主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
魔王の夜、天使の朝 〜最愛のために世界を壊す王族たちと、毛布を掛ける愛しき人〜③
――幽閉から、一週間。
執務室の空気はもはや澱みを通り越し、呼吸するだけで肺の奥が灼けるような錯覚を覚えるほどに緊迫していた。
机の上に聳え立つ書類の山は、二人の天才が不眠不休で筆を走らせ続けたにもかかわらず、ようやく「半分」を消化したに過ぎない。
減る兆しの見えない羊皮紙の束は、まるで二人の精神を貪り食うために増殖し続ける異形の怪物のようだった。
最低限の乾パンと水が扉の隙間から差し込まれ、数時間の浅い仮眠だけが許される。
だが、そんな細切れの休息で回復するほど、彼らの疲弊は生易しいものではなかった。
「……あり得ないと言っているだろう、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は、掠れ、完全に割れていた。
かつての朗らかな声音の面影は微塵もない。
目の下には色濃い隈が刻まれ、碧眼の光は凍てついた刃のように鋭く尖っている。
「東部領の徴税権を一部とはいえ民間に委託するなど、王権の弱体化を招く。お前が更地にした貴族の穴埋めを急ぐあまり、国家の根幹を揺るがす真似は絶対に認めない。却下だ」
「……ならば、貴方が代わりの案を今すぐ出しなさい、陛下」
アルヴィーノの応えは、地を這うような呪詛に近かった。
少し癖のある紫の髪は乱れ、細く切れ長の深い紫色の瞳は、昏い殺意を隠そうともせずに兄を射抜いている。
一週間、ルミの髪に触れていない。
あの無邪気な声を聞いていない。
あの子のいない空間は、アルヴィーノにとって緩やかな精神の死と同義だった。
ルミが今、自分を待って健気に過ごしているだろうことは想像がつく。
だからこそ、自分の不手際のツケのために、これ以上あの子を一人にさせておくわけにはいかない。焦燥と渇愛が、彼の狂気を限界まで押し上げていた。
「私の案が不服なら、貴方がその無能な頭を絞って二十四時間以内に新たな法案を組み上げればいい。それができないのであれば、私の裁決に従いなさい。これ以上の遅延は、私の忍耐の枠組みを破壊する」
「言葉を慎めと、何度言えば理解する……!」
「黙りなさいッ!」
ドン、と激しい衝撃音が響き、最高級の黒檀で作られた机に亀裂が入った。
アルヴィーノが放った目に見えない魔圧の波動が、室内の調度品を激しくガタガタと震わせる。
一週間におよぶ精神的、肉体的極限状態。
そして、互いの最も嫌悪する急所を突き合う不毛な言論闘争は、ついにその限界点を突破した。
言葉による議論は破綻し、理性の残滓は消え失せた。
残されたのは、生存本能に近い、原始的な「力」による闘争だった。
「……どうしても従わないというのなら、力ずくでその傲慢な首を縦に振らせるまで」
アルヴィーノが立ち上がると同時に、執務室全体の重力が倍加したかのような、圧倒的な魔圧が吹き荒れた。
全属性の攻撃魔法に長け、禁術すら無詠唱で操る「魔王」の真実の力が、狭い室内に解放される。
漆黒の軍服が、立ち上る紫黒の魔力によって激しく翻った。
「兄貴分として、新王として、お前のその歪んだ暴力をここで叩き潰す」
アルフレッドもまた、即座に立ち上がった。
魔力においても純粋な戦闘力においても、弟に勝てないことは百も承知。
しかし、紆余曲折を経て優しさだけでは国を護れないと知った新王には、退けぬ意地があった。
アルフレッドの身体から、眩いばかりの純白の光属性の魔力が弾け出す。
治癒と保護の力を応用し、アルヴィーノが放つ凶悪な圧力を真っ向から押し返した。
ドッ、と空気が爆ぜる音が響き、二人の間に凄まじい衝撃波が走る。
アルヴィーノの指先から、無詠唱で放たれる不可視の烈風の刃。
それがアルフレッドの展開した光の障壁を激しく叩き、火花を散らす。
本来なら城壁をも容易く消し飛ばす一撃を、アルフレッドは己の魔力のすべてを注ぎ込んで防ぎ止める。
防戦一方でありながらも、その碧眼には王としての、そして兄としての狂気的な執念が宿っていた。
密室の中で、二人の最高位の魔術師による、静かで、しかし致命的な戦闘が繰り広げられる。壁の絵画が衝撃で粉々に砕け散り、床の絨毯が焦げ付く。
互いの肌を焼き、血を吐かせるような魔力の鬩ぎ合い。それはまさに、限界を迎えた兄弟による、意地と怨恨のぶつかり合いだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
激しい魔力の衝突の末、二人は同時に膝を突いた。
「ハァ、ハァ、……ここまでだ、アルヴィーノ。これ以上やれば、この部屋ごと、処理すべき書類もすべて灰になるぞ……!」
アルフレッドが肩を激しく上下させながら、血の混じった唾を吐き捨てる。
その言葉に、アルヴィーノは荒い息を吐きながら、忌々しげに周囲を見渡した。
――二人がどれほど命を削り、魔力を暴走させて闘争しようとも。
床に散らばり、机の上に鎮座する「書類の山」は、一枚たりとも減ってはいない。
魔法で燃やしてしまえば、それこそ国家の崩壊であり、アルフレッドの脅迫通りルミとの永久の別離を意味する。
どれほど理不尽な暴力を振るおうとも、この紙屑たちだけは、地道にペンで処理していく他ないのだ。
力での闘争すら、この地獄においては何の意味もなさなかった。
「……チッ」
アルヴィーノは乱れた紫の髪を乱暴にかき上げ、倒れた椅子を力任せに引き起こして座った。
その瞳には、深い徒労感と、言葉にできないほどの不服が濁らせている。
「……さっさと、次の書類を出しなさい。……陛下」
「……あぁ、そうさせてもらう」
アルフレッドもまた、震える手で羽ペンを拾い上げ、自身の席に戻った。
荒れ果てた室内。
破壊された調度品の破片が散らばる中、再び、カリカリと羊皮紙を引っ掻く、冷徹で不快な音だけが響き始める。
互いへの憎悪とイライラを極限まで募らせ、時には力で殴り合いながらも、彼らはまた、終わりのない無限地獄の作業へと戻っていく。
最愛の伴侶の元へ帰るため。
そして、新王としての責務を果たすため。
二人の王子は、狂気の一歩手前で踏みとどまりながら、ただ淡々と、終わりのない泥沼を這い回り続けるのだった。
