主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

氷の魔王と虚飾の箱庭⑤

両国の重鎮が一堂に会する謁見の間は、凍てつく沈黙に支配されていた。

ヴァルカニア帝国が提示する条件は、前回にも増して不条理を極めていた。
新王アルフレッドがどれほど言葉を尽くし、理路整然と反論を述べても、皇帝をはじめとする帝国の将星たちは、鼻で笑うばかりで聞く耳を持たない。
進捗など微塵もない、不毛な時間がただ重苦しく流れていく。
その王座の傍らで、宰相バルツァーは細い目をさらに細め、退屈を装いながらも、獲物を狙う鷹の眼差しでその瞬間を待っていた。

対話の席の数歩後ろ。
アルヴィーノの「影」として直立するルミの意識は、すでに限界を迎えていた。
連日の過酷な環境と、耳に残り続ける悲鳴。
そして、自らを「無機質な人形」へと追い込み続けた精神的肉刑は、少年の華奢な肉体から確実に自由を奪っていた。
水色の瞳には、未だ一片の光も戻らない。
ただ、主の命に従うためだけに、辛うじてその場に立ち尽くしているにすぎなかった。

その時、バルツァーの合図を受けた給仕の兵が、音もなく動いた。
兵は、アルフレッドとアルヴィーノの前に、帝国特有の沸騰した熱い香油の入った重厚な銀杯を運ぶ。
その際、兵はわざとらしく足を縺れさせ、隣に控えていたルミの身体へと強くぶつかった。

「――っ」

生気を失っていたルミの身体が、不意の衝撃に大きく揺らぐ。
次の瞬間、兵の持っていた銀杯が傾き、沸き立つ熱油が激しい音を立てて机上へ、そしてあろうことか、アルフレッドの広げていた重要書類の束へと派手にぶちまけられた。
ジジュウ、と不気味な音を立てて、国家の機密が記された羊皮紙が黒く焼け焦げていく。

「何をするか、不調法者が!」

ぶつかった兵が、即座にルミを指差して怒号を上げた。

「そこのレイストールの従者が、私を突き飛ばしたのです! 皇帝陛下と新王閣下の御前で、なんと大不敬な……!」

一瞬にして、謁見の間の空気が爆発的な殺気へと変わる。
すべてはバルツァーの描いた絵図通りだった。
公の場で、主人の顔を完全に泥塗りにする「致命的な失態」。
ヴァルカニアの法において、主の外交を妨害した従者の罪は、その場での即座の死罪、あるいはそれ以上の惨刑を意味する。

「ほう……」

玉座の皇帝が、底知れぬ愉悦を孕んだ声を漏らした。
バルツァーが、待ってましたとばかりに一歩前へ出る。

「アルヴィーノ殿下。我が国において、主の外交を汚した道具の処遇は一つ。……貴殿が『慈悲なき魔王』であるならば、この場でその無能な首を撥ねるのが、当然の規律ですな? それとも……何か、あの一介の玩具を庇う私情でもあるのですかな?」

バルツァーの言葉は、完璧なチェックメイトの宣言だった。
首を撥ねれば、アルヴィーノは最愛の伴侶を自らの手で殺すことになる。
拒めば、ルミへの「狂おしい情」を国内外に証明し、ヴァルカニアに開戦の口実を与えることになる。
どちらを選んでも、待っているのは破滅だった。

ルミは、床に広がる黒い油を見つめたまま、微動だにしなかった。

(ああ、俺のせいで……俺が、また、アルヴィーノを……)

濁った水色の瞳の奥で、絶望だけが静かに深く沈んでいく。
アルヴィーノの脳内は、一瞬にして沸点を超えた。

(殺す。この男を、この部屋を、この国家を、今すぐ全て焼き尽くしてやる)

