主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

氷の魔王と虚飾の箱庭②

]重々しい車輪の音が止まり、馬車の扉が開かれた瞬間、肌を刺すような極北の洗礼が三人を出迎えた。

ヴァルカニア帝国。
そこは、レイストール王国の華やかさとは対極にある、灰色の世界だった。
視界を遮るようにそびえ立つ黒鉄の城壁、規則正しく整列した無機質な兵士たちの鎧。
空気は鉄と硝煙の匂いを微かに孕み、空を覆う厚い雲からは、秋の終わりを告げる冷酷な風が吹き付けている。
歓迎の意など微塵もない。そこにあるのは、圧倒的な「力」による威圧と、徹底された軍事的統制の重圧だけだった。

馬車から最初に降り立ったのは、新王アルフレッド。
その後に、漆黒の豪華な軍服を纏ったアルヴィーノが続く。
そして最後の一歩。ルミは従者服の裾を翻し、音もなく地面へと降り立った。
冷たい風が水色の長い髪を激しく揺らす。
その肌に突き刺さる無数の視線――値踏み、嘲笑、そして微かな嫌悪。
ルミはそれらすべてを無表情で受け流し、すぐにアルヴィーノの斜め後ろ、影が落ちる位置へと滑り込んだ。

三人の前に、一人の男が歩み出てくる。
ヴァルカニア帝国の宰相、バルツァー。
男の顔には深い傷が刻まれ、その眼光は老獪にして酷薄だった。
彼が纏う毛皮の外套が、風に煽られて不気味な音を立てる。

「よくぞおいでくだされた、レイストールの新王アルフレッド陛下。そして……周辺国を震撼させる『慈悲なき軍師』アルヴィーノ殿下」

バルツァーは慇懃無礼な一礼を見せたが、その目は全く笑っていなかった。
挨拶もそこそこに、彼の鋭い視線が、アルヴィーノの背後に控えるルミへと、露骨に移動する。

「ほう……」

バルツァーの口元が、下卑た歪みを描いた。
彼は一歩、あえてアルヴィーノとの距離を詰め、ルミの顔を覗き込むようにして、その顎を指先で乱暴に押し上げた。

「これが、我が国の貴族らの間でも噂になっている……例の『お気に入り』ですか。なるほど、戦場に連れて行くには酷く場違いな、女と見紛うばかりの細い首だ。一丁前の従者服を着せてはいるが、夜の寝床での玩具としては、さぞ有能なのでしょうな」

爪がルミの顎の皮膚に食い込む。
肉体的な痛み以上に、浴びせられた言葉の汚濁が、ルミの心を激しく陵辱した。
かつて研究所で、名前のない『実験体』として扱われていた頃の忌まわしい記憶が、一瞬だけ脳裏を過る。
けれど、ルミは悲鳴を上げることも、拒絶して身をよじることもしなかった。
透き通るような水色の瞳をただ人形のように据え置き、呼吸すら変えずにその無礼を受け入れる。

(耐えろ……。俺がここで取り乱せば、アルヴィーノのすべてが壊れる)

ルミの全身の神経は、恐怖ではなく、隣に立つ最愛の男の「抑制」に集中していた。
バルツァーが侮蔑の言葉を吐いたその瞬間、周囲の空気が、爆発的な質量を持って凍りついた。
アルヴィーノの身体から、無意識に漏れ出た魔圧。
全属性の頂点に立つ者が放つそれは、周囲のヴァルカニア兵たちの息を瞬時に詰まらせ、数歩後退させるほどの威嚇だった。
アルヴィーノの細く切れ長の深い紫の瞳が、限界まで昏く濁る。
目の前の男を、その指先ごと、魂の最奥まで極大魔法で焼き尽くしたいという狂おしいほどの衝動。
自分の命よりも大切な伴侶が、衆目の前で、これほどまでに汚らわしい言葉で値踏みされている。
その事実が、彼の冷徹な理性を内側から激しく殴りつけていた。
漆黒の軍服の袖の中で、手袋に包まれた拳が、骨が軋むほどの音を立てて握りしめられる。

(殺す。今すぐ、ここで、この男を――)