◆
新王の執務室へと続く、長く薄暗い回廊。
そこに佇む近衛兵たちの身体は、数日前から極限の緊張によって完全に硬直していた。
彼らに与えられた任務は単純明快であり、同時に、この世のいかなる過酷な戦場よりも精神を摩耗させるものだった。
――『第二王子の退室を阻み、何びとも室内に近付けるな』。
重厚な二重扉の前に不動の姿勢で立つ二人の近衛兵、そして回廊の要所に配された警戒兵たちは、一週間以上もの間、交代の時間すら恐怖に震えながら過ごしていた。
ガチャン、と不定期に内側から響く、鈍い金属音。それは、最高位の魔術師たちが放つ魔圧の余波が、室内の調度品を破壊している音だった。
「……また、始まったな」
回廊の影で息を潜めるベテランの兵長が、兜の奥で冷や汗をにじませ、隣の若い兵士に低く囁いた。
その声は、万が一にも扉の向こうに届かぬよう、信じがたいほどの小声だった。
扉の隙間から漏れ出てくる空気は、もはや通常の王宮のそれではない。
全属性の攻撃魔法を無詠唱で操り、周辺各国から「魔王」と恐れられる第二王子アルヴィーノ。そ
して、光属性の加護を纏い、新王としての冷徹な覚悟を固めた第一王子アルフレッド。
二人の超常的な魔力が狭い密室で衝突するたび、回廊の石壁からは、じわじわと凍てつくような冷気と、肌を焼くような微細な電撃の残滓が伝わってくる。
兵士たちにとって、その空間の前に立ち続けることは、装填された魔導砲の砲口を凝視し続けるに等しかった。
「兵長……中の二人は、本当に人間なのですか」
若い近衛兵が、震える手で槍を握り直しながら呟いた。
「先ほどから、防壁魔法が軋むような音が響いています。まるで、この世の終わりだ。……あの『慈悲なき軍師』が、なぜこれほど長い間、一歩も外に出ずに耐えているのか、私には理解できません。力ずくで扉を破壊し、すべてを塵に帰すことなど、あのお方には容易い一仕事のはずだ」
「口を慎め」
兵長は鋭い視線で若者を制した。だが、その胸中にある恐怖は、若者以上のものだった。
「アルヴィーノ殿下がその暴挙に出ないのは、出られない理由があるからだ。新王陛下が、あの御方の『唯一の首輪』の所在を握っておられる。……我々が守っているのは、ただの木と鉄の扉ではない。この国の均衡そのものだ。もし、殿下が理性を失ってあの鍵を内側から吹き飛ばせば、その瞬間にこの城は更地になる」
王宮の兵士たちの間では、すでにいくつかの噂が恐怖と共に囁かれていた。
代理国王期間中の凄惨な粛清。
無能な者、不正を働いた者を「駒」として容赦なく切り捨てたアルヴィーノの冷酷さ。
そして今、その戦後処理という膨大な「泥沼」に、二人の王子が引きずり込まれている。
言葉による激しい論争、そして時には、壁一枚隔てたこちら側まで衝撃が伝わるほどの、凄まじい武力闘争。
だが、どれほど室内で破壊の音が響こうとも、数刻経てば、再びカリカリと羊皮紙を引っ掻く不快な音が、呪詛のように再開されるのだ。
兵士たちにとって最悪なのは、その「終わりが見えない」という点だった。
朝が来ても、夜が更けても、扉が開く気配はない。
時折、最低限の食事を運ぶ給仕の者が、死刑台に向かう罪人のような顔で扉の前に立つ。
近衛兵が厳重な施錠を一時的に解き、ほんの数寸だけ扉を開ける瞬間、室内の「空気」が回廊へ溢れ出す。
それは、寝不足と、互いへの憎悪、そして極限のイライラによって発酵した、濃度100%の殺気だった。
給仕の手は目に見えて震え、盆の上の水差しがカチカチと音を立てる。
中から聞こえるのは、低く、完全に温度を失った二人の声。
『……この文面は認めない。やり直せ、アルヴィーノ』
『……貴方のその無能な妥協案に付き合う時間は、一秒たりともないと言っているだろう、陛下』
すぐに扉は閉められ、再び重々しい錠が下りる。
その短い交差のたびに、警備の兵士たちは己の寿命が縮むのを実感していた。
「私たちは……いつまでこの地獄の門番を続ければいいのでしょう」
若き兵士が、疲弊のあまり弱音を漏らす。
彼らもまた、張り詰めた緊張感の中で数日間を過ごし、精神の限界を迎えていた。
「終わるまでだ。……あの書類の山が、すべて消え去るまで」
兵長は壁に背を預け、冷たい石の感触に耐えながら答えた。
激しい衝突があろうとも、どんなに凄惨な喧嘩が繰り広げられようとも、中の二人は決して作業を止めない。
一人は国を崩壊させないために。
もう一人は王宮の私室で自分を待っている、あの小柄な給仕の少年の元へ、一刻も早く帰るために。
その「執念」がある限り、二人の戦いは終わらない。そして、彼らが終わらせない限り、回廊を護る兵士たちにも、安息の夜は訪れないのだ。
遠くの本宮から響く鐘の音が、また一つ、終わりのない夜の更けたことを告げていた。
近衛兵たちはただ無言で槍を握り締め、己の背後にある、狂気と執念が渦巻く密室の気配に、五感を研ぎ澄まし続けるしかなかった。
◆
――幽閉が始まってから十数日。
新王の執務室を満たす空気は、もはや腐食を始めたかのように重く、息苦しかった。
かつて部屋の天井に届かんばかりに聳え立っていた書類の山は、二人の狂気的な執念によって、ようやく「残り三分の一」というところまで削り取られていた。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
最低限の睡眠と、喉を潤すだけの水。
それだけで文字通り心身を削り続けてきたアルヴィーノとアルフレッドは、とうに限界を超えていた。
羽ペンを握る指先は微かに震え、互いを見据える瞳には、言葉にできないほどの濃厚な疲弊と、極限のイライラが澱みのように溜まっている。
ガチャン、と重々しい鉄の錠が外れる音が、静まり返った回廊に響いた。
扉が数寸だけ開く。
だが、現れたのは食事を運ぶ給仕ではなく、死線を潜り抜けたような顔をした近衛兵の長だった。
彼は室内に満ちる、肌を刺すような魔圧に一瞬だけ身を竦ませたが、意を決して二人の王族の前に歩み出た。
「……両殿下、ならびに新王陛下。外の者より、物品の差し入れが届いております」
アルヴィーノは視線すら上げず、冷酷に言い放つ。
「失せろ。そのような雑務に割く時間はない」
「……お待ちください、アルヴィーノ様。これは、ルミ様より直接託されたものにございます」
