お礼
『春』
四月。
零は都内の公立校に入学した。必死に勉強して志望した高校に合格して、目標が達成できて、素晴らしい春を迎えたのだ。周りも喜んでくれた。零も嬉しかった。それでも、心のどこかで虚しさを感じていた。
「うん、よく似合ってる」
隣に住む幼馴染みは、制服姿を誉めてくれた。
虚しさの理由は、分かっている。三つ年上の幼馴染みとは、同じ学校に合格しても、一緒には通えない。彼は、この春から大学生になってしまった。いつまでも追いつけない。
「おっと」
隣のお兄さんである赤井秀一は、零の目元に手を伸ばした。零は目を瞑る。だが、子どもの頃みたいにキスしてくれるためでは無い。
「桜だ」
赤井の指は風に乗ってきた花弁を取った。
「入学、おめでとう」
それから、優しくそう言った。いつの間にか見上げるほどに背が高くなってしまった彼に、零は素直にありがとうと言えなかった。
新しい環境、新しい友人、新しい生活。柔軟に対応できると思っていた。少し気疲れするが、楽しめると。だが、急に女の子達の態度が変わったのには参ってしまった。
少し前までは、女の子とだって一緒に木登りしてた。泥遊びも、鬼ごっこも。なのに、急に彼女たちは女のように振る舞い始めたのだ。
零は戸惑った。そして、それに巻き込まれることに、少しの違和感を感じた。
「ふむ。つまり、零はモテているんだろうな」
お隣の赤井とは、前より顔を合わせるようになった。アルバイトを探していると言うので、零の家庭教師をお願いしたのだ。別に零が頼んだのではない。親同士で話を決めた事だった。
「彼女達は、零の魅力に気が付いたのさ」
赤井は授業の合間に、零の困惑にアドバイスをくれた。
「一度、デートしてあげるといい。君と仲良くしてるって周りに自慢したいんだ」
「デート?」
零はその刺激的な単語に恐ろしくなってしまった。
「恋人同士になる必要ないさ。女友達との接し方が変わっただけだよ」
友達の性別で何かが変わるのか。それがデートなんていう未知の世界に踏み込むことなのか。自分にはまだ早い。零は内心では尻込みしつつ、格好つけたくて何でもない振りをしてしまった。
「きっと楽しい」
赤井が手を伸ばした、春のあの日みたいに。花弁は無い。代わりに、大きな手が零の髪を撫でた。
週末、零は綺麗なシャツを着て街に出かけた。新しい友人と仲良く過ごすためだ。映画を見て、カフェでお茶をする。普通の休日だ。だが、映画は、零が好まない恋愛ものだったし、カフェなんて気後れしてしまうばかり。友人が女の子だと、色々と気を使わなくてはならないのだと知った。
「それでね」
女の子のお喋りは絶え間ないし、零は相槌を打つので精一杯だ。アイスティーにはガムシロを入れ過ぎた。新品のシャツなのに、少しも心は弾まない。
女の子は可愛いけど、ちょっと騒がしすぎる。
にこにこ顔を作るのに疲れて、零はこっそり溜息を吐いた。
そうやって、苦行のような一日が漸く終わった。
春のふわふわした陽気の中、零は、帰り道をとぼとぼ歩いた。とにかく、とても疲れていた。
夕日に影の背が高くなって、そして、その頭が誰かの靴に被さって、漸く零は顔を上げた。
隣家の門の前に、赤井が立っていた。
「おかえり」
赤井が、ほら、と腕を広げた。まさか、小さい頃みたいに抱っこして欲しいなんて思ってない。思ってないけど…。
零は駆け寄って、自分からその大きな体に抱き付いた。
「ただいま」
そうしたら、得体の知れない心細いような心持ちが軽くなって、ホッと息を吐けた。
「どうだった?初めてのデートは」
笑ってるみたいな声で、赤井は言った。
「…別に」
零は答えた。言葉とは裏腹に、今日一日のモヤモヤが溢れて、抱きつく手に力が篭ってしまった。
「全然、楽しくなかった。映画もこれまで観た中で一番つまらなかったし、カフェよりハンバーガーが食べたかったし、あの子のことは何も知らないのに、手を繋いで欲しいって言われて凄く困った」
「そうか」
赤井は零の頭を撫でた、まるで小さい頃みたいに。
「断ったら、怒らせてしまって」
「そうか」
赤井の手は零の肩を抱いて、門の中へと促す。
「ほら、おいで」
「カフェでガムシロ入れすぎちゃって、それも美味しくなくて」
「任せろ。俺は、上手くお茶を淹れられる」
