主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
氷の魔王と虚飾の箱庭③
数時間に及ぶ最初の対話が幕を閉じ、レイストール一行は、ヴァルカニア帝国側があてがった客室へと引き揚げることを許された。
案内されたのは、城の西翼にある一画。
やはり無機質な石壁に囲まれた、歓迎とは程遠い冷え切った部屋だった。重厚な鉄の扉が閉まり、背後でカチャリと鍵の閉まる音が響く。
一応の「私室」という形にはなったものの、アルフレッドが馬車内で警告した通り、この部屋の壁の裏、あるいは窓の向こうにどれほどの監視の目が潜んでいるかは分からない。
ここはまだ、敵の胃袋の中だった。
「……一回目でこれか。やはり一筋縄ではいかないね」
アルフレッドが、外套のボタンを外しながら低く呟いた。
その碧眼には、激しい外交交渉による疲労と、それ以上に、一触即発の危機を潜り抜けたことへの張り詰めた緊張感が残っている。
「長期戦になる。先方はこちらの譲歩を引き出すために、意図的に時間を引き延ばす構えだ。少なくとも、数週間はこの息の詰まる城に残留することになるだろう」
「……」
アルヴィーノは応えなかった。
漆黒の軍服を纏ったまま、部屋の中央で峻烈な佇まいを崩さない。
その瞳は、部屋の隅々に隠された『隙』を警戒するように鋭く光っていたが、その意識の全ては、やはり自身の斜め後ろに控える少年に向けられていた。
ルミは、部屋に到着した瞬間から、一切の淀みなく「従者としての業務」を開始していた。
「陛下、アルヴィーノ様。お召し物をお預かりいたします」
その声は、驚くほど平坦で、静かだった。
先ほど謁見の間で、皇帝の目前で乱暴に床に叩きつけられたことなど、まるで無かったかのように。
しかし、その身体は確実に傷ついていた。
きっちりと着込まれた紺色の従者服は、床に擦れた拍子に肘のあたりが薄く擦り切れている。
何より、バルツァーの無礼な指先によって掴み上げられた顎の皮膚は、赤黒く鬱血し、爪が食い込んだ痕から微かに血が滲み出ていた。
乱暴に引きちぎられるように引っ張られた水色の長い髪は、いくつかの毛束が不自然に乱れ、頭皮には今なおズキズキとした激痛が走っているはずだった。
「ルミ、くん……」
アルフレッドが、痛ましさに耐えかねたように声を漏らす。
だが、ルミはそれを遮るように、美しく、完璧な角度でお辞儀をしてみせた。
「お気になさらないでください、陛下。この程度の汚れ、従者の仕事にはつきものです。……すぐに、お着替えの準備と、温かいお茶をご用意いたします。ここの水頭を確認してまいりますので、少々お待ちください」
痛むはずの身体を健気に動かし、ルミは部屋に備え付けられた洗面台へと向かう。
紺色の手袋に包まれた手で重い水瓶を持ち上げ、主たちのために、ただ黙々と、機械のように動き続ける。
顎の傷が衣服の襟に擦れるたび、ルミの端正な眉がピクリと微かに跳ねた。
けれど、彼は決して痛みの声を漏らさない。
溜息一つ、弱音一つ吐き出さない。
(俺は、道具。何があっても、アルヴィーノ様の邪魔をしない、有能な駒……)
ルミは自分自身に冷酷な暗示をかけ続けていた。
ここで自分が傷を気にして痛がれば、アルヴィーノは再びあの狂おしいほどの怒りに身を焦がすことになる。
彼の理性を揺るがし、その「刃」を鈍らせてしまうことだけは、何としても避けなければならなかった。
だからこそ、ルミは傷だらけの身体の悲鳴を無視し、完璧な従者として振る舞うことにその魂の全てを注ぎ込んでいた。
洗面台の前で背を向けるルミの姿を、アルヴィーノはただじっと見つめていた。
その胸のうちは、ドス黒いマグマのような歯痒さと、己への嫌悪感で満たされていた。
攻撃魔法を極め、禁術である極大魔法すら詠唱なしに放てる己が。
ある時を境に、治癒魔法はおろか、死者をも蘇らせる禁術『蘇生魔法』すらその手に掌握したこの私が。
目の前で傷つき、健気に見えない血を流している最愛の伴侶を、癒してやることすらできない。
(今すぐ、その傷を消し去ってやりたい)
アルヴィーノの指先が、軍服の袖の中で微かに動く。
彼の魔力をもってすれば、ルミの顎の鬱血も、頭皮の痛みも、一瞬で、跡形もなく消し去ることができる。
だが、それはできなかった。
もし今、この部屋に仕掛けられた監視の目、壁の隙間から覗く密偵や、魔力感知の結界が、アルヴィーノが従者の傷を『禁術』や高度な治癒魔法で治療したことを察知すれば、すべては破綻する。
「やはり、あの従者は特別だ」と、ヴァルカニアの獣たちに確信を与えることになる。
この残留期間中、どれほどルミが傷つこうとも、アルヴィーノはそれを冷酷に無視し続けなければならない。
それが、この欺瞞の舞台を生き抜くための、絶対のルールだった。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、弟の肩にそっと手を置いた。
