主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを

氷の魔王と虚飾の箱庭①


夕闇が、黄金色に染まるレイストール王宮の回廊を深く、重く侵食していく。
季節は秋。乾いた風が窓を叩くたび、枯葉が擦れ合う微かな音が静寂に紛れ込んだ。
ルミは、いつものように純白のロリータ服に身を包み、主の数歩後ろを歩いていた。
水色の長い髪が、歩調に合わせて小さく揺れる。その瞳は、秋の夕暮れの寒色を映したかのように、どこか沈んでいた。

(主と、従者……)

脳裏で、その言葉が何度も反芻される。
夜の帳が下り、二人きりの私室に閉じこもれば、彼はルミを壊れ物を扱うように抱きしめ、「ルミ」とその名を甘く囁いてくれる。
それは間違いなく、生涯を誓い合った【伴侶】としての時間だった。
しかし、一歩部屋を出れば、自分は彼の影に傅く一介の従者にすぎない。
周囲の貴族たちから向けられる、値踏みするような視線、軽蔑、あるいは好奇。
そのたびにルミの胸は、目に見えない茨で締め付けられるように軋んだ。

「……何を考えている」

前を行く漆黒の軍服が、不意に足を止めた。
アルヴィーノが、切れ長の深い紫の瞳を僅かに細めて振り返る。
冷酷非情と恐れられるその貌に、ルミにしか判別のつかない微かな憂慮が浮かんでいた。

「あ……いえ、なんでもありません、アルヴィーノ様。少し、寒くなってお召し物が恋しくなる季節だな、と」

ルミは慌てて微笑み、いつもの無邪気な従者の仮面を被る。
アルヴィーノはそれ以上追及しなかったが、昏い瞳の奥に、見透かすような光を宿らせたまま、再び歩き出した。
向かう先は、新王アルフレッドの執務室。
私的な呼び出しにしては、その空気はあまりにも重苦しかった。
重厚な木製の扉が開くと、そこには普段の朗らかな笑みを完全に消し去ったアルフレッドが佇んでいた。
今や一国の命運を背負う新王としての冷徹な覇気を纏っている。

「よく来てくれたね、アルヴィーノ。それに、ルミくんも」
「陛下、急な召集ですが……何事でしょうか。内政には関わらぬ、それが先日の『約束』だったはずですが」

アルヴィーノの声音は平坦だったが、その響きには明確な拒絶が含まれていた。
かつて大喧嘩の末に交わした、軍政への専念。
それを破るかのような呼び出しに、軍師としての不快感を隠さない。
アルフレッドは机の上に置かれた一通の親書に視線を落とした。
そこには、軍事大国として知られる隣国の紋章が刻印されている。

「のっぴきならない事情だ。来月、我が国との国境線に関する重要な外交交渉が行われる。先方はこちらの『出方』を試すために、異例とも言える強硬な条件を突きつけてきた。……これに対抗できるのは、我が国の『隠し刃』だけだ」

アルヴィーノの眉が、僅かにピクリと動いた。

「私を同行させると? 陛下、貴方は以前、私のような『魔王』を外交の場に連れて行けば、相手を恐怖で平伏させるだけだと仰った。それは対話ではない、と」
「状況が変わったんだ」

アルフレッドは青い瞳を鋭く光らせ、真っ直ぐに弟を見据えた。

「これは対話ではなく、牽制だ。僕がどれだけ言葉を尽くしても、相手がこちらを舐めてかかれば意味がない。君という『絶対的な武力』を僕の背後に侍らせることで、初めて対等の机につくことができる。……レイストールの王として命じる。アルヴィーノ、今回の外交に同行せよ」

王としての、絶対的な命令。
アルヴィーノはしばらく沈黙し、やがて不承不承といった様子で頭を下げた。

「……御意。王の御命とあらば、冷たく鋭き刃となりて、その背を護りましょう」
「感謝する。……さて、本題はここからだ」

アルフレッドの視線が、アルヴィーノの斜め後ろで息を潜めていたルミへと移った。
その瞳には、いつもの「いいお兄ちゃん」としての温かさはなく、冷厳な統治者のそれがあった。