三年ぶりにお邪魔した隣家は、記憶のままだった。玄関には大きな花瓶があって、可愛いお花が生けてあって、飾られた絵は赤井が子どもの頃に描いた物だ。三年前のまま。同じように、すっかり大人になってしまったと思った赤井も、優しいお兄さんのまんまだ。
目紛しく変わる世界に目を回しそうな零には、それがとても嬉しかった。
「パンケーキよりバーガーが食べたかった」
「腹が減ってるのか」
お腹は減ってない。だけど、なんだか、何処かがスカスカで可哀想な気持ちなのは確かだった。
ほっぺを掴まれ、上を向かされた。
あの頃より、うんと大人びた幼馴染みが、うっとりするくらいに素敵な笑顔で零を見つめていた。
「明日は、俺と出かけようか。映画も、バーガーもやり直そう」
「え?」
「俺と、デートしよう」
「シュウちゃんと?」
驚いて声がひっくり返ってしまった。
「ははは、その呼び方、久々に呼ばれたな」
赤井はなんだか楽しそうだった。
「先生って呼んで欲しかった?」
「いいや。シュウちゃんでいいよ」
目を細めて、うんと甘やかすような声で言うから、何だか、零は、尻の辺りがムズムズするような叫び出したいような、気持ちになった。
「俺のアドバイスが的外れだったんだ、お詫びに何でも言うことを聞くさ。映画は何が観たい?」
ずっと、距離を感じていた。子どもの頃はずっと追いかけていらいたのに、中学に入った頃からなんとなく避けられてるような気がしてた。
寂しかった。
すぐ隣にいるのに、会いに行けなくて、とても、寂しかったのだ。
「シュウちゃん、僕を置いていかないで」
「馬鹿だな」
ぎゅうっと抱きしめられた。ちょっと痛くて、ちょっと怖かった。けど、すごく安心もした。不思議な感じだった。
「ずっと側にいるよ」
「嘘だ。いつも先に行ってしまうんだ。置いていかれるんだ」
零はぎゅっと赤井に抱きついた。
離したくないなんて、激しい執着は零の人生で初めての物だった。
生まれたばかりの感情は、まだ言葉にはならない。
それでも、ゆっくり大きくなった感情に、初めて名前が付いてしまった。
これは、零にとっての、初めての恋の始まり。春の夕暮れの事だった。
四月。
零は都内の公立校に入学した。必死に勉強して志望した高校に合格して、目標が達成できて、素晴らしい春を迎えたのだ。周りも喜んでくれた。零も嬉しかった。それでも、心のどこかで虚しさを感じていた。
「うん、よく似合ってる」
隣に住む幼馴染みは、制服姿を誉めてくれた。
虚しさの理由は、分かっている。三つ年上の幼馴染みとは、同じ学校に合格しても、一緒には通えない。彼は、この春から大学生になってしまった。いつまでも追いつけない。
「おっと」
隣のお兄さんである赤井秀一は、零の目元に手を伸ばした。零は目を瞑る。だが、子どもの頃みたいにキスしてくれるためでは無い。
「桜だ」
赤井の指は風に乗ってきた花弁を取った。
「入学、おめでとう」
それから、優しくそう言った。いつの間にか見上げるほどに背が高くなってしまった彼に、零は素直にありがとうと言えなかった。
新しい環境、新しい友人、新しい生活。柔軟に対応できると思っていた。少し気疲れするが、楽しめると。だが、急に女の子達の態度が変わったのには参ってしまった。
少し前までは、女の子とだって一緒に木登りしてた。泥遊びも、鬼ごっこも。なのに、急に彼女たちは女のように振る舞い始めたのだ。
零は戸惑った。そして、それに巻き込まれることに、少しの違和感を感じた。
「ふむ。つまり、零はモテているんだろうな」
お隣の赤井とは、前より顔を合わせるようになった。アルバイトを探していると言うので、零の家庭教師をお願いしたのだ。別に零が頼んだのではない。親同士で話を決めた事だった。
「彼女達は、零の魅力に気が付いたのさ」
赤井は授業の合間に、零の困惑にアドバイスをくれた。
「一度、デートしてあげるといい。君と仲良くしてるって周りに自慢したいんだ」
「デート?」
零はその刺激的な単語に恐ろしくなってしまった。
「恋人同士になる必要ないさ。女友達との接し方が変わっただけだよ」
友達の性別で何かが変わるのか。それがデートなんていう未知の世界に踏み込むことなのか。自分にはまだ早い。零は内心では尻込みしつつ、格好つけたくて何でもない振りをしてしまった。
