燃えない夏に恋をしていた
あれからしばらく路地に立ち尽くしていた。邪魔なうちわをアスファルトに捨て、スマホを取り出したところで、麻雀をする気には当然なれない。新しい通知もこないまま、太鼓の音が聞こえてくる。
「いけないんだ。こんなところに不法投棄するつもりかな」
聞き覚えのある柔らかい声に振り返ると、路地の入口で彩目ちゃんが座り込んでいた。聞きたいことは山ほどあるのに、予想外の出来事に頭が追いつかない。
「希美が電話してきたよ。花火までに仲直りしないと困るなあ」
「その希美はどしたん。なんでここに彩目ちゃんが……」
「希美のことは蓮児くんが見てくれるから。私は大牙くんの担当」
担当という言葉で片付けられる話ではないのに、彩目ちゃんはうちわについた砂を払い立ち上がる。浴衣の裾が空気を含んでふわりと広がるのを眺めていると、彩目ちゃんはコホンと咳払いをひとつして近づいてきた。
「どうしたんだろうね。人混みで疲れたのかな?」
「いや、全然。希美がなんか変なこと言うだけで」
全部話すべきか悩んで、濁しておくことにした。彩目ちゃんはそれ以上追及せずに、大きなうちわでパタパタと風を送り込む。頭を冷やせと言いたいのか、空気を変えたいだけなのか、できるなら後者だと信じたい。
「つーかさ。彩目ちゃんは希美となんかあるん? 転校したとか、そういうやつ」
「えーと、まあね。小学四年生の頃に引っ越したの。家の都合なんだけどね」
「いじめられたとかあいつが話してたけど。彩目ちゃんは知らねえか」
うちわから送られてくる風がぴたりと止んだ。彩目ちゃんは少しだけ視線を落とし、手元の巨大なうちわを見つめる。
「聞いてるよ、みんなから。転校してからクラスが崩れたらしいんだ」
「クラスが崩れた? ああ。彩目ちゃんがリーダーだったから?」
「んー、まあ。元々人数が少ないせいかもしれないけどね」
「そんなら卒業までの二年はいじめられてたんだな。希美は」
それからどうしたのか、そう言いかけて飲み込んだ。希美が話さないことをわざわざ聞き出すのも違うような気がするし、うちわを握りしめている彩目ちゃんを追い詰めたくはない。そう思いかけた矢先のこと。
「あのね。いじめのことは希美も手紙で伝えてくれたんだけど、バタバタしてたからどうしても返事ができなくて。だからその、希美のこと……」
彩目ちゃんは言葉を詰まらせながら目を伏せる。母親みたいに説教してこないし、希美みたいに泣き落としてこない。ただ苦しそうにするだけなのは反則だと思う。
伸ばした手をうちわに誤魔化した俺は、彩目ちゃんからそれを取り上げた。
「許さねえわ、希美のこと。だから彩目ちゃんもさ、自分のこと責めんなよ」
納得したわけではないし、余計に困らせた気がする。それでも彩目ちゃんは伏せていた目をこちらに向けて頬を緩めた。それだけで安堵してしまうあたり、あまりにも単純だなと自分でも思う。
「どうしよう。大牙くんをなだめるつもりが逆転してたよ」
「ははっ。そもそも俺のところにくるほうがおかしいんだわ」
そう笑いながら路地の先を見ると、子供連れの夫婦が目についた。浴衣姿の娘がわたあめを片手に「花火まだなんかなあ。ハートのキラキラ見られるんかなあ?」と母親にせがんでいる。
「なあ。この先にある公園で花火見られるんだけど……一緒に行かねえ?」
「そうなの? それなら希美たちにも連絡しておこうかな」
「あー……、頼んだわ。話したいことはまだあるけどな」
歩きながら空を見上げると、夕焼けから紺色に変わり始めていた。西の空だけがまだ赤く燃えているのに、頭上にはもう星がまばらに浮かんでいる。
そのまま公園まで進んでいくと、キリギリスの鳴き声が近づいてきた。
「ようやく座れるね。下駄だから休めるのは助かるなあ」
「男としては最高なんだけどな。浴衣も似合うし」
「ありがとう。お母さんが選んでくれたんだよね」
彩目ちゃんは嬉しそうに笑いながら、公園のベンチに腰を下ろした。俺はその横に座りながら、うちわを立てかける。滑り台の脇に目を向けると子供たちがライトアップシューズを地面に打ち付けて遊んでいた。
