主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

氷の魔王と虚飾の箱庭⑦

帝国の崩壊、そして全面戦争という苛烈な地獄の幕引きから数日。

ヴァルカニアの灰燼の地を後にし、レイストール王国への帰路を行く王族専用の馬車。
その重厚な車内を支配していたのは、連日の血生臭い狂気とは無縁の、どこまでも静謐で、どこか物悲しい沈黙だった。
車輪が街道の石を踏む規則的な振動と、馬の鼻息だけが、微かに室内に響いている。
長きにわたる緊張の糸が、ようやく、本当に一呼吸つくようにして緩み始めていた。

アルフレッドは、対面の座席に深く背を預け、窓の外を流れる見慣れた故国の緑を見つめていた。
その碧眼には色濃い疲労が刻まれていたが、かつて帝国の謁見の間で見せていた、絶望に押し潰されそうな悲痛さは消え失せている。
新王としての重責、そして外交の破綻という激動の渦を潜り抜けた若き統治者は、自らの国と、そして何より「家族」を守り抜けた事実に、胸の奥で静かに安堵の息を漏らしていた。

アルフレッドの視線が、対面に座る二人へと、そっと向けられる。

そこには、漆黒の軍服のボタンをいくつか外し、いつになく酷使した理性を休ませるように佇むアルヴィーノと、その隣にぴったりと寄り添うルミの姿があった。

ルミの身体には、いまや傷一つ残っていなかった。
アルヴィーノが放った時空属性の禁忌魔導『クロノス・ディストーション』によって、彼の肉体はヴァルカニアの獣どもに触れられる前の、最も清浄な状態へと完全に巻き戻されていた。
バルツァーの爪が食い込んでいた顎の皮膚は滑らかに修復され、引き千切られたはずの水色の長い髪は、元通りの美しい絹糸のような輝きを取り戻して、ルミの華奢な背を優しく覆っている。
紺色の従者服も新調され、かつて人形のように生気を失っていたあの凄惨な少年の面影は、どこにもなかった。

だが――。

「……ルミ」

アルヴィーノの細く切れ長の深い紫の瞳は、まるで、今にも消えてしまいそうな幻影でも見つめるかのように、狂おしいほどの焦燥と心配を孕んでルミの横顔に注がれていた。

「本当に、どこも痛くないですか?……私の魔力が、貴方の身体に悪影響を及ぼしては……? 感覚が鈍くなっている場所や、胸の苦しみは……?……隠さずに、すべて言ってください」

地這うような低い声。
そこには、世界を滅ぼしかけた「魔王」の威厳など微塵もなく、ただ最愛の伴侶を自らの手で傷つけ、失いかけた一人の男の、血を吐くような怯えだけが混じっていた。
手袋を外したアルヴィーノの長い指先が、微かに震えながら、ルミの滑らかな頬へと、恐る恐る触れる。
あの謁見の間で、衆目の目を欺くために自らの拳で叩きのめした、愛しい頬。
その感触を確かめるたび、アルヴィーノの胸の奥では、己への冷酷な嫌悪感と、ルミの心を完全に壊してしまったのではないかという恐怖が、鋭い刃となって今なお心臓を抉り続けていた。
ルミは、頬に添えられた主の大きな手のひらに、自らの小さな手をそっと重ねた。

「大丈夫だよ、アルヴィーノ様」

ルミの声は、あの灰色の要塞で響かせていた無機質な人形のものではなかった。
かつて、二人が私室のなかで深く愛を確かめ合っていた時と同じ、芯のある、どこまでも優しく温かい少年の声だった。
水色の瞳がゆっくりと動き、アルヴィーノの昏く濁った紫の瞳を、正面から真っ直ぐに見つめ返す。

「傷も、痛みもなにもない。アルヴィーノ様の魔法は、俺をとても優しく包んでくれたから。……だから、そんなに哀しい顔をしないで? 俺はここにいるよ。アルヴィーノ様のルミはここにいるよ」

ルミは自らの頭を少し傾け、アルヴィーノの手のひらに甘えるようにすり寄せた。
自らのせいで、アルヴィーノがどれほどの精神的肉刑を己に課しているか、ルミには痛いほど分かっていた。
自分を傷つけた瞬間の、あのバラバラに引き裂かれそうだった魔王の魂。
その傷を癒せるのは、生き残った自分自身の温もりだけなのだと、ルミは理解していた。