「ルミくん。今回の外交には、君も同行してもらう」

その言葉に、ルミの身体がびくりと強張った。
同時に、それまで微動だにしなかったアルヴィーノの周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
魔王の無意識の魔圧が室内に霧散した。

「……陛下。冗談が過ぎます。なぜ、私の私属の従者にすぎぬルミを連れて行く必要があるのです。これは国家の命運を賭けた外交の場のはずだ」

アルヴィーノの声は、低く、地這うような威嚇を孕んでいた。
ルミを戦火や政治の泥沼に巻き込みたくないという、強烈な拒絶。
しかし、アルフレッドは怯まなかった。
彼は深く息を吐き、組んだ両手の上に顎を乗せ、二人を静かに見つめた。

「冗談に見えるかい? アルヴィーノ。……貴族たちの間で、まことしやかに囁かれている噂を、君の耳には届いていないとでも?」
「噂?」
「君の元へ毎日のように届く、国内外からの高貴な令嬢たちとの縁談。それを君は、一顧だにせず全て叩き返しているね。理由は『軍務に多忙』。だが、そんな言い訳がいつまでも通用すると思うかい?」

アルフレッドの言葉は、鋭い針のようにルミの胸に突き刺さった。
ルミは思わず拳を握りしめ、俯く。

「一部の有力貴族たちが、妙な疑念を持ち始めている。『アルヴィーノ殿下がこれほど頑なに縁談を拒むのは、常に身辺に侍らせている、あの素性不詳の美しい従者に入れ込んでいるからではないか』……とね」
「下らぬ邪推を」

アルヴィーノが吐き捨てる。
だが、アルフレッドは言葉を止めない。

「下らなくとも、それが政治だ。彼らは君たちの関係が、単なる【主従】ではないのではないかと疑っている。もし、我が国の最強の軍師が、一人の従者に狂って理性を失っていると判断されれば、国内外の敵に格好の隙を与えることになる。……君たちがどれほど完璧に仮面を被っているつもりでも、君がルミくんに向ける視線の僅かな体温、ルミくんが君を気遣う仕草の端々に、隠しきれない『情』が漏れ出ているんだよ」

部屋を支配する沈黙は、あまりにも重かった。
ルミは唇を噛み締めた。
自分が、彼の足を引っ張っている。彼を「魔王」たらしめる完璧な仮面に、自分がヒビを入れてしまっている。
主従という関係の脆さと、伴侶という秘められた関係の危うさが、津波のように押し寄せてルミを呑み込もうとしていた。

「だからこそ、だ」

アルフレッドは声を一段と低くした。

「ここでルミくんを王宮に置いていけば、『噂を恐れて遠ざけた』と思われる。逆に、今回の過酷な外交の場に、あえて『ただの便利な道具(従者)』としてルミくんを伴って出向く。周囲の目の前で、冷酷に彼を扱い、有能な駒として使ってみせるんだ。それによって初めて、貴族たちの邪推は霧散する。『やはり、ただの便利な手駒にすぎなかったのだ』とね」
「……ルミを、衆目の前で道具として扱えと?」

アルヴィーノの紫の瞳に、明確な殺意が宿った。
極大魔法すら無詠唱で放つ彼の手が、かすかに震える。
それは怒りか、あるいは――。

「そうだ。それが、君たちが【伴侶】として永遠に添い遂げるために必要な、欺瞞の儀式だ」

アルフレッドの言葉は、残酷でありながらも、二人を守るための唯一の最適解だった。
新王としての威厳の裏に、弟たちの未来を憂う兄としての覚悟が滲んでいた。

「……分かり、ました」

不意に、細い声が室内に響いた。
アルヴィーノが驚いたように振り返る。
ルミはゆっくりと顔を上げ、透き通るような水色の瞳で、新王と、そして最愛の主を見つめていた。
その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、悲痛なまでの決意が宿っていた。