その手には、これ以上の魔力の高まりを抑え込もうとする、兄としての、そして王としての制止の力が込められていた。
「……分かっています」
アルヴィーノは低く、地這うような声で応えた。
その紫の瞳は、これ以上ないほどに冷たく、そして昏く濁っている。
彼はゆっくりと、ルミから視線を外した。
最愛の者を守るために、その傷を無視するという最大級の『残酷』を、アルヴィーノは己自身に課した。
「ヴァルカニアの連中がこちらの動揺を誘うために、今後さらに過激な手段に出てくる可能性は高い。……ルミを道具として扱う『芝居』は、これからが本番だ」
「ああ。僕も、君たちを信じるしかない。……絶対に、隙を見せるな」
アルフレッドの言葉に、アルヴィーノは無言で頷く。
部屋の奥では、ルミが用意した冷え切った水で、自身の汚れた顔を静かに拭っていた。
水色の瞳が、鏡に映る自身の傷を見つめる。
心を通わせた後に彼から注がれた、あの溢れるほどの溺愛の温もり。
それをこの胸の奥に深く、深く隠し固め、ルミは再び振り返った。
「お待たせいたしました。陛下、アルヴィーノ様」
完璧な従者の微笑みを湛えた少年と、感情を殺し尽くした魔王。
数週間に及ぶであろう、ヴァルカニア帝国での長い長い夜が、二人の血の滲むような欺瞞を乗せて、静かに更けていく。
◆
ヴァルカニア帝国に足を踏み入れてから、瞬く間に数日が経過した。
国境線を巡る交渉は、遅々として進まない。
帝国の提示する条件は常に強硬であり、時に挑発的ですらあった。
こちらの譲歩を引き出すために、意図的に議論を紛糾させ、時間を引き延ばす戦術――それは、新王アルフレッドの精神を確実に削り取っていった。
あてがわれた客室に戻るたび、アルフレッドは机に両肘を突き、深く、重い溜息を漏らす。
朗らかだった碧眼には色濃い疲労の影が刻まれ、対話による解決を信じる彼の善性は、この灰色の要塞のなかで絶え間ない試練に晒されていた。
一方、ヴァルカニアの仕掛けは、外交の席だけには留まらなかった。
「――どうですかな、アルヴィーノ殿下。我が帝国の、誇るべき『力の根源』は」
吹き抜ける寒風が、鼻を突く血と鉄の匂いを運んでくる。
アルヴィーノは、宰相バルツァーの案内に従い、帝国の広大な練兵場を見下ろす回廊に立っていた。
その漆黒の軍服は、極北の冷気を受けてなお、微塵の揺らぎも見せない。
彼の斜め後ろには、あの深い紺色の従者服を纏ったルミが、影のように静かに控えていた。
数日前の傷は、手当てもされぬまま薄黒い痛々しい痕となり、彼の細い顎に残っている。
見下ろす視界の先で繰り広げられていたのは、鍛錬という名の「虐殺」だった。
上半身を剥き出しにした兵士たちが、凍てつく地の上で、互いの肉体を刃で切り刻み合っている。
響くのは、怒号と肉が裂ける鈍い音。
そこには、技術を磨くための手加減など存在しない。
一歩足を踏み外せば、即座に死へと直結する実戦そのものの狂気が、そこらを支配していた。
「我が国において、兵とは国家を動かすための最も頑強な『歯車』。歯車に感情など不要。必要なのは、命令に従い、敵を噛み砕く硬度のみ」
バルツァーは自慢げに顎をしゃくり、練兵場の隅を指差した。
そこには、過酷な鍛錬に耐え切れず、あるいは脱落して命を落とした兵士たちの死体が、まるで不要になった瓦礫のように無造作に積み上げられていた。
冷え切った泥に塗れ、白目を剥いた死体の山。
その傍らでは、わずかな型の手落ち、あるいは動きの鈍さを露呈した者が、上官から容赦のない折檻を受けている。
太い鞭が振るわれるたび、背の肉が弾け飛び、凄惨な悲鳴が回廊にまで届いた。
「ひっ……」
ルミの喉の奥から、押し殺した小さな引き攣りが漏れかけた。
必死に奥歯を噛み締め、それを自らの肺腑へと押し戻す。
目の前に広がる光景は、数日前に聞いた悲鳴、そして、かつて自分が囚われていた研究所の「廃棄場」そのものだった。
使えなくなった実験体を、名前すら呼ばずに処理していたあの地獄。
ルミの透き通るような水色の瞳が、恐怖と嫌悪に激しく揺れる。
紺色の手袋に包まれた両手が、衣服の裾を千切れんばかりに握りしめ、全身が小刻みに震え始めた。
(だめだ……見ちゃだめだ。俺は、人形。何も感じない、ただの、道具……)
自分に言い聞かせる呪文の言葉すら、凄惨な打撲音にかき消されていく。
アルヴィーノの細い瞳が、僅かに細められた。
背後で呼吸を乱すルミの気配。
彼の小さな身体が、過去の恐怖に囚われ、今にも崩れ落ちそうになっていることを、アルヴィーノは皮膚の感覚すべてで察知していた。
(バルツァー……貴様……)
アルヴィーノの脳内で、静かに、けれど狂おしいほどの殺意の炎が燃え上がる。
わざわざこの凄惨な場へ案内した目的など、明白だった。
レイストールの最高軍師であり「魔王」と呼ばれる男の肝を冷やすこと。