「……貴方が、あの場で一切の抵抗を止め、私にその命を委ねた時。私の心臓は止まるかと思ったんですよ」

アルヴィーノは、ルミの細い身体を、引き寄せるようにしてその強固な腕のなかに抱きすくめた。
馬車の中という、兄の目がある場所であることすら、今の彼にはどうでもよかった。
ただ、その腕の中に確かに存在する確かな質量と、柔らかな体温だけが、彼の狂いかけた理性を現実へと繋ぎ止める唯一の錨だった。

「二度と、私の前でされるがままに傷つかないで。……どのような策があろうとも、貴方が血を流す盤面など、私は二度と認めませんから」
「うん。……でも、俺を助けてくれるって、信じてたから怖くなかったよ」

ルミは、アルヴィーノの漆黒の軍服の胸元に顔を埋め、その心地よい衣擦れの音と、ドス黒い殺意の消え去った穏やかな心音を聴きながら、静かに目を閉じた。
そんな二人の様子を、アルフレッドはただ黙って、温かい眼差しで見守っていた。
王としての冷徹な仮面を脱ぎ捨て、ただの「兄」に戻ったアルフレッドの口元に、微かな、本当に心からの笑みがこぼれる。
一時はどうなることかと思った。
弟が完全に理性を失い、世界を敵に回して暴走する未来すら覚悟した。
だが、ルミという少年の持つ、底知れぬ「覚悟」と「信頼」が、魔王の狂気を勝利のための刃へと変え、彼らをこの光ある場所へと連れ戻してくれたのだ。

「……アルヴィーノ、ルミくん」

アルフレッドが、低く、穏やかな声で二人に呼びかけた。

「国に戻ったら、しばらく二人には長い休暇を与えるよ。王城の喧騒から離れて、誰の目も届かない静かな静養地で、ただ二人だけの時間を過ごすといい。……今回の旅で、君たちにはあまりにも重い、残酷な役割を背負わせてしまったからね。これは、僕からの、王としてのせめてもの感謝と、兄としての詫びだ」

アルフレッドの言葉に、アルヴィーノはルミを抱きしめたまま、ただ無言で一度だけ深く頷いた。
馬車は、西日に照らされたレイストール王国の美しい街道を、ただひたすらに進んでいく。
かつて血の海に塗れ、主従という欺瞞の枷のなかで互いを削り合っていた二人の魂は、いま、故国の温かい光のなかで、静かに、そして誰にも侵されぬ強固な絆を以て癒されようとしていた。
長い、本当に長い夜が、ようやく明けたのだ。


長く過酷な旅路の果てに、馬車は住み慣れたレイストール王国の王城へと滑り込んだ。
出迎える騎士や文官たちの喧騒を、アルヴィーノは一切の感情を排した冷徹な顔で切り捨て、王への復命も最低限に済ませた。
新王アルフレッドも、弟の内に燻る切迫した気配を察し、それ以上の引き留めはしなかった。
城の最奥にある、アルヴィーノの私室。
重厚な黒檀の扉が閉まり、内側から厳重な結界の術式が発動した瞬間、室内に張り詰めていた空気が、音を立てて瓦解した。

「……やっと、帰ってきましたね」

アルヴィーノが低く呟く。
その声には、大陸の覇権を揺るがす全面戦争を指揮した時ですら見せなかった、深い、底無しの疲弊が滲んでいた。
彼は漆黒の軍服の上着を乱暴に脱ぎ捨てると、部屋の中央で立ち尽くしていたルミの元へ、一歩で距離を詰めた。
そして、掠め取るような激しさで、その華奢な身体を両腕の中に強く、強く抱きすくめた。

「アルヴィーノ、……っ?」

ルミの口から、驚きと戸惑いの混じった小さな吐息が漏れる。
だが、アルヴィーノはその細い背中に回した腕の力を、緩めようとはしなかった。
衣服が擦れる音だけが、静まり返った私室に響く。
帝国の件があってから、アルヴィーノはルミから一歩も離れようとしなかった。
王城の廊下を歩く時も、自室へ戻るまでの僅かな時間も、常にルミの気配を自身の魔力の届く最短距離に置き、その存在を皮膚の感覚すべてで監視し続けていた。
それは、最愛の伴侶を自らの手で打ちのめし、戦火の中で危うく失いかけた男が陥った、狂気的なまでの強迫観念だった。

