主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

狂愛の檻と、光の揺り籠①

窓から差し込む、蜂蜜色の柔らかな光が床を淡く染めている。
レイストール王国の王妃、エルザの私室は、微かな薔薇の香香と静寂に満たされていた。
しんと静まり返った室内で、規則的に床を揺らすのは、窓際に置かれた木製のロッキングチェアの音だけだ。
きぃ、きぃ、と、どこか子守唄にも似た長閑な旋律が、昼下がりの穏やかな時間を刻んでいる。
エルザは白百合を思わせるしとやかな佇まいのまま、自身の豊かな腹部にそっと両手を添えていた。
プラチナブロンドの髪が陽光を浴びてきらめき、新緑を溶かしたような黄緑の瞳が、愛おしそうにその手元を見つめている。
彼女の胎内には今、新しい命――アルフレッドとの間に授かった、次期国王となるべき幼き光が宿っていた。
その静寂を破ったのは、静かな、けれどどこか楽しげな足音だった。

「――エルザ様」

開かれた扉の隙間から、とことこと、小さな足取りで現れたのはルミだった。
水色の長い髪をふわりと揺らし、いつもの白いロリータ服を纏った彼は、まるで絵画から抜け出してきた妖精のように可憐だ。
かつて研究所という名の暗闇に心を囚われていた少年は、第二王子アルヴィーノという「主」であり「伴侶」である男の手によって救い出され、今ではこうして王宮の陽だまりの中にいる。
ルミは室内の穏やかな空気を壊さないよう、少しだけ歩幅を狭めながら、エルザの座る椅子の傍らへと歩み寄った。
その瑞々しい水色の瞳は、まっすぐにエルザの大きく膨らんだお腹へと向けられている。
不思議なものを見るような、それでいてどこか恐れ多いものを見るような、純粋な眼差しだった。
エルザの真横で立ち止まると、ルミは首を少し傾げ、 零れるような声で尋ねた。

「あの……赤ちゃん、いつ生まれるの?」

その問いに、エルザはふっと慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
細い指先で愛おしそうにお腹の曲線をなぞりながら、歌うような優しい声音で応じる。

「もうすぐですよ、ルミさん。あとひと月もすれば、きっとこの世界に元気な産声をあげてくれます」
「もうすぐ……」

ルミは、ほう、と小さく息を漏らした。
彼の細い指先が、自身の服の裾をきゅっと握りしめる。
何かを言いたそうに、けれど躊躇うように、視線がお腹とエルザの顔の間を何度も往復した。
その様子があまりにも愛らしく、エルザはただ静かに彼の次の言葉を待った。
やがて、ルミは意を決したように、上目遣いで小さな声を絞り出す。

「……お腹、撫でても、いい……?」

それは、かつて他者に触れられることを「痛み」や「実験」としてしか知らなかった彼だからこその、 壊れ物を扱うかのような遠慮がちな願いだった。
今でこそアルヴィーノの深い溺愛によって愛を知ったルミだが、生命の神秘の塊のような妊婦の身体に触れることには、本能的な畏怖があるのだろう。
エルザはそんなルミの心を透かすように見つめると、いっそう目元を和らげて頷いた。

「ええ、もちろん。どう。この子もきっと、あなたに触れてもらえるのを喜んでくれると思いますよ」
「ありがと……」

許可を得たルミは、そっと膝をつくようにしてロッキングチェアの前にしゃがみ込んだ。
息を詰め、 震える手をお腹へと伸ばす。白く、 まだどこか幼さの残る指先が、エルザの衣服越しにその膨らみへと触れた。
その瞬間、ルミの瞳が大きく見開かれた。

「あ……」

手のひらから伝わってくるのは、確かな、そして圧倒的な「熱」だった。
ドク、ドク、と、力強く刻まれる小さな鼓動の響き。それだけではない。
ルミの手のひらを押し返すように、内側から小さな命が、確かに動いたのだ。