「彩目ちゃん、ごめんな。これから傷つけるかもしんねえや」
彩目ちゃんは瞬きを繰り返し、不思議そうに首を傾げる。なにから話せばいいのか分からないまま俺は言葉を続けた。
「俺のことなんだけどさ。希美の好きなところが、彩目ちゃんかもしんねえの」
「希美の好きなところが……? どういうことかな?」
「あいつが言うんだわ。彩目ちゃんみたいになれば好かれるとか。それで小学生の話聞いたら、なんつーかさ……」
「駄目だよそれは……。そんなのは。そんなことまで……」
「だから希美のことが許せねえの。彩目ちゃんに会わせたから」
打ち上げ花火の試し打ちが鳴り響き、彩目ちゃんが肩をびくりと震わせた。そのまま指を組んだ彩目ちゃんは手悪さをする。触れたら折れそうだなんて考えるほど細くはないのに、どうしても気になるのは指先が白んでいるせいだ。
「それはどうかな。まだ二日目だよ? 花火もこれからだからね」
彩目ちゃんは遊び回る子供たちに体を向けると「元気だね。小学生くらいかなあ」と続けた。そうしてスマホに手を伸ばすと、花火を動画に収めるかで悩み始める。
視線が合わないまま過ごしていると、公園の入り口から蓮児たちが現れた。
「あーあ。つまらん子守りさせられたわ」
焼きそばとビールを抱えた蓮児の隣には、りんご飴にガジガジとかじりつく希美がいた。
「元気出してくれたんだね。安心したよ」
「食べ物で機嫌が戻るけえな。楽でいいわ」
少し離れたベンチに蓮児が座ると、その真横に希美が腰を下ろした。最後に見た時は泣きそうな顔をしていたくせに「もうすぐ花火が始まるねえ」なんて空を見上げている。
「ほんで大牙は不貞腐れとるんけ。なんでまた」
どうしようもないこの感情に向き合おうとするたびモヤモヤが膨れていく。深呼吸をして夜空に意識を向けると、一筋の光が勢いよく駆け上がった。
「希美が彩目ちゃんのこと試してたんだわ。それで喧嘩した」
夜空に大きな花火が開いてから、弾けるような音が腹の底を揺らした。ぱらぱらと光の粒が沈んでは煙が広がり、子供たちの歓声が公園に響いていく。
横目で希美を盗み見ると、りんご飴をかじる手を止めていた。
「なんでそんなこと言うの? うちがどれだけ彩目が好きか分からない?」
「説明もせずに男二人の部屋に通したやつの言葉がそれか? しまいには彩目ちゃんがなんとかしてくれるとかなんのつもりだよ。別れてえの、壊してえの? なんでそれをわざわざ……」
言い切るよりも先に、鈍い衝撃が落ちてきた。後頭部に痛みが広がり、遅れて蓮児の拳骨に気づく。いつぶりかも分からない拳を睨みつけると、蓮児は眉間に皺を寄せながら手を下ろした。
「勝手に興奮すんなや。息継ぎもないけえ答えられんだろ」
「あー……。彩目ちゃんが好きならあんなことしねえよな」
「そんなことないもん! 最初に離れたのは彩目なんだよ? それでも成人式でまた会えたんだよねえ。だから嬉しいんだ、また遊べるのが」
花火が色を変えながら崩れていき、やがて夜空に煙だけが流された。希美に納得できないまま時間だけが過ぎていく。そんな俺を見かねた彩目ちゃんが、ぽつぽつと言葉を落とした。
「私も久しぶりに遊ぶの、楽しみにしてたんだよ。だけど希美がいなくて驚いた。なにも知らされないまま放置されると不安になるからね」
「うちもだよ。彩目がなにしてるのか知らないまま放置されてたもん。嫌われたのかな、面倒臭いのかな。それも分からないんだもん」
ぽろぽろと泣き出したのは希美ではなく彩目ちゃんで、花火の光が反射したのを見間違えたのかと思えば、浴衣で目元を拭うのも追いつかない勢いで涙をこぼす。
俺たちの視線に気づいたのか、彩目ちゃんが慌てて顔を背けた。
「違うの。違うんだ。転校したのは両親が離婚したからなの。自分のこともままならないだけで。希美のことが嫌いなんて思わないよ」
「やだ、うそ。ごめっ、ごめん! 泣かないで。彩目のそんなところなんか見たくないよ」
希美は立ち上がると、彩目ちゃんを抱きしめた。