そして何より、その背後にいる「お気に入り」と噂される従者を、この圧倒的な暴力の光景で恐怖に陥れ、二人の反応を観察すること。
魔力が、アルヴィーノの体内で爆発的な渦を巻き始める。
今すぐ、この回廊を、この練兵場を、積み上げられた死体もろとも消し飛ばし、バルツァーの頭をその足で踏み潰してやりたかった。
ルミをこの血生臭い空気から連れ去り、誰もいない場所で、その震える身体を飽きるまで抱きしめてやりたかった。
だが、アルヴィーノの顔に張り付いた「魔王」の仮面は、一ミリのひび割れすら起こさなかった。
「……なるほど。実に効率的だ、宰相殿」
アルヴィーノの声は、極北の氷河よりもなお冷酷だった。
「無能な者、耐え切れぬ者をその場で見切り、次を据える。戦場において、これほど合理的なことはない。我が国においても、使えぬ駒は盤上から排除する。甘えを許せば、それだけ全体の進軍が遅れますから」
「おお、やはり『慈悲なき軍師』。我が帝国の思想を、これほど深くご理解いただけるとは、恐悦至極」
バルツァーは満足そうに目を細め、だが、その老獪な視線を今度はルミへとねっとりと向けた。
「では、殿下。貴殿も、その背にいる玩具が『使い物にならぬ』と分かれば、あのように速やかに処分なさるおつもりか? ――なぁ、そこの従者。お前の主は、お前が少しでもミスをすれば、容赦なくあの死体の山へ放り込むと仰っているぞ。……どうだ? 恐ろしいか? 泣いて、主に許しを請うたらどうだ?」
バルツァーの言葉は、ルミの傷ついた心に直接突き刺さる容赦のない楔だった。
ルミは、ぎちぎちと鳴るほどに奥歯を噛み締めた。
恐怖で涙が溢れそうになる。
けれど、それ以上に、自分のせいでアルヴィーノが侮られているという事実が、ルミの魂を激しく激昂させた。
(俺は、アルヴィーノの刃だ。ここで、泣くわけにはいかない……!)
ルミはゆっくりと、震える身体を力ずくで押さえつけた。
そして、涙を堪えるために限界まで見開いた水色の瞳で、真っ直ぐにバルツァーを見据えた。
そこには、先ほどまでの恐怖の残滓を塗りつぶすような、冷徹な「覚悟」の光が宿っていた。
「……滅相もございません、宰相閣下」
ルミの声は、細く、けれど決して揺らがなかった。
「私は、アルヴィーノ様の道具。主の御心のままに動く駒にすぎません。使えなくなれば、捨てられるのは当然の理。そのために、恐れることなど、何もございません」
完璧な、感情を持たぬ人形の言葉。
その言葉を聞いた瞬間、アルヴィーノの漆黒の軍服の袖の中で、爪が手のひらに深く、さらに深く食い込んだ。
己の流す血の味を噛み締めながら、アルヴィーノはバルツァーへと冷たい視線を戻す。
「聞いた通りだ、宰相殿。我が玩具に下らぬ揺さぶりをかけるのは、時間の無駄です。……それよりも、明日の外交の席で、これ以上の不毛な引き延ばしをせぬよう、貴殿の主へ進言しておくことですね。我らは、貴国の無能な兵の死体を見に来たわけではないのですから」
アルヴィーノはそれだけ言い捨てると、バルツァーの返答を待たずに、翻って回廊を歩き出した。
ルミは一瞬の遅れもなく、その漆黒の背中の影へと滑り込み、後に続く。
バルツァーは、去り行く主従の背中を、苦虫を噛み潰したような顔で見送っていた。
完璧な主従。
隙のない、冷酷な魔王と、その人形。
だが、その完璧すぎる欺瞞の裏で、二人の魂がどれほど激しく血を流し、互いを守るために己を削り合っているか――帝国の怪物は、まだ気づいていなかった。
灰色の霧が立ち込めるなか、二人の歩む道は、さらに深く、暗い深淵へと続いていた。
◆
凍てつく夜の静寂が、灰色の石壁を伝って客室の隅々まで染み渡っていく。
室内の空気は、言葉通り息が詰まるほどに重苦しかった。
部屋の中央にある古びた木製机。
そこには、連日の交渉で書き殴られた国内外の書状や国境線の地図が乱雑に広げられている。
新王アルフレッドは、その書類の山に視線も向けぬまま、両手で頭を抱え込むようにして深く俯いていた。
「……あいつら、最初から対話などする気はないんだ」
絞り出されたアルフレッドの声は、掠れ、酷く疲弊していた。
どんな窮地でも常に朗らかな笑みを絶やさなかった「王子様」の面影は、今の彼にはない。
あるのは、大国の底知れぬ悪意と不毛な引き延ばし工作の前に、己の理想を削り取られつつある若き統治者の苦悩だけだった。
「条件を一つ呑めば、さらに理不尽な要求を二つ突きつけてくる。……ヴァルカニアは、僕たちの忍耐の限界を測っているんだ。このまま残留期間が長引けば、我が国の国内情勢にも影響が出る。アルヴィーノ、君はどう見る……」
兄の悲痛な問いかけ。
しかし、部屋の壁際に佇むアルヴィーノは、その問いに答えなかった。
漆黒の軍服に身を包んだ「魔王」の視線は、難航する外交の地図などには、端から向いていなかった。