「陛下のおっしゃる通りです。俺は、アルヴィーノ様の従者です。……主の栄光に泥を塗るくらいなら、どんな風に扱われたって構いません。どうか、俺を連れて行ってください。完璧な『駒』として、お役に立ってみせます」
「ルミ……」

アルヴィーノがその名を呼びかけるが、ルミはあえて一歩下がり、美しく完璧な従者の礼を取った。

「これは、俺たちが生き残るための戦いです。アルヴィーノ様」

私室での甘い関係も、永遠の誓いも、全てはこの冷酷な世界の裏側に隠された真実。
表舞台に立つ以上、徹底的に冷酷な「魔王」と、その「哀れな玩具(駒)」を演じきらねばならない。
アルヴィーノは深く、深く目を閉じた。再びその瞼が開かれたとき、そこにあったのは、あらゆる感情を削ぎ落とした「慈悲なき軍師」の冷徹な光だった。

「……承知いたしました、陛下。従者ルミを同行させます」
「よく言ってくれた。出発は三日後だ。期待しているよ、我が隠し刃たち」

アルフレッドの言葉を最後に、三人はそれぞれの覚悟を胸に抱いた。
秋の夜長が、三人を取り巻く影をより一層深く、色濃く塗り潰していく。
光の新王と、影の魔王、そしてその陰に潜む、切なき従者。
彼らの、本当の仮面劇が今、始まろうとしていた。


新王アルフレッドの執務室を辞し、深く長い回廊を渡る間、二人の間に言葉はなかった。
コツコツと響くアルヴィーノの軍靴の音と、それに遅れまいと続くルミの微かな足音だけが、冷えた空気の中に溶けていく。
王宮の窓から差し込む月光は冷酷なまでに白く、二人の間に横たわる【主従】という名の距離を、残酷に浮き彫りにしていた。
私室の重厚な扉が閉まり、完全に遮断された空間になった瞬間、世界は深い沈黙に支配された。
いつもなら、扉が閉まればアルヴィーノはすぐに軍服の手袋を脱ぎ捨て、ルミをその腕の中へと引き寄せる。
ルミもまた、張り詰めていた緊張を解き、甘えるようにその胸に顔を埋める。
それが、二人が命を繋ぎ止めるための、夜の儀式だった。

しかし、今夜は違った。

アルヴィーノは部屋の中央に佇んだまま、微動だにしない。
漆黒の軍服に包まれた背中は、まるで精緻な彫刻のように硬直していた。
ルミはその数歩後ろで、ただ床の一点を見つめていた。
水色の長い髪が、微かに震える肩にまとわりつく。

「……ごめんね、アルヴィーノ」

沈黙を破ったのは、ルミの掠れた声だった。
「様」を外した、二人だけの秘密の呼び方。
けれど、その響きには甘えなど微塵もなく、ただ暗い後悔だけが滲んでいた。

「俺のせいで……俺が、アルヴィーノの完璧な仮面に傷をつけた。アルヴィーノがどれほど冷徹な軍師として振る舞っていても、俺が傍にいるせいで、周りにそんな汚い邪推をさせる隙を与えてしまったんだ。研究所から救ってもらって、それからもずっと、あなたに守られてばかりなのに……俺は、また足を引っ張って……」

ルミは拳をきつく握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
けれど、胸の奥を掻きむしるような自責の念に比べれば、そんな痛みは何の慰めにもならなかった。
自分がもっと完璧な人形でいられれば。
彼に向ける視線に、一瞬でも熱を孕ませたりしなければ。

「……違う」

低く、押し殺したような声が室内に響いた。
アルヴィーノがゆっくりと振り返る。
その深い紫の瞳には、ルミに対する怒りなど微塵もなかった。
そこにあるのは、底知れぬ懊悩と、己の無力さに対する激しい憤怒だった。

