が重なり合い、 まるで一対の美しい天使が舞っているかのような光景が、 広いフロアを支配していく。
貴族たちが感嘆の声を漏らし、 壁際ではアルヴィーノが、 紫の瞳を鋭く昏く尖らせてその光景をじっと見つめている。
(ルミにぃ。 貴方の心に誰がいようと、 貴方の身体を、 その優しい温もりを、 今この世界に見せつけて独占しているのは私だ)
ルミを腕の中に抱きすくめながら、 レオは完璧な王子の微笑みの裏で、笑みを深く、 深く刻み込んでいた。
歪んだ勝利感と、 満たされぬ飢餓感が綯い交ぜになったまま、 策士の罠は、 さらに深くルミの足元へとしがみついていくのだった。
華やかなワルツの旋律が響き渡る大広間の壁際。
絢爛たる光の輪から一段引いたその影には、まるで周囲の喧騒を拒絶するかのような、濃密な静寂が横たわっていた。
漆黒の軍服を隙なく纏ったアルヴィーノは、微動だにせずダンスフロアを見つめていた。
その視線の先には、純白の礼服に身を包んだレオと、その腕の中でややぎこちなくステップを踏む、ルミの姿がある。
レオがその大きな身体でルミを包み込み、まるで己の所有物であることを誇示するように優美に舞うたび、周囲の貴族たちからはため息のような感嘆が漏れていた。
あそこまで露骨にルミを独占されながらも、アルヴィーノは表情一つ変えていなかった。
「……アルヴィーノ」
その漆黒の背中に、どこか縋るような、そして深い危機感を孕んだ声音がかけられた。
隣に進み出てきたのは、アルフレッドだった。
一国の王としての威厳を辛うじて保ちつつも、その碧眼には隠しきれない焦燥と、持病のようになりつつある胃の痛みが色濃く滲んでいる。
アルフレッドは、我が子がルミの手を取り、その腰を抱いてフロアの中心へ消えていった一部始終を見ていた。
そして、それをあまりにも容易く許したこの実の弟の「不自然な寛容」が、恐ろしくてならなかったのだ。
「君が……あの子の申し出を素直に受け入れるなど、にわかには信じられないな。一体、何を企んでいるんだい?」
アルフレッドは声を潜め、探るように弟の横顔を見つめた。
冷酷無比な軍師であり、我が物への独占欲においては右に出る者のいない「魔王」が、ただ黙って甥に獲物を譲るはずがない。
フロアの裏でどのような血生臭い罠が動いているのかと、アルフレッドの心臓は警鐘を鳴らし続けていた。
しかし、アルヴィーノは視線をフロアに向けたまま、ふっと冷ややかに唇の端を持ち上げただけだった。
「別に、何も考えてなどいませんよ、陛下」
その声はどこまでも滑らかで、 恐ろしいほどに飄々としていた。
「あれは歳の離れた『可愛い弟』としての、無垢な親愛の申し出。兄であるルミがそれに応えるのは当然のこと。主である私が、従者のささやかな家族の情誼を邪魔する理由など、どこにもありません」
「白々しい……! 君がそんな常識論で動く人間ではないことくらい、実の兄である僕が一番よく知っている!」
アルフレッドはデスクを叩きつけたい衝動を必死に抑え、 怒りと懇願の入り混じった声を絞り出した。
「レオのあの瞳を見たかい? あの一見完璧な格好良さの裏で、あの子の心は君への激しい殺意と、ルミくんへの歪んだ独占欲で完全に焼き切れているんだ。それを君が『差』を見せつけて煽るから……! 頼む、アルヴィーノ。今夜はレオの婚約者を探すための、国にとっても最重要の舞踏会なんだ。これ以上の刺激は、本当に破滅を招く。頼むから……大人しくしていてくれ」
王としてのプライドすら投げ捨て、必死に頭を下げるように懇願するアルフレッド。
ここで二人の化け物が正面衝突すれば、この美しい大広間は一瞬にして血の海に変わり、国の未来ごと崩壊しかねない。
それほどまでに、レオの「外堀を埋める狂気」と、アルヴィーノの「慈悲なき絶対性」は、危険な臨界点に達していた。
だが、アルヴィーノの紫の瞳に宿る冷徹な光は、 兄の血を吐くような訴えすらも、ただの雑音として切り捨てていた。
「大人しく、ですか」
アルヴィーノはゆっくりと視線を動かし、 絶望に顔を歪めるアルフレッドを真っ直ぐに見下ろした。
その双眸にあるのは、一切の妥協を許さない、 捕食者の絶対的な傲慢さだった。