ルミ、という名が兵士の口から漏れた瞬間、アルヴィーノの動きが完全に止まった。
細く切れ長の深い紫色の瞳が、鋭く兵士を射抜く。
兵士が恭しく差し出したのは、一通の小さな羊皮紙だった。
拙い筆跡で書かれた、しかし見紛うはずもない、最愛の仔からの手紙。
アルヴィーノは奪い取るようにそれを受け取り、乱暴に封を切った。
『アルヴィーノへ。
おしごと、がんばってくれてありがとう。マルタとおかしをつくったり、むらさきいろのまふらーをあんだりして、ちゃんと待ってるよ。だい好きだよ。だから、けんかしないで、はやくかえってきてね。
ルミより』
オブラートに包まれることのない、真っ直ぐで激しい愛の言葉。
それを視界に収めた瞬間、アルヴィーノの周囲に渦巻いていた凍てつくような殺気が、微かに和らいだ。
一週間以上もの間、あの仔の温もりに触れられず、狂気の一歩手前まで摩耗していた彼の精神の底に、至上の癒やしが染み渡っていく。
乾ききった心臓が、確かに熱を取り戻す。
(……待っていなさい、ルミ。すぐに帰る)
手紙を懐の最も肌に近い場所へと仕舞い込み、アルヴィーノは深く息を吐き出した。
ほんのわずか、しかし決定的なほどに、魔王の生命力が回復を遂げていた。
「――陛下、こちらにはエルザ様より、温かなスープが届いております」
兵士は続けて、アルフレッドの前に銀の器を置いた。
アルフレッドの正妃であり、いまや彼の最大の理解者となったエルザからの差し入れだった。
蓋を開ければ、まだ仄かな温もりを残した、滋味溢れるスープの香りが広がる。
王としての重責と弟との果てしない闘争で胃の腑を焼き切られていたアルフレッドは、震える手で木匙を取り、スープを口に運んだ。
「……美味いな」
温かい液体が身体に染み渡るにつれ、血走っていたアルフレッドの碧眼に、本来の聡明な光が戻っていく。
彼女もまた、この過酷な戦いを知り、陰ながら夫を支えようとしていたのだ。
新王としての孤独な戦いの中に、確かな救いがもたらされた瞬間だった。
「……よし。終わらせるぞ、アルヴィーノ」
「言われずとも。これ以上、あの仔を待たせるつもりはありません」
少しだけ回復した二人の天才は、凄まじい速度で残りの書類を精査し始めた。
互いへの不満を淡々とぶつけ合い、修正と裁可を繰り返す。終わりなき無限地獄の出口が、ようやく見え始めていた。
三分の二が終わり、残りはわずか。
数十枚、十数枚、そして――ついに、最後の一枚となった。
夜が最も深まる時間。室内の蝋燭が短くなり、微かに揺れる。
その最後の一枚の羊皮紙を、アルフレッドが静かに読み上げ、そして、その顔を凍りつかせた。
「……これは、認められない」
アルフレッドの声は低く、そしてこれまでにないほどに頑なだった。
「『代理国王期間中における、ルミの専属給仕職への永久固定、ならびに王宮内における第二王子私室の完全な独立治外法権化』……。アルヴィーノ、お前、どさくさに紛れて何を盛り込んでいる」
「言葉通りの意味ですが」
アルヴィーノは平然と、しかし紫の瞳に昏い光を宿して兄を見返した。
「あの仔は私の伴侶だ。表舞台で主従を演じるにしても、これ以上の令嬢たちの釣書や、無能な貴族どもがルミに近付く環境は看過できない。私の私室、ならびにルミの身分を完全に私の管理下に置く。これでこの国における『主従の仮面』は完璧なものとなる。新王である貴方が、これに署名すればすべては終わるのです」
「ふざけるなッ!」
アルフレッドが激しく机を叩いた。その碧眼には、王としての、そして兄としての、限界を超えた憤怒が爆発していた。
「独立治外法権だと!? 王宮の中に、私の命令すら届かないお前の『王国』を作れというのか! ルミくんを溺愛するのは勝手だ、だが一国の王族として、法を完全に無視した特権を認めるわけにはいかない! そんな不条理を許せば、せっかくお前が粛清した貴族たちへの示しがつかなくなる!」
「示しなど、恐怖で縛ればいいと言っているでしょう!」
アルヴィーノもまた立ち上がり、地を這うような咆哮を上げた。
懐にあるルミの手紙の温もりが、逆に彼の独占欲と執着を狂気的なまでに加速させていた。
「私はこの二週間、そしてこの十数日間、貴方の『甘い新体制』のために、この無価値な紙屑の山に付き合ってやったのだ! その報酬として、あの子との絶対的な平穏を要求して何が悪い! 貴様が署名しないというのなら、私は今この場で、その首を跳ねてでも、この書類に強制的に血のサインをさせますが!?」
「やってみろ、魔王ッ!!」
アルフレッドの全身から、眩いばかりの、しかし刺すような光属性の魔力が爆発的に吹き荒れた。
治癒の力を攻撃へと転換し、室内の空気を歪ませるほどの高密度な光の奔流が、アルヴィーノへと牙を剥く。
「お前はいつもそうだ! 自分の都合、自分の感情、ルミくんのことになれば国すら滅ぼしかねない! 私はお前の兄だ! お前が道を踏み外さないよう、手綱を握ると決めた! 王としての権威を、お前の私欲のために切り売りするつもりは毛頭ない!!」
「黙れ、アルフレッド……ッ!!」
アルヴィーノの紫の瞳が完全な殺意に染まり、無詠唱で極大魔法の構築が始まる。
漆黒の雷撃と、空間を引き裂く真空の刃が、アルフレッドの光の障壁と真っ向から衝突した。
ドゴォン!! と、これまでとは比較にならない凄まじい大爆発が執務室の中で巻き起こる。
長年、王宮を支えてきた強固な防壁魔法が悲鳴を上げ、二重の重厚な扉に深い亀裂が入った。回廊で警備していた兵士たちが、その凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、床に転がる。
「ひ、兵長……! 中で、二人が殺し合っています……!!」
「……入るな! 入れば死ぬぞ!!」
室内の調度品はすべて粉々に砕け散り、机の破片が宙を舞う。
しかし、その凄まじい暴風の渦中にあっても、アルヴィーノとアルフレッドは、互いの襟元を掴み合い、魔力だけでなく、肉体そのもので殴り合っていた。
「貴様さえ……貴様さえ認めれば、私はルミの元へ帰れるのだ!!」
アルヴィーノの拳が、アルフレッドの頬を激しく殴りつける。
軍師としての冷静さは完全に消失し、ただ一人の男としての、醜悪なまでの執着が牙を剥いていた。