りんご飴のことなんて気にしていないのか、必死で彩目ちゃんの背中を撫でている。怒りの行き場を失い蓮児を見ると、気まずそうに顔を背けられた。
「いけないんだ。こんなところに不法投棄するつもりかな」
聞き覚えのある柔らかい声に振り返ると、路地の入口で彩目ちゃんが座り込んでいた。聞きたいことは山ほどあるのに、予想外の出来事に頭が追いつかない。
「希美が電話してきたよ。花火までに仲直りしないと困るなあ」
「その希美はどしたん。なんでここに彩目ちゃんが……」
「希美のことは蓮児くんが見てくれるから。私は大牙くんの担当」
担当という言葉で片付けられる話ではないのに、彩目ちゃんはうちわについた砂を払い立ち上がる。浴衣の裾が空気を含んでふわりと広がるのを眺めていると、彩目ちゃんはコホンと咳払いをひとつして近づいてきた。
「どうしたんだろうね。人混みで疲れたのかな?」
「いや、全然。希美がなんか変なこと言うだけで」
全部話すべきか悩んで、濁しておくことにした。彩目ちゃんはそれ以上追及せずに、大きなうちわでパタパタと風を送り込む。頭を冷やせと言いたいのか、空気を変えたいだけなのか、できるなら後者だと信じたい。
「つーかさ。彩目ちゃんは希美となんかあるん? 転校したとか、そういうやつ」
「えーと、まあね。小学四年生の頃に引っ越したの。家の都合なんだけどね」
「いじめられたとかあいつが話してたけど。彩目ちゃんは知らねえか」
うちわから送られてくる風がぴたりと止んだ。彩目ちゃんは少しだけ視線を落とし、手元の巨大なうちわを見つめる。
「聞いてるよ、みんなから。転校してからクラスが崩れたらしいんだ」
「クラスが崩れた? ああ。彩目ちゃんがリーダーだったから?」
「んー、まあ。元々人数が少ないせいかもしれないけどね」
「そんなら卒業までの二年はいじめられてたんだな。希美は」
それからどうしたのか、そう言いかけて飲み込んだ。希美が話さないことをわざわざ聞き出すのも違うような気がするし、うちわを握りしめている彩目ちゃんを追い詰めたくはない。そう思いかけた矢先のこと。
「あのね。いじめのことは希美も手紙で伝えてくれたんだけど、バタバタしてたからどうしても返事ができなくて。だからその、希美のこと……」
彩目ちゃんは言葉を詰まらせながら目を伏せる。母親みたいに説教してこないし、希美みたいに泣き落としてこない。ただ苦しそうにするだけなのは反則だと思う。
伸ばした手をうちわに誤魔化した俺は、彩目ちゃんからそれを取り上げた。
「許さねえわ、希美のこと。だから彩目ちゃんもさ、自分のこと責めんなよ」
納得したわけではないし、余計に困らせた気がする。それでも彩目ちゃんは伏せていた目をこちらに向けて頬を緩めた。それだけで安堵してしまうあたり、あまりにも単純だなと自分でも思う。
「どうしよう。大牙くんをなだめるつもりが逆転してたよ」
「ははっ。そもそも俺のところにくるほうがおかしいんだわ」
そう笑いながら路地の先を見ると、子供連れの夫婦が目についた。浴衣姿の娘がわたあめを片手に「花火まだなんかなあ。ハートのキラキラ見られるんかなあ?」と母親にせがんでいる。
「なあ。この先にある公園で花火見られるんだけど……一緒に行かねえ?」
「そうなの? それなら希美たちにも連絡しておこうかな」
「あー……、頼んだわ。話したいことはまだあるけどな」
歩きながら空を見上げると、夕焼けから紺色に変わり始めていた。西の空だけがまだ赤く燃えているのに、頭上にはもう星がまばらに浮かんでいる。
そのまま公園まで進んでいくと、キリギリスの鳴き声が近づいてきた。
「ようやく座れるね。下駄だから休めるのは助かるなあ」
「男としては最高なんだけどな。浴衣も似合うし」
「ありがとう。お母さんが選んでくれたんだよね」
彩目ちゃんは嬉しそうに笑いながら、公園のベンチに腰を下ろした。俺はその横に座りながら、うちわを立てかける。滑り台の脇に目を向けると子供たちがライトアップシューズを地面に打ち付けて遊んでいた。
「彩目ちゃん、ごめんな。これから傷つけるかもしんねえや」