「きっと楽しい」
赤井が手を伸ばした、春のあの日みたいに。花弁は無い。代わりに、大きな手が零の髪を撫でた。
週末、零は綺麗なシャツを着て街に出かけた。新しい友人と仲良く過ごすためだ。映画を見て、カフェでお茶をする。普通の休日だ。だが、映画は、零が好まない恋愛ものだったし、カフェなんて気後れしてしまうばかり。友人が女の子だと、色々と気を使わなくてはならないのだと知った。
「それでね」
女の子のお喋りは絶え間ないし、零は相槌を打つので精一杯だ。アイスティーにはガムシロを入れ過ぎた。新品のシャツなのに、少しも心は弾まない。
女の子は可愛いけど、ちょっと騒がしすぎる。
にこにこ顔を作るのに疲れて、零はこっそり溜息を吐いた。
そうやって、苦行のような一日が漸く終わった。
春のふわふわした陽気の中、零は、帰り道をとぼとぼ歩いた。とにかく、とても疲れていた。
夕日に影の背が高くなって、そして、その頭が誰かの靴に被さって、漸く零は顔を上げた。
隣家の門の前に、赤井が立っていた。
「おかえり」
赤井が、ほら、と腕を広げた。まさか、小さい頃みたいに抱っこして欲しいなんて思ってない。思ってないけど…。
零は駆け寄って、自分からその大きな体に抱き付いた。
「ただいま」
そうしたら、得体の知れない心細いような心持ちが軽くなって、ホッと息を吐けた。
「どうだった?初めてのデートは」
笑ってるみたいな声で、赤井は言った。
「…別に」
零は答えた。言葉とは裏腹に、今日一日のモヤモヤが溢れて、抱きつく手に力が篭ってしまった。
「全然、楽しくなかった。映画もこれまで観た中で一番つまらなかったし、カフェよりハンバーガーが食べたかったし、あの子のことは何も知らないのに、手を繋いで欲しいって言われて凄く困った」
「そうか」
赤井は零の頭を撫でた、まるで小さい頃みたいに。
「断ったら、怒らせてしまって」
「そうか」
赤井の手は零の肩を抱いて、門の中へと促す。
「ほら、おいで」
「カフェでガムシロ入れすぎちゃって、それも美味しくなくて」
「任せろ。俺は、上手くお茶を淹れられる」
三年ぶりにお邪魔した隣家は、記憶のままだった。玄関には大きな花瓶があって、可愛いお花が生けてあって、飾られた絵は赤井が子どもの頃に描いた物だ。三年前のまま。同じように、すっかり大人になってしまったと思った赤井も、優しいお兄さんのまんまだ。
目紛しく変わる世界に目を回しそうな零には、それがとても嬉しかった。
「パンケーキよりバーガーが食べたかった」
「腹が減ってるのか」
お腹は減ってない。だけど、なんだか、何処かがスカスカで可哀想な気持ちなのは確かだった。
ほっぺを掴まれ、上を向かされた。
あの頃より、うんと大人びた幼馴染みが、うっとりするくらいに素敵な笑顔で零を見つめていた。
「明日は、俺と出かけようか。映画も、バーガーもやり直そう」
「え?」
「俺と、デートしよう」
「シュウちゃんと?」
驚いて声がひっくり返ってしまった。
「ははは、その呼び方、久々に呼ばれたな」
赤井はなんだか楽しそうだった。
「先生って呼んで欲しかった?」
「いいや。シュウちゃんでいいよ」
目を細めて、うんと甘やかすような声で言うから、何だか、零は、尻の辺りがムズムズするような叫び出したいような、気持ちになった。
「俺のアドバイスが的外れだったんだ、お詫びに何でも言うことを聞くさ。映画は何が観たい?」
ずっと、距離を感じていた。子どもの頃はずっと追いかけていらいたのに、中学に入った頃からなんとなく避けられてるような気がしてた。
寂しかった。
すぐ隣にいるのに、会いに行けなくて、とても、寂しかったのだ。
「シュウちゃん、僕を置いていかないで」
「馬鹿だな」
ぎゅうっと抱きしめられた。ちょっと痛くて、ちょっと怖かった。けど、すごく安心もした。不思議な感じだった。
「ずっと側にいるよ」
「嘘だ。いつも先に行ってしまうんだ。置いていかれるんだ」
零はぎゅっと赤井に抱きついた。
離したくないなんて、激しい執着は零の人生で初めての物だった。
生まれたばかりの感情は、まだ言葉にはならない。
それでも、ゆっくり大きくなった感情に、初めて名前が付いてしまった。
これは、零にとっての、初めての恋の始まり。春の夕暮れの事だった。
