主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
狂愛の檻と、光の揺り籠③
石畳が続く城下町は、夕暮れ時の活気に包まれていた。
行き交う馬車の轍の音や、商人たちの威勢の良い声。
至る所の店先から漂う香ばしい匂いが、平穏な王国の日常を象徴している。
その喧騒の中を、二人の影が静かに歩んでいた。
漆黒の軍服を隙なく纏い、周囲の者を自然と平伏させるような威圧感を放つ第二王子アルヴィーノと、その斜め後ろを、白いふわふわなロリータ服の裾を揺らしながら歩くルミ。
身分の上では、二人はあくまで「主と従者」であった。
公の場であるこの城下町において、親密に手を繋いだり、 寄り添って歩いたりすることは許されない。
それがレイストール王国の法であり、彼らが守るべき最低限の「仮面」だった。
けれど、ルミの足取りは、 弾むように軽やかだった。
水色の長い髪を夕風に遊ばせ、時折、アルヴィーノの大きな背中を見上げては、誰にも気づかれないように水色の瞳を細める。
ただ同じ歩調で、同じ景色を見ながら歩いている。
その事実だけで、ルミの心は陽だまりのように温かな幸福感で満たされていた。
アルヴィーノは前を見据えたまま、その強靭な歩みを緩めることなく、 零れるような低い声で不意に問いかけた。
「――ルミ」
「はい、アルヴィーノ様」
ルミはすぐに声を落とし、従者としての完璧な距離を保ちながら応じた。
「先ほどの……レオのことですが」
アルヴィーノの切れ長の紫の瞳が、わずかに揺れる。
その脳裏に浮かんでいるのは、王宮の庭園でルミの手首を握りしめ、 完璧な王子様の微笑の裏で底知れない執着の牙を研いでいた、あの美少年の甥の姿だ。
アルヴィーノの卓越した軍師としての直感は、レオの内に秘められた狂気的な「何か」を明確に捉えていた。
「貴方は、彼をどう思っているのですか」
その問いは、ただの嫉妬ではなかった。
ルミの心がどこにあるかを疑っているわけでもない。
ただ、ルミがレオに対して「どのような境界線」を引いているのかを、改めて確かめておきたかったのだ。
ルミは不思議そうに水色の瞳をまたたかせ、それから、あの日エルザの私室で小さな鼓動に触れた時のことを思い出すように、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「レオのこと? うーん……あの時と、何も変わらないよ。背は俺よりずーっと大きくなっちゃって、びっくりしちゃうけど……やっぱり、俺にとっては、可愛くて大切な弟だよ?」
ルミの声には、一点の曇りも、 濁りもなかった。
どれほどレオが美少年に育とうと、どれほど「格好いい男」になろうと、ルミの最奥にある恋慕の情は、目の前を歩くアルヴィーノという男にしか向いていない。
ルミにとってレオは、いつまでも守り、 愛しむべき、血の繋がらない「可愛い弟」でしかなかった。
「……そうですか」
ルミの答を聞いたアルヴィーノの唇の端が、 誰も気づかないほど僅かに、満足げに持ち上がった。
「慈悲なき軍師」であり、のちに魔王と呼ばれる男の胸中を、 深い充足感が満たしていく。
どれほどレオが知略を巡らせ、完璧な弟を演じて外堀を埋めようと、ルミ自身の心が「弟」という強固な檻にレオを閉じ込めている限り、あの小僧がルミを手に入れることは決してない。
ルミの「無垢な一線」こそが、何よりも強固な盾であると、アルヴィーノは確信したのだ。
ご満悦のまま、アルヴィーノは一軒の洋菓子店の前で足を止めた。
窓硝子の向こうには、色とりどりの美しい焼き菓子や、果実をふんだんに使ったタルトが並んでいる。
ルミの好物が詰まった、城下町でも評判の店だった。
アルヴィーノは、回れ右をするようにルミの方へと向き直ると、躊躇うことなくその大きな手を伸ばした。
そして、公の場であることも忘れ、ルミの白く細い手を、 自身の大きな掌でそっと包み込んだのだ。
「あ……っ、アルヴィーノ様!?」
ルミは弾かれたように顔を上げ、水色の瞳を大きく見開いた。
周囲には、まだ買い出しの領民や、二人を遠巻きに警護している衛兵たちの目がいくらでもある。
「だ、駄目だよ、アルヴィーノ様、お外だから……! 誰かに見られちゃう……っ」
慌てて手を引き抜こうとするルミだったが、アルヴィーノの手は、 岩のようにびくともしなかった。
それどころか、逃がさないように指を絡め、 自身の熱を分け与えるように強く握りしめる。
「構いません」