「認めない……! 私は、王だ……! お前の暴走を止める、唯一の兄だ……ッ!!」
アルフレッドもまた、血を吐きながらアルヴィーノの胸ぐらを掴み返し、その顔面に拳を叩き込んだ。
善性100%だった男が、泥に塗れ、血を流し、実の弟と本気の殺し合いを演じている。
最後の一枚。
それさえ終われば、すべてが解決するはずだったその紙切れを巡り、二人の王子は互いの意地と矜持、そして限界に達した精神のすべてを爆発させ、荒れ果てた部屋の中で、獣のようにもつれ合い、大喧嘩を続けるのだった。
◆
王宮の最深部は、すでに一国の王族が語らう場ではなく、神話の戦場と化していた。
「認めろ……ッ! 認めろ、アルフレッド……!!」
「認めないと言っているだろう、アルヴィーノ……!!」
掴み合った襟元から互いの骨が軋む音が響き、至近距離から放たれる魔力の残滓が二人の肌を容赦なく灼く。
アルヴィーノの細く切れ長の深い紫色の瞳は、濁った狂気と執着に染まり、アルフレッドの碧眼は、血走るほどの疲弊の中でなお、退けぬ王の矜持を滾らせていた。
だが、極限状態の二人が放つ魔力は、もはや施錠された執務室の防壁魔法で抑え込める領域を遥かに超越していた。
城壁を構成する強固な石材が地鳴りのような音を立てて激しく震え、天井からは無数の亀裂と共に粉塵が舞い落ちる。
(――不味い)
肉体を引き裂き合うような応酬の最中、二人の天才の脳裏に、同時に冷徹な最悪の予測が過った。
このままこの場所で全力を解放すれば、王宮そのものが崩壊する。
そうなれば、ここからそう遠くない私室で、自分を待って健気に毛糸を編んでいるはずのルミに、その瓦礫が襲いかかる。
別室で夫の無事を祈り、温かいスープを届けてくれた正妃エルザの身にも、致命的な危険が及ぶ。
「……場所を変えるぞ、魔王ッ!」
「望むところだ、クソ兄上……!!」
互いの襟元を掴んだまま、二人の足元に巨大な転移の術式が爆発的に展開された。
大気が不自然に歪み、視界が漆黒と純白の光に塗りつぶされる。
次の瞬間、衝撃波と共に二人が姿を現したのは、王城から遥か遠く離れた、荒涼たる北方の演習広場だった。
見渡す限りの赤茶けた大地、遮るもののない吹きさらしの荒野。
ここならば、どれほど暴れ、どれほどの禁術を解き放とうとも、誰一人として巻き込む者はいない。
最愛の者たちを護るため、そして目の前の宿敵を完全にねじ伏せるため、二人の王子は同時に地を蹴り、距離を取った。
「これより先は、王としての、そして兄としての全霊を以て、お前のその歪んだ独善を叩き潰す!」
アルフレッドが叫ぶと同時に、その手元に光の粒子が収束し、一本の壮麗な聖剣の形を成した。優しさだけでは解決できない現実を知り、威厳を身につけた新王の魔力は、夜闇を真昼の如く照らし出す。
「神聖なる光の加護よ、我が呼び声に応え、不浄なる闇を切り裂く絶対の盾となれ――」
アルフレッドの口から、厳かな詠唱が紡がれる。
「――『ディヴァイン・アイギス』!!」
眩いばかりの純白の障壁が幾重にも重なり、荒野の天空を覆い尽くす。
それはあらゆる攻撃を拒絶する、光属性の最高峰に位置する防御結界だった。
対するアルヴィーノは、不敵に、そして冷酷に唇を歪めた。
漆黒の軍服を風に翻し、全属性の攻撃魔法を統治する軍師の、真の魔力が解き放たれる。
紫の髪が激しく逆立ち、彼の周囲の大気が、触れるものすべてを消滅させるほどの熱量で爆ぜ始めた。
「世界の理を紡ぐ万象の力よ、我が意思の下に集い、傲慢なる光を永劫の闇へと葬り去れ――」
無詠唱を誇る彼が、呪詛の如き詠唱を口にする。
それは、目の前の兄を文字通り叩き潰すための、最大威力の術式を構築している証左だった。
「――『カタストロフ・レイ』!!」
極大魔法が発動した。
天空から降り注いだのは、あらゆる属性の魔力が超高密度で圧縮された、終末の光条。
それはアルフレッドが展開した『ディヴァイン・アイギス』の光壁へと真っ向から突き刺さり、荒野全体を震撼させる大爆発を引き起こした。
ズズズ、と大地が陥没し、衝撃波によって何十マイルもの範囲の土砂が巻き上げられる。
純白の防壁と、紫黒の破滅の光が激しく鬩ぎ合い、互いを削り取っていく。
「ぐっ、うおおおおおおおッ!!」
アルフレッドは聖剣を地に突き立て、血を吐きながらも結界を維持し続ける。
治癒と保護の力を極限まで高め、弟の放つ理不尽な暴力を、その身を挺して受け止めていた。
「無駄です、兄上……! 貴方のその『優しさ』の盾では、私の執着を、ルミを我が腕に抱くための渇望を、防ぎ止めることなどできはしない!!」
アルヴィーノの指先が、次なる破滅を描く。
「凍てつく虚無の深淵よ、熱き命の灯火を奪い、世界を静寂なる墓標へと変えよ――『アブソリュート・コキュートス』!!」
大地から、一瞬にして超巨大な氷の槍が幾千も突き出し、アルフレッドの障壁を物理的に圧殺せんと襲いかかる。
大気が凍りつき、荒野は一瞬にして極寒の地獄へと変貌した。
氷の刃が光の壁を穿ち、アルフレッドの肩や脚をかすめ、鮮血が白い王族服を赤く染めていく。
「まだだ……! まだ終わらせん……! 私は、お前を止める王だ!!」
アルフレッドの碧眼が、限界を超えた魔力の暴走によって白銀に輝き出す。
彼は傷口から溢れる血を、自らの純粋な光の魔力で強制的に焼き、凝固させながら、前へと歩を進めた。
「天上の清冽なる光よ、我が身を媒介とし、すべての拒絶を打ち砕く一撃となれ――『シャイニング・クラウス』!!」
聖剣から放たれたのは、全てを浄化する無数の光の矢。
それが氷の槍を粉砕し、アルヴィーノの懐へと迫る。
アルヴィーノはそれを、即座に構築した風の障壁で受け止めたが、防ぎきれなかった光の刃が、彼の漆黒の軍服を裂き、その美しい頬に一筋の赤い線刻を刻んだ。
「……ハッ、素晴らしい。これほどの力を隠していたとは、流石はレイストールの新王だ」
頬の血を指で拭い、アルヴィーノの瞳が、いっそ愉悦に近い狂気に染まる。
互いに傷だらけになり、連夜の疲弊などとうに忘却の彼方へ吹き飛んでいた。
残されているのは、ただ互いの意地を、正義を、そして相手への限界を超えたイライラと怒りをぶつけ合うための、純粋な闘争本能。
荒涼たる大地の真ん中で、光と闇、氷と雷が激しく交錯し、天を裂き、地を割り続ける。
