主と従者の檻に、世界で一番甘い誓いを
ルミが「お人形」に戻ってからというもの、二人の間に流れる空気は、完全に温度を失っていた。
主の寝室の脇で、ただじっと直立して命令を待つ少年。
以前ならアルヴィーノが目を覚ませば嬉しそうに駆け寄り、悪夢を振り払うようにその手を握ってきたはずだった。
だが今のルミは、アルヴィーノがどれだけうなされて起きようともピクリとも動かない。
指示されなければ、心配することすら許されない。
それが「道具」の在り方だと、その硝子の瞳が語っていた。
「……ルミ。明日の遠征の件ですが、お前の魔力出力をさらに二割引き上げ、先陣の結界を破る役割を担ってもらいます。身体への負荷は大きいですが、やれますね?」
「はい、王子様。御心のままに。俺の命は貴方のものです、どのように消費していただいても構いません」
抑揚のない、あまりにも滑らかな肯定。
アルヴィーノの胸の奥で、再びあの不快な「引っかかり」が鋭く疼いた。
(……何故だ。私は使い勝手の良い、完璧な『駒』を手に入れたはずなのに。何故これほどまでに、胸が不快に逆立つのか)
無自覚な彼はその歪な感情に名前を与えることができず、ただ「実戦で役立てばそれでいい」と、乾いた理屈で己の心をねじ伏せることしかできなかった。
そんなギクシャクとした緊迫感を孕んだまま、出陣前の最後の軍議のため、アルヴィーノはルミを従えて王宮の謁見の間へと足を運んだ。
悲劇は、その中央回廊で待ち受けていた。
「――アルヴィーノ」
豪奢な絨毯の向こうから歩いてくる、あの忌々しい金色の光。
兄、アルフレッドだった。
その傍らには、あの日アルヴィーノに威圧され、恐怖に顔を歪めた婚約者、エレオノーラの姿もある。
彼女はアルヴィーノの姿を見るや否や、目に見えてビクリと身体を震わせ、アルフレッドの背後に隠れるようにしてこちらを強く睨みつけた。
アルヴィーノは内心の吐き気を完璧に覆い隠し、優雅に、そして底冷えするような慇懃無礼な一礼を捧げる。
「これはこれは兄上。それにエレオノーラ様も。出陣前の高貴なお姿を拝見できて、光栄の至りですよ」
「アルヴィーノ、君はまたそんな棘のある言い方をして……。明日の遠征、くれぐれも無理はしないでくれ。君に何かあれば、父上も母上も、もちろん僕だって悲しむ」
どこまでも無自覚な、聖者のような兄の言葉。
アルヴィーノの唇が、皮肉げに吊り上がろうとした、その時だった。
アルフレッドの視線が、アルヴィーノの斜め後ろに直立している少年に注がれた。
「……? 君の後ろにいるその子は、確か新しく入った側近の……」
アルフレッドは言葉を失った。
以前、遠目に見かけたその少年は、もっと無邪気で、主である弟に懐いているように見えたはずだった。
だが、今の少年の佇まいは、あまりにも異常だった。
瞬きすら忘れたかのような光の届かない硝子の瞳。
呼吸をしているのかさえ疑わしいほどに静止した身体。
それは生きた人間というよりも、精巧に作られた「魔術人形」そのものだったからだ。
「アルヴィーノ、その子は一体どうしたんだ……? 以前見かけたときとはまるで様子が違うみたいだ。まるで心を失くしてしまった人形のような……。君は、その子に一体何を強いたんだい?」
アルフレッドの瞳に、明らかな「哀れみ」と「非難」の色が混ざる。
それは、かつてアルヴィーノの戦術を「冷酷だ」と切り捨てた両親の目と同じだった。
その瞬間、アルヴィーノの胸の奥で、黒い愉悦と激しい独占欲が同時に跳ね上がった。
(ああ、やはりあなたには分からない。この子は私の『道具』だ。あなたのような偽善の光に救いを求める、腑抜けた存在ではないのだ)
アルヴィーノは、背後のルミの肩を、これ見よがしに引き寄せるようにして触れた。
「何をおっしゃるのですか、兄上。この子は私の忠実な『兵器』ですよ。無駄な感情を排除し、私の命令だけを完璧に遂行する、至高の存在です。哀れむなど、この子に対して非礼極まりない」
「兵器だって……!? 冗談をやめてくれ、アルヴィーノ! 人の心をそのように扱うなんて、間違っている! 君にはもっと……!」
アルフレッドが激昂し、一歩前に踏み出す。
その時、それまで微動だにしなかったルミの身体が、音もなくスライドするようにアルヴィーノの前に割り込んだかと思うと黄金の杖を彼に向けた。
ルミの硝子の瞳が、真っ直ぐにアルフレッドを捉える。
そこには何の憎悪も、恐怖も、感情の揺らぎすら存在しなかった。
ただの、冷え切った虚無。
「これ以上、王子様に近づかないでください。危害を加えると判断した場合、排除します」
淡々と、マシンのように告げられた完全な拒絶。