彼の瞳が、狂おしいほどの執着と、胸を掻きむしるような焦燥を孕んで見つめていたのは、ただ一人――部屋の隅、夜の闇に溶けるようにして直立しているルミの姿だった。
(ルミ……っ)
アルヴィーノの手袋に包まれた指先が、怒りと無力感で微かに震える。
そこに佇むルミは、数日前とは完全に「異なって」いた。
紺色のきっちりとした従者服を着た少年の身体からは、人間らしい一切の生気が抜け落ちていた。
かつて、心を通わせた後にあれほど豊かに輝いていた喜怒哀楽の灯火は消え失せ、水色の腰まである長い髪だけが、虚しくその背に垂れている。
何より、その瞳だった。
透き通るような水色をしていたはずの瞳は、今や濁り、奥底の光を完全に失っている。
ただ、主の数歩後ろという「定位置」を虚ろに見据え、呼吸すらしているのか分からないほどに静まり返っていた。
傷だらけの顎の痛みに眉を顰めることすら、今のルミはしない。
昼間に見せつけられた、あの凄惨な練兵場での死体の山と悲鳴。
それが、ルミの心を完全に殻の奥へと閉じ込めてしまったのだ。
救い出したはずだった。
あの非人道的な研究所で、名前のない『実験体』として人形のように扱われていたルミを、自らの手で抱き上げ、光の当たる場所へ連れ出したはずだった。
私室のなかで「アルヴィーノ」と名を呼ばれるたび、その温もりを生涯かけて守ると誓ったはずだった。
なのに、今、自分の目の前にいる伴侶は、かつての、あの絶望の底にいた「人形」そのものに戻ってしまっている。
(私が、この子を再び殺した)
アルヴィーノの胸の奥で、どす黒い歯痒さと己への嫌悪が、刃となって自らの心臓を突き刺していた。
全属性の魔法に長け、禁術すらほぼ無詠唱で操る最強の軍師。
死者すら現世に繋ぎ止める蘇生魔法すら手にした自分が、なぜ、今この瞬間、目の前で心を壊されていく最愛の者を、抱きしめることすらできないのか。
監視の目があるからと己に言い訳し、ルミの流す涙を、その震えを、ただ冷酷に見つめることしかできない己の無力。
政治という名の、目に見えない巨大な怪物の前では、己の最強の武力など、ただの空虚な飾りにすぎなかった。
「……アルヴィーノ、聞いているのか」
アルフレッドが、弟の異常な沈黙に気づき、顔を上げた。
その青い瞳が、壁際に立つ二人の姿を捉え、痛ましさに大きく揺れる。
ルミの、完全に光を失った横顔。
そして、それを今にも血を吐きそうなほどの眼差しで見つめる弟の姿。
「すまない、アルヴィーノ。僕が、君たちをこんな場所に巻き込んだばかりに……」
「……陛下」
アルヴィーノの声は、地底の底から響くような零度だった。
「謝罪は不要です。これは、私たちが選んだ道です。……だが、限界は近い」
アルヴィーノはルミから視線を外さぬまま、その昏い瞳の奥に、冷徹な軍師としての「予測」を冷たく走らせた。
「ヴァルカニアの宰相、バルツァーの動きが怪しい。奴は、私とルミの関係を、単なる『便利な道具』として納得したわけではない。むしろ、こちらの完璧すぎる主従劇に、決定的な『破綻』を作り出そうと躍起になっているはずです」
昼間、練兵場でバルツァーがルミに向けた、あのねっとりとした、残酷な視線。
あれは単なる嫌がらせではない。獲物の首元に牙を立てる位置を探る、捕食者の目だった。
「奴は、近いうちに必ず仕掛けてくるでしょう。ルミを直接肉体的に追い詰めるか、あるいは私の目の前で、私が『魔王』の仮面を脱ぎ捨てて暴走せざるを得ないような、決定的な地獄を」
アルヴィーノの言葉に、アルフレッドの背筋に冷たい戦慄が走る。
もし、バルツァーがルミにこれ以上の暴挙を働けば、アルヴィーノの理性の鎖は完全に弾け飛ぶだろう。
その瞬間、このヴァルカニアの城は、全属性の極大魔法によって地図から消滅し、両国の戦争は避けられないものとなる。
それは、ヴァルカニアにとっても、レイストールにとっても、最悪の結末だった。
「……ルミ」
アルヴィーノは、一歩だけ、ルミへと歩み寄った。
けれど、その距離は【主】と【従者】の境界線を越えることはない。
主が近づいても、ルミの水色の瞳は微動だにしなかった。
焦点の合わない目で、ただアルヴィーノの胸元の階級章を見つめている。
かつて「王子様!」と無邪気に笑い、胸に飛び込んできたあの愛らしい少年の面影は、冷酷な軍国主義の闇に完全に塗り潰されていた。
「三日後の、次回の交渉席……そこが、奴らの仕掛けの舞台になるはずだ」
アルヴィーノは、己の内に荒れ狂う激情を、氷の理数へと変換していく。
最愛の者をこれ以上壊させないために。
失われたその瞳の光を、再びこの手に取り戻すために。
漆黒の軍服を纏う「魔王」は、自らの魂を完全に冷徹な『刃』へと研ぎ澄ませていった。
閉ざされた客室のなか、三人の沈黙はどこまでも深く、重い。
すぐ側に迫る、宰相バルツァーの悍ましい罠の足音。