最後の一枚の書類に書かれた、たった一人の少年の未来を巡り、二人の王子による、国をも揺るがす壮大な兄弟喧嘩は、いまだ底知れぬ熱量を持って加速していくのだった。
――幽閉から、一週間。
執務室の空気はもはや澱みを通り越し、呼吸するだけで肺の奥が灼けるような錯覚を覚えるほどに緊迫していた。
机の上に聳え立つ書類の山は、二人の天才が不眠不休で筆を走らせ続けたにもかかわらず、ようやく「半分」を消化したに過ぎない。
減る兆しの見えない羊皮紙の束は、まるで二人の精神を貪り食うために増殖し続ける異形の怪物のようだった。
最低限の乾パンと水が扉の隙間から差し込まれ、数時間の浅い仮眠だけが許される。
だが、そんな細切れの休息で回復するほど、彼らの疲弊は生易しいものではなかった。
「……あり得ないと言っているだろう、アルヴィーノ」
アルフレッドの声は、掠れ、完全に割れていた。
かつての朗らかな声音の面影は微塵もない。
目の下には色濃い隈が刻まれ、碧眼の光は凍てついた刃のように鋭く尖っている。
「東部領の徴税権を一部とはいえ民間に委託するなど、王権の弱体化を招く。お前が更地にした貴族の穴埋めを急ぐあまり、国家の根幹を揺るがす真似は絶対に認めない。却下だ」
「……ならば、貴方が代わりの案を今すぐ出しなさい、陛下」
アルヴィーノの応えは、地を這うような呪詛に近かった。
少し癖のある紫の髪は乱れ、細く切れ長の深い紫色の瞳は、昏い殺意を隠そうともせずに兄を射抜いている。
一週間、ルミの髪に触れていない。
あの無邪気な声を聞いていない。
あの子のいない空間は、アルヴィーノにとって緩やかな精神の死と同義だった。
ルミが今、自分を待って健気に過ごしているだろうことは想像がつく。
だからこそ、自分の不手際のツケのために、これ以上あの子を一人にさせておくわけにはいかない。焦燥と渇愛が、彼の狂気を限界まで押し上げていた。
「私の案が不服なら、貴方がその無能な頭を絞って二十四時間以内に新たな法案を組み上げればいい。それができないのであれば、私の裁決に従いなさい。これ以上の遅延は、私の忍耐の枠組みを破壊する」
「言葉を慎めと、何度言えば理解する……!」
「黙りなさいッ!」
ドン、と激しい衝撃音が響き、最高級の黒檀で作られた机に亀裂が入った。
アルヴィーノが放った目に見えない魔圧の波動が、室内の調度品を激しくガタガタと震わせる。
一週間におよぶ精神的、肉体的極限状態。
そして、互いの最も嫌悪する急所を突き合う不毛な言論闘争は、ついにその限界点を突破した。
言葉による議論は破綻し、理性の残滓は消え失せた。
残されたのは、生存本能に近い、原始的な「力」による闘争だった。
「……どうしても従わないというのなら、力ずくでその傲慢な首を縦に振らせるまで」
アルヴィーノが立ち上がると同時に、執務室全体の重力が倍加したかのような、圧倒的な魔圧が吹き荒れた。
全属性の攻撃魔法に長け、禁術すら無詠唱で操る「魔王」の真実の力が、狭い室内に解放される。
漆黒の軍服が、立ち上る紫黒の魔力によって激しく翻った。
「兄貴分として、新王として、お前のその歪んだ暴力をここで叩き潰す」
アルフレッドもまた、即座に立ち上がった。
魔力においても純粋な戦闘力においても、弟に勝てないことは百も承知。
しかし、紆余曲折を経て優しさだけでは国を護れないと知った新王には、退けぬ意地があった。
アルフレッドの身体から、眩いばかりの純白の光属性の魔力が弾け出す。
治癒と保護の力を応用し、アルヴィーノが放つ凶悪な圧力を真っ向から押し返した。
ドッ、と空気が爆ぜる音が響き、二人の間に凄まじい衝撃波が走る。
アルヴィーノの指先から、無詠唱で放たれる不可視の烈風の刃。
それがアルフレッドの展開した光の障壁を激しく叩き、火花を散らす。
本来なら城壁をも容易く消し飛ばす一撃を、アルフレッドは己の魔力のすべてを注ぎ込んで防ぎ止める。
防戦一方でありながらも、その碧眼には王としての、そして兄としての狂気的な執念が宿っていた。
密室の中で、二人の最高位の魔術師による、静かで、しかし致命的な戦闘が繰り広げられる。壁の絵画が衝撃で粉々に砕け散り、床の絨毯が焦げ付く。
互いの肌を焼き、血を吐かせるような魔力の鬩ぎ合い。それはまさに、限界を迎えた兄弟による、意地と怨恨のぶつかり合いだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
激しい魔力の衝突の末、二人は同時に膝を突いた。
「ハァ、ハァ、……ここまでだ、アルヴィーノ。これ以上やれば、この部屋ごと、処理すべき書類もすべて灰になるぞ……!」
アルフレッドが肩を激しく上下させながら、血の混じった唾を吐き捨てる。
その言葉に、アルヴィーノは荒い息を吐きながら、忌々しげに周囲を見渡した。
――二人がどれほど命を削り、魔力を暴走させて闘争しようとも。
床に散らばり、机の上に鎮座する「書類の山」は、一枚たりとも減ってはいない。
魔法で燃やしてしまえば、それこそ国家の崩壊であり、アルフレッドの脅迫通りルミとの永久の別離を意味する。
どれほど理不尽な暴力を振るおうとも、この紙屑たちだけは、地道にペンで処理していく他ないのだ。
力での闘争すら、この地獄においては何の意味もなさなかった。
「……チッ」
アルヴィーノは乱れた紫の髪を乱暴にかき上げ、倒れた椅子を力任せに引き起こして座った。
その瞳には、深い徒労感と、言葉にできないほどの不服が濁らせている。
「……さっさと、次の書類を出しなさい。……陛下」
「……あぁ、そうさせてもらう」
アルフレッドもまた、震える手で羽ペンを拾い上げ、自身の席に戻った。
荒れ果てた室内。
破壊された調度品の破片が散らばる中、再び、カリカリと羊皮紙を引っ掻く、冷徹で不快な音だけが響き始める。
互いへの憎悪とイライラを極限まで募らせ、時には力で殴り合いながらも、彼らはまた、終わりのない無限地獄の作業へと戻っていく。
最愛の伴侶の元へ帰るため。
そして、新王としての責務を果たすため。
二人の王子は、狂気の一歩手前で踏みとどまりながら、ただ淡々と、終わりのない泥沼を這い回り続けるのだった。
◆
新王の執務室へと続く、長く薄暗い回廊。