低い声音には、王族としての尊大さと、最愛の伴侶に対する容赦のない独占欲が綯い交ぜになっていた。
今のアルヴィーノは、ルミの言葉を聞き入れるつもりなど毛頭なかった。
ルミの心が自分だけのものであると確認できた今、この愛しい存在を、一時たりとも離しておきたくはなかったのだ。
「さあ、入りましょう。貴方の好きな菓子を、 好きなだけ選ぶといい」
「も、もう……」
ルミは赤面し、白い服の襟元に顔を埋めるようにしながらも、 握られた手の圧倒的な温もりに、 結局は抗うことができなかった。
きゅっと、 自分からもその手を握り返してしまう。
夕暮れの街角、人目の溢れる洋菓子店の前で、静かに、けれど強く結ばれた二人の手。
それは、どれほど歳月が流れようと、どれほど周囲が変貌しようと、二人の絆が 決して揺るがないことを示す、絶対的な儀式のようでもあった。
しかし、この時。
洋菓子店へと入っていく二人の幸せな背後を、王宮の回廊から、あるいは城下町の喧騒の影から、 じっと見つめる新緑の瞳があることなど――今の二人の甘い世界には、 届くはずもなかった。
◆
王宮の深奥、夕闇が完全に帳を下ろした回廊を、レオは一人歩いていた。
「――っ」
誰もいない曲がり角に差し掛かった瞬間、レオは拳を激しく壁へと打ち付けた。
鈍い音が静まり返った回廊に響き、白皙の拳が赤く滲む。
しかし、その痛みなど、今の彼の胸を焼き尽くさんとする激情に比べれば、無に等しかった。
悔しかった。
喉の奥が引き裂かれそうなほどに、 狂おしく、 惨めだった。
どれほど背を伸ばしても、どれほど剣を極め、 賢者たちを唸らせる知略を身につけようとも。
ルミの瑞々しい水色の瞳が自分を映す時、そこにあるのはいつだって「可愛い弟」を見るための、 濁りのない、 乾いた慈愛だけ。
そして、あの人が「一人の男」に身を委ねる時の、 薔薇色に染まる頬も、 潤む瞳も、 そのすべては漆黒の軍服を纏う叔父アルヴィーノだけのものなのだ。
(どうしたらいい。どうすれば、貴方は私を『男』として見てくれるのですか……?)
脳裏にこびりついて離れないのは、城下町へ向かう二人の、 結ばれた手の温もり。
アルヴィーノに抱きついたルミの、 幸せそうな声音。
考えれば考えるほど、 思考の迷宮は深く昏い霧に包まれていく。
真っ当な手段では、 あの堅牢な「弟」という名の檻を壊すことはできない。
ならば、 搦め手か。それとも、 力ずくで奪い去るか――。
気づけばレオの足は、 再び父親である国王アルフレッドの執務室へと向いていた。
己の中に満ちていく黒い衝動を、 辛うじて「光の王子」の仮面で抑え込みながら、 レオは静かに扉を叩いた。
「……父上。夜分遅くに申し訳ありません」
「おや、 レオかい? どうしたんだ、 こんな夜更けに」
机の上の魔導ランプの光に照らされたアルフレッドは、 息子の姿を認めると、 疲れの滲む顔を和らげて微笑んだ。
しかし、 レオが室内に一歩足を踏み入れた瞬間、 アルフレッドの身体が本能的に硬直した。
レオはいつも通り、 完璧な礼儀と、 父親譲りの美しいプラチナブロンドの髪を揺らして佇んでいる。
だが、 その新緑の瞳の奥、 そして彼の身体から立ち上る空気は、 酷く冷徹で、 刺すような威圧感を孕んでいた。
それは、 アルフレッドがかつて何度も対峙し、 そのたびに胃を痛めてきた実の弟「慈悲なき軍師(魔王)」アルヴィーノの放つ覇気と、 恐ろしいほどに酷似していた。
(……待て。 何だ、 この空気は……?)
アルフレッドの脳裏に、 最大級の警戒警報が鳴り響く。
背筋を冷たい汗が伝う。
直感した。
目の前にいる我が子は今、 崖っぷちの境界線に立っている。
ここで選択を誤れば、 この国にアルヴィーノ以上の「最凶の暴君」が誕生してしまうと。
「父上……。 以前、 格好いい男についてお伺いしました。 私は父上の仰る通り、 誰よりも強く、 賢くあるよう努めてきました。 ……ですが、 届かないのです」
レオの声は、 どこまでも静かで、 だからこそ狂気に満ちていた。
「どれほど尽くそうと、 私はあの人にとって、 永遠に『可愛い弟』でしかない。 ……一人の男として、 伴侶として選ばれるためには、 私はこれ以上、 一体何をすればいいのでしょうか。 教えてください、 父上」
「ルミにぃ」ではなく、 「あの人」と呼んだ。
その響きに含まれる生々しい独占欲に、 アルフレッドは胃の奥が乗っ取られるような激しい痛みを覚えた。
(これはやばい。 完全に軌道修正しないと、 とんでもないことが起こる……!!)