そして、人形へと戻ってしまったルミを背後に従え、魔王は今、この血生臭い帝国の深淵で、すべてを終わらせるための最期の盤面を描き始めようとしていた。
数時間に及ぶ最初の対話が幕を閉じ、レイストール一行は、ヴァルカニア帝国側があてがった客室へと引き揚げることを許された。
案内されたのは、城の西翼にある一画。
やはり無機質な石壁に囲まれた、歓迎とは程遠い冷え切った部屋だった。重厚な鉄の扉が閉まり、背後でカチャリと鍵の閉まる音が響く。
一応の「私室」という形にはなったものの、アルフレッドが馬車内で警告した通り、この部屋の壁の裏、あるいは窓の向こうにどれほどの監視の目が潜んでいるかは分からない。
ここはまだ、敵の胃袋の中だった。
「……一回目でこれか。やはり一筋縄ではいかないね」
アルフレッドが、外套のボタンを外しながら低く呟いた。
その碧眼には、激しい外交交渉による疲労と、それ以上に、一触即発の危機を潜り抜けたことへの張り詰めた緊張感が残っている。
「長期戦になる。先方はこちらの譲歩を引き出すために、意図的に時間を引き延ばす構えだ。少なくとも、数週間はこの息の詰まる城に残留することになるだろう」
「……」
アルヴィーノは応えなかった。
漆黒の軍服を纏ったまま、部屋の中央で峻烈な佇まいを崩さない。
その瞳は、部屋の隅々に隠された『隙』を警戒するように鋭く光っていたが、その意識の全ては、やはり自身の斜め後ろに控える少年に向けられていた。
ルミは、部屋に到着した瞬間から、一切の淀みなく「従者としての業務」を開始していた。
「陛下、アルヴィーノ様。お召し物をお預かりいたします」
その声は、驚くほど平坦で、静かだった。
先ほど謁見の間で、皇帝の目前で乱暴に床に叩きつけられたことなど、まるで無かったかのように。
しかし、その身体は確実に傷ついていた。
きっちりと着込まれた紺色の従者服は、床に擦れた拍子に肘のあたりが薄く擦り切れている。
何より、バルツァーの無礼な指先によって掴み上げられた顎の皮膚は、赤黒く鬱血し、爪が食い込んだ痕から微かに血が滲み出ていた。
乱暴に引きちぎられるように引っ張られた水色の長い髪は、いくつかの毛束が不自然に乱れ、頭皮には今なおズキズキとした激痛が走っているはずだった。
「ルミ、くん……」
アルフレッドが、痛ましさに耐えかねたように声を漏らす。
だが、ルミはそれを遮るように、美しく、完璧な角度でお辞儀をしてみせた。
「お気になさらないでください、陛下。この程度の汚れ、従者の仕事にはつきものです。……すぐに、お着替えの準備と、温かいお茶をご用意いたします。ここの水頭を確認してまいりますので、少々お待ちください」
痛むはずの身体を健気に動かし、ルミは部屋に備え付けられた洗面台へと向かう。
紺色の手袋に包まれた手で重い水瓶を持ち上げ、主たちのために、ただ黙々と、機械のように動き続ける。
顎の傷が衣服の襟に擦れるたび、ルミの端正な眉がピクリと微かに跳ねた。
けれど、彼は決して痛みの声を漏らさない。
溜息一つ、弱音一つ吐き出さない。
(俺は、道具。何があっても、アルヴィーノ様の邪魔をしない、有能な駒……)
ルミは自分自身に冷酷な暗示をかけ続けていた。
ここで自分が傷を気にして痛がれば、アルヴィーノは再びあの狂おしいほどの怒りに身を焦がすことになる。
彼の理性を揺るがし、その「刃」を鈍らせてしまうことだけは、何としても避けなければならなかった。
だからこそ、ルミは傷だらけの身体の悲鳴を無視し、完璧な従者として振る舞うことにその魂の全てを注ぎ込んでいた。
洗面台の前で背を向けるルミの姿を、アルヴィーノはただじっと見つめていた。
その胸のうちは、ドス黒いマグマのような歯痒さと、己への嫌悪感で満たされていた。
攻撃魔法を極め、禁術である極大魔法すら詠唱なしに放てる己が。
ある時を境に、治癒魔法はおろか、死者をも蘇らせる禁術『蘇生魔法』すらその手に掌握したこの私が。
目の前で傷つき、健気に見えない血を流している最愛の伴侶を、癒してやることすらできない。
(今すぐ、その傷を消し去ってやりたい)
アルヴィーノの指先が、軍服の袖の中で微かに動く。
彼の魔力をもってすれば、ルミの顎の鬱血も、頭皮の痛みも、一瞬で、跡形もなく消し去ることができる。
だが、それはできなかった。
もし今、この部屋に仕掛けられた監視の目、壁の隙間から覗く密偵や、魔力感知の結界が、アルヴィーノが従者の傷を『禁術』や高度な治癒魔法で治療したことを察知すれば、すべては破綻する。
「やはり、あの従者は特別だ」と、ヴァルカニアの獣たちに確信を与えることになる。
この残留期間中、どれほどルミが傷つこうとも、アルヴィーノはそれを冷酷に無視し続けなければならない。
それが、この欺瞞の舞台を生き抜くための、絶対のルールだった。
「……アルヴィーノ」
アルフレッドが、弟の肩にそっと手を置いた。