軍師としての、王族としての、そして何より【伴侶】としての矜持が、彼に破壊の衝動を突き動かす。

「アルヴィーノ」

その破滅の秒読みを止めたのは、アルフレッドの、低く、けれど絶対的な威厳を持った声だった。
新王の碧眼が、弟を、そして背後のルミを鋭く射抜く。

『これが、君たちが永遠に添い遂げるために必要な、欺瞞の儀式だ』

馬車の中で交わした兄の言葉が、アルヴィーノの脳裏に冷水を浴びせるように蘇った。
ここで自分が手を出せば、バルツァーの邪推を肯定することになる。
ルミは本当に、己の理性を狂わせる「弱点」なのだと、敵国に最大の武器を与えてしまうことになる。

アルヴィーノは、血が滲むほどに奥歯を噛み締め、爆発寸前だった魔力を、力ずくで己の体内に引き戻した。
その顔に、再び完璧な、そして冷酷な「魔王」の仮面を張り付ける。

「……宰相殿」

アルヴィーノの声は、地底の氷河のように冷たかった。

「我が国の内政について、随分と下らぬ噂を真に受けておられるようだ。レイストールの軍において、能力のない者を身辺に置くことなどあり得ない。この男は、単に私の手足として都合よく動く、替えの利く『道具』にすぎん。……あまり玩具を無駄に弄ばれては困る。壊れれば、また次の人形を調達せねばならなくなるのでね」

アルヴィーノは、バルツァーの手からルミを奪い取るように、その華奢な肩を乱暴に掴み、自身の後ろへと突き放した。
その手にかかった力は、ルミの骨を軋ませるほどに強かった。
けれど、ルミには分かっていた。その強さは、彼が己の激情を抑え込むためのものであり、同時に「これ以上触れさせるな」という、狂おしいほどの独占欲の裏返しなのだと。

「ほう、手厳しい」

バルツァーは、アルヴィーノの冷徹な一瞥に僅かな気圧されを感じながらも、不敵に笑って手を引いた。

「これは失礼いたしました。では、これ以上の立ち話も何ですから、中へ。皇帝陛下がお待ちでございます」

バルツァーを先頭に、重厚な黒鉄の城門が、ギギギと不気味な音を立てて開かれていく。
アルフレッドが真っ直ぐに前を見据えて歩き出し、アルヴィーノがその後に続く。
ルミは、痛む顎を擦ることもせず、主の足跡を正確に辿りながら、帝国の闇へと一歩を踏み出した。
一歩進むごとに、王宮での甘い時間は遠ざかり、冷酷な虚飾の世界が二人を包み込んでいく。
目を合わせることは、まだできない。
けれど、引き剥がされそうになるほどに過酷なこの地で、二人の魂は、主従という偽りの枷でこれまで以上に強く、血を流しながら結びついていた。
敵の牙城へと向かう三人の影が、灰色の冬の光の中に、長く、重く伸びていった。

ヴァルカニア帝国の城内は、外観以上に徹底して無機質だった。
高い天井を支えるのは、飾り気のない灰色の石柱。
壁面には戦歴を誇示する錆びついた武具だけが並び、美を愛でるような絵画の一枚すら存在しない。
ただひたすらに、合理的で冷徹な軍事要塞としての機能を追求した空間が、奥へ奥へと続いている。
その静寂を、不意に、鋭い音が切り裂いた。

――あ、あああぁっ! お許し、お許しください……ッ!

それは、人間の喉から絞り出された、獣じみた悲痛な叫び声だった。
肉が重く打たれる音、引きずられていく硬い靴音、そして、言葉にならない絶望の嗚咽。
城の深奥、格子戸の嵌められた地下へと続く硬い石床から、その悲鳴は這い上がってくる。
使い物にならないと判断された従者たちが、どのような運命を辿るのか――それを雄弁に物語る、生々しい死の気配だった。

(あ……)