そこに佇む近衛兵たちの身体は、数日前から極限の緊張によって完全に硬直していた。
彼らに与えられた任務は単純明快であり、同時に、この世のいかなる過酷な戦場よりも精神を摩耗させるものだった。
――『第二王子の退室を阻み、何びとも室内に近付けるな』。
重厚な二重扉の前に不動の姿勢で立つ二人の近衛兵、そして回廊の要所に配された警戒兵たちは、一週間以上もの間、交代の時間すら恐怖に震えながら過ごしていた。
ガチャン、と不定期に内側から響く、鈍い金属音。それは、最高位の魔術師たちが放つ魔圧の余波が、室内の調度品を破壊している音だった。
「……また、始まったな」
回廊の影で息を潜めるベテランの兵長が、兜の奥で冷や汗をにじませ、隣の若い兵士に低く囁いた。
その声は、万が一にも扉の向こうに届かぬよう、信じがたいほどの小声だった。
扉の隙間から漏れ出てくる空気は、もはや通常の王宮のそれではない。
全属性の攻撃魔法を無詠唱で操り、周辺各国から「魔王」と恐れられる第二王子アルヴィーノ。そ
して、光属性の加護を纏い、新王としての冷徹な覚悟を固めた第一王子アルフレッド。
二人の超常的な魔力が狭い密室で衝突するたび、回廊の石壁からは、じわじわと凍てつくような冷気と、肌を焼くような微細な電撃の残滓が伝わってくる。
兵士たちにとって、その空間の前に立ち続けることは、装填された魔導砲の砲口を凝視し続けるに等しかった。
「兵長……中の二人は、本当に人間なのですか」
若い近衛兵が、震える手で槍を握り直しながら呟いた。
「先ほどから、防壁魔法が軋むような音が響いています。まるで、この世の終わりだ。……あの『慈悲なき軍師』が、なぜこれほど長い間、一歩も外に出ずに耐えているのか、私には理解できません。力ずくで扉を破壊し、すべてを塵に帰すことなど、あのお方には容易い一仕事のはずだ」
「口を慎め」
兵長は鋭い視線で若者を制した。だが、その胸中にある恐怖は、若者以上のものだった。
「アルヴィーノ殿下がその暴挙に出ないのは、出られない理由があるからだ。新王陛下が、あの御方の『唯一の首輪』の所在を握っておられる。……我々が守っているのは、ただの木と鉄の扉ではない。この国の均衡そのものだ。もし、殿下が理性を失ってあの鍵を内側から吹き飛ばせば、その瞬間にこの城は更地になる」
王宮の兵士たちの間では、すでにいくつかの噂が恐怖と共に囁かれていた。
代理国王期間中の凄惨な粛清。
無能な者、不正を働いた者を「駒」として容赦なく切り捨てたアルヴィーノの冷酷さ。
そして今、その戦後処理という膨大な「泥沼」に、二人の王子が引きずり込まれている。
言葉による激しい論争、そして時には、壁一枚隔てたこちら側まで衝撃が伝わるほどの、凄まじい武力闘争。
だが、どれほど室内で破壊の音が響こうとも、数刻経てば、再びカリカリと羊皮紙を引っ掻く不快な音が、呪詛のように再開されるのだ。
兵士たちにとって最悪なのは、その「終わりが見えない」という点だった。
朝が来ても、夜が更けても、扉が開く気配はない。
時折、最低限の食事を運ぶ給仕の者が、死刑台に向かう罪人のような顔で扉の前に立つ。
近衛兵が厳重な施錠を一時的に解き、ほんの数寸だけ扉を開ける瞬間、室内の「空気」が回廊へ溢れ出す。
それは、寝不足と、互いへの憎悪、そして極限のイライラによって発酵した、濃度100%の殺気だった。
給仕の手は目に見えて震え、盆の上の水差しがカチカチと音を立てる。
中から聞こえるのは、低く、完全に温度を失った二人の声。
『……この文面は認めない。やり直せ、アルヴィーノ』
『……貴方のその無能な妥協案に付き合う時間は、一秒たりともないと言っているだろう、陛下』
すぐに扉は閉められ、再び重々しい錠が下りる。
その短い交差のたびに、警備の兵士たちは己の寿命が縮むのを実感していた。
「私たちは……いつまでこの地獄の門番を続ければいいのでしょう」
若き兵士が、疲弊のあまり弱音を漏らす。
彼らもまた、張り詰めた緊張感の中で数日間を過ごし、精神の限界を迎えていた。
「終わるまでだ。……あの書類の山が、すべて消え去るまで」
兵長は壁に背を預け、冷たい石の感触に耐えながら答えた。
激しい衝突があろうとも、どんなに凄惨な喧嘩が繰り広げられようとも、中の二人は決して作業を止めない。
一人は国を崩壊させないために。
もう一人は王宮の私室で自分を待っている、あの小柄な給仕の少年の元へ、一刻も早く帰るために。
その「執念」がある限り、二人の戦いは終わらない。そして、彼らが終わらせない限り、回廊を護る兵士たちにも、安息の夜は訪れないのだ。
遠くの本宮から響く鐘の音が、また一つ、終わりのない夜の更けたことを告げていた。
近衛兵たちはただ無言で槍を握り締め、己の背後にある、狂気と執念が渦巻く密室の気配に、五感を研ぎ澄まし続けるしかなかった。
◆
――幽閉が始まってから十数日。
新王の執務室を満たす空気は、もはや腐食を始めたかのように重く、息苦しかった。
かつて部屋の天井に届かんばかりに聳え立っていた書類の山は、二人の狂気的な執念によって、ようやく「残り三分の一」というところまで削り取られていた。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
最低限の睡眠と、喉を潤すだけの水。
それだけで文字通り心身を削り続けてきたアルヴィーノとアルフレッドは、とうに限界を超えていた。
羽ペンを握る指先は微かに震え、互いを見据える瞳には、言葉にできないほどの濃厚な疲弊と、極限のイライラが澱みのように溜まっている。
ガチャン、と重々しい鉄の錠が外れる音が、静まり返った回廊に響いた。
扉が数寸だけ開く。
だが、現れたのは食事を運ぶ給仕ではなく、死線を潜り抜けたような顔をした近衛兵の長だった。
彼は室内に満ちる、肌を刺すような魔圧に一瞬だけ身を竦ませたが、意を決して二人の王族の前に歩み出た。
「……両殿下、ならびに新王陛下。外の者より、物品の差し入れが届いております」
アルヴィーノは視線すら上げず、冷酷に言い放つ。
「失せろ。そのような雑務に割く時間はない」
「……お待ちください、アルヴィーノ様。これは、ルミ様より直接託されたものにございます」
ルミ、という名が兵士の口から漏れた瞬間、アルヴィーノの動きが完全に止まった。