魔力が、彼の体内で狂ったように咆哮を上げる。
だが、その破壊の衝動の先にある結末を、冷徹な軍師の理数が瞬時に弾き出した。
ここで自分が暴走すれば、戦争が始まる。
そうなれば、レイストールは滅び、ルミを戦火の渦中で守り抜くことは不可能になる。
アルフレッドの守ろうとした全てが瓦解する。

(どうする。どうすれば、この子を殺さずに、奴らの目を欺ける――)

一秒にも満たない刹那の間、アルヴィーノは脳内で何千、何万回もの思考の盤面を巡らせた。
魔法で敵の意識を改竄するか? 不可能だ、皇帝やバルツァーの魔力抵抗をすり抜ける隙はない。
ルミを身代わりにして逃がすか? 逃げ場など、この極北の地にはない。

思考の嵐の果てに、アルヴィーノが行き着いた唯一の、そして最も残酷な最適解。
それはバルツァーの想像を遥かに超える「冷酷さ」を、この場で自ら演じてみせること。

「……言われるまでもない、宰相殿」

アルヴィーノの声が、謁見の間を凍らせた。
その深い紫の瞳には、一切の感情の光が消え失せていた。
アルヴィーノはゆっくりと歩を進め、ルミの前へと立った。
ルミは動かない。
ただ、主の冷たい気配を全身で受け止めている。

「主の顔に泥を塗る道具など、我が軍には不要だ」

次の瞬間、アルヴィーノの漆黒の軍服の腕が、容赦なく振り下ろされた。

――鈍い打撃音が、静寂の間に激しく響き渡る。

手袋に包まれたアルヴィーノの手が、ルミの細い頬を容赦なく殴り飛ばした。
凄まじい衝撃に、ルミの華奢な身体が、まるで折れた人形のように冷たい石床へと激しく転がっていく。

「あ……くっ……」

ルミの口元から、短い苦悶の喘ぎが漏れた。
床に叩きつけられた衝撃で、紺色の従者服が擦れ、数日前の顎の傷が再び弾けて鮮血が床を汚す。
だが、アルヴィーノは手を止めなかった。

「立ち上がれ、人形。まだ私の怒りは収まっていない」

冷徹な言葉と共に、アルヴィーノは床に倒れるルミの髪を乱暴に掴み上げ、無理やりその身体を引き起こした。
水色の長い髪が、アルヴィーノの指に絡まり、ブツブツと千切れる音がする。
かつて、その指先で優しく愛おしそうに撫でてくれた、あの最愛の手。
その手が今、自分の身体を破壊せんばかりの力で痛めつけている。

(痛い……痛いよ、アルヴィーノ……っ)

心の中で、ルミの魂が血を流して泣き叫んでいた。
けれど、ルミは主の紫の瞳の奥を見た。
一切の感情を削ぎ落としたその瞳の、さらにその奥の深淵で、自分を傷つけるたびに、アルヴィーノ自身の魂がバラバラに引き裂かれ、血を吐いて絶叫しているのを、ルミは確かに感じ取った。

(ああ……あなたは、俺を守るために、自分を殺して、これをしているんだね)

その真実に気づいた瞬間、ルミの濁っていた瞳に、一筋の、悲痛なまでに美しい「覚悟」の光が戻った。

「……申し、訳……ございません……アルヴィーノ、様……っ」

ルミは、溢れ出そうになる涙を力ずくで堪え、血に濡れた唇で、完璧な「人形」の謝罪を紡いだ。
アルヴィーノは、ルミをゴミのように床へと投げ捨てた。
軍服の袖の中で、彼の指先は、肉を突き破るほどの力で握りしめられ、血が手袋を真っ赤に染めていた。
自らの手で、世界で最も愛する伴侶を、その身体を、その心を、衆目の前で徹底的に痛めつける。
それは、どのような禁術の代償よりも重く、残酷な肉刑だった。
アルヴィーノは、バルツァーへと冷たい視線を向け、自身の流す血の味を噛み締めながら吐き捨てた。