その手には、これ以上の魔力の高まりを抑え込もうとする、兄としての、そして王としての制止の力が込められていた。
「……分かっています」
アルヴィーノは低く、地這うような声で応えた。
その紫の瞳は、これ以上ないほどに冷たく、そして昏く濁っている。
彼はゆっくりと、ルミから視線を外した。
最愛の者を守るために、その傷を無視するという最大級の『残酷』を、アルヴィーノは己自身に課した。
「ヴァルカニアの連中がこちらの動揺を誘うために、今後さらに過激な手段に出てくる可能性は高い。……ルミを道具として扱う『芝居』は、これからが本番だ」
「ああ。僕も、君たちを信じるしかない。……絶対に、隙を見せるな」
アルフレッドの言葉に、アルヴィーノは無言で頷く。
部屋の奥では、ルミが用意した冷え切った水で、自身の汚れた顔を静かに拭っていた。
水色の瞳が、鏡に映る自身の傷を見つめる。
心を通わせた後に彼から注がれた、あの溢れるほどの溺愛の温もり。
それをこの胸の奥に深く、深く隠し固め、ルミは再び振り返った。
「お待たせいたしました。陛下、アルヴィーノ様」
完璧な従者の微笑みを湛えた少年と、感情を殺し尽くした魔王。
数週間に及ぶであろう、ヴァルカニア帝国での長い長い夜が、二人の血の滲むような欺瞞を乗せて、静かに更けていく。
◆
ヴァルカニア帝国に足を踏み入れてから、瞬く間に数日が経過した。
国境線を巡る交渉は、遅々として進まない。
帝国の提示する条件は常に強硬であり、時に挑発的ですらあった。
こちらの譲歩を引き出すために、意図的に議論を紛糾させ、時間を引き延ばす戦術――それは、新王アルフレッドの精神を確実に削り取っていった。
あてがわれた客室に戻るたび、アルフレッドは机に両肘を突き、深く、重い溜息を漏らす。
朗らかだった碧眼には色濃い疲労の影が刻まれ、対話による解決を信じる彼の善性は、この灰色の要塞のなかで絶え間ない試練に晒されていた。
一方、ヴァルカニアの仕掛けは、外交の席だけには留まらなかった。
「――どうですかな、アルヴィーノ殿下。我が帝国の、誇るべき『力の根源』は」
吹き抜ける寒風が、鼻を突く血と鉄の匂いを運んでくる。
アルヴィーノは、宰相バルツァーの案内に従い、帝国の広大な練兵場を見下ろす回廊に立っていた。
その漆黒の軍服は、極北の冷気を受けてなお、微塵の揺らぎも見せない。
彼の斜め後ろには、あの深い紺色の従者服を纏ったルミが、影のように静かに控えていた。
数日前の傷は、手当てもされぬまま薄黒い痛々しい痕となり、彼の細い顎に残っている。
見下ろす視界の先で繰り広げられていたのは、鍛錬という名の「虐殺」だった。
上半身を剥き出しにした兵士たちが、凍てつく地の上で、互いの肉体を刃で切り刻み合っている。
響くのは、怒号と肉が裂ける鈍い音。
そこには、技術を磨くための手加減など存在しない。
一歩足を踏み外せば、即座に死へと直結する実戦そのものの狂気が、そこらを支配していた。
「我が国において、兵とは国家を動かすための最も頑強な『歯車』。歯車に感情など不要。必要なのは、命令に従い、敵を噛み砕く硬度のみ」
バルツァーは自慢げに顎をしゃくり、練兵場の隅を指差した。
そこには、過酷な鍛錬に耐え切れず、あるいは脱落して命を落とした兵士たちの死体が、まるで不要になった瓦礫のように無造作に積み上げられていた。
冷え切った泥に塗れ、白目を剥いた死体の山。
その傍らでは、わずかな型の手落ち、あるいは動きの鈍さを露呈した者が、上官から容赦のない折檻を受けている。
太い鞭が振るわれるたび、背の肉が弾け飛び、凄惨な悲鳴が回廊にまで届いた。
「ひっ……」
ルミの喉の奥から、押し殺した小さな引き攣りが漏れかけた。
必死に奥歯を噛み締め、それを自らの肺腑へと押し戻す。
目の前に広がる光景は、数日前に聞いた悲鳴、そして、かつて自分が囚われていた研究所の「廃棄場」そのものだった。
使えなくなった実験体を、名前すら呼ばずに処理していたあの地獄。
ルミの透き通るような水色の瞳が、恐怖と嫌悪に激しく揺れる。
紺色の手袋に包まれた両手が、衣服の裾を千切れんばかりに握りしめ、全身が小刻みに震え始めた。
(だめだ……見ちゃだめだ。俺は、人形。何も感じない、ただの、道具……)
自分に言い聞かせる呪文の言葉すら、凄惨な打撲音にかき消されていく。
アルヴィーノの細い瞳が、僅かに細められた。
背後で呼吸を乱すルミの気配。
彼の小さな身体が、過去の恐怖に囚われ、今にも崩れ落ちそうになっていることを、アルヴィーノは皮膚の感覚すべてで察知していた。
(バルツァー……貴様……)
アルヴィーノの脳内で、静かに、けれど狂おしいほどの殺意の炎が燃え上がる。
わざわざこの凄惨な場へ案内した目的など、明白だった。
レイストールの最高軍師であり「魔王」と呼ばれる男の肝を冷やすこと。
そして何より、その背後にいる「お気に入り」と噂される従者を、この圧倒的な暴力の光景で恐怖に陥れ、二人の反応を観察すること。