エレオノーラが「ひっ……!」と短く悲鳴をあげ、アルフレッドもまた、その少年の「完全に心が死んでいる」という事実に気圧され、絶句して足を止めた。
「ルミ、下がりなさい。兄上を怖がらせては失礼ですよ。彼はこの国の次期国王なのですから」
「御心のままに」
アルヴィーノの言葉に、ルミは一瞬で無機質な人形に戻り、再び主の影へと収まった。
兄の放つ「正義の光」すら一切寄せ付けない、自分だけの完璧な道具。
アルヴィーノは、ショックに顔を歪める兄を見据え、極上の優越感を孕んだ、冷徹な微笑みを浮かべた。
「お分かりいただけましたか、兄上。あなたの安っぽい綺麗事など、この子には一切届かない。私とこの子は、あなたたちのいる光の世界とは、住む世界が違うのですよ」
そう、これでいいのだ。
この子は私のものだ。
あなたの光に侵されぬ、私だけの――。
アルヴィーノは困惑する兄たちを置き去りにし、ルミを引き連れて悠然と歩き去った。
しかし、アルヴィーノの胸の引っかかりは、さらに深く重く泥のように沈殿していくのだった。
◆
その夜、アルヴィーノの率いる軍は、敵領の深部へと深く進軍していた。
作戦は、表向きは極めて順調だった。
敵の防衛線および主力部隊は、先陣を切ったルミの圧倒的な闇魔法によって文字通り壊滅しており、あとは残党の掃討戦に移行するだけ。
兵たちの間には安堵の空気が流れていた。
しかし、本陣の天幕で指揮を執るアルヴィーノだけは、冷徹な視線を崩していなかった。
「……妙ですね。敵の動きが静かすぎる」
机の上に地図を広げ、戦場全体の魔力反応を読み取りながら、彼は眉をひそめた。
「殿下、主力があれだけ叩かれたのです。残党が恐れをなして散り散りになっているだけでは?」
「いいえ。これは“意図的な沈黙”です。……何かを、待っている。一体なにを……」
アルヴィーノの戦術眼が、微かな違和感を捉えていた。
だが同時に、彼の思考の隅には、先ほどからずっと別の「引っかかり」が燻り続けている。
天幕の外、前線の別部隊に配置したルミの報告だ。
『任務完了。次の指示を』
伝令の魔術を通じて届いた少年の声には、やはり一切の起伏がなかった。
感情を殺し、ただ淡々と、機械のように敵を屠る殺戮人形。
アルヴィーノは「計画通りに動いてくれるのであれば、それでいい」と自分に言い聞かせ、その硝子の瞳から目を背け続けていた。
そう、これは私が望んだ完璧な兵器だ。
お前はただ、私のために戦う道具であればいい――。
次の命令をと口を開いた瞬間、最悪の地響きが打ち砕いた。
「魔力反応急上昇!! 殿下、本陣方向です!!」
見張りの兵が叫ぶより早く、地平線の向こう、夜の闇を割って巨大な魔導兵器の砲口が姿を現した。
赤い光が、不気味に夜空を裂くように膨れ上がっていく。
敵の狙いは、最初からこの本陣、冷徹な軍師である「指揮官アルヴィーノ」の首ただ一つだったのだ。
主力すらも囮に使った、捨て身の一撃。
「……っ、殿下、退避を!!」
「必要ありません。あの程度、結界の二重展開で防ぎ――」
アルヴィーノが冷静に指示を出そうとした、その瞬間。
空を、大地を、すべてを圧殺するかのような赤黒い光の奔流が、本陣めがけて一直線に迫ってきた。
その光は、ただの面制圧の攻撃ではなかった。一点突破。
ただ一人、指揮官を確実に殺すためだけに全魔力を収束させた、因果の光。
アルヴィーノの視界が、一瞬で真っ白に染まる。
(……防げない。これは、避けられない)
天才と謳われた彼の脳内計算シートが、その生涯で初めて「死」という絶対的な数値を弾き出した。
傲慢な兄の光を拒絶し、孤独の闇の中で積み上げてきたすべてが、ここで終わる。
それを理解した瞬間、なぜか脳裏に浮かんだのは、あの光を失ったルミの硝子の瞳で。
その時だった。
「――っ、王子様……!!」
耳をつんざくような、狂おしい叫び声が、世界のすべてを置き去りにして響き渡った。
◆
本来、ルミは遥か上空、前線の遥か真上にいた。
漆黒の翼のような闇の魔力を背に広げ、空から敵を一方的に蹂躙する、冷徹な「空中殲滅兵器」として機能していたのだ。
本陣のアルヴィーノからはかなり離れた高度でお互いの姿など、肉眼では到底確認できない距離。
あの日、大好きな王子様に激しく拒絶されてから、ルミの心は完全に凍りついていた。
『俺は、お人形だもんね。お人形さんには、感情なんて、いらないんだ』
何度も、何度も自分に呪文をかけ、ただ上空から命令通りに敵を屠る「道具」になりきっていた。
王子様が望む完璧な兵器であり続けるために。
だが、本陣に向けて、あの禍々しい指揮官殺しの光線が放たれた瞬間。
ルミの肉体は、主からの指示を待つこともなく、勝手に動いていた。
(王子様が……死ぬ……?)
