主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
氷の魔王と虚飾の箱庭④
冷徹な夜気が窓を叩く、ヴァルカニア帝国城の深奥。
宰相バルツァーは、蝋燭の火が不気味に揺らめく執務室で、一人机に向かっていた。
手元にあるのは、国境線交渉の進捗を記した書類ではない。レイストール王国の第二王子――「慈悲なき軍師」「魔王」と称されるアルヴィーノ・レイストールに関する、極秘の調査書だった。
「……気に食わん」
バルツァーは低く、地を這うような声で吐き捨てた。手にしたペンが、書類の余白に深い傷を刻む。
連日の外交交渉。
レイストールの新王アルフレッドが理想主義的な対話を試みる裏で、その背後に控えるアルヴィーノは、終始一貫して冷酷な氷の如き佇まいを崩さなかった。
こちらのいかなる揺さぶりにも眉一つ動かさず、ただ絶対的な武力としての覇気を湛えている。
あの男の存在そのものが、ヴァルカニアの強硬な外交戦術を阻む最大の障壁となっていた。
交渉をこちらに有利に進めるためには、まずあの「魔王」の理性を狂わせ、化けの皮を剥ぎ取らねばならない。
「必ずどこかに、綻びがあるはずだ」
バルツァーの老獪な眼光が、書類の一行に留まる。
『国内外からの高貴な令嬢との縁談を、すべて一顧だにせず叩き返している』
そしてもう一つ、城門と練兵場で見せた、アルヴィーノのあの僅かな、しかし確実に空気を凍らせた「魔圧」。
標的は最初から決まっていた。
あの水色の髪をした小柄な従者、ルミ。
「あの魔王が、一介の無能な道具にすぎぬ従者に、そこまで執着するものか……?」
バルツァーの口元に、酷薄な歪みが広がる。
城門でルミの顎を掴み上げた時、そして練兵場で死体の山を見せつけた時。
アルヴィーノは確かに「替えの利く人形」と吐き捨てた。
ルミ自身も「主の御心のままに動く駒」と答えた。
その言葉通り、あの少年は今や完全に恐怖に呑まれ、光を失った人形と化している。
一見すれば、冷酷な主人と、怯える従者。
ヴァルカニアにおいてありふれた、完璧な主従の構図だ。
だが、バルツァーの長年培われた暗い直感が、その「完璧さ」こそが異常だと告げていた。
「完璧すぎる芝居ほど、裏に巨大な欺瞞を隠しているものだ。……ならば、その主従の『秩序』を、内側から徹底的に破壊してやればいい」
ヴァルカニア帝国において、主従の規律は絶対。
主の命令に背くこと、主の顔に泥を塗るような大失態を犯すことは、すなわちその場で「処分」されるべき大罪を意味する。
バルツァーは机の上のベルを静かに鳴らした。
音もなく闇から現れたのは、帝国の暗部に仕える密偵だった。
「次回の交渉の席だ。……あのレイストールの従者に、『致命的な失敗』をさせろ」
バルツァーの声に、残酷な悦びが混じる。
「公の場、両国の重鎮が揃う前で、あの従者が主人の顔を完全に潰すような、取り返しのつかない不手際を犯す。……そうなれば、秩序を重んじる我が国の前で、アルヴィーノ殿下は自らの手で、あの『お気に入り』を即座に処分せねばならなくなる。あるいは、我が国の法に従って、こちらに処刑を委ねるか、な」
もし、アルヴィーノが本当にルミをただの道具だと思っているのなら、何の躊躇いもなくその首を撥ねるだろう。
そうなれば、レイストールは優秀な手足を一つ失い、少なからず動揺する。
だが、もし。
あの冷酷な仮面の裏に、噂通りの「狂おしい情」が隠されているのだとしたら――。
「自らの手で最愛の玩具を殺すか。さもなくば、感情に狂って我が国を敵に回し、大暴走を始めるか」
どちらに転んでも、アルヴィーノの仮面は粉々に砕け散る。
理性を失った軍師など、ヴァルカニアの牙の敵ではない。
アルフレッドの進める外交も、その瞬間に完全に破綻し、主導権はヴァルカニアの手に落ちる。
「せいぜい完璧に演じ続けるがいい、魔王。貴様がその手で、自らの『弱点』を突き殺す瞬間を楽しみにしているぞ」
バルツァーは密偵に短い命令を下し、下がらせた。
再び静寂が戻った執務室で、宰相は昏い笑みを浮かべながら、揺らめく蝋燭の火を見つめていた。
三日後。
両国の運命を賭けた次なる盤面で、何も知らぬ人形に牙が剥かれようとしていた。