「勘違いしないでいただきたい。私は何も、レオを煽るために行かせたわけではない。……ただ、教えてあげたのですよ。現実というものを」
「現実、だと……?」
「ええ」
アルヴィーノは再び、フロアの端でレオにエスコートされながら、 どこか戸惑ったようにこちらに視線を投げかけてくるルミへと目を戻した。
「レオがどれほど完璧な王子を演じようと、どれほど『弟の特権』を振りかざしてルミの身体を抱こうと……ルミの瞳が探しているのは、 常にこの私だ。私の許しがなければ、 あの方はルミの手を握ることさえできなかった。……その圧倒的な敗北感を、 彼は今、 踊りながらその身で味わっているはずです」
アルヴィーノの言う通りだった。
フロアの中心で踊るレオは、 確かにルミを腕の中に抱き、 ご満悦の微笑を浮かべていた。
しかしその新緑の瞳は、 確かに気づいていたのだ。
ルミのステップがぎこちないのは緊張のせいだけではない。
ルミの意識の数割が、 常に壁際に佇む「紫色の影」へと向けられ、 その許しに感謝し、 早くあの人の元へ戻りたいと願っていることに。
「彼が足掻けば足掻くほど、 ルミの心にある『弟』という境界線は、 より強固に、 決して越えられぬ絶壁となってあの方の前に立ちはだかる。 ……私が手を下すまでもありませんよ、 兄上」
冷酷に言い放つアルヴィーノの言葉は、 正確に未来の残酷さを予言していた。
しかし、 アルフレッドの絶望は深く沈んでいくばかりだった。
なぜなら、 その「決して越えられぬ絶壁」を突きつけられたレオが、 それでも大人しく引き下がるようなタマではないことを、 彼は先日の対話で悟っていたからだ。
絶壁があるならば、 外側からすべての土台を削り崩し、 ルミごと自分の深淵へと落とせばいい。
レオの策謀は、 今まさにその方向へと舵を切っている。
「君たちは……本当に、 救えないな……」
アルフレッドは目元を片手で覆い、 呻くように呟いた。
眩い光の中、 完璧な弟の仮面の下で底知れぬ狂気の檻を編み上げるレオ。
闇の影から、 揺るぎない絶対的な支配をもって甥の心を圧し潰すアルヴィーノ。
そして、 二人の男の執着の狭間で、 何も知らずにただ優しく微笑むルミ。
優雅なオーケストラの調べが終曲へと向かう中、 大広間を包む光は、 まるで嵐の前の静けさのように、 酷く冷たく、 張り詰めた緊張感を孕んで明滅していた。
優雅なワルツの最後の旋律が、大理石の天井に吸い込まれるようにして消えていく。
フロアの中心で、レオはゆっくりとルミの細い腰から手を離し、完璧な騎士の礼を執った。
純白の礼服の裾が静かに揺れ、その新緑の瞳には、狂おしいほどの歓喜と充足感が満ち満ちていた。
公衆の面前で、堂々とルミを我が腕の中に引き留め、その体温を独占した。
叔父であるアルヴィーノがどれほど不快に思おうと、この時間だけは「弟」である自分だけのものだったのだ。
その歪んだ勝利感が、レオの胸を深く満たしていた。
「ふう……っ、ありがとう、レオ! 久しぶりに踊ったから少し緊張しちゃったけど、上手にリードしてくれて助かっちゃった」
ルミは胸に手を当てて小さく息を吐くと、いつものように無邪気で、 陽だまりのように温かい笑顔をレオに向けた。
ルミにとっては、これは「可愛い弟」の晴れ舞台に文字通り華を添え、お兄ちゃんとしての責務を立派に全うできたという、純粋な達成感に過ぎない。
その水色の瞳には、レオが期待するような一人の「男」に対する熱情など、やはり一滴も存在しなかった。
「いいえ。私の方こそ、ルミにぃと踊れて本当に幸せでしたよ」
レオは心を引き裂くような現実の冷たさを、完璧な王子の微笑の下に瞬時に隠蔽した。
曲が終われば、 夢の時間は終わりを告げる。
「では、私はあちらへ」と告げたレオは、再び次期国王としての冷徹な仮面を被り、 婚約者候補たる令嬢たちが待ち受ける貴族の群れの中へと、 迷いのない足取りで戻っていった。
それを見送ったルミもまた、 弾むような足取りで、 壁際の影――漆黒の軍服を纏って佇む、 大好きな人の元へと吸い寄せられるように歩み寄っていく。
二人の道は、 そこで美しく、 そして残酷に分かたれた。
貴族たちの輪に戻ったレオの振る舞いは、 まさに非の打ち所がなかった。