細く切れ長の深い紫色の瞳が、鋭く兵士を射抜く。
兵士が恭しく差し出したのは、一通の小さな羊皮紙だった。
拙い筆跡で書かれた、しかし見紛うはずもない、最愛の仔からの手紙。
アルヴィーノは奪い取るようにそれを受け取り、乱暴に封を切った。
『アルヴィーノへ。
おしごと、がんばってくれてありがとう。マルタとおかしをつくったり、むらさきいろのまふらーをあんだりして、ちゃんと待ってるよ。だい好きだよ。だから、けんかしないで、はやくかえってきてね。
ルミより』
オブラートに包まれることのない、真っ直ぐで激しい愛の言葉。
それを視界に収めた瞬間、アルヴィーノの周囲に渦巻いていた凍てつくような殺気が、微かに和らいだ。
一週間以上もの間、あの仔の温もりに触れられず、狂気の一歩手前まで摩耗していた彼の精神の底に、至上の癒やしが染み渡っていく。
乾ききった心臓が、確かに熱を取り戻す。
(……待っていなさい、ルミ。すぐに帰る)
手紙を懐の最も肌に近い場所へと仕舞い込み、アルヴィーノは深く息を吐き出した。
ほんのわずか、しかし決定的なほどに、魔王の生命力が回復を遂げていた。
「――陛下、こちらにはエルザ様より、温かなスープが届いております」
兵士は続けて、アルフレッドの前に銀の器を置いた。
アルフレッドの正妃であり、いまや彼の最大の理解者となったエルザからの差し入れだった。
蓋を開ければ、まだ仄かな温もりを残した、滋味溢れるスープの香りが広がる。
王としての重責と弟との果てしない闘争で胃の腑を焼き切られていたアルフレッドは、震える手で木匙を取り、スープを口に運んだ。
「……美味いな」
温かい液体が身体に染み渡るにつれ、血走っていたアルフレッドの碧眼に、本来の聡明な光が戻っていく。
彼女もまた、この過酷な戦いを知り、陰ながら夫を支えようとしていたのだ。
新王としての孤独な戦いの中に、確かな救いがもたらされた瞬間だった。
「……よし。終わらせるぞ、アルヴィーノ」
「言われずとも。これ以上、あの仔を待たせるつもりはありません」
少しだけ回復した二人の天才は、凄まじい速度で残りの書類を精査し始めた。
互いへの不満を淡々とぶつけ合い、修正と裁可を繰り返す。終わりなき無限地獄の出口が、ようやく見え始めていた。
三分の二が終わり、残りはわずか。
数十枚、十数枚、そして――ついに、最後の一枚となった。
夜が最も深まる時間。室内の蝋燭が短くなり、微かに揺れる。
その最後の一枚の羊皮紙を、アルフレッドが静かに読み上げ、そして、その顔を凍りつかせた。
「……これは、認められない」
アルフレッドの声は低く、そしてこれまでにないほどに頑なだった。
「『代理国王期間中における、ルミの専属給仕職への永久固定、ならびに王宮内における第二王子私室の完全な独立治外法権化』……。アルヴィーノ、お前、どさくさに紛れて何を盛り込んでいる」
「言葉通りの意味ですが」
アルヴィーノは平然と、しかし紫の瞳に昏い光を宿して兄を見返した。
「あの仔は私の伴侶だ。表舞台で主従を演じるにしても、これ以上の令嬢たちの釣書や、無能な貴族どもがルミに近付く環境は看過できない。私の私室、ならびにルミの身分を完全に私の管理下に置く。これでこの国における『主従の仮面』は完璧なものとなる。新王である貴方が、これに署名すればすべては終わるのです」
「ふざけるなッ!」
アルフレッドが激しく机を叩いた。その碧眼には、王としての、そして兄としての、限界を超えた憤怒が爆発していた。
「独立治外法権だと!? 王宮の中に、私の命令すら届かないお前の『王国』を作れというのか! ルミくんを溺愛するのは勝手だ、だが一国の王族として、法を完全に無視した特権を認めるわけにはいかない! そんな不条理を許せば、せっかくお前が粛清した貴族たちへの示しがつかなくなる!」
「示しなど、恐怖で縛ればいいと言っているでしょう!」
アルヴィーノもまた立ち上がり、地を這うような咆哮を上げた。
懐にあるルミの手紙の温もりが、逆に彼の独占欲と執着を狂気的なまでに加速させていた。
「私はこの二週間、そしてこの十数日間、貴方の『甘い新体制』のために、この無価値な紙屑の山に付き合ってやったのだ! その報酬として、あの子との絶対的な平穏を要求して何が悪い! 貴様が署名しないというのなら、私は今この場で、その首を跳ねてでも、この書類に強制的に血のサインをさせますが!?」
「やってみろ、魔王ッ!!」
アルフレッドの全身から、眩いばかりの、しかし刺すような光属性の魔力が爆発的に吹き荒れた。
治癒の力を攻撃へと転換し、室内の空気を歪ませるほどの高密度な光の奔流が、アルヴィーノへと牙を剥く。
「お前はいつもそうだ! 自分の都合、自分の感情、ルミくんのことになれば国すら滅ぼしかねない! 私はお前の兄だ! お前が道を踏み外さないよう、手綱を握ると決めた! 王としての権威を、お前の私欲のために切り売りするつもりは毛頭ない!!」
「黙れ、アルフレッド……ッ!!」
アルヴィーノの紫の瞳が完全な殺意に染まり、無詠唱で極大魔法の構築が始まる。
漆黒の雷撃と、空間を引き裂く真空の刃が、アルフレッドの光の障壁と真っ向から衝突した。
ドゴォン!! と、これまでとは比較にならない凄まじい大爆発が執務室の中で巻き起こる。
長年、王宮を支えてきた強固な防壁魔法が悲鳴を上げ、二重の重厚な扉に深い亀裂が入った。回廊で警備していた兵士たちが、その凄まじい衝撃波に吹き飛ばされ、床に転がる。
「ひ、兵長……! 中で、二人が殺し合っています……!!」
「……入るな! 入れば死ぬぞ!!」
室内の調度品はすべて粉々に砕け散り、机の破片が宙を舞う。
しかし、その凄まじい暴風の渦中にあっても、アルヴィーノとアルフレッドは、互いの襟元を掴み合い、魔力だけでなく、肉体そのもので殴り合っていた。
「貴様さえ……貴様さえ認めれば、私はルミの元へ帰れるのだ!!」
アルヴィーノの拳が、アルフレッドの頬を激しく殴りつける。
軍師としての冷静さは完全に消失し、ただ一人の男としての、醜悪なまでの執着が牙を剥いていた。
「認めない……! 私は、王だ……! お前の暴走を止める、唯一の兄だ……ッ!!」
アルフレッドもまた、血を吐きながらアルヴィーノの胸ぐらを掴み返し、その顔面に拳を叩き込んだ。