脳裏を過ったのは、血を流して倒れるアルヴィーノの姿。
自分をあの暗い研究所から連れ出してくれた、世界で一番大好きな、俺の王子様。
暖かな場所をくれた王子様。
穏やかな生活をくれた王子様。
そして何より自分を認めてくれて、褒めてくれる王子様。
お人形に感情はいらない。
そうやって殺していたはずの、ドロドロとした「人間の心」が、一瞬でガラスの殻を突き破って溢れ出してきた。
悲しい、寂しい、そんなものはどうでもいい。
ただ、あの人を失うことだけは、自分の命が消えることよりも恐ろしい。
ルミは天空を蹴った。
内包する魔力を逆噴射させ、暴走するほどの速度で、夜空から本陣めがけて垂直落下する。
(間に合って……お願い……っ)
風を裂き、空気を焦がし、摩擦で衣服が燃え上がるのも無視して、ルミはただひたすらに、一条の堕天使のような速度でアルヴィーノの元へと翔けた。
「王子様ぁぁぁぁぁッ!!」
その叫びは、愛そのものだった。
主の寝室の脇で、ただじっと直立して命令を待つ少年。
以前ならアルヴィーノが目を覚ませば嬉しそうに駆け寄り、悪夢を振り払うようにその手を握ってきたはずだった。
だが今のルミは、アルヴィーノがどれだけうなされて起きようともピクリとも動かない。
指示されなければ、心配することすら許されない。
それが「道具」の在り方だと、その硝子の瞳が語っていた。
「……ルミ。明日の遠征の件ですが、お前の魔力出力をさらに二割引き上げ、先陣の結界を破る役割を担ってもらいます。身体への負荷は大きいですが、やれますね?」
「はい、王子様。御心のままに。俺の命は貴方のものです、どのように消費していただいても構いません」
抑揚のない、あまりにも滑らかな肯定。
アルヴィーノの胸の奥で、再びあの不快な「引っかかり」が鋭く疼いた。
(……何故だ。私は使い勝手の良い、完璧な『駒』を手に入れたはずなのに。何故これほどまでに、胸が不快に逆立つのか)
無自覚な彼はその歪な感情に名前を与えることができず、ただ「実戦で役立てばそれでいい」と、乾いた理屈で己の心をねじ伏せることしかできなかった。
そんなギクシャクとした緊迫感を孕んだまま、出陣前の最後の軍議のため、アルヴィーノはルミを従えて王宮の謁見の間へと足を運んだ。
悲劇は、その中央回廊で待ち受けていた。
「――アルヴィーノ」
豪奢な絨毯の向こうから歩いてくる、あの忌々しい金色の光。
兄、アルフレッドだった。
その傍らには、あの日アルヴィーノに威圧され、恐怖に顔を歪めた婚約者、エレオノーラの姿もある。
彼女はアルヴィーノの姿を見るや否や、目に見えてビクリと身体を震わせ、アルフレッドの背後に隠れるようにしてこちらを強く睨みつけた。
アルヴィーノは内心の吐き気を完璧に覆い隠し、優雅に、そして底冷えするような慇懃無礼な一礼を捧げる。
「これはこれは兄上。それにエレオノーラ様も。出陣前の高貴なお姿を拝見できて、光栄の至りですよ」
「アルヴィーノ、君はまたそんな棘のある言い方をして……。明日の遠征、くれぐれも無理はしないでくれ。君に何かあれば、父上も母上も、もちろん僕だって悲しむ」
どこまでも無自覚な、聖者のような兄の言葉。
アルヴィーノの唇が、皮肉げに吊り上がろうとした、その時だった。
アルフレッドの視線が、アルヴィーノの斜め後ろに直立している少年に注がれた。
「……? 君の後ろにいるその子は、確か新しく入った側近の……」
アルフレッドは言葉を失った。
以前、遠目に見かけたその少年は、もっと無邪気で、主である弟に懐いているように見えたはずだった。
だが、今の少年の佇まいは、あまりにも異常だった。
瞬きすら忘れたかのような光の届かない硝子の瞳。
呼吸をしているのかさえ疑わしいほどに静止した身体。