アルフレッドは必死で頭をフル回転させた。
ここでアルヴィーノのように「諦めろ」と突き放せば、 レオは間違いなく裏社会の禁術に手を染めるか、 力ずくでルミを監禁するような暴挙に出る。
なだめつつ、 牙を抜かなければならない。
アルフレッドは椅子から立ち上がると、 震えそうになる膝を押し交わし、 レオの肩に両手を置いた。
「レ、 レオ。 落ち着いて聞いてほしい。 君のその……一途な情熱は、 決して悪いことではないんだ。 だけどね、 人の心というのは、 剣や学問のように『成果を上げれば手に入る』というものではないんだよ」
「……成果では、 不足だと?」
「そうじゃない! そうではないんだ!」
アルフレッドは必死に声を紡ぐ。
「ルミくんにとって、 君は最初から『特別な存在』なんだよ。 エルザのお腹にいた時から、 彼は君のお兄ちゃんになると誓ってくれた。 その温かな絆を、 焦りや無理なアプローチで壊してしまっては元も子もない。 男として見られたいなら、 まずは今の『頼れる最高の弟』としての信頼を、 誰よりも深く築き上げることだ。 彼が困った時、 迷った時、 一番に頼りたくなるような、 揺るぎない絶対的な味方に……そう、 『外側からじっくりと』支える男になるんだよ」
アルフレッドは、 「これなら大人しく、 時間をかけて弟役に徹してくれるだろう」という、 決死の軌道修正のつもりだった。
しかし、 その言葉の、 ほんの一部「外側からじっくりと」という単語が、 レオの歪んだ天才的な頭脳に、 最悪のインスピレーションを与えてしまった。
(――ああ、 なるほど。 外側から、 じっくりと、 ですか)
レオの緑の瞳の奥で、 昏い火花が散った。
(真っ正面から『男』としてぶつかっても、 ルミにぃは困惑して逃げてしまう。 ならば、 完璧な『頼れる弟』の仮面を被ったまま、 逃げ道をすべて塞ぎ……外堀から、 じわじわと埋めていけばいいのですね。 叔父上すら介入できないほど、 完璧に、 逃れられないように)
父親の必死の説得を、 レオは最凶の策士の作戦行動へと脳内で完璧に変換していた。
「……よく分かりました、 父上。 素晴らしい助言を、 ありがとうございます」
レオはふっと、 憑き物が落ちたような、 どこまでも美しく、 そして酷く冷ややかな笑みを浮かべた。
「私は、 焦りすぎていたようです。 これからは父上の仰る通り、 じっくりと、 外側から進めさせていただきますね」
「え、 あ、 うん……。 分かってくれたなら、 嬉しいよ……?」
胸をなでおろすアルフレッドだったが、 レオが翻した背中から漂う気配は、 先ほどよりも一層、 緻密で、 逃げ場のない「捕食者」のそれへと深化していた。
胃の痛みに耐えながら見送るアルフレッドは、 まだ気づいていなかった。 自分の放った一言が、 「光の王子レオ」を、 完璧なる「外堀埋め型策士」へと完全覚醒させてしまったという、 恐るべき事実に。
◆
夜の帳が完全に王宮を包み込んだ頃、国王アルフレッドの執務室には、重苦しい沈黙が立ち込めていた。
机の上の魔導ランプが、羊皮紙の山と、そこに落とされる二人の王族の影を淡く照らしている。
アルフレッドは、机を挟んで傲然と佇むアルヴィーノを、 鋭さと疲弊の入り混じった碧眼で見据えていた。
「アルヴィーノ。……君に、 少し話がある」
「夜更けにわざわざ呼び出しをかけるとは、 珍しいですね、 陛下。なにか不備でも?」
漆黒の軍服を一切の乱れなく纏ったアルヴィーノは、 切れ長の紫の瞳に冷徹な光を宿したまま、 声音を変えずに応じた。
その佇まいは、 相変わらず周囲の空気を凍りつかせるような覇気に満ちている。
アルフレッドは一つ、 深い溜息を噛み殺し、 本題を切り出した。
「その話ではない。……レオのことだ。君、 あそこまで幼い子供に対して、 些か大人気ないちょっかいが過ぎるのではないかい?」
「ちょっかい、 ですか。 何のことか、 私には些か見当がつきかねますが」
アルヴィーノは表情一つ変えず、 飄々とした顔でしらばっくれた。
兄の追及など、 どこ吹く風といった態度である。
しかし、 アルフレッドの目は誤魔化せなかった。
先日、 執務室にやってきた我が子から立ち上っていた、 あの昏く刺すような気配。