善性100%だった男が、泥に塗れ、血を流し、実の弟と本気の殺し合いを演じている。
最後の一枚。
それさえ終われば、すべてが解決するはずだったその紙切れを巡り、二人の王子は互いの意地と矜持、そして限界に達した精神のすべてを爆発させ、荒れ果てた部屋の中で、獣のようにもつれ合い、大喧嘩を続けるのだった。
◆
王宮の最深部は、すでに一国の王族が語らう場ではなく、神話の戦場と化していた。
「認めろ……ッ! 認めろ、アルフレッド……!!」
「認めないと言っているだろう、アルヴィーノ……!!」
掴み合った襟元から互いの骨が軋む音が響き、至近距離から放たれる魔力の残滓が二人の肌を容赦なく灼く。
アルヴィーノの細く切れ長の深い紫色の瞳は、濁った狂気と執着に染まり、アルフレッドの碧眼は、血走るほどの疲弊の中でなお、退けぬ王の矜持を滾らせていた。
だが、極限状態の二人が放つ魔力は、もはや施錠された執務室の防壁魔法で抑え込める領域を遥かに超越していた。
城壁を構成する強固な石材が地鳴りのような音を立てて激しく震え、天井からは無数の亀裂と共に粉塵が舞い落ちる。
(――不味い)
肉体を引き裂き合うような応酬の最中、二人の天才の脳裏に、同時に冷徹な最悪の予測が過った。
このままこの場所で全力を解放すれば、王宮そのものが崩壊する。
そうなれば、ここからそう遠くない私室で、自分を待って健気に毛糸を編んでいるはずのルミに、その瓦礫が襲いかかる。
別室で夫の無事を祈り、温かいスープを届けてくれた正妃エルザの身にも、致命的な危険が及ぶ。
「……場所を変えるぞ、魔王ッ!」
「望むところだ、クソ兄上……!!」
互いの襟元を掴んだまま、二人の足元に巨大な転移の術式が爆発的に展開された。
大気が不自然に歪み、視界が漆黒と純白の光に塗りつぶされる。
次の瞬間、衝撃波と共に二人が姿を現したのは、王城から遥か遠く離れた、荒涼たる北方の演習広場だった。
見渡す限りの赤茶けた大地、遮るもののない吹きさらしの荒野。
ここならば、どれほど暴れ、どれほどの禁術を解き放とうとも、誰一人として巻き込む者はいない。
最愛の者たちを護るため、そして目の前の宿敵を完全にねじ伏せるため、二人の王子は同時に地を蹴り、距離を取った。
「これより先は、王としての、そして兄としての全霊を以て、お前のその歪んだ独善を叩き潰す!」
アルフレッドが叫ぶと同時に、その手元に光の粒子が収束し、一本の壮麗な聖剣の形を成した。優しさだけでは解決できない現実を知り、威厳を身につけた新王の魔力は、夜闇を真昼の如く照らし出す。
「神聖なる光の加護よ、我が呼び声に応え、不浄なる闇を切り裂く絶対の盾となれ――」
アルフレッドの口から、厳かな詠唱が紡がれる。
「――『ディヴァイン・アイギス』!!」
眩いばかりの純白の障壁が幾重にも重なり、荒野の天空を覆い尽くす。
それはあらゆる攻撃を拒絶する、光属性の最高峰に位置する防御結界だった。
対するアルヴィーノは、不敵に、そして冷酷に唇を歪めた。
漆黒の軍服を風に翻し、全属性の攻撃魔法を統治する軍師の、真の魔力が解き放たれる。
紫の髪が激しく逆立ち、彼の周囲の大気が、触れるものすべてを消滅させるほどの熱量で爆ぜ始めた。
「世界の理を紡ぐ万象の力よ、我が意思の下に集い、傲慢なる光を永劫の闇へと葬り去れ――」
無詠唱を誇る彼が、呪詛の如き詠唱を口にする。
それは、目の前の兄を文字通り叩き潰すための、最大威力の術式を構築している証左だった。
「――『カタストロフ・レイ』!!」
極大魔法が発動した。
天空から降り注いだのは、あらゆる属性の魔力が超高密度で圧縮された、終末の光条。
それはアルフレッドが展開した『ディヴァイン・アイギス』の光壁へと真っ向から突き刺さり、荒野全体を震撼させる大爆発を引き起こした。
ズズズ、と大地が陥没し、衝撃波によって何十マイルもの範囲の土砂が巻き上げられる。
純白の防壁と、紫黒の破滅の光が激しく鬩ぎ合い、互いを削り取っていく。
「ぐっ、うおおおおおおおッ!!」
アルフレッドは聖剣を地に突き立て、血を吐きながらも結界を維持し続ける。
治癒と保護の力を極限まで高め、弟の放つ理不尽な暴力を、その身を挺して受け止めていた。
「無駄です、兄上……! 貴方のその『優しさ』の盾では、私の執着を、ルミを我が腕に抱くための渇望を、防ぎ止めることなどできはしない!!」
アルヴィーノの指先が、次なる破滅を描く。
「凍てつく虚無の深淵よ、熱き命の灯火を奪い、世界を静寂なる墓標へと変えよ――『アブソリュート・コキュートス』!!」
大地から、一瞬にして超巨大な氷の槍が幾千も突き出し、アルフレッドの障壁を物理的に圧殺せんと襲いかかる。
大気が凍りつき、荒野は一瞬にして極寒の地獄へと変貌した。
氷の刃が光の壁を穿ち、アルフレッドの肩や脚をかすめ、鮮血が白い王族服を赤く染めていく。
「まだだ……! まだ終わらせん……! 私は、お前を止める王だ!!」
アルフレッドの碧眼が、限界を超えた魔力の暴走によって白銀に輝き出す。
彼は傷口から溢れる血を、自らの純粋な光の魔力で強制的に焼き、凝固させながら、前へと歩を進めた。
「天上の清冽なる光よ、我が身を媒介とし、すべての拒絶を打ち砕く一撃となれ――『シャイニング・クラウス』!!」
聖剣から放たれたのは、全てを浄化する無数の光の矢。
それが氷の槍を粉砕し、アルヴィーノの懐へと迫る。
アルヴィーノはそれを、即座に構築した風の障壁で受け止めたが、防ぎきれなかった光の刃が、彼の漆黒の軍服を裂き、その美しい頬に一筋の赤い線刻を刻んだ。
「……ハッ、素晴らしい。これほどの力を隠していたとは、流石はレイストールの新王だ」
頬の血を指で拭い、アルヴィーノの瞳が、いっそ愉悦に近い狂気に染まる。
互いに傷だらけになり、連夜の疲弊などとうに忘却の彼方へ吹き飛んでいた。
残されているのは、ただ互いの意地を、正義を、そして相手への限界を超えたイライラと怒りをぶつけ合うための、純粋な闘争本能。
荒涼たる大地の真ん中で、光と闇、氷と雷が激しく交錯し、天を裂き、地を割り続ける。
最後の一枚の書類に書かれた、たった一人の少年の未来を巡り、二人の王子による、国をも揺るがす壮大な兄弟喧嘩は、いまだ底知れぬ熱量を持って加速していくのだった。