「この無能の処分は、レイストールに戻った後、我が国の法に基づき、私の手で最も苦痛に満ちた方法で執り行う。……これで満足か、宰相殿。我が国の内政の秩序を、これ以上他国に指図される覚えはない」

凄まじい「魔王」の覇気が、謁見の間を威圧する。
バルツァーは、床に転がる傷だらけのルミと、それを一瞥もせず、徹底的な冷酷さを維持し続けるアルヴィーノの姿に、完全に気圧されていた。
これほどの暴挙を自らの手で行う男が、従者に「狂おしい情」など抱いているはずがない。
バルツァーの描いた邪推の絵図は、アルヴィーノの、自らを傷つけるという狂気的な欺瞞によって、完全に粉砕されたのだ。

「……は、ハハ。さすがは『慈悲なき軍師』。見事な規律の誇示、感服いたしました」

バルツァーは引きつった笑みを浮かべ、それ以上追及することを諦めた。

「――では、対話を続けよう」

二人の前に出たアルフレッドの声が、重々しく響く。
新王の広い背中は、弟たちの流した血のすべてを隠すように、毅然と立ちはだかっていた。
その青い瞳には、悲痛な怒りと、それ以上に、この地獄を必ず終わらせるという強固な決意が滾っていた。
床に伏せたままのルミ。
その斜め前で、完璧な仮面を被り直したアルヴィーノ。
血を流し、魂を削り合いながらも、二人は主従という偽りの枷のなかで、誰にも壊せない永遠の絆を死守してみせた。
怪物の牙城のなかで、彼らの本当の反撃の盤面が、今度こそ静かに動き始めようとしていた。

謁見の間に漂う空気は、もはや交渉の席のそれではなく、宣戦布告を待つだけの戦場のそれへと完全に変貌していた。

国家の威信を懸けた対話は、何一つとして前進せぬまま、最終的な決裂の淵へと叩き落とされようとしている。
ヴァルカニア帝国側は、度重なる理不尽な要求の末に、ついにレイストール王国の主権を公然と踏みにじる最後通牒を突きつけてきた。これ以上の譲歩は、国家の敗北を意味する。

「……これ以上の議論は、無意味だ」

アルフレッドの口から漏れた声は、酷く掠れ、低く沈んでいた。
常に理想を掲げ、平和的な解決を模索し続けた若き統治者の精神は、今や完全に限界を迎えていた。
彼が誇る善性の光は、帝国の底知れぬ悪意に磨り潰され、その碧眼には、絶望と紙一重の、凄絶な決意の炎が宿り始めている。
対話による救いを諦めた王の手が、机の下で静かに拳へと握りしめられた。

だが――その王の背後で佇むアルヴィーノは、とうに限界などという領域を超越していた。

感情を殺し尽くしたはずの「魔王」の仮面。
その内側では、かつてない規模の暗黒の魔力が、狂ったように咆哮を上げ、暴れ狂っていた。
魔力が臨界点を突破し、大気をビリビリと震わせる。
漆黒の軍服の袖の中、自らの爪が肉を裂き、絶え間なく流れ落ちる鮮血が床に小さな点を作っていたが、その激痛すら、彼の脳を焼く狂おしいほどの殺意には遠く及ばない。

視線の先、床に這わされた最愛の伴侶。
自らの手で、衆目の前で殴り飛ばし、その美しい髪を引き千切って床に投げ捨てた、我が魂の片割れ。
アルヴィーノの紫の瞳の奥は、ドス黒い憎悪の沼と化していた。
バルツァーを、皇帝を、この謁見の間にいる全ての獣どもの肉を、骨を、一瞬にして消滅させ、灰すら残さず焼き尽くしてやりたい。
これほどまでの地獄を耐え忍び、政治という名の欺瞞に付き合う意味が、果たしてどこにあるというのか。
彼の理性の鎖は、すでに最後の一節が引き千切られる寸前だった。