「レオ殿下、 素晴らしいダンスでしたわ」「お見事なステップでございました」と口々に称賛を寄せる高位貴族の令嬢たち。
レオはその一人一人に対し、 蕩けるような甘い微笑みと、 徹底的に洗練された礼儀をもって言葉を交わしていった。
次々に差し出される白い手袋の手を取り、 伴奏に合わせてフロアへと滑り出していく。
次期の王妃を選ぶための義務。
国を統べるための駒としての婚姻。
レオはそれらの令嬢たちの腰を抱き、 軽やかに舞いながらも、 その脳脳、 その指先は、 先ほどまで抱いていた「白くてふわふわな温もり」の残香だけを狂おしく追い求めていた。
(いくらでも踊りましょう。 誰が相手でも構わない。 ……外堀を埋めるためなら、 私はどのような婚姻すらも利用してみせる)
新緑の瞳の奥で、 冷徹な策謀の歯車が静かに噛み合い、 狂気的な執着を燃料にして回転を上げていく。
そうして、 華やかな夜は更け、 舞踏会もいよいよ終幕へと近づいていた。
宮廷楽団の指揮者が、 今夜を締めくくる「最後の1曲」のためのタクトを振り上げる。
哀愁を帯びた、 ひときわ重厚で美しい旋律が、 大広間を満たした時だった。
それまで、 壁際の暗がりに、 彫刻のように微動だにせず佇んでいた漆黒の影が、 静かに動き出した。
アルヴィーノ・レイストール。
「慈悲なき軍師」であり、 誰もが本能的な恐怖を覚えるその男が、 漆黒の外套を低く翻し、 堂々たる歩調でフロアへと歩みを進めたのだ。
周囲の貴族たちが、 その圧倒的な覇気に圧されて自然と道を開けていく。
アルヴィーノの紫の瞳は、 令嬢と踊りながらも、 常に自分たちを監視していた甥のレオを、 まっすぐに射抜いていた。
(レオ。 『弟の特権』などという、 欺瞞の時間はここまでだ)
アルヴィーノは、 フロアの傍らで自分を信じ切った瞳で見上げてくるルミの前で、 ぴたりと足を止めた。
公の場。
主と従者。
誰もが二人の関係をそう見ている。
だが、 アルヴィーノはそんな「外側の境界」など、 鼻から蹂躙するつもりだった。
彼は自身の完璧な主従のルールを、 己の手で傲然と踏み付けにする。
アルヴィーノは、 驚きに目を見張るルミの前に立つと、 漆黒の手袋に包まれた右手を、 傲慢なほどに、 けれど絶対的な支配の熱を込めて、 差し出した。
「ルミ。 最後の曲です。 伴(とも)をしなさい」
「え……っ、 アルヴィーノ様……!? で、 でも、 ここは……っ」
ルミの顔が、 瞬時に真っ赤に染まる。
周囲の貴族たちが、 王国の冷徹な軍師が従者をダンスに誘うという異常な光景に、 息を呑んでざわめき始める。
だが、 アルヴィーノは引き下がらなかった。
否、 そもそも引き下がるという概念など、 この魔王には存在しない。
彼は困惑するルミの手首を、 逃がさないように強引に、 かつ壊れ物を扱うように深く掴み取ると、 そのままフロアの中心へと引き寄せた。
「外だから、 と言いましたね。 ……構いません。 私が許す。 貴方のすべては、 私の支配下にあるのですから」
「あ……う、 うん……っ」
ルミの水色の瞳に、 涙を誘うような、 狂おしいほどの情愛の熱が灯る。
先ほどレオと踊っていた時の「ぎこちなさ」は一瞬で消え去り、 ルミはアルヴィーノの広い胸へと、 完全に身を委ねるようにしてその首に手を回した。
漆黒の軍服と、 白いロリータ服。
二人の身体が完全に密着し、 最後のワルツの旋律に乗って、 圧倒的なまでの「王と伴侶」の覇気を放ちながら、 激しく、 美しく回り始める。
それは、 舞踏会に集まったすべての貴族に対する、 そして――何よりも、 別の令嬢の手を握るレオに対する、 容赦のない、 絶対的な「宣戦布告」だった。
(見なさい、レオ。 ルミが真に身を委ね、 恋慕の瞳を向けるのは誰なのかを)
アルヴィーノの紫の瞳が、 ダンスの最中、 遠くで令嬢を抱きすくめるレオの視線を、 正面から冷酷に捉え、 嘲笑うように細められた。
令嬢の手を握ったまま、 レオの全身の血が、 一瞬で沸騰したように激しく逆流した。
完璧だった王子の仮面が、 内側からの激しい嫉妬と憎悪によって、 ピキリと音を立てて歪んでいく。
(――叔父上……っ!!)