あれは間違いなく、 目の前にいるこの「慈悲なき軍師」によって植え付けられたものだった。
「白々しいことを言わないでくれ。レオは今、 君を……君とルミくんの関係を、 狂おしいほどの眼差しで見つめている。あの子のルミくんに対する執着は、 君の想像を遥かに超えて膨れ上がっているんだよ。そして同時に君のことを、 明確な『敵』として認識し、 激しく敵視し始めている」
アルフレッドは机に両手を突き、 弟に詰め寄るように声を低めた。
「まだ十代前半の我が子が、 実の叔父を殺しかねないほどの鋭い牙を研いでいるんだ。親として、 そして王として、 これを看過できると思うかい?」
実の息子が闇に堕ちかけているという、 狂気的な事実。
だが、 その深刻な指摘を受けながらも、 アルヴィーノの唇の端は、 酷く冷ややかに、 愉悦を孕んで僅かに持ち上がっただけだった。
「――知っていますが? それが何か?」
「何……?」
アルフレッドが息を呑む。 アルヴィーノは紫の瞳の奥に圧倒的な支配者の光を灯し、 傲然と言い放った。
「レオの視線など、 最初からすべて把握していますよ。あの瞳の奥で、 どれほど醜悪で、 傲慢な独占欲が育っているかもね。……だからこそ、 ですよ、 兄上」
アルヴィーノは一歩、 机へと歩み寄った。
その身体から放たれる圧倒的な「魔王」としての威圧感が、 執務室の空気を限界まで希薄にする。
「あの歪んだ牙は、 今のうちに根元からへし折って、 完全に抜いておく必要がある。どれほど背を伸ばそうと、 どれほど剣や智略を極めようと、 『ルミはどんなに頑張ってもお前のものにはならない』と……身の程を、 その骨の髄まで叩き込んでわからせるために、 私はレオの前でルミを抱き、 独占して見せているのですよ」
その言葉には、 子供相手の手加減など一滴も存在しなかった。
ルミという唯一無二の伴侶を脅かす存在であれば、 たとえそれが実の甥であろうと、 次期国王たる第一王子であろうと、 徹底的に叩き潰し、 絶望の底へ突き落とす。
それがアルヴィーノという男の、 苛烈極まる愛の形だった。
アルヴィーノの、 傲岸不遜極まるその言い分を聞いた瞬間。
「――それだよ!! 僕が言っているのは、 まさにそれなんだ!!」
アルフレッドはついに耐えかねたように、 自身の端正なプラチナブロンドの髪を両手で乱暴にかきむしった。
こめかみを激しい頭痛が襲い、 胃の奥が雑巾のように雑に絞られるような痛みに、 思わずデスクに片手を突いて身体を丸める。
「君がそうやって、 容赦なく圧倒的な格の違いを見せつけるから……! あの一途でプライドの高いレオが、 完全にへそを曲げて、 逆に君のその冷酷さと策謀を学習し始めてしまったんだ! 君の真似をして、 君を越えようとして……あの子は今、 君のような最悪の『化け物』に変貌しようとしているんだよ!?」
善性の王として、 必死に周囲を光で満たそうとしてきたアルフレッド。
だが、 そのすぐ身内では、 最凶の魔王が、 次世代の最凶の策士の牙を、 容赦なく、 愉しげに研ぎ澄まさせている。
「……フン。 私の模倣、 ですか。 結構なことだ」
アルヴィーノは、 兄の頭痛の混じった絶叫すら心地よい音楽のように受け流しながら、 漆黒の手袋をはめた手で自身の顎をなぞった。
「せいぜい足掻けばいい。 あの方がどれほど私に似てこようと、 ルミの心にある『弟』という名の檻は、 決して壊せはしないのですから」
そう言い残し、 アルヴィーノは完璧な一礼とともに、 翻した漆黒の外套の裾を闇に揺らして執務室を去っていった。
静まり返った室内で、 アルフレッドは一人、 深い絶望とともに頭を抱え、 デスクに突っ伏した。
激しい胃痛の中で、 彼は確信していた。
自分の必死の軌道修正も、 弟の容赦のない洗礼も、 すべてはレオという怪物を育てるための極上の「糧」にしかなっていない。
この王宮の平穏な日常の裏側で、 逃げ場のない破滅へのカウントダウンは、 確実に、 じわじわと、 その秒針を進めていた。
石畳が続く城下町は、夕暮れ時の活気に包まれていた。
行き交う馬車の轍の音や、商人たちの威勢の良い声。
至る所の店先から漂う香ばしい匂いが、平穏な王国の日常を象徴している。
その喧騒の中を、二人の影が静かに歩んでいた。