魔力が、アルヴィーノの体内で爆発的な渦を巻き始める。
今すぐ、この回廊を、この練兵場を、積み上げられた死体もろとも消し飛ばし、バルツァーの頭をその足で踏み潰してやりたかった。
ルミをこの血生臭い空気から連れ去り、誰もいない場所で、その震える身体を飽きるまで抱きしめてやりたかった。
だが、アルヴィーノの顔に張り付いた「魔王」の仮面は、一ミリのひび割れすら起こさなかった。
「……なるほど。実に効率的だ、宰相殿」
アルヴィーノの声は、極北の氷河よりもなお冷酷だった。
「無能な者、耐え切れぬ者をその場で見切り、次を据える。戦場において、これほど合理的なことはない。我が国においても、使えぬ駒は盤上から排除する。甘えを許せば、それだけ全体の進軍が遅れますから」
「おお、やはり『慈悲なき軍師』。我が帝国の思想を、これほど深くご理解いただけるとは、恐悦至極」
バルツァーは満足そうに目を細め、だが、その老獪な視線を今度はルミへとねっとりと向けた。
「では、殿下。貴殿も、その背にいる玩具が『使い物にならぬ』と分かれば、あのように速やかに処分なさるおつもりか? ――なぁ、そこの従者。お前の主は、お前が少しでもミスをすれば、容赦なくあの死体の山へ放り込むと仰っているぞ。……どうだ? 恐ろしいか? 泣いて、主に許しを請うたらどうだ?」
バルツァーの言葉は、ルミの傷ついた心に直接突き刺さる容赦のない楔だった。
ルミは、ぎちぎちと鳴るほどに奥歯を噛み締めた。
恐怖で涙が溢れそうになる。
けれど、それ以上に、自分のせいでアルヴィーノが侮られているという事実が、ルミの魂を激しく激昂させた。
(俺は、アルヴィーノの刃だ。ここで、泣くわけにはいかない……!)
ルミはゆっくりと、震える身体を力ずくで押さえつけた。
そして、涙を堪えるために限界まで見開いた水色の瞳で、真っ直ぐにバルツァーを見据えた。
そこには、先ほどまでの恐怖の残滓を塗りつぶすような、冷徹な「覚悟」の光が宿っていた。
「……滅相もございません、宰相閣下」
ルミの声は、細く、けれど決して揺らがなかった。
「私は、アルヴィーノ様の道具。主の御心のままに動く駒にすぎません。使えなくなれば、捨てられるのは当然の理。そのために、恐れることなど、何もございません」
完璧な、感情を持たぬ人形の言葉。
その言葉を聞いた瞬間、アルヴィーノの漆黒の軍服の袖の中で、爪が手のひらに深く、さらに深く食い込んだ。
己の流す血の味を噛み締めながら、アルヴィーノはバルツァーへと冷たい視線を戻す。
「聞いた通りだ、宰相殿。我が玩具に下らぬ揺さぶりをかけるのは、時間の無駄です。……それよりも、明日の外交の席で、これ以上の不毛な引き延ばしをせぬよう、貴殿の主へ進言しておくことですね。我らは、貴国の無能な兵の死体を見に来たわけではないのですから」
アルヴィーノはそれだけ言い捨てると、バルツァーの返答を待たずに、翻って回廊を歩き出した。
ルミは一瞬の遅れもなく、その漆黒の背中の影へと滑り込み、後に続く。
バルツァーは、去り行く主従の背中を、苦虫を噛み潰したような顔で見送っていた。
完璧な主従。
隙のない、冷酷な魔王と、その人形。
だが、その完璧すぎる欺瞞の裏で、二人の魂がどれほど激しく血を流し、互いを守るために己を削り合っているか――帝国の怪物は、まだ気づいていなかった。
灰色の霧が立ち込めるなか、二人の歩む道は、さらに深く、暗い深淵へと続いていた。
◆
凍てつく夜の静寂が、灰色の石壁を伝って客室の隅々まで染み渡っていく。
室内の空気は、言葉通り息が詰まるほどに重苦しかった。
部屋の中央にある古びた木製机。
そこには、連日の交渉で書き殴られた国内外の書状や国境線の地図が乱雑に広げられている。
新王アルフレッドは、その書類の山に視線も向けぬまま、両手で頭を抱え込むようにして深く俯いていた。
「……あいつら、最初から対話などする気はないんだ」
絞り出されたアルフレッドの声は、掠れ、酷く疲弊していた。
どんな窮地でも常に朗らかな笑みを絶やさなかった「王子様」の面影は、今の彼にはない。
あるのは、大国の底知れぬ悪意と不毛な引き延ばし工作の前に、己の理想を削り取られつつある若き統治者の苦悩だけだった。
「条件を一つ呑めば、さらに理不尽な要求を二つ突きつけてくる。……ヴァルカニアは、僕たちの忍耐の限界を測っているんだ。このまま残留期間が長引けば、我が国の国内情勢にも影響が出る。アルヴィーノ、君はどう見る……」
兄の悲痛な問いかけ。
しかし、部屋の壁際に佇むアルヴィーノは、その問いに答えなかった。
漆黒の軍服に身を包んだ「魔王」の視線は、難航する外交の地図などには、端から向いていなかった。
彼の瞳が、狂おしいほどの執着と、胸を掻きむしるような焦燥を孕んで見つめていたのは、ただ一人――部屋の隅、夜の闇に溶けるようにして直立しているルミの姿だった。
