お礼画面

『魅惑』


誓ってもいいが、赤井は、今夜、この時まで、降谷のことをそんな目で見たことはなかった。
 そりぁ、見た目は抜群に美しい男だ。目に入るたびに微笑みたくもなるが、それは芸術品を愛でるような気持ちであって、生々しいあれやこれやは別の話だったのだ。
 だが、今、赤井は、雰囲気のいいバーで、降谷を壁際ギリギリまで追い詰めて口説いている。かなり必死に。
 降谷の頬は真っ赤だ。自惚れていいなら、これは酒のせいだけではない筈だ。
「なぁ、部屋に来るだろう?」
 赤井がストレートに誘うと、降谷はぎこちなく目を逸らした。
 さっきは小悪魔みたいに誘惑してきたくせに、今はまるで乙女だ。
「あの、まだ、僕のフェロモンにあてられてます?」
 ちらり。上目遣いで、伺われた。
「あぁ、君の隠して持っていた超能力か」
 降谷の超能力とは、フェロモンと呼ばれる魅力の爆弾を自由に操れることだ。
 凄まじい力だった。赤井も、降谷の魅力に翻弄された。
 だが、本当にそれだけが原因かは疑問だ。
 降谷は美しい。外も中も凛々しく瑞々しい。フェロモンなんてなくても、十分過ぎるほどに素敵な人だ。
 しかも、彼は実に誠実な男なのだ。その能力を赤井にだけは完璧に封印していたのだから、理性的でもある。持ち合わせた魅力を隠し、赤井には友人のラインをピシッと引いていた。
 だが、それは、かえって不自然なのではないか。
「普通のやつも、好かれたい相手には、無意識に誘惑のサインは出すものだ」
「へ?」
「恋とはそう言うものだろ?好かれようとアピールするものだ。君は鉄の自制心で、恋心の欠片も見せなかったが」
「でも、これはズルです。フェロモンなんて」
「俺も今必死に出してるが、どうだ?俺にだって、微量くらいはある筈だ。嗅ぎ取れるか?」
 これまで、どっかの誰かに褒められたものを全て試してもいい。
 赤井は、上着を脱いだ。ついでに、シャツのボタンも開けた。鎖骨はどこかの誰かに褒められたことがある。
「君を誘いたい」
 囁き声には、甘く響いてくれよと祈った。
「部屋は散らかってるが、幻滅しないでくれ」
 これは先に断っておく。降谷は綺麗好きだろう。
「実は高層階だ。夜景も見れる」
 これは、赤井の部屋の最大の魅力だ。
「ベッドは広い」
 素晴らしいスプリングも保証する。
「高い酒もある」
 日本産のプレミアウイスキーだ。手に入れるのに苦労したので、祝い事で開けるつもりだった。
「どうだ、フェロモンとやらは嗅ぎ取れたか?」
 返事次第では、ボタンをもう一つ開けるつもりで問いかけた。
「…フェロモンっていうか、財力をちらつかせられたというか」
「そんな男にだけはなるまいと生きてきた」
 信念とは何かだと?知ったことではない。
 とにかく、今夜、この時を逃せば、降谷の自制心は二度と崩せない。
 形振りは構っていられない。とにかく、頷かせなければ。
「貴方が、明日、騙されたなんて大騒ぎしないなら、行ってもいいですけど」
 降谷は、きゅっと唇を尖らせて、ポツンと呟いた。
「マスター、チェックだ」
 上着を抱え、降谷の手を取った。
「あ、まだ、僕、飲みかけです」
「また飲ませてやる」
 赤井は釣りも取らずに降谷を連れ出した。
 フェロモンなんて出さずとも、周りの連中は降谷をちらちら盗み見ていた、気がする。そりゃあ、ハッとするような色男だ。仕方ない。いや、もしかしたら、嫉妬心からの妄想か。いやいや、あの店には二度と降谷を連れて行かない。
 とにかく、早くこの子を自分の部屋に連れ込まなければ。
 赤井は、夜の街を、降谷の手を引いて走り出した。
 いい大人が、酒を飲んで、走っている。愚かだ。実に滑稽だ。
 強引に連れ去られる降谷は、困っているだろうか。しかし、もう帰すつもりはなかった。
「降谷くん」
 振り返って確かめた。
 何という事だ。
 赤井の足が止まった。
 そこにいる降谷は、またもや赤井が見たことのない降谷だった。
 その恥じらいながらの微笑みときたら、これがいい年の男とはとても思えないような愛らしさではないか。
 赤井の手から上着が落ちた。
 降谷の無意識の媚態は、赤井の脳天を撃ち抜くほどの威力だ。思わず振り返った事を後悔してしまうほどに。
「ほらみろ、きっかけなんて、どうでも良いんだ」
 赤井は呆然と呟いた。
 もう理由も理屈も通用しない。急転直下だ。電光石火だ。
 小悪魔バーボンの計算尽くの微笑みじゃない。降谷が部下に見せる慈悲深い微笑みでもない。
 ただ、一心に、赤井への愛が溢れていた。
 あぁ、こんな激しい恋心をずっと胸に秘めていたのか?誰にも気付かせずに?
 なんて、健気で可憐な男なのだ。
 赤井の心に嵐が吹き荒れた。先程まで下心とは別の何かが、なけなしの純粋な部分にグサリと刺さる。
 きっと、この棘は、もう抜けやしない。
 恋とは…。
 いや、やはり、それは語るだけ野暮なのだった。

[ ログインして送信 ]