漆黒の軍服を隙なく纏い、周囲の者を自然と平伏させるような威圧感を放つ第二王子アルヴィーノと、その斜め後ろを、白いふわふわなロリータ服の裾を揺らしながら歩くルミ。
身分の上では、二人はあくまで「主と従者」であった。
公の場であるこの城下町において、親密に手を繋いだり、 寄り添って歩いたりすることは許されない。
それがレイストール王国の法であり、彼らが守るべき最低限の「仮面」だった。
けれど、ルミの足取りは、 弾むように軽やかだった。
水色の長い髪を夕風に遊ばせ、時折、アルヴィーノの大きな背中を見上げては、誰にも気づかれないように水色の瞳を細める。
ただ同じ歩調で、同じ景色を見ながら歩いている。
その事実だけで、ルミの心は陽だまりのように温かな幸福感で満たされていた。
アルヴィーノは前を見据えたまま、その強靭な歩みを緩めることなく、 零れるような低い声で不意に問いかけた。
「――ルミ」
「はい、アルヴィーノ様」
ルミはすぐに声を落とし、従者としての完璧な距離を保ちながら応じた。
「先ほどの……レオのことですが」
アルヴィーノの切れ長の紫の瞳が、わずかに揺れる。
その脳裏に浮かんでいるのは、王宮の庭園でルミの手首を握りしめ、 完璧な王子様の微笑の裏で底知れない執着の牙を研いでいた、あの美少年の甥の姿だ。
アルヴィーノの卓越した軍師としての直感は、レオの内に秘められた狂気的な「何か」を明確に捉えていた。
「貴方は、彼をどう思っているのですか」
その問いは、ただの嫉妬ではなかった。
ルミの心がどこにあるかを疑っているわけでもない。
ただ、ルミがレオに対して「どのような境界線」を引いているのかを、改めて確かめておきたかったのだ。
ルミは不思議そうに水色の瞳をまたたかせ、それから、あの日エルザの私室で小さな鼓動に触れた時のことを思い出すように、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「レオのこと? うーん……あの時と、何も変わらないよ。背は俺よりずーっと大きくなっちゃって、びっくりしちゃうけど……やっぱり、俺にとっては、可愛くて大切な弟だよ?」
ルミの声には、一点の曇りも、 濁りもなかった。
どれほどレオが美少年に育とうと、どれほど「格好いい男」になろうと、ルミの最奥にある恋慕の情は、目の前を歩くアルヴィーノという男にしか向いていない。
ルミにとってレオは、いつまでも守り、 愛しむべき、血の繋がらない「可愛い弟」でしかなかった。
「……そうですか」
ルミの答を聞いたアルヴィーノの唇の端が、 誰も気づかないほど僅かに、満足げに持ち上がった。
「慈悲なき軍師」であり、のちに魔王と呼ばれる男の胸中を、 深い充足感が満たしていく。
どれほどレオが知略を巡らせ、完璧な弟を演じて外堀を埋めようと、ルミ自身の心が「弟」という強固な檻にレオを閉じ込めている限り、あの小僧がルミを手に入れることは決してない。
ルミの「無垢な一線」こそが、何よりも強固な盾であると、アルヴィーノは確信したのだ。
ご満悦のまま、アルヴィーノは一軒の洋菓子店の前で足を止めた。
窓硝子の向こうには、色とりどりの美しい焼き菓子や、果実をふんだんに使ったタルトが並んでいる。
ルミの好物が詰まった、城下町でも評判の店だった。
アルヴィーノは、回れ右をするようにルミの方へと向き直ると、躊躇うことなくその大きな手を伸ばした。
そして、公の場であることも忘れ、ルミの白く細い手を、 自身の大きな掌でそっと包み込んだのだ。
「あ……っ、アルヴィーノ様!?」
ルミは弾かれたように顔を上げ、水色の瞳を大きく見開いた。
周囲には、まだ買い出しの領民や、二人を遠巻きに警護している衛兵たちの目がいくらでもある。
「だ、駄目だよ、アルヴィーノ様、お外だから……! 誰かに見られちゃう……っ」
慌てて手を引き抜こうとするルミだったが、アルヴィーノの手は、 岩のようにびくともしなかった。
それどころか、逃がさないように指を絡め、 自身の熱を分け与えるように強く握りしめる。
「構いません」
低い声音には、王族としての尊大さと、最愛の伴侶に対する容赦のない独占欲が綯い交ぜになっていた。
今のアルヴィーノは、ルミの言葉を聞き入れるつもりなど毛頭なかった。
ルミの心が自分だけのものであると確認できた今、この愛しい存在を、一時たりとも離しておきたくはなかったのだ。