彩目ちゃんは瞬きを繰り返し、不思議そうに首を傾げる。なにから話せばいいのか分からないまま俺は言葉を続けた。
「俺のことなんだけどさ。希美の好きなところが、彩目ちゃんかもしんねえの」
「希美の好きなところが……? どういうことかな?」
「あいつが言うんだわ。彩目ちゃんみたいになれば好かれるとか。それで小学生の話聞いたら、なんつーかさ……」
「駄目だよそれは……。そんなのは。そんなことまで……」
「だから希美のことが許せねえの。彩目ちゃんに会わせたから」
打ち上げ花火の試し打ちが鳴り響き、彩目ちゃんが肩をびくりと震わせた。そのまま指を組んだ彩目ちゃんは手悪さをする。触れたら折れそうだなんて考えるほど細くはないのに、どうしても気になるのは指先が白んでいるせいだ。
「それはどうかな。まだ二日目だよ? 花火もこれからだからね」
彩目ちゃんは遊び回る子供たちに体を向けると「元気だね。小学生くらいかなあ」と続けた。そうしてスマホに手を伸ばすと、花火を動画に収めるかで悩み始める。
視線が合わないまま過ごしていると、公園の入り口から蓮児たちが現れた。
「あーあ。つまらん子守りさせられたわ」
焼きそばとビールを抱えた蓮児の隣には、りんご飴にガジガジとかじりつく希美がいた。
「元気出してくれたんだね。安心したよ」
「食べ物で機嫌が戻るけえな。楽でいいわ」
少し離れたベンチに蓮児が座ると、その真横に希美が腰を下ろした。最後に見た時は泣きそうな顔をしていたくせに「もうすぐ花火が始まるねえ」なんて空を見上げている。
「ほんで大牙は不貞腐れとるんけ。なんでまた」
どうしようもないこの感情に向き合おうとするたびモヤモヤが膨れていく。深呼吸をして夜空に意識を向けると、一筋の光が勢いよく駆け上がった。
「希美が彩目ちゃんのこと試してたんだわ。それで喧嘩した」
夜空に大きな花火が開いてから、弾けるような音が腹の底を揺らした。ぱらぱらと光の粒が沈んでは煙が広がり、子供たちの歓声が公園に響いていく。
横目で希美を盗み見ると、りんご飴をかじる手を止めていた。
「なんでそんなこと言うの? うちがどれだけ彩目が好きか分からない?」
「説明もせずに男二人の部屋に通したやつの言葉がそれか? しまいには彩目ちゃんがなんとかしてくれるとかなんのつもりだよ。別れてえの、壊してえの? なんでそれをわざわざ……」
言い切るよりも先に、鈍い衝撃が落ちてきた。後頭部に痛みが広がり、遅れて蓮児の拳骨に気づく。いつぶりかも分からない拳を睨みつけると、蓮児は眉間に皺を寄せながら手を下ろした。
「勝手に興奮すんなや。息継ぎもないけえ答えられんだろ」
「あー……。彩目ちゃんが好きならあんなことしねえよな」
「そんなことないもん! 最初に離れたのは彩目なんだよ? それでも成人式でまた会えたんだよねえ。だから嬉しいんだ、また遊べるのが」
花火が色を変えながら崩れていき、やがて夜空に煙だけが流された。希美に納得できないまま時間だけが過ぎていく。そんな俺を見かねた彩目ちゃんが、ぽつぽつと言葉を落とした。
「私も久しぶりに遊ぶの、楽しみにしてたんだよ。だけど希美がいなくて驚いた。なにも知らされないまま放置されると不安になるからね」
「うちもだよ。彩目がなにしてるのか知らないまま放置されてたもん。嫌われたのかな、面倒臭いのかな。それも分からないんだもん」
ぽろぽろと泣き出したのは希美ではなく彩目ちゃんで、花火の光が反射したのを見間違えたのかと思えば、浴衣で目元を拭うのも追いつかない勢いで涙をこぼす。
俺たちの視線に気づいたのか、彩目ちゃんが慌てて顔を背けた。
「違うの。違うんだ。転校したのは両親が離婚したからなの。自分のこともままならないだけで。希美のことが嫌いなんて思わないよ」
「やだ、うそ。ごめっ、ごめん! 泣かないで。彩目のそんなところなんか見たくないよ」
希美は立ち上がると、彩目ちゃんを抱きしめた。
りんご飴のことなんて気にしていないのか、必死で彩目ちゃんの背中を撫でている。怒りの行き場を失い蓮児を見ると、気まずそうに顔を背けられた。