ルミの身体が、一瞬、凍りついたように硬直した。
耳の奥で、過去の残響が爆発的に膨れ上がる。
薄暗い研究所、鼻を突く薬品の匂い、冷たい手術台。
そこで人形のように心を殺していた頃、隣の部屋から毎日毎日、嫌というほど聞こえていた『実験体』たちの悲鳴。
終わりのない恐怖と絶望、人間を人間として扱わない冷酷な世界の記憶が、津波となってルミの脳内を侵食していく。
抑え込もうとすればするほど、紺色の手袋に包まれた指先が、目に見えて小さく震え始めた。
アルヴィーノは、前を歩きながらも、背後の微かな異変を敏感に察知していた。
ルミの呼吸の乱れ、衣服が擦れる微かな震え。
かつて、あの悍ましい研究所から、その手で抱き上げて救い出した時の、壊れそうなほどに小さかった命の記憶が、アルヴィーノの胸を酷く抉る。

(ルミ……っ)

今すぐ振り返り、その華奢な身体を抱きしめてやりたかった。
その耳を己の手で塞ぎ、「もう大丈夫だ」と、あの部屋で見せる優しい声で囁いてやりたかった。
この忌々しい城ごと、悲鳴の主もろともすべてを無に帰してしまいたかった。
だが、漆黒の軍服に包まれたアルヴィーノの背は、微塵も揺らがなかった。
ここで彼に触れれば、彼の震えを優しさで止めようとすれば、それはヴァルカニアの冷徹な鷹たちに「隙」を与えることになる。
アルヴィーノはただ前を見据え、氷のような表情を崩さぬまま、己の理性を限界まで研ぎ澄ましていた。

「おや、お見苦しいところを」

案内する宰相バルツァーが、事も無げに振り返り、下卑た笑みを浮かべた。
その眼光は、レイストールの軍師の反応を、そしてその後ろで震えを堪える従者の姿を、一滴の漏れもなく観察している。

「我が帝国において、無能は罪。主人に課された役目を果たせぬ道具は、あのように速やかに『処分』されるのが秩序でございます。道具が使えぬと分かれば、調達し、壊れれば、また次を据える。……先ほど、アルヴィーノ殿下も全く同じことを仰っておられましたな。さすがは『魔王』、我が国の思想をよく理解していらっしゃる」

バルツァーの言葉は、毒のようにルミの耳へと注がれる。
『替えの利く道具』。
先ほど、アルヴィーノ自身が自分の口から放ったその言葉が、バルツァーの台詞と重なり、ルミの胸を鋭く突き刺した。
もちろん、それが自分を守るための偽りであることは知っている。
けれど、この異常な空間で浴びせられる恐怖の演出は、ルミの心を確実に削り取っていった。

「当然だ」

アルヴィーノの声が、無機質な廊下に響き渡る。
その声音には、恐怖を呼び起こすほどの冷徹さが満ちていた。

「使えぬ駒をいつまでも盤上に残しておくのは、無能のすることだ。我がレイストールにおいても、無価値な者に割く慈悲などない。……宰相殿、このような雑音に足を止めるほど、我らは暇ではないのだが」
「これは失礼。では、こちらへ」

バルツァーは満足そうに口元を歪め、再び歩き出した。
アルヴィーノの徹底した冷酷さに、僅かばかりの疑念を引っ込めたようだった。
ルミは、ぎゅっと自分の胸元を掴むようにして、震える手を隠した。
主の冷たい言葉。それは、自分を守るための、最も鋭い盾。

(泣いちゃダメだ。俺は、アルヴィーノ様の完璧な道具になるんだ――)

ルミは深く息を吐き出し、再び人形の仮面を顔に張り付けた。
水色の瞳から、一切の感情を排し、ただ前を行く漆黒の背中だけを追いかける。
先頭を歩くアルフレッドは、その広い背中で、二人の血を吐くような欺瞞の劇を受け止めていた。
彼にとって、この城内の惨状も、弟たちが強いられている残酷な役割も、胃が千切れるほどに痛ましいものだった。
けれど、彼は王。
ここで彼が動揺すれば、すべてが瓦解する。
アルフレッドは青い瞳に冷厳な覇気を滾らせ、一歩一歩、確実な足取りで進んでいった。