その、一触即発の静寂のなか。

「――く、……っ」

かすかな衣擦れの音と共に、床に倒れ伏していたルミが、ゆっくりと、その身体を動かした。
全身に走る激痛に耐え、血に汚れた細い膝を冷たい石床に突き、震える力で身体を押し上げる。
顎の鬱血からは未だに血が滲み、引きちぎられた水色の長い髪が、乱れてその痛々しい頬に張り付いていた。
人間としての尊厳を、主の手によって完全に破壊されたはずの少年。
だが、その立ち上がる動きには、不思議なほどの、そして恐ろしいほどの迷いのなさが宿っていた。
ルミは、一歩、また一歩と、ふらつく足取りで歩を進める。
誰の助けを借りることもなく、ただ自身の「意志」の力だけで。
そして、いつもの定位置――アルヴィーノの数歩後ろ、その漆黒の軍服が落とす「影」の中へと、静かに滑り込んだ。
ルミは、再び真っ直ぐに直立した。
その水色の瞳に、もはや濁りはなかった。
恐怖も、絶望も、全ては遥か彼方の深淵へと削ぎ落とされ、そこにはただ、アルヴィーノという存在だけを映す、凛烈たる「覚悟」の光が燦然と輝いていた。
血に濡れた唇が、アルヴィーノの背中に向けて、声にならぬ言葉を小さく紡ぐ。

(俺は、大丈夫。……だから、アルヴィーノ様、その『刃』を、どうか鈍らせないで)

その微かな、けれど誰よりも強いルミの魂の波動が、アルヴィーノの背中に真っ直ぐに突き刺さった。
瞬間、アルヴィーノの体内で荒れ狂っていた魔力の暴走が、ピタリと、嘘のように静まり返った。
ルミの覚悟が、ルミのその瞳の輝きが、魔王の理性を狂気の一歩手前で繋ぎ止めたのだ。
いや、繋ぎ止めたのではない。
彼の怒りは、ルミを守るための、より深く、より冷徹な「殺意の結晶」へと昇華したのだ。

(ああ、我が愛しい人形よ……。お前がそこまでして我が刃たらんとするならば、私は、どこまでも残酷な主になってやろう)

アルヴィーノはルミを振り返ることはしなかった。
ただ、その紫の瞳の奥に、絶対的な死の宣告を宿し、ゆっくりと前を向く。

そして――。

限界を迎えたアルフレッドが、最後通牒を拒絶すべく、決裂の言葉を口にしようと唇を開いた、まさにその刹那だった。
謁見の間の巨大な鉄の扉が、外側から凄まじい音を立てて爆破され、吹き飛んだ。
白煙と石粉が激しく舞い散るなか、悲鳴を上げる帝国の衛兵たちの間を割って、漆黒の鎧を纏った一団が、怒涛の勢いで雪崩れ込んでくる。
それは、レイストール王国が誇る、アルヴィーノ直属の精鋭魔導騎士団――そして、彼らが掲げる旗印は、交渉の決裂を前提とした、「全面戦争」の開始を告げるものだった。

「――何事だッ!?」

バルツァーが驚愕に目を見開き、叫ぶ。
だが、その声を完全に掻き消すように、アルヴィーノの冷酷な声が、謁見の間全体に響き渡った。

「遅いぞ。……待ちくたびれた」

アルヴィーノは、懐から血に染まった手袋を脱ぎ捨て、それを床へと冷酷に投げつけた。
その指先から、今まで完全に隠蔽されていた、神の領域に等しい圧倒的な魔圧が、一気に解放される。

「交渉はここまでだ、ヴァルカニアの獣ども。……我が王の理想を踏みにじり、我が『道具』を傷つけた代償、その命と国家の崩壊を以て、今すぐ支払ってもらう」

欺瞞の舞台は、今、完全に瓦解した。
影の中から主を支えるルミの冷徹な眼差しを受けながら、魔王はついにその真なる「牙」を剥き出しにし、ヴァルカニア帝国という巨大な怪物を奈落の底へと引きずり下ろすための、凄絶な虐殺の幕を開けた。
105/152ページ