メビウス
肺を曇らせるような匂いが、制服から離れないままでいた。確かに染みついているのに、すぐに消えてしまいそうな、その頼りなさにため息をつく。それでも忘れてしまわないようにと、鼻先をつけたまま大きく吸い込んだ。
「なにしてんの和華 。制服なんか嗅いで」
昼休みの空き教室。ブレザーを嗅いでいると、扉が大きな音を立てて開いた。三年生の京平 くんだ。遅れてきたというのに悪びれることもなく、襟足まで跳ねた茶金の髪を揺らしながら歩き、近くの椅子をこちらに引きずり寄せてくる。
「こうしてると、落ち着くから」
「自分ので? 匂いとかしねえだろ」
「どうだろう。京平くんも確かめてみる?」
笑いながら制服を渡そうとすると、
「やめとく。落ち着くどころか逆効果だわ」
と返されてしまう。普段ならここでニヤついてくれるのに。そう思いながらブレザーを着直すと、京平くんは椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、元気ないけど。生徒指導でもされた?」
「いや、別に。なんもねえけど。それより和華はどうなん」
「今日は保健室で遊んでたの。三年生たちとシール交換会」
机からシール帳を取り出し、パラリとページをめくる。交換したばかりのホログラムシールを眺めていると、京平くんが「どうせサボりなんだろ。まあいいけど」と、緩んだ襟元から喉仏を覗かせたまま、だるそうに椅子の背もたれに体を預けた。
「つーか、そのさ。元カノに逃げられたわ、もう会いたくねえんだと」
後ろめたいことでもあるのか、京平くんはちらりとこちらを窺 う。整えられた眉毛がだらしなく垂れ、叱られる前の子どもみたいだ。そんなことを言えば傷ついてしまうだろうし、面倒なことになるから言わないでおくけれど。
「最初から別れてたよね。なんで被害者ポーズしてるの?」
「ちが……。一応、その。和華には伝えときたくて」
「興味ないよ。逃げたのは京平くんなんだから」
自分から追いかけてきたくせに。京平くんは一瞬固まり、視線を机に落とした。誰のものかも分からないそこには、鉛筆で落書きされたイラストがある。その上からは私のシールがあちこちに貼られていた。
「だからどうでもいい。元カノがどうとか。……京平くんのことも」
頬に落ちてきた黒髪を耳にかけ、開いたままのシール帳を見る。京平くんはかすれた声で「ごめん」と呟いた。空き教室がしんと静まり、廊下から足音が聞こえてくる。しばらくして京平くんが耐えきれない様子で腕まくりをした。
「なあ、和華。これ見てくんねえ……?」
京平くんの腕には小さな赤い丸が並んでいた。最近できたような水ぶくれに眉をひそめる。どうしたのかまでは分からないけれど、このタイミングで見せてくるあたり、そういうことなんだろうなとは思う。
「怪我したんだね。痛くはないの?」
ためらいもなく腕に触れると、京平くんの肩がびくりと跳ねた。そんなに驚かなくても、傷つけるはずないのに。そのまま傷跡の周りを撫でると、京平くんが生ぬるい吐息を漏らす。ここに触れているかぎりは、どこにも行かない気がした。
「和華のそういうところ。マジでなんなん」
京平くんはせわしなく貧乏ゆすりをすると、胸ポケットにある角の潰れた青い箱に手を伸ばす。幾度 となく見てきたその仕草に、舌打ちしそうになり飲み込んだ。少しだけ考えてから、京平くんの手に指先を絡める。
「なあに、京平くん。口が寂しい?」
「は? あー、いや。そういう……」
京平くんは私の口元に視線を落とすと、観念したように煙草から手を離した。私のよりも大きな手のひらが力を失い、それでも繋いだままでいてくれている。どうしようもないほどの愛おしさに微笑んだ。
「好きだよ、京平くん。もう逃げないでね」
お願いだから、そこにいて。手のひらに頬をすり寄せると、京平くんの香りがむわりと漂う。癖があまりない、紙の焦げたような。それが消えないうちに、じわじわと距離を縮める。ガタンと椅子が鳴り響いた。
「なにしてんの
昼休みの空き教室。ブレザーを嗅いでいると、扉が大きな音を立てて開いた。三年生の
「こうしてると、落ち着くから」
「自分ので? 匂いとかしねえだろ」
「どうだろう。京平くんも確かめてみる?」
笑いながら制服を渡そうとすると、
「やめとく。落ち着くどころか逆効果だわ」
と返されてしまう。普段ならここでニヤついてくれるのに。そう思いながらブレザーを着直すと、京平くんは椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、元気ないけど。生徒指導でもされた?」
「いや、別に。なんもねえけど。それより和華はどうなん」
「今日は保健室で遊んでたの。三年生たちとシール交換会」
机からシール帳を取り出し、パラリとページをめくる。交換したばかりのホログラムシールを眺めていると、京平くんが「どうせサボりなんだろ。まあいいけど」と、緩んだ襟元から喉仏を覗かせたまま、だるそうに椅子の背もたれに体を預けた。
「つーか、そのさ。元カノに逃げられたわ、もう会いたくねえんだと」
後ろめたいことでもあるのか、京平くんはちらりとこちらを
「最初から別れてたよね。なんで被害者ポーズしてるの?」
「ちが……。一応、その。和華には伝えときたくて」
「興味ないよ。逃げたのは京平くんなんだから」
自分から追いかけてきたくせに。京平くんは一瞬固まり、視線を机に落とした。誰のものかも分からないそこには、鉛筆で落書きされたイラストがある。その上からは私のシールがあちこちに貼られていた。
「だからどうでもいい。元カノがどうとか。……京平くんのことも」
頬に落ちてきた黒髪を耳にかけ、開いたままのシール帳を見る。京平くんはかすれた声で「ごめん」と呟いた。空き教室がしんと静まり、廊下から足音が聞こえてくる。しばらくして京平くんが耐えきれない様子で腕まくりをした。
「なあ、和華。これ見てくんねえ……?」
京平くんの腕には小さな赤い丸が並んでいた。最近できたような水ぶくれに眉をひそめる。どうしたのかまでは分からないけれど、このタイミングで見せてくるあたり、そういうことなんだろうなとは思う。
「怪我したんだね。痛くはないの?」
ためらいもなく腕に触れると、京平くんの肩がびくりと跳ねた。そんなに驚かなくても、傷つけるはずないのに。そのまま傷跡の周りを撫でると、京平くんが生ぬるい吐息を漏らす。ここに触れているかぎりは、どこにも行かない気がした。
「和華のそういうところ。マジでなんなん」
京平くんはせわしなく貧乏ゆすりをすると、胸ポケットにある角の潰れた青い箱に手を伸ばす。
「なあに、京平くん。口が寂しい?」
「は? あー、いや。そういう……」
京平くんは私の口元に視線を落とすと、観念したように煙草から手を離した。私のよりも大きな手のひらが力を失い、それでも繋いだままでいてくれている。どうしようもないほどの愛おしさに微笑んだ。
「好きだよ、京平くん。もう逃げないでね」
お願いだから、そこにいて。手のひらに頬をすり寄せると、京平くんの香りがむわりと漂う。癖があまりない、紙の焦げたような。それが消えないうちに、じわじわと距離を縮める。ガタンと椅子が鳴り響いた。
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