それは生きた人間というよりも、精巧に作られた「魔術人形」そのものだったからだ。
「アルヴィーノ、その子は一体どうしたんだ……? 以前見かけたときとはまるで様子が違うみたいだ。まるで心を失くしてしまった人形のような……。君は、その子に一体何を強いたんだい?」
アルフレッドの瞳に、明らかな「哀れみ」と「非難」の色が混ざる。
それは、かつてアルヴィーノの戦術を「冷酷だ」と切り捨てた両親の目と同じだった。
その瞬間、アルヴィーノの胸の奥で、黒い愉悦と激しい独占欲が同時に跳ね上がった。
(ああ、やはりあなたには分からない。この子は私の『道具』だ。あなたのような偽善の光に救いを求める、腑抜けた存在ではないのだ)
アルヴィーノは、背後のルミの肩を、これ見よがしに引き寄せるようにして触れた。
「何をおっしゃるのですか、兄上。この子は私の忠実な『兵器』ですよ。無駄な感情を排除し、私の命令だけを完璧に遂行する、至高の存在です。哀れむなど、この子に対して非礼極まりない」
「兵器だって……!? 冗談をやめてくれ、アルヴィーノ! 人の心をそのように扱うなんて、間違っている! 君にはもっと……!」
アルフレッドが激昂し、一歩前に踏み出す。
その時、それまで微動だにしなかったルミの身体が、音もなくスライドするようにアルヴィーノの前に割り込んだかと思うと黄金の杖を彼に向けた。
ルミの硝子の瞳が、真っ直ぐにアルフレッドを捉える。
そこには何の憎悪も、恐怖も、感情の揺らぎすら存在しなかった。
ただの、冷え切った虚無。
「これ以上、王子様に近づかないでください。危害を加えると判断した場合、排除します」
淡々と、マシンのように告げられた完全な拒絶。
エレオノーラが「ひっ……!」と短く悲鳴をあげ、アルフレッドもまた、その少年の「完全に心が死んでいる」という事実に気圧され、絶句して足を止めた。
「ルミ、下がりなさい。兄上を怖がらせては失礼ですよ。彼はこの国の次期国王なのですから」
「御心のままに」
アルヴィーノの言葉に、ルミは一瞬で無機質な人形に戻り、再び主の影へと収まった。
兄の放つ「正義の光」すら一切寄せ付けない、自分だけの完璧な道具。
アルヴィーノは、ショックに顔を歪める兄を見据え、極上の優越感を孕んだ、冷徹な微笑みを浮かべた。
「お分かりいただけましたか、兄上。あなたの安っぽい綺麗事など、この子には一切届かない。私とこの子は、あなたたちのいる光の世界とは、住む世界が違うのですよ」
そう、これでいいのだ。
この子は私のものだ。
あなたの光に侵されぬ、私だけの――。
アルヴィーノは困惑する兄たちを置き去りにし、ルミを引き連れて悠然と歩き去った。
しかし、アルヴィーノの胸の引っかかりは、さらに深く重く泥のように沈殿していくのだった。
◆
その夜、アルヴィーノの率いる軍は、敵領の深部へと深く進軍していた。
作戦は、表向きは極めて順調だった。
敵の防衛線および主力部隊は、先陣を切ったルミの圧倒的な闇魔法によって文字通り壊滅しており、あとは残党の掃討戦に移行するだけ。
兵たちの間には安堵の空気が流れていた。
しかし、本陣の天幕で指揮を執るアルヴィーノだけは、冷徹な視線を崩していなかった。
「……妙ですね。敵の動きが静かすぎる」
机の上に地図を広げ、戦場全体の魔力反応を読み取りながら、彼は眉をひそめた。
「殿下、主力があれだけ叩かれたのです。残党が恐れをなして散り散りになっているだけでは?」
「いいえ。これは“意図的な沈黙”です。……何かを、待っている。一体なにを……」
アルヴィーノの戦術眼が、微かな違和感を捉えていた。
だが同時に、彼の思考の隅には、先ほどからずっと別の「引っかかり」が燻り続けている。