やがて、廊下の突き当たりにある、巨大な黒鉄の双開きの扉が行く手を阻む。
左右に佇む巨躯の衛兵たちが、重々しく扉を押し開けた。

――その先にあるのは、ヴァルカニア帝国の心臓部。
一段高く据えられた無骨な玉座。そこに鎮座するのは、圧倒的な威圧感と、すべてを蹂躙するような覇気を纏った、ヴァルカニア帝国皇帝その人であった。
部屋を包むのは、先ほどの廊下とは比べ物にならない、濃度を増した本物の「戦場の空気」。
皇帝の鋭い眼光が、謁見の間に入ってきた三人へと向けられる。
目を合わせることも許されぬまま、主従という名の、最も遠く最も深い絆で結ばれた二人は、新王と共に、ついに怪物の本拠地へと足を踏み入れた。

謁見の間に、幾重にも重なる重厚な靴音が響き渡る。
部屋の左右に整列したヴァルカニアの将星たちが放つ剥き出しの殺気は、息を吸うことすら躊躇わせるほどに鋭かった。
その重圧の頂点、一段高い玉座に鎮座する皇帝は、まるで岩山そのものが意志を持ったかのような巨躯を誇り、全てを見下ろす傲岸な眼差しで三人を受け止めた。

「レイストール王国新王、アルフレッド・レイストール。これよりヴァルカニア帝国皇帝陛下への拝謁を執り行う」

宰相バルツァーの声が、冷たく広い空間に反響する。
アルフレッドは、レイストールの命運を一身に背負い、一歩前へ出た。
その青い瞳に一切の怯えはなく、ただ一国の王としての毅然とした威厳だけを湛えている。

「ヴァルカニア帝国皇帝陛下。このたび、国境線の調停、ならびに両国の新たなる平穏のためにこうして相見みえたこと、嬉しく思う」

王としての完璧な挨拶。
だが、皇帝の関心は、対話による平穏などという生温かい言葉にはなかった。
その獰猛な眼光は、アルフレッドの背後に立つ、漆黒の豪華な軍服を纏った男――「魔王」アルヴィーノへと向けられる。

「挨拶などという虚飾は不要だ、レイストールの若き王よ。我が国が関心あるのは、貴国の『力』の有る無し、ただ一点のみ」

皇帝の地鳴りのような声が、謁見の間を震わせた。
彼は不敵な笑みを浮かべ、アルヴィーノのさらに後ろで息を潜める、紺色の従者服の少年に視線を固定する。

「……バルツァー。あれが、周辺国に『慈悲なき魔王』と恐れられる男が、肌身離さず侍らせているという噂の玩具か」
「はっ。城門にて私めが直々に検分いたしましたが、戦場にはおよそ不似合いな、ただの美しい人形でございます」

バルツァーの言葉に、皇帝は鼻で笑った。

「面白い。魔王の理性を狂わせるほどの玩具がどれほどのものか、我が眼で確かめてやろう。……バルツァー、こちらへ連れてこい」

その一言は、理不尽極まる絶対の命令だった。

「御意」

バルツァーが即座に動き、ルミへと手を伸ばす。
その瞬間、ルミの視界が歪んだ。乱暴に細い腕を掴まれ、引きずられるようにして冷たい石床を数歩、強制的に進まされる。
けれど、ルミは叫ばなかった。
その華奢な身体を強張らせることも、抵抗して暴れることもせず、ただされるがままに引きずられていく。

(俺は、道具。アルヴィーノ様の、完璧な人形……)

心の中で、狂ったようにその呪文を唱え続ける。
水色の瞳は虚空を見つめ、一切の感情の光を消し去っていた。
皇帝の足元、玉座の直下へと乱暴に突き出されたルミの前に、バルツァーの冷酷な手が再び伸びる。
掴まれた髪が引っ張られ、ルミの顔が強制的に上を向かされた。
水色の長い髪が、無残に散らばる。
皇帝の肉食獣のような眼差しが、至近距離でルミの顔を、その身体を、隅々まで値踏みするように舐め回した。

「……なるほど。確かに男を狂わせるには十分な器だ。だが、それだけだな。魔力こそあれど、使い方も知らぬ無能。これが我がヴァルカニアであれば、初日に奴隷へ落とされるか、あるいはその場で首を刎ねられている」