「動いた……! 今、ぽこって、中から……」

ルミは感嘆の声を漏らし、溢れんばかりの驚きと感動に胸を震わせた。
その水色の瞳が、まるで満天の星を映したかのようにきらきらと輝き出す。
かつて死の世界に片足を突っ込んでいた自分が、今、こうして新しい命が誕生しようとする瞬間に立ち会っている。
その奇跡の重みに、ルミはただただ圧倒されていた。
何度も、何度も、壊れ物を慈しむように優しく、けれどその確かな温もりを確かめるように、小さな手でお腹を撫で続ける。
そんなルミの横顔を、エルザは深い情愛の籠もった眼差しで見つめていた。
無邪気に、そしてこれ以上ないほど優しい手つきで我が子を撫でる小さな少年。
彼のその純粋な魂は、どれほど過酷な過去を経ても汚されることはなかったのだと、エルザは改めて知る。
ふと、エルザの脳裏に、これから生まれてくる我が子の未来が浮かんだ。
王位を継ぐ者として、いつか多くの重責を背負うことになるであろう我が子。
その子の傍に、この純粋で優しい光がいてくれたなら、どれほど救われるだろうか。
エルザは揺り椅子を静かに止め、しゃがみ込むルミの、水色の髪をそっと撫でた。
ルミが不思議そうに顔を上げると、エルザは彼を包み込むような、けれど王妃としての優雅な芯の強さを秘めた声で、こう問いかけた。

「――ルミさん。この子が生まれたら、あなたはこの子の『お兄ちゃん』になってくれますか?」
「お兄ちゃん……?」

ルミは、その言葉の意味を反芻するように瞬きをした。
「従者」でもなく、「客人」でもなく、家族として、兄として、この命に寄り添ってほしいというエルザの願い。
この温かな昼下がり、二人の間で交わされた静かな約束だった。



あの日、王妃の私室で交わされた静かな約束から、数年の歳月が流れた。
かつてエルザの胎内で小さな鼓動を刻んでいた命は、レイストール王国に新たな希望をもたらす第一王子レオ・レイストールとして、この世に生を受けた。
その姿は、父親である国王アルフレッドから受け継いだ、陽光を溶かし込んだような美しいプラチナブロンドの髪と、母親エルザから受け継いだ、瑞々しい新緑のような深みのある緑の瞳を持っていた。
生まれながらにして王族の気品を纏いつつも、まだあどけなさの残る、誰もが目を細めるような愛らしい「光の王子」だった。
そんなレオにとって、世界の誰よりも特別で、大好きな存在がいた。

「ルミにぃ! 待って、置いていかないで!」

よく晴れた昼下がり。
王宮の広大な庭園に、幼くも元気な高い声が響き渡る。
色とりどりの薔薇が咲き誇る生垣の迷路を、小さな体で一生懸命に駆けていくのは、数歳になったレオだった。
その視線の先には、水色の長い髪をなびかせ、白いロリータ服の裾を軽やかに翻して走るルミの姿がある。

「あはは! レオ、こっちだよ! ほらほら、捕まえてごらん?」

振り返ったルミの笑顔は、数年前と変わらず無邪気で、 陽だまりのように温かい。
ルミはエルザとの約束をずっと大切に守っていた。
レオが生まれたその日から、彼は完璧な「お兄ちゃん」として、この小さな王子にありったけの愛情を注いできたのだ。
研究所の暗闇を知るルミにとって、レオの存在は、自分が「誰かを守る立場になれた」という純粋な喜びの象徴でもあり、何より大切な、可愛い弟だった。

「も、もうすぐ捕まえます……っ、待って、ルミにぃ!」

レオは小さな息を切らしながらも、新緑の瞳をきらきらと輝かせ、ルミの後ろ姿をまっすぐに見つめていた。
どこへ行くにも、何をするにも、レオはルミの後を追った。
勉強の合間も、食事のあとも、少しでも隙があれば「ルミにぃ!」と笑顔で駆け寄り、その白い衣服の裾を小さな手できゅっと握りしめる。
レオにとってルミは、優しくて、格好良くて、自分をいつでも一番に甘えさせてくれる、自慢の頼れるお兄ちゃんなのだ。
ザザッ、と芝生を蹴る音がして、ルミがわざと速度を落とす。

「あ、捕まえた……!」

レオが小さな両手を伸ばし、ルミの腰のあたりに勢いよく飛び込んだ。
「うわっと!」と声をあげながら、ルミはレオの小さな身体をしっかりと受け止め、そのまま二人で青々とした芝生の上をごろりと転がった。

「やった……捕まえ、ました! ルミにぃの負けです」

ルミの胸に顔を埋めたまま、レオは嬉しそうに、くすくすと喉を鳴らした。
鼻腔をくすぐるのは、いつもルミから漂う、甘く優しいお日様のような香り。
背中に回されるルミの手の温もりが、レオの幼い心をこれ以上ないほどに満たしていく。