天幕の外、前線の別部隊に配置したルミの報告だ。
『任務完了。次の指示を』
伝令の魔術を通じて届いた少年の声には、やはり一切の起伏がなかった。
感情を殺し、ただ淡々と、機械のように敵を屠る殺戮人形。
アルヴィーノは「計画通りに動いてくれるのであれば、それでいい」と自分に言い聞かせ、その硝子の瞳から目を背け続けていた。
そう、これは私が望んだ完璧な兵器だ。
お前はただ、私のために戦う道具であればいい――。
次の命令をと口を開いた瞬間、最悪の地響きが打ち砕いた。
「魔力反応急上昇!! 殿下、本陣方向です!!」
見張りの兵が叫ぶより早く、地平線の向こう、夜の闇を割って巨大な魔導兵器の砲口が姿を現した。
赤い光が、不気味に夜空を裂くように膨れ上がっていく。
敵の狙いは、最初からこの本陣、冷徹な軍師である「指揮官アルヴィーノ」の首ただ一つだったのだ。
主力すらも囮に使った、捨て身の一撃。
「……っ、殿下、退避を!!」
「必要ありません。あの程度、結界の二重展開で防ぎ――」
アルヴィーノが冷静に指示を出そうとした、その瞬間。
空を、大地を、すべてを圧殺するかのような赤黒い光の奔流が、本陣めがけて一直線に迫ってきた。
その光は、ただの面制圧の攻撃ではなかった。一点突破。
ただ一人、指揮官を確実に殺すためだけに全魔力を収束させた、因果の光。
アルヴィーノの視界が、一瞬で真っ白に染まる。
(……防げない。これは、避けられない)
天才と謳われた彼の脳内計算シートが、その生涯で初めて「死」という絶対的な数値を弾き出した。
傲慢な兄の光を拒絶し、孤独の闇の中で積み上げてきたすべてが、ここで終わる。
それを理解した瞬間、なぜか脳裏に浮かんだのは、あの光を失ったルミの硝子の瞳で。
その時だった。
「――っ、王子様……!!」
耳をつんざくような、狂おしい叫び声が、世界のすべてを置き去りにして響き渡った。
◆
本来、ルミは遥か上空、前線の遥か真上にいた。
漆黒の翼のような闇の魔力を背に広げ、空から敵を一方的に蹂躙する、冷徹な「空中殲滅兵器」として機能していたのだ。
本陣のアルヴィーノからはかなり離れた高度でお互いの姿など、肉眼では到底確認できない距離。
あの日、大好きな王子様に激しく拒絶されてから、ルミの心は完全に凍りついていた。
『俺は、お人形だもんね。お人形さんには、感情なんて、いらないんだ』
何度も、何度も自分に呪文をかけ、ただ上空から命令通りに敵を屠る「道具」になりきっていた。
王子様が望む完璧な兵器であり続けるために。
だが、本陣に向けて、あの禍々しい指揮官殺しの光線が放たれた瞬間。
ルミの肉体は、主からの指示を待つこともなく、勝手に動いていた。
(王子様が……死ぬ……?)
脳裏を過ったのは、血を流して倒れるアルヴィーノの姿。
自分をあの暗い研究所から連れ出してくれた、世界で一番大好きな、俺の王子様。
暖かな場所をくれた王子様。
穏やかな生活をくれた王子様。
そして何より自分を認めてくれて、褒めてくれる王子様。
お人形に感情はいらない。
そうやって殺していたはずの、ドロドロとした「人間の心」が、一瞬でガラスの殻を突き破って溢れ出してきた。
悲しい、寂しい、そんなものはどうでもいい。
ただ、あの人を失うことだけは、自分の命が消えることよりも恐ろしい。
ルミは天空を蹴った。
内包する魔力を逆噴射させ、暴走するほどの速度で、夜空から本陣めがけて垂直落下する。
(間に合って……お願い……っ)
風を裂き、空気を焦がし、摩擦で衣服が燃え上がるのも無視して、ルミはただひたすらに、一条の堕天使のような速度でアルヴィーノの元へと翔けた。
「王子様ぁぁぁぁぁッ!!」
その叫びは、愛そのものだった。