「どこにも……私の目の届かない場所へ、一寸たりとも動くことは許しません」

ルミの項(うなじ)に顔を埋めたアルヴィーノが、地這うような声で囁く。
彼の長い指先が、ルミの水色の髪を狂おしげに梳き、その滑らかな首筋や顎の皮膚を、まるで傷の痕跡を一つ一つ確かめるように、執拗に愛撫した。
時空の禁術によって、ルミの肉体は完璧に修復されている。
血の滲んでいた顎も、引き千切られた髪も、何一つ損なわれてはいない。
だが、アルヴィーノの脳裏には、冷たい石床に転がされたルミの悲痛な姿と、自らの拳がその肌に触れた瞬間の、おぞましい衝撃の記憶が、焼き付いて離れないのだ。

(私はこの子を、己の手で壊した)

その罪悪感と、もう二度とこの温もりを誰にも触れさせないという独占欲が、魔王の魂を内側から焼き尽くそうとしていた。
ルミは、アルヴィーノの胸に顔を埋めたまま、小さく息を吸い込んだ。
自身の背中を圧迫するほどの強い力。骨が軋むほどの抱擁。
そこに込められた、伴侶の痛々しいほどの怯えを、ルミは誰よりも深く理解していた。

「えへへ……アルヴィーノ、もう離さないでね?」

ルミの血色の戻った唇から、微かな本音が溢れた。
帝国にいた頃の、あの感情を殺し尽くした「有能な道具」の仮面は、もうどこにもない。
アルヴィーノの香りと体温に包まれるなかで、ルミの心は、完全にひとりの『伴侶』としての、熱い脈動を取り戻していた。
衆目の前で、冷酷な主従を演じ続けなければならなかった地獄の数週間。
痛くても声を上げず、どれほど愚弄されても「人形」でいようとしたのは、全てはアルヴィーノを勝利させるためだった。
けれど、もう、その欺瞞の芝居は必要ない。
ここは誰の目もない、二人だけの城なのだ。
ルミは、ぎゅっとアルヴィーノのシャツの背中を、自らの細い指先で掴み返した。

「アルヴィーノ。俺は、ここにいるよ。アルヴィーノの目の前に、ちゃんと生きて、アルヴィーノのことだけを想って、ここにいるからね」

ルミはゆっくりと顔を上げ、潤んだ水色の瞳で、主の深い紫の瞳を見つめた。

「だから、もう自分を責めないで……。あの時、俺を叩いたアルヴィーノの手が、どれほど震えていたかわかってるから。俺を守るためにどれほどの地獄を耐えてくれたか、全部、わかってるから……ね?」

その言葉は、アルヴィーノの頑なな心を溶かす、唯一の救いの雨だった。
アルヴィーノの紫の瞳が、激しい感情の波に揺れる。彼は吸い寄せられるように顔を近づけ、ルミの血色の良い唇へと、深く、貪るような口づけを交わした。
それは、数週間の渇きと、互いを求め合う狂おしい情熱の全てを注ぎ込むような、濃厚な接吻だった。
ルミは、されるがままにその口づけを受け入れ、アルヴィーノの首に細い腕を絡ませた。
主の舌が、自らの口内を、支配を誇示するように 蹂躙していく。息が詰まるほどの熱量。
けれど、その強引ささえも、いまのルミにとっては、自分が確かに彼の伴侶として愛されているという、揺るぎない証明だった。

「ルミ……私だけの、愛しいルミ……」

唇が離れた瞬間、アルヴィーノはルミの身体を横抱きにすくい上げ、部屋の奥にある、豪奢な天蓋付きのベッドへと運んだ。
シーツの上に下ろされたルミの身体を、アルヴィーノはすぐさま自らの体躯で覆い隠す。
その瞳には、もはや軍師としての冷徹な理数など存在しなかった。
あるのは、一人の少年を生涯かけて狂愛し、独占し尽くそうとする、獣のような情欲と、溢れんばかりの溺愛の光だけだった。

「今夜は、一睡も眠らせません。貴方の身体の隅々まで、私の愛だけで塗り潰します」
「……うん。来て、アルヴィーノ」

ルミは、ベッドに広がる自らの水色の髪を揺らしながら、妖艶に、けれどどこまでも純粋な微笑みを湛えて、最愛の魔王を受け入れた。
外の世界でどれほどの血が流れ、歴史が覆ろうとも、この私室のなかだけは、二人だけの絶対の聖域。
主従という偽りの枷を脱ぎ捨てた二人は、互いの肌を、魂を、飽くることなく求め合い、血の滲むような長い夜の終わりを、濃厚な愛の営みのなかで深く、深く、分かち合っていくのだった。
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