「参ったな、レオは足が速くなったねぇ。すぐ追いつかれちゃうや」

ルミは芝生に寝転んだまま、腕の中の愛らしい「弟」のプラチナブロンドの髪を、 慈しむように優しく何度も撫でた。
ルミにとっては、どこまでも純粋で、守るべき可愛い弟。
自分がそうしてもらったように、この光の中で、健やかに、真っ直ぐに育ってほしいと願う対象。
ルミに頭を撫でられながら、レオは満面の笑みを浮かべて、その水色の瞳を純粋に見つめ返した。

「えへへ、私、もっと大きくなって、ルミにぃみたいに強くて優しいお兄ちゃんになります!」
「そっか。レオなら、きっと素敵な王子様になれるよ」
「はい! だから、これからもずっと一緒にいてくださいね、ルミにぃ!」

まだ世界の暗い部分も、胸を締め付けるような執着の痛みの名前も知らない。
ただただ、大好きなルミにぃの隣にいられることが嬉しくてたまらない、純粋無垢な弟。
どこまでも平穏で、 ほわほわとした幸福に満ちた庭園の昼下がり。
二人の間には、濁りのない温かな空気だけが優しく流れていた。


陽光が降り注ぐ庭園で、二人の笑い声は絶えることがなかった。
追いかけっこが終われば、今度はシロツメクサを摘んで指輪を作ったり、色鮮やかな蝶を追いかけたり。
ルミはレオの目線に合わせて一緒にしゃがみ込み、レオが何かを見つけるたびに「すごいね、レオ!」と一緒に目を輝かせて喜んだ。
そんな二人を、少し離れた回廊から見守る侍女や衛兵たちは、誰もが目を細めて笑みを交わし合っていた。

「まるで、本物のご兄弟のようですね」
「ええ。お優しくて可憐なルミ様と、健やかなレオ殿下……本当に絵になるお二人だわ」

周囲のそんな囁きなど耳に入らない様子で、レオはルミとの時間を全身で楽しんでいた。
けれど、ひとしきり遊び疲れて、大きな木陰のベンチで並んで涼んでいた時のことだ。
レオはふと、隣に座るルミの衣服に目を留めた。
ルミがいつも着ているのは、雪のように白く、幾重にも重なったレースやフリルが揺れる、ふわふわとした可憐なロリータ服だ。
幼いレオも、自分が着ている仕立ての良い上質な少年服や、父アルフレッドが纏う格式高い王族服との違いはよく分かっていた。
同じ「男の子」のはずなのに、どうしてルミにぃはいつも、女の子のドレスのようなお洋服を着ているのだろう。
純粋な疑問を抱いたレオは、新緑の瞳をきょとんと丸めて、ルミの袖を小さく引いた。

「ねえ、ルミにぃ。どうしていつも、その白くてふわふわなお洋服を着ているのですか?」
「えっ?」

不意の質問に、ルミは水色の瞳をぱちくりとさせた。
それから、自分の服の裾を両手で少し持ち上げると、どこか気恥ずかしそうに頬をぽっと赤く染めた。
けれど、その表情には隠しきれない喜びと幸福感が満ち溢れている。

「えへへ……あのね、この服はね、すっごくかっこよくて大好きな人が、俺に『可愛い』って言ってくれるお洋服なんだ。だから、大好きなお洋服なんだよ」

そう言って、はにかむように、けれど世界で一番愛おしいものを思い浮かべるように優しく笑った。
その瞬間だった。
ルミの、花が咲くような眩しい笑顔を見たレオの胸の奥が、ドクン、と大きく跳ね上がった。

(……かわいい)

息を呑み、ルミの顔から目が離せなくなる。
じわりと胸の奥が熱くなり、トクトクと速くなる鼓動の音が耳の奥まで届くようだった。
まだ数歳の、幼い子供であるレオには、この胸の高鳴りが何なのか、名前も理由も分からない。
ただ、目の前で愛らしく微笑むルミにぃが、世界の何よりも特別で、綺麗で、目を奪う存在に思えた。
同時に、レオの小さな胸に、ひとつの強い願いが芽生える。