「責めるべきは貴方ではない、ルミ。……私だ」

アルヴィーノは一歩、ルミへと足を進めたが、その手は虚空で止まった。
いつもなら躊躇いなく触れることができるその白い頬が、今は酷く遠く感じられた。

「貴方を道具として扱い、使えないものはその場で見切りをつける……。それが周辺国から『魔王』と恐れられる私の、唯一無二の合理だったはずだ。だが、今の私はどうだ。貴方が政治の波風に晒されることを恐れ、貴方を守るために、あまりにも多くの『隙』を晒してしまった。縁談を断り続けたのも、貴方を誰の目にも触れさせたくなかった私の独占欲だ。……私に、軍師を名乗る資格などない」

アルヴィーノの声音には、いつもの理知的な響きはなかった。
三日後、他国の、そして自国の貴族たちの衆目が集まる戦場で、彼はルミを再び『駒』として扱わねばならない。
かつて、心を殺して耐えていた研究所の日々から救い出したはずの彼を、今度は自分自身の手で、再び冷酷に踏みつけ、傷つけなければならないのだ。
使い道のない無能な道具。
いつでも替えのきく、哀れな玩具。
周囲にそう信じ込ませるために、アルヴィーノはルミに冷徹な言葉を浴びせ、突き放し、その心を衆目の前で切り刻む必要がある。

(私が……この手で、再びこの子を地獄へ落とすのか)

全属性の魔法を極め、禁術すら容易く操る「魔王」が、目の前にいる最愛の伴侶一人を、傷つけずに守ることすらできない。
王命という絶対の枷、政治という目に見えない怪物を前に、己の振るう強大な武力がどれほど無価値なものであるかを、アルヴィーノは嫌というほど突きつけられていた。
その歯痒さに、アルヴィーノは奥歯を噛み締めた。
口内に、微かな鉄の味が広がる。
二人の間に流れる空気は、どこまでも重く、痛ましかった。
お互いを想うがゆえに、自分を責め、お互いの傷口を広げ合っている。
ルミは、アルヴィーノの紫の瞳の奥にある絶望を見てとった。
冷酷非情な彼が、自分のためにここまで苦しんでいる。
これ以上、彼にこんな顔をさせてはいけない。
三日後の本番を前に、二人の絆がこの懊悩で摩耗してしまえば、それこそアルフレッドの提示した「欺瞞の儀式」は失敗に終わるだろう。

(強くならなきゃ。俺は、アルヴィーノの『隠し刃』の、さらに影になるんだから)

ルミは深く息を吸い込み、固めていた拳を解いた。
そして、消え入りそうな、けれど確かな光を宿した瞳でアルヴィーノを見上げた。

「……ねえ、アルヴィーノ」

ルミは一歩、アルヴィーノへと近づいた。
その小さな身体から、いつもの無邪気な、けれどどこか切ない我が儘がこぼれ落ちそうになる。

「隣国に向かうまでの、この三日間だけでいいから。……三日間だけは、俺の我が儘を……」

『俺を、たくさん抱きしめて』
『愛してると、何度も言って』
『ただのルミとして、側にいさせて』

喉元まで出かかったその言葉を、ルミは辛うじて飲み込んだ。
言えば、アルヴィーノは間違いなく自分を壊れるほどに抱きしめるだろう。
そしてその温もりは、三日後に始まる「冷酷な主従劇」の最中、自分たちを余計に苦しめる劇薬になる。
甘えを知ってしまった心で、あの冷たい軍師の瞳に耐えられる自信が、今のルミにはなかった。
これ以上ここにいれば、張り詰めた糸が切れて、泣き崩れてしまう。

「……ううん、なんでもない」

ルミは無理に微笑みを作った。
水色の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる前に、くるりと背を向ける。