ルミにぃのあの、 蕩けるような、 全てを捧げた顔。
自分がどれほど欲しても手に入らなかった、 伴侶としての甘い眼差しが、 すべてあの男に向けられている。
公の場という檻を、 自ら力ずくで破壊してルミにぃを独占する、 あの魔王の圧倒的な強さ。
悔しさと、 己の無力さへの激しい怒りが、 レオの新緑の瞳を完全にドス黒い深淵へと染め上げていく。
しかし、 レオはもう、 叫び声をあげるような子供ではなかった。
父アルフレッドの言葉が、 脳裏で冷酷に、 幾重にもリフレインする。
『外側から、 じっくりと――』
(ええ、 わかりました。 正面から奪えないのなら、 叔父上……貴方のその傲慢な支配ごと、 根底からすべてを腐らせ、 崩壊させてみせましょう。 ルミにぃの周囲のすべてを、 私の手で埋め尽くすその日まで)
華やかな最後の曲が響き渡る大広間で、 激しい独占欲をぶつけ合う二人の化け物の視線が、 火花を散らして激突する。
何も知らずにアルヴィーノの腕の中で幸せそうに目を細めるルミの足元で、 レオの編み上げる檻は、 いよいよその鋭い棘を伸ばし、 逃れられぬ破滅への罠を完成させようとしていた。
◆
華やかな大広間を埋め尽くしていた貴族たちの波が、夜の更けるとともに、一人、また一人と去っていく。
馬車の轍の音が遠ざかり、あれほど眩かった魔導光の灯火が少しずつ落とされていく中、空間には祭りのあとのような、 ひやりとした冷たい静寂が広がりつつあった。
扉の前に立ち、 退出する高位貴族たちを完璧な礼儀で見送っているのは、 レオだった。
「本日はありがとうございました。 貴方方との会話は、 非常に有意義でしたよ」
純白の礼服に身を包んだレオは、 疲弊の色を一切見せず、 淀みない言葉と非の打ち所のない微笑みを令嬢たちに手渡していた。
その姿は、 誰もが次期国王としての資質を確信するほどに洗練されている。
だが、 その新緑の瞳の奥は、 完全に凍りついていた。
ただ機械的に言葉を紡ぎ、 貴族たちを見送るレオの意識は、 大広間の一角――今なお残る、 濃密な闇の気配へと向けられていた。
そこには、 アルフレッドとアルヴィーノが並んで佇み、 レオのその完璧な背中を見守っていた。
アルヴィーノの漆黒の軍服の影。
そこには、 先ほどの「最後の1曲」の余熱が冷めやらないルミの姿があった。
白くてふわふわなロリータ服の裾を小さく揺らしながら、 ルミはアルヴィーノの腕の外套をぎゅっと掴み、 隠れるようにして寄り添っている。
その白い頬は未だに薔薇色に火照り、 水色の瞳は、 潤んだ熱を帯びたまま、 憧憬を込めてアルヴィーノを見上げていた。
公の場での禁忌を犯してまで自分を求めてくれた、 あの強い抱擁の感触が、 ルミの心を今なお激しく歓喜で支配しているのだ。
我が子が放つ張り詰めた狂気と、 実の弟が撒き散らした身勝手な独占欲の残滓。
その狭間に立たされたアルフレッドは、 絞り出すような低い声音で、 隣の弟へ向けて静かに怒りを告げた。
「……アルヴィーノ。 お前は一体、 何をしてくれたんだ」
その碧眼には、 一国の王としての冷徹な怒りと、 父親としての底知れぬ絶望が宿っていた。
「あれほど『大人しくしていてくれ』と、 僕はあれほど頼んだはずだ。 レオの婚約者を探すための最重要な夜に、 君はわざわざ公衆の面前でルミくんの手を取り、 踊って見せた。 自分が敷いた主従の法を自ら破り、 レオを、 そして周囲の貴族たちを煽るような真似をして……何のつもりだ」
アルフレッドの拳は、 激しい怒りで微かに震えていた。
兄の血を吐くような訴えを無視し、 我が子の心を決定的に踏みにじった弟の暴挙。
それが許せなかった。
しかし、 アルヴィーノはレオを見つめたまま、 眉一つ動かさなかった。