「……私、かっこよくなりたいです!」

レオはぎゅっと小さな拳を握りしめ、ルミの瞳を真っ直ぐに見つめて宣言した。

「ルミにぃに『可愛い』って言ってくれるその人みたいに……私、もっともっとかっこよくなって、ルミにぃに『かっこいい』って言われるようになりたい!」

ルミに認められたい。
その瑞々しい水色の瞳に、自分だけを映してほしい。
そんな無垢で、けれど強烈な憧れを口にしたレオを見て、ルミは驚いたように目を見張った。
それから、すぐに目元を緩め、「うん、レオならきっと――」と答えようとした、その時だった。
ザッ、と微かな、けれど圧倒的な威圧感を伴う足音が、芝生を踏みしめて近づいてきた。
ギクリとしてレオが振り返ると、そこに立っていたのは、漆黒の軍服を隙なく纏った軍師――アルヴィーノ・レイストールだった。
切れ長の紫の瞳が、冷徹な光を宿したまま二人を見下ろしている。その佇まいは、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるような「慈悲なき軍師」そのものの迫力があった。

「アルヴィーノ様……!」

ルミはベンチから飛び起きると、弾かれたようにその元へと駆け寄った。
公の場であるこの庭園では、決して名前を呼び捨てにはしない。
完璧な主従を演じるための、彼らだけの秘められた約束。
けれど、駆け寄ってくるルミを迎え入れるアルヴィーノの動きには、隠しきれない情愛が滲んでいた。
アルヴィーノは、漆黒の軍服に包まれた逞しい腕で、飛び込んできたルミの細い身体をしっかりと抱きとめる。
その切れ長の紫の瞳は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように和らぎ、どこか優しく、 世界の何よりも愛しいものを見つめる眼差しへと変わっていた。

「アルヴィーノ様、お仕事終わったの?」

アルヴィーノの胸に顔をうずめながら、ルミが嬉しそうに水色の瞳を見上げる。

「ええ。たった今、本日の執務が終わりましたのでね。貴方を迎えに来たんですよ」

アルヴィーノの低い、けれど酷く穏やかな声音がルミの頭上に降る。
彼は大きな手のひらで、ルミの水色の柔らかな髪を、慈しむようにゆっくりと撫で上げた。
ルミはそれが心地よさそうに、えへへと声を漏らして目を細める。
ベンチに取り残されたレオは、その光景をただじっと見つめていた。

(……あ)

小さな胸の奥が、冷たい水に浸されたように、すうっと冷えていくのを感じる。
いつも自分を最優先で甘えさせてくれる、大好きなルミにぃ。
そのルミにぃが、見たこともないような熱い熱を瞳に宿し、頬を染めて、一人の男に身を委ねている。
ルミにぃが言っていた「白くてふわふわなお洋服を可愛いと言ってくれる、大好きな人」。
それが、目の前にいる圧倒的な存在――叔父であるアルヴィーノなのだと、幼いレオの頭の中でもはっきりと繋がった。
レオは声も出せないまま、ごくりと喉を鳴らし、乾いた生唾を飲み込んだ。
敵うはずのない強大な壁を前にしたような、本能的な畏怖が小さな身体を打つ。
すると、ルミの髪を撫でていたアルヴィーノの紫の瞳が、ふっと動いた。
その冷徹な視線が、ルミの背越しに、レオの小さな佇まいを真っ直ぐに捉える。
アルヴィーノは、先ほどのレオの「かっこよくなって、ルミにぃに『かっこいい』と言われたい」という言葉を、すべて聞いていたのだ。
アルヴィーノはルミを片腕でしっかりと引き寄せ、我が物として誇示するようにその腰を抱き直した。
そして、何も知らない幼い甥に向けて、冷酷な軍師としての、あるいは一人の男としての、容赦のない「警告」を告げる。

「レオ殿下。――ルミは私のものですから。貴方がどれほど成長しようと、これだけは変わりませんよ」

その声には、子供相手の冗談など一切排除された、本物の「魔王」の独占欲が乗っていた。
ルミはアルヴィーノに抱きしめられている幸福感で、その言葉の本当の重さに気づかず、「もー、アルヴィーノ様ったら、レオに変なこと言わないで」と困ったように笑っている。
しかし、レオにとっては違った。
叔父から放たれた絶対的な威圧感と、「ルミは私のもの」という冷徹な事実。
それが、まだ幼く純粋だったレオの心に、初めて「奪うための力」への渇望を植え付けた。
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