「三日後のために、俺、完璧な『道具の作法』をおさらいしてくる。……おやすみなさい、アルヴィーノ様」

あえて最後に「様」をつけ、ルミは振り返ることなく、逃げるように私室の扉へと走った。
パタン、と静かな音を立てて扉が閉まり、ルミの気配が完全に消える。
残された広い部屋の中、アルヴィーノはぽつんと佇んでいた。
伸ばしかけた右手は、行き場を失って虚空を彷徨い、やがて力なく落とされる。

「……ルミ」

主の呟きは、誰に届くこともなく、秋の夜の静寂の中に深く沈んでいった。
三日後に迫る「魔王」と「人形」の舞台劇。
その幕が上がるまでのカウントダウンが、静かに、そして容赦なく始まっていた。


夜明け前の空は、凍てつくような鉛色をしていた。
朝靄が深く立ち込める王宮の馬車溜まりは、まるでこれから始まる欺瞞の舞台を隠す帳のようだった。

出発の朝。
ルミの姿は、いつもの純白のロリータ服ではなかった。
身に纏っているのは、上質な、けれど一切の装飾を削ぎ落とした、深い紺色の従者服。
首元まで厳格にボタンで留められた仕立ては、彼の華奢な身体を無理に「機能の一部」として型嵌めているように見えた。
腰まであった水色の長い髪は、乱れなく一つに束ねられ、背の後ろで静かに垂れている。
それは、感情を殺し、ただ主の影として生きる「完璧な道具」の佇まいだった。

数歩前を行くアルヴィーノは、いつもと変わらぬ漆黒の軍服に身を包んでいる。
王族の威厳と、軍師としての冷徹さを誇示するその背中は、あまりにも遠い。

二人の間に、言葉はなかった。
それどころか、視線すら一度も交わさない。
ルミは主の斜め後ろ、影が落ちる位置に視線を固定し、アルヴィーノもまた、前方の闇だけを見据えて歩を進める。
ひとたび目を合わせれば、昨日までその奥に揺らめいていた「熱」が漏れ出してしまう。
互いを守るための拒絶が、静かな、けれど決定的な壁となって二人を隔てていた。

やがて見えてきた大型の馬車。
その前では、すでに旅装を整えた新王アルフレッドが、冷徹な統治者の眼差しで待っていた。

「揃ったね。……乗ってくれ」

朗らかな笑みはそこにはない。
アルフレッドの声に促され、アルヴィーノが先に馬車へと乗り込む。
ルミは一瞬だけ、己の立場を弁えるように、最後に馬車へと足をかけた。

馬車が軋んだ音を立てて動き出す。
車輪が石畳を叩く規則的な音だけが、ひどく密閉された空間に響き渡った。

車内の空気は、窒息しそうなほどに重かった。
対面に座るアルフレッドとアルヴィーノ。
そして、アルヴィーノの斜め後ろ、従者としての定位置に浅く腰掛け、気配を消しているルミ。
アルフレッドは膝の上に広げた数枚の書類に目を落としながら、低い声で語り始めた。

「これから向かう『ヴァルカニア帝国』について、今一度頭に入れておいてほしい」

乾いた紙の音が響く。

「ヴァルカニアは、徹底した軍国主義、そして冷酷なまでの階級社会だ。特に彼らは、主従の『秩序』を何よりも重んじる。主が従者に甘えを許すこと、あるいは従者が主に馴れ馴れしくすることを、彼らは『国家の規律を乱す狂い』として最も嫌悪し、蔑む」

アルフレッドの碧眼が、書類から離れてアルヴィーノ、そしてその背後のルミへと向けられた。

「今回の国境線を巡る交渉で、彼らは必ずこちらの『隙』を探してくる。もし、我が国の最高軍師が、一人の従者に特別な感情を抱いていると察知されれば、そこは執拗に攻め立てられるだろう。『情に流される軍師など恐るるに足りず』と侮られれば、交渉の主導権は完全に奪われる」
「……百も承知です、陛下」