(ルミ……っ)
アルヴィーノの手袋に包まれた指先が、怒りと無力感で微かに震える。
そこに佇むルミは、数日前とは完全に「異なって」いた。
紺色のきっちりとした従者服を着た少年の身体からは、人間らしい一切の生気が抜け落ちていた。
かつて、心を通わせた後にあれほど豊かに輝いていた喜怒哀楽の灯火は消え失せ、水色の腰まである長い髪だけが、虚しくその背に垂れている。
何より、その瞳だった。
透き通るような水色をしていたはずの瞳は、今や濁り、奥底の光を完全に失っている。
ただ、主の数歩後ろという「定位置」を虚ろに見据え、呼吸すらしているのか分からないほどに静まり返っていた。
傷だらけの顎の痛みに眉を顰めることすら、今のルミはしない。
昼間に見せつけられた、あの凄惨な練兵場での死体の山と悲鳴。
それが、ルミの心を完全に殻の奥へと閉じ込めてしまったのだ。
救い出したはずだった。
あの非人道的な研究所で、名前のない『実験体』として人形のように扱われていたルミを、自らの手で抱き上げ、光の当たる場所へ連れ出したはずだった。
私室のなかで「アルヴィーノ」と名を呼ばれるたび、その温もりを生涯かけて守ると誓ったはずだった。
なのに、今、自分の目の前にいる伴侶は、かつての、あの絶望の底にいた「人形」そのものに戻ってしまっている。
(私が、この子を再び殺した)
アルヴィーノの胸の奥で、どす黒い歯痒さと己への嫌悪が、刃となって自らの心臓を突き刺していた。
全属性の魔法に長け、禁術すらほぼ無詠唱で操る最強の軍師。
死者すら現世に繋ぎ止める蘇生魔法すら手にした自分が、なぜ、今この瞬間、目の前で心を壊されていく最愛の者を、抱きしめることすらできないのか。
監視の目があるからと己に言い訳し、ルミの流す涙を、その震えを、ただ冷酷に見つめることしかできない己の無力。
政治という名の、目に見えない巨大な怪物の前では、己の最強の武力など、ただの空虚な飾りにすぎなかった。
「……アルヴィーノ、聞いているのか」
アルフレッドが、弟の異常な沈黙に気づき、顔を上げた。
その青い瞳が、壁際に立つ二人の姿を捉え、痛ましさに大きく揺れる。
ルミの、完全に光を失った横顔。
そして、それを今にも血を吐きそうなほどの眼差しで見つめる弟の姿。
「すまない、アルヴィーノ。僕が、君たちをこんな場所に巻き込んだばかりに……」
「……陛下」
アルヴィーノの声は、地底の底から響くような零度だった。
「謝罪は不要です。これは、私たちが選んだ道です。……だが、限界は近い」
アルヴィーノはルミから視線を外さぬまま、その昏い瞳の奥に、冷徹な軍師としての「予測」を冷たく走らせた。
「ヴァルカニアの宰相、バルツァーの動きが怪しい。奴は、私とルミの関係を、単なる『便利な道具』として納得したわけではない。むしろ、こちらの完璧すぎる主従劇に、決定的な『破綻』を作り出そうと躍起になっているはずです」
昼間、練兵場でバルツァーがルミに向けた、あのねっとりとした、残酷な視線。
あれは単なる嫌がらせではない。獲物の首元に牙を立てる位置を探る、捕食者の目だった。
「奴は、近いうちに必ず仕掛けてくるでしょう。ルミを直接肉体的に追い詰めるか、あるいは私の目の前で、私が『魔王』の仮面を脱ぎ捨てて暴走せざるを得ないような、決定的な地獄を」
アルヴィーノの言葉に、アルフレッドの背筋に冷たい戦慄が走る。
もし、バルツァーがルミにこれ以上の暴挙を働けば、アルヴィーノの理性の鎖は完全に弾け飛ぶだろう。
その瞬間、このヴァルカニアの城は、全属性の極大魔法によって地図から消滅し、両国の戦争は避けられないものとなる。
それは、ヴァルカニアにとっても、レイストールにとっても、最悪の結末だった。
「……ルミ」
アルヴィーノは、一歩だけ、ルミへと歩み寄った。
けれど、その距離は【主】と【従者】の境界線を越えることはない。
主が近づいても、ルミの水色の瞳は微動だにしなかった。
焦点の合わない目で、ただアルヴィーノの胸元の階級章を見つめている。
かつて「王子様!」と無邪気に笑い、胸に飛び込んできたあの愛らしい少年の面影は、冷酷な軍国主義の闇に完全に塗り潰されていた。
「三日後の、次回の交渉席……そこが、奴らの仕掛けの舞台になるはずだ」
アルヴィーノは、己の内に荒れ狂う激情を、氷の理数へと変換していく。
最愛の者をこれ以上壊させないために。
失われたその瞳の光を、再びこの手に取り戻すために。
漆黒の軍服を纏う「魔王」は、自らの魂を完全に冷徹な『刃』へと研ぎ澄ませていった。
閉ざされた客室のなか、三人の沈黙はどこまでも深く、重い。
すぐ側に迫る、宰相バルツァーの悍ましい罠の足音。
そして、人形へと戻ってしまったルミを背後に従え、魔王は今、この血生臭い帝国の深淵で、すべてを終わらせるための最期の盤面を描き始めようとしていた。