その罠が、魔王の絶対的な理性の鎖を今度こそ引き千切るための、悍ましい地獄の引き金になるとも知らずに。
冷徹な夜気が窓を叩く、ヴァルカニア帝国城の深奥。
宰相バルツァーは、蝋燭の火が不気味に揺らめく執務室で、一人机に向かっていた。
手元にあるのは、国境線交渉の進捗を記した書類ではない。レイストール王国の第二王子――「慈悲なき軍師」「魔王」と称されるアルヴィーノ・レイストールに関する、極秘の調査書だった。
「……気に食わん」
バルツァーは低く、地を這うような声で吐き捨てた。手にしたペンが、書類の余白に深い傷を刻む。
連日の外交交渉。
レイストールの新王アルフレッドが理想主義的な対話を試みる裏で、その背後に控えるアルヴィーノは、終始一貫して冷酷な氷の如き佇まいを崩さなかった。
こちらのいかなる揺さぶりにも眉一つ動かさず、ただ絶対的な武力としての覇気を湛えている。
あの男の存在そのものが、ヴァルカニアの強硬な外交戦術を阻む最大の障壁となっていた。
交渉をこちらに有利に進めるためには、まずあの「魔王」の理性を狂わせ、化けの皮を剥ぎ取らねばならない。
「必ずどこかに、綻びがあるはずだ」
バルツァーの老獪な眼光が、書類の一行に留まる。
『国内外からの高貴な令嬢との縁談を、すべて一顧だにせず叩き返している』
そしてもう一つ、城門と練兵場で見せた、アルヴィーノのあの僅かな、しかし確実に空気を凍らせた「魔圧」。
標的は最初から決まっていた。
あの水色の髪をした小柄な従者、ルミ。
「あの魔王が、一介の無能な道具にすぎぬ従者に、そこまで執着するものか……?」
バルツァーの口元に、酷薄な歪みが広がる。
城門でルミの顎を掴み上げた時、そして練兵場で死体の山を見せつけた時。
アルヴィーノは確かに「替えの利く人形」と吐き捨てた。
ルミ自身も「主の御心のままに動く駒」と答えた。
その言葉通り、あの少年は今や完全に恐怖に呑まれ、光を失った人形と化している。
一見すれば、冷酷な主人と、怯える従者。
ヴァルカニアにおいてありふれた、完璧な主従の構図だ。
だが、バルツァーの長年培われた暗い直感が、その「完璧さ」こそが異常だと告げていた。
「完璧すぎる芝居ほど、裏に巨大な欺瞞を隠しているものだ。……ならば、その主従の『秩序』を、内側から徹底的に破壊してやればいい」
ヴァルカニア帝国において、主従の規律は絶対。
主の命令に背くこと、主の顔に泥を塗るような大失態を犯すことは、すなわちその場で「処分」されるべき大罪を意味する。
バルツァーは机の上のベルを静かに鳴らした。
音もなく闇から現れたのは、帝国の暗部に仕える密偵だった。
「次回の交渉の席だ。……あのレイストールの従者に、『致命的な失敗』をさせろ」
バルツァーの声に、残酷な悦びが混じる。
「公の場、両国の重鎮が揃う前で、あの従者が主人の顔を完全に潰すような、取り返しのつかない不手際を犯す。……そうなれば、秩序を重んじる我が国の前で、アルヴィーノ殿下は自らの手で、あの『お気に入り』を即座に処分せねばならなくなる。あるいは、我が国の法に従って、こちらに処刑を委ねるか、な」
もし、アルヴィーノが本当にルミをただの道具だと思っているのなら、何の躊躇いもなくその首を撥ねるだろう。
そうなれば、レイストールは優秀な手足を一つ失い、少なからず動揺する。
だが、もし。
あの冷酷な仮面の裏に、噂通りの「狂おしい情」が隠されているのだとしたら――。
「自らの手で最愛の玩具を殺すか。さもなくば、感情に狂って我が国を敵に回し、大暴走を始めるか」
どちらに転んでも、アルヴィーノの仮面は粉々に砕け散る。
理性を失った軍師など、ヴァルカニアの牙の敵ではない。
アルフレッドの進める外交も、その瞬間に完全に破綻し、主導権はヴァルカニアの手に落ちる。
「せいぜい完璧に演じ続けるがいい、魔王。貴様がその手で、自らの『弱点』を突き殺す瞬間を楽しみにしているぞ」
バルツァーは密偵に短い命令を下し、下がらせた。
再び静寂が戻った執務室で、宰相は昏い笑みを浮かべながら、揺らめく蝋燭の火を見つめていた。
三日後。
両国の運命を賭けた次なる盤面で、何も知らぬ人形に牙が剥かれようとしていた。
その罠が、魔王の絶対的な理性の鎖を今度こそ引き千切るための、悍ましい地獄の引き金になるとも知らずに。