髪を掴むバルツァーの手が、さらにきつく締まる。頭皮を剥ぎ取られるような激痛がルミを襲った。
だが、ルミの視線は、ずっと遠く、部屋の入り口近くに立ち尽くす、あの漆黒の軍服だけを捉えていた。
アルヴィーノは、ただそれを見ていた。
微動だにせず、一歩も動かず、呼吸すら止まったかのような静寂の中で、最愛の伴侶が異国の怪物の前で蹂躙される様を、ただ見つめていた。
その網膜に、ルミの痛みに耐える細い眉が焼き付く。
その鼓膜に、ルミの長い髪が乱暴に引きちぎられるような音が響く。

(殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――)

アルヴィーノの精神の最奥で、悍ましい漆黒の嵐が吹き荒れていた。
極大魔法の構築は、すでに脳内で完璧に完了している。
詠唱など必要ない。
ただ指先をほんの数ミリ、上へ向けるだけで、この謁見の間を、この城を、このヴァルカニア帝国という傲慢な国家そのものを、狂気で消滅させることができる。
あの時交わした王命の枷が、これほどまでに己を縛り付ける呪いになっている。

(動くな。ここで私が動けば、ルミが死ぬ。レイストールが死ぬ。この子の耐えている血の滲むような覚悟が、すべて無に帰す――)

理性の鎖が、アルヴィーノの肉体を辛うじて玉座の間に縫い留めていた。
漆黒の軍服の袖口、きつく握りしめられた手袋の奥で、爪が肉を突き破り、鮮血が手のひらを濡らしていく。
だが、その激痛すら、彼の酷薄な「魔王」の仮面を剥ぎ取ることはできなかった。
その切れ長の深い紫の瞳は、絶対的な零度を保ったまま、皇帝を射抜いていた。

「……ふん、つまらん。一泣きすれば興も湧いたものを、本当にただの人形だな。興が削がれた、返してやれ」

皇帝が退屈そうに手を振る。
その瞬間、バルツァーはルミの髪を乱暴に放り出し、その背を足蹴にするようにして突き放した。

「戻れ、人形め」

冷たい石床に、ルミの身体が叩きつけられる。
鈍い痛みが全身を走った。
けれどルミは、声を上げることもなく、ただゆっくりと、泥の中から立ち上がる白百合のように身体を起こした。
乱れた水色の髪を、紺色の手袋で静かに整え、一歩、また一歩と、確実な足取りで元の場所へと戻っていく。
向かう先は、ただ一つ。
漆黒の軍服が作り出す、最も暗く、最も安全な、彼の「影」の中。
ルミがアルヴィーノの斜め後ろ、定位置へと収まった瞬間。
二人の視線は、やはり交わらなかった。
けれど、アルヴィーノの背中から漏れ出る、押し殺された絶望の体温を、ルミは確かにその肌で感じていた。

(大丈夫、アルヴィーノ。俺は、壊れてないよ。だから、あなたの刃を鈍らせないで……)

届かぬ祈りを胸に抱き、ルミは再び完璧な従者として傅いた。

「――ヴァルカニア帝国皇帝陛下」

その時、張り詰めた静寂を破り、アルフレッドが毅然と二人の前に立ちはだかった。
その背中は、弟たちの流した血と涙のすべてを覆い隠すかのように、大きく、そして圧倒的に頼もしかった。
アルフレッドの青い瞳には、いつもの優しさは微塵もない。
そこに宿るのは、対話の限界を知り、それでもなお国を守るために「威厳」という武器を完全に掌握した、新王の冷徹な光だった。

「我が軍師の『手足』への検分は、それで満足いただけたかな。……これ以上の無礼は、我がレイストール王国への宣戦布告と見なす。……さて、これより本題に入ろう。国境線を巡る我が国の条件を、提示させていただく」

アルフレッドの声が、謁見の間を完全に支配する。
新王の背後で、完全に感情を封殺した「魔王」が静かに牙を研ぎ、その影の中で、誇り高き「人形」が静かに息を潜める。
レイストールの光と影、そしてその深淵に潜む絆。
ヴァルカニアという怪物の胃袋の中で、彼らの命を賭けた、本当の対話が今、幕を開けた。
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