アルヴィーノの声は、完全に感情を削ぎ落まれた氷のようだった。
細く切れ長の深い紫の瞳は、対面の兄だけを見据えている。
その視線のほんの数センチ横にいる最愛の伴侶には、決して焦点を合わせない。

「ヴァルカニアの現皇帝は、冷徹な合理主義者。彼が求めているのは、対等に渡り合える『怪物』か、あるいは踏み潰せる『弱者』か、そのどちらかだ。私が奴らの前で見せるべき姿は、前者でしかない」
「そうだ。だからこそ、念を押させてもらう」

アルフレッドは声をさらに一段、沈めた。それは警告であり、残酷な宣告でもあった。

「帝国に滞在している間――いや、この馬車が一歩国境を越えたその瞬間から、ルミくんを【伴侶】として扱うことは一切許されない。公の場はもちろん、どれほど厳重に遮断された客室のなかであっても、だ。壁に耳があると思え。常に誰かの視線があると思え。アルヴィーノ、君はルミくんを、ただの『便利な道具』として、時には無価値な『駒』として扱わねばならない」

その言葉が車内に落とされた瞬間、ルミは膝の上でそっと拳を握りしめた。
紺色の手袋に包まれた指先が、微かに震える。
一切、許されない。
どれほど夜が深く、誰も見ていないと思える場所であっても、彼を「アルヴィーノ」と呼ぶことはできない。
その胸に抱きしめられることも、冷えた指先を温め合うこともできない。
ただの、一介の便利な従者。
名前すら、まともに呼ばれないかもしれない。

(わかっていたこと。これは、俺たちが一緒にいるための戦いなんだから)

ルミは心の中で何度もそう唱え、奥歯を噛み締めて俯いた。
水色の瞳が、痛みに耐えるように細められる。
アルヴィーノの横顔は、まるで酷薄な仮面そのものだった。
だが、その軍服の袖口、きつく握られた手袋の奥で、どれほど激しい懊悩が渦巻いているか、ルミには痛いほど分かった。
魔法を極めた男が、今、己の感情を完全に封殺する禁術を己自身にかけているかのように、その輪郭は強張っている。
己の冷徹さを証明するために、最も愛する者を衆目の前で貶めなければならない。
その精神的肉刑とも言える苦痛を、アルヴィーノは無言で受け入れていた。

「ルミくん」

アルフレッドが、今度はルミの名を呼んだ。

「君にとっても、酷な旅になる。ヴァルカニアの貴族たちは、他国の、それも素性不詳の従者に対して、信じられないほど不躾で残酷な言葉を投げかけてくるだろう。それに耐え、なおかつアルヴィーノの『冷酷な駒』であり続けられるかい」

ルミはゆっくりと顔を上げた。
恐怖も、悲しみも、すべてを削ぎ落とした、透き通るような水色の瞳。

「はい、陛下。……俺は、アルヴィーノ様の従者です。主の御心のままに動く、ただの道具。それ以外のものは、この身にはありません」

淀みなく紡がれたその声は、かつて研究所で心を殺していた頃の人形のような響きを、微かに孕んでいた。
その声を聞いた瞬間、アルヴィーノの眉間が一瞬だけ、ほんの一薄皮だけ歪んだのを、ルミは見逃さなかった。
主の胸を切り裂くような歯痒さが、車内の沈黙をさらに重くしていく。

「……結構」

アルフレッドは短くそう言うと、再び書類へと視線を戻した。

馬車は北へとひた走る。
窓の外の景色は、徐々に秋の彩りを失い、荒涼とした冬の気配を帯び始めていた。
互いの距離は、手を伸ばせば届くほどに近い。
なのに、二人の間には、世界で最も遠い【主】と【従者】という名の深淵が横たわっていた。
冷酷な魔王と、感情を持たぬ人形。
その完璧な偽りの仮面劇の舞台へ向けて、馬車は容赦なく進んでいく。
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