完璧に統制された軍師の顔のまま、 酷く滑らかに、 傲然と言い放つ。
「何、 と言われても困りますね、 陛下。 私はただ、 義務を果たしたまでです」
「義務だと……?」
「ええ」
アルヴィーノは視線だけを動かし、 自身の影で頬を赤らめているルミへと、 酷く深い紫の瞳を向けた。
「私はルミの主であり、 ルミは私の従者だ。 主に『伴をしなさい』と請われれば、 従者はそれを拒む権利を持たない。 私はただ、 私の所有物である従者にダンスを命じ、 従者はそれに従った。 ……ただの主従の、 事務的なやり取りですよ」
「アルヴィーノ……っ」
「これほど都合のいい関係はないでしょう?」
アルヴィーノの唇の端が、 愉悦を孕んで僅かに持ち上がる。
「『主従』という完璧な縦の関係があるからこそ、 私はルミに命令を下し、 誰の介入も許さず、 この腕の中に縛り付けることができる。 歳の離れた『可愛い弟』などという、 対等で生温い家族の情誼(じょうぎ)よりも、 遥かに強固で、 確実な支配だ。 ……それを、 彼に今一度、 理解させてあげたのですよ」
言葉の裏に隠された、 残酷なまでの格の違い。
レオがどれほど「弟」としての信頼を築こうとも、 アルヴィーノが「主」として一言命じれば、 ルミはその身体ごとアルヴィーノの元へ跪く。
その絶対的な現実を、 最後の曲ですべての貴族の前で見せつけたのだ。
「――お前というやつは……!!」
アルフレッドはついに耐えかねたように、 激しい頭痛とともに自身の額を深く押さえ、 苦悶の表情で頭を抱え込んだ。
胃の奥が雑巾のように雑に絞られるような、 焼けるような激痛。
アルフレッドの必死の制止も、 懇願も、 この二人の化け物の前では何の意味もなさなかった。
光の王子として育てたはずの我が子は、 叔父の背中を睨みつけながら深い深淵へと沈み、 その叔父は、 甥の牙をへし折るためにさらに冷酷な現実を突きつける。
「頼むから……頼むから、 これ以上レオを刺激しないでくれ、 アルヴィーノ……」
アルフレッドは声を震わせ、 祈るように呟いた。
「あの子は……レオはもう、 傷ついて引き下がるような子供ではないんだ。 君がそうやって圧倒的な力の差を見せつければ見せつけるほど、 あの子は『真っ当な手段では君に勝てない』と学習し、 より緻密で、 より逃げ場のない『最悪の罠』を裏で編み上げることになる。 君がルミくんを檻に囲うなら、 あの子は国ごと、 君のその檻ごと、 ルミくんを自分の深淵へ引きずり落とすつもりだぞ……!」
それは、 善性の王だからこそ予見できた、 最悪の未来の崩壊劇だった。
「……フン。 ならば、 どこまで足掻けるか見ものですね」
アルヴィーノは兄の絶望を冷徹に切り捨てると、 掴まれていたルミの手をそっと自身の大きな手で包み直し、 翻した漆黒の外套の影へとルミを完全に隠すようにして、 歩き出した。
「行きましょう、 ルミ。 夜風が冷えます」
「あ、 うん……っ。 アルヴィーノ様……」
ルミはアルヴィーノの歩調に合わせ、 幸せそうに寄り添いながら、 大広間の奥へと消えていく。
去っていく黒と白の背中を、 貴族を送り出し終えたレオが、 遠くからじっと見つめていた。
完全に孤立した大広間の中心で、 レオの落とす影は、 床一面を侵食するように長く、 昏く伸びている。
その新緑の瞳には、 もはや「完璧な弟」の光など一滴も残されてはいなかった。
(外側から、 じっくりと……。 ええ、 叔父上。 貴方のその『主従』という傲慢な絆ごと、 すべての土台を削り崩して差し上げます。 ルミにぃが、 私の檻の中でしか息ができなくなるその日まで)
王宮の平穏な日常の裏側で、 二人の化け物の執着は完全に臨界点を突破し、 逃げ場のない破滅への歯車が、 凄まじい轟音を立てて回り始めていた。