「さあ、入りましょう。貴方の好きな菓子を、 好きなだけ選ぶといい」
「も、もう……」
ルミは赤面し、白い服の襟元に顔を埋めるようにしながらも、 握られた手の圧倒的な温もりに、 結局は抗うことができなかった。
きゅっと、 自分からもその手を握り返してしまう。
夕暮れの街角、人目の溢れる洋菓子店の前で、静かに、けれど強く結ばれた二人の手。
それは、どれほど歳月が流れようと、どれほど周囲が変貌しようと、二人の絆が 決して揺るがないことを示す、絶対的な儀式のようでもあった。
しかし、この時。
洋菓子店へと入っていく二人の幸せな背後を、王宮の回廊から、あるいは城下町の喧騒の影から、 じっと見つめる新緑の瞳があることなど――今の二人の甘い世界には、 届くはずもなかった。
◆
王宮の深奥、夕闇が完全に帳を下ろした回廊を、レオは一人歩いていた。
「――っ」
誰もいない曲がり角に差し掛かった瞬間、レオは拳を激しく壁へと打ち付けた。
鈍い音が静まり返った回廊に響き、白皙の拳が赤く滲む。
しかし、その痛みなど、今の彼の胸を焼き尽くさんとする激情に比べれば、無に等しかった。
悔しかった。
喉の奥が引き裂かれそうなほどに、 狂おしく、 惨めだった。
どれほど背を伸ばしても、どれほど剣を極め、 賢者たちを唸らせる知略を身につけようとも。
ルミの瑞々しい水色の瞳が自分を映す時、そこにあるのはいつだって「可愛い弟」を見るための、 濁りのない、 乾いた慈愛だけ。
そして、あの人が「一人の男」に身を委ねる時の、 薔薇色に染まる頬も、 潤む瞳も、 そのすべては漆黒の軍服を纏う叔父アルヴィーノだけのものなのだ。
(どうしたらいい。どうすれば、貴方は私を『男』として見てくれるのですか……?)
脳裏にこびりついて離れないのは、城下町へ向かう二人の、 結ばれた手の温もり。
アルヴィーノに抱きついたルミの、 幸せそうな声音。
考えれば考えるほど、 思考の迷宮は深く昏い霧に包まれていく。
真っ当な手段では、 あの堅牢な「弟」という名の檻を壊すことはできない。
ならば、 搦め手か。それとも、 力ずくで奪い去るか――。
気づけばレオの足は、 再び父親である国王アルフレッドの執務室へと向いていた。
己の中に満ちていく黒い衝動を、 辛うじて「光の王子」の仮面で抑え込みながら、 レオは静かに扉を叩いた。
「……父上。夜分遅くに申し訳ありません」
「おや、 レオかい? どうしたんだ、 こんな夜更けに」
机の上の魔導ランプの光に照らされたアルフレッドは、 息子の姿を認めると、 疲れの滲む顔を和らげて微笑んだ。
しかし、 レオが室内に一歩足を踏み入れた瞬間、 アルフレッドの身体が本能的に硬直した。
レオはいつも通り、 完璧な礼儀と、 父親譲りの美しいプラチナブロンドの髪を揺らして佇んでいる。
だが、 その新緑の瞳の奥、 そして彼の身体から立ち上る空気は、 酷く冷徹で、 刺すような威圧感を孕んでいた。
それは、 アルフレッドがかつて何度も対峙し、 そのたびに胃を痛めてきた実の弟「慈悲なき軍師(魔王)」アルヴィーノの放つ覇気と、 恐ろしいほどに酷似していた。
(……待て。 何だ、 この空気は……?)
アルフレッドの脳裏に、 最大級の警戒警報が鳴り響く。
背筋を冷たい汗が伝う。
直感した。
目の前にいる我が子は今、 崖っぷちの境界線に立っている。
ここで選択を誤れば、 この国にアルヴィーノ以上の「最凶の暴君」が誕生してしまうと。
「父上……。 以前、 格好いい男についてお伺いしました。 私は父上の仰る通り、 誰よりも強く、 賢くあるよう努めてきました。 ……ですが、 届かないのです」
レオの声は、 どこまでも静かで、 だからこそ狂気に満ちていた。
「どれほど尽くそうと、 私はあの人にとって、 永遠に『可愛い弟』でしかない。 ……一人の男として、 伴侶として選ばれるためには、 私はこれ以上、 一体何をすればいいのでしょうか。 教えてください、 父上」
「ルミにぃ」ではなく、 「あの人」と呼んだ。
その響きに含まれる生々しい独占欲に、 アルフレッドは胃の奥が乗っ取られるような激しい痛みを覚えた。
(これはやばい。 完全に軌道修正しないと、 とんでもないことが起こる……!!)
アルフレッドは必死で頭をフル回転させた。
ここでアルヴィーノのように「諦めろ」と突き放せば、 レオは間違いなく裏社会の禁術に手を染めるか、 力ずくでルミを監禁するような暴挙に出る。
なだめつつ、 牙を抜かなければならない。
アルフレッドは椅子から立ち上がると、 震えそうになる膝を押し交わし、 レオの肩に両手を置いた。
「レ、 レオ。 落ち着いて聞いてほしい。 君のその……一途な情熱は、 決して悪いことではないんだ。 だけどね、 人の心というのは、 剣や学問のように『成果を上げれば手に入る』というものではないんだよ」
「……成果では、 不足だと?」
「そうじゃない! そうではないんだ!」
アルフレッドは必死に声を紡ぐ。
「ルミくんにとって、 君は最初から『特別な存在』なんだよ。 エルザのお腹にいた時から、 彼は君のお兄ちゃんになると誓ってくれた。 その温かな絆を、 焦りや無理なアプローチで壊してしまっては元も子もない。 男として見られたいなら、 まずは今の『頼れる最高の弟』としての信頼を、 誰よりも深く築き上げることだ。 彼が困った時、 迷った時、 一番に頼りたくなるような、 揺るぎない絶対的な味方に……そう、 『外側からじっくりと』支える男になるんだよ」
アルフレッドは、 「これなら大人しく、 時間をかけて弟役に徹してくれるだろう」という、 決死の軌道修正のつもりだった。
しかし、 その言葉の、 ほんの一部「外側からじっくりと」という単語が、 レオの歪んだ天才的な頭脳に、 最悪のインスピレーションを与えてしまった。
(――ああ、 なるほど。 外側から、 じっくりと、 ですか)
レオの緑の瞳の奥で、 昏い火花が散った。
(真っ正面から『男』としてぶつかっても、 ルミにぃは困惑して逃げてしまう。 ならば、 完璧な『頼れる弟』の仮面を被ったまま、 逃げ道をすべて塞ぎ……外堀から、 じわじわと埋めていけばいいのですね。 叔父上すら介入できないほど、 完璧に、 逃れられないように)
父親の必死の説得を、 レオは最凶の策士の作戦行動へと脳内で完璧に変換していた。
「……よく分かりました、 父上。 素晴らしい助言を、 ありがとうございます」
レオはふっと、 憑き物が落ちたような、 どこまでも美しく、 そして酷く冷ややかな笑みを浮かべた。
「私は、 焦りすぎていたようです。 これからは父上の仰る通り、 じっくりと、 外側から進めさせていただきますね」
「え、 あ、 うん……。 分かってくれたなら、 嬉しいよ……?」
胸をなでおろすアルフレッドだったが、 レオが翻した背中から漂う気配は、 先ほどよりも一層、 緻密で、 逃げ場のない「捕食者」のそれへと深化していた。
胃の痛みに耐えながら見送るアルフレッドは、 まだ気づいていなかった。 自分の放った一言が、 「光の王子レオ」を、 完璧なる「外堀埋め型策士」へと完全覚醒させてしまったという、 恐るべき事実に。
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夜の帳が完全に王宮を包み込んだ頃、国王アルフレッドの執務室には、重苦しい沈黙が立ち込めていた。
机の上の魔導ランプが、羊皮紙の山と、そこに落とされる二人の王族の影を淡く照らしている。
アルフレッドは、机を挟んで傲然と佇むアルヴィーノを、 鋭さと疲弊の入り混じった碧眼で見据えていた。
「アルヴィーノ。……君に、 少し話がある」
「夜更けにわざわざ呼び出しをかけるとは、 珍しいですね、 陛下。なにか不備でも?」
漆黒の軍服を一切の乱れなく纏ったアルヴィーノは、 切れ長の紫の瞳に冷徹な光を宿したまま、 声音を変えずに応じた。
その佇まいは、 相変わらず周囲の空気を凍りつかせるような覇気に満ちている。
アルフレッドは一つ、 深い溜息を噛み殺し、 本題を切り出した。
「その話ではない。……レオのことだ。君、 あそこまで幼い子供に対して、 些か大人気ないちょっかいが過ぎるのではないかい?」
「ちょっかい、 ですか。 何のことか、 私には些か見当がつきかねますが」
アルヴィーノは表情一つ変えず、 飄々とした顔でしらばっくれた。
兄の追及など、 どこ吹く風といった態度である。
しかし、 アルフレッドの目は誤魔化せなかった。
先日、 執務室にやってきた我が子から立ち上っていた、 あの昏く刺すような気配。
あれは間違いなく、 目の前にいるこの「慈悲なき軍師」によって植え付けられたものだった。
「白々しいことを言わないでくれ。レオは今、 君を……君とルミくんの関係を、 狂おしいほどの眼差しで見つめている。あの子のルミくんに対する執着は、 君の想像を遥かに超えて膨れ上がっているんだよ。そして同時に君のことを、 明確な『敵』として認識し、 激しく敵視し始めている」
アルフレッドは机に両手を突き、 弟に詰め寄るように声を低めた。
「まだ十代前半の我が子が、 実の叔父を殺しかねないほどの鋭い牙を研いでいるんだ。親として、 そして王として、 これを看過できると思うかい?」
実の息子が闇に堕ちかけているという、 狂気的な事実。
だが、 その深刻な指摘を受けながらも、 アルヴィーノの唇の端は、 酷く冷ややかに、 愉悦を孕んで僅かに持ち上がっただけだった。
「――知っていますが? それが何か?」
「何……?」
アルフレッドが息を呑む。 アルヴィーノは紫の瞳の奥に圧倒的な支配者の光を灯し、 傲然と言い放った。
「レオの視線など、 最初からすべて把握していますよ。あの瞳の奥で、 どれほど醜悪で、 傲慢な独占欲が育っているかもね。……だからこそ、 ですよ、 兄上」
アルヴィーノは一歩、 机へと歩み寄った。
その身体から放たれる圧倒的な「魔王」としての威圧感が、 執務室の空気を限界まで希薄にする。
「あの歪んだ牙は、 今のうちに根元からへし折って、 完全に抜いておく必要がある。どれほど背を伸ばそうと、 どれほど剣や智略を極めようと、 『ルミはどんなに頑張ってもお前のものにはならない』と……身の程を、 その骨の髄まで叩き込んでわからせるために、 私はレオの前でルミを抱き、 独占して見せているのですよ」
その言葉には、 子供相手の手加減など一滴も存在しなかった。
ルミという唯一無二の伴侶を脅かす存在であれば、 たとえそれが実の甥であろうと、 次期国王たる第一王子であろうと、 徹底的に叩き潰し、 絶望の底へ突き落とす。
それがアルヴィーノという男の、 苛烈極まる愛の形だった。
アルヴィーノの、 傲岸不遜極まるその言い分を聞いた瞬間。
「――それだよ!! 僕が言っているのは、 まさにそれなんだ!!」
アルフレッドはついに耐えかねたように、 自身の端正なプラチナブロンドの髪を両手で乱暴にかきむしった。
こめかみを激しい頭痛が襲い、 胃の奥が雑巾のように雑に絞られるような痛みに、 思わずデスクに片手を突いて身体を丸める。
「君がそうやって、 容赦なく圧倒的な格の違いを見せつけるから……! あの一途でプライドの高いレオが、 完全にへそを曲げて、 逆に君のその冷酷さと策謀を学習し始めてしまったんだ! 君の真似をして、 君を越えようとして……あの子は今、 君のような最悪の『化け物』に変貌しようとしているんだよ!?」
善性の王として、 必死に周囲を光で満たそうとしてきたアルフレッド。
だが、 そのすぐ身内では、 最凶の魔王が、 次世代の最凶の策士の牙を、 容赦なく、 愉しげに研ぎ澄まさせている。
「……フン。 私の模倣、 ですか。 結構なことだ」
アルヴィーノは、 兄の頭痛の混じった絶叫すら心地よい音楽のように受け流しながら、 漆黒の手袋をはめた手で自身の顎をなぞった。
「せいぜい足掻けばいい。 あの方がどれほど私に似てこようと、 ルミの心にある『弟』という名の檻は、 決して壊せはしないのですから」
そう言い残し、 アルヴィーノは完璧な一礼とともに、 翻した漆黒の外套の裾を闇に揺らして執務室を去っていった。
静まり返った室内で、 アルフレッドは一人、 深い絶望とともに頭を抱え、 デスクに突っ伏した。
激しい胃痛の中で、 彼は確信していた。
自分の必死の軌道修正も、 弟の容赦のない洗礼も、 すべてはレオという怪物を育てるための極上の「糧」にしかなっていない。
この王宮の平穏な日常の裏側で、 逃げ場のない破滅へのカウントダウンは、 確実に、 じわじわと、 その秒針を進めていた。
