灯の守り人(BL)

7 芽吹きとなみだ

 燈が三年の後期試験を終えたらもう俺は燈の勉強にそれこそ口も手も出なかった。自分が三年の冬でリタイアしたから当然なのだが。
 ふとした時に知識の再確認をされることなんかはあったけれど、それは完全に日常会話の一部だった。
 俺が本格的に葬儀屋の仕事に関わるようになってから家事分担は三人での持ち回りにはなったが、それぞれ得意不得意はある。
 燈は洗濯の方が得意だったし、俺は飯を作る方が得意。
 そして父さんは掃除と塩梅良く得意分野が分かれていたから、持ち回りといえども各々ほんの少しずつだけ、自分の得意分野の役割を多めに担っていた。
 燈が四年になってこれまで以上に過酷な勉強漬けの夜が続くようになると、俺は時折昼間に小鍋を用意して夜勤に出ていた。
 小鍋の中身は黄金色の粒がたっぷり入ったコーンスープ。
 まだ燈が受験生だった頃。缶ペーストにコーンの粒を追加投入して作ってやったコーンスープを気に入っていたから、余裕がある時は勉強の合間の小腹を満たす為に用意しておいてやるのだ。
 それもこれも、燈はひとつのことに集中し始めると他のことが疎かになるタイプが故。
 俺の方は徐々に葬儀屋の仕事に慣れてきて生活リズムも自分の体力のペース配分もコントロール出来るようになっていたから、そんな余裕があったとも云える。
 それに仕事から帰って来て鍋が綺麗に洗われていると安心したし、タイミングが合えばちゃんと言葉で。合わなければメモでも『ごちそうさまでした』と、あんまり上手とは云えない手書きの文字で感謝を伝えられるとついついまた次の世話も焼いてしまうのだった。
 終始見守っていた訳でもなく、頻繁に声を掛けて様子を窺っていた訳でもない。
 それでも燈が同じ屋根の下で暮らしていることはもう俺にとって当たり前のことになっていて。
 だから――
 あっという間に国家試験が過ぎ去り合格発表の日。
 試験の日に少し余裕のある顔で帰ってきていたから大丈夫だとは思っているが、それでも少しそわそわしている燈の姿を見ていると、こちらにまでそのそわそわが伝染してくるようだった。
 合否が発表される時刻は平素なら俺はまだ家に居る時間。
 わざわざキャンパスや厚労省の庁舎前まで行かずとも俺の携帯で結果は確認出来たのだが、生憎とその日俺は朝から繁忙期のデータ入力に駆り出されていた。
 心配しているつもりはなくとも、結果が気にならないとは云えない。
 21時過ぎに職場を出た俺は、家に帰るなり玄関にちゃんと燈の靴があるのをまず確認した。
 こちらから呼び掛けるまでもなく、リビングから顔を覗かせたのは燈本人。
「お帰りなさい、零司さん」
 その声のトーンが穏やかだったことだけで、俺の肩から力が抜けた。
「どうだった」
 聞くまでもないと知りつつも、そう投げ掛ける。
「無事、何とか」
 合格していました、と目の前の顔が破顔した瞬間。俺は靴を脱いでわしゃっと燈の頭に手を乗せると髪の毛をくしゃくしゃにしてやった。
「ちょ、零司さん……っ!」
「おめでとう、燈」
「……ありがとう、ございます」
 抵抗も一瞬だけ。殊勝な声で謝辞を紡ぐ燈の髪の毛を、俺はもう一度くしゃりと掻き混ぜた。
「てことは、お前も忙しくなるな」
「はい……。諸々の手続きやら、引越しやらありますから……」
「…………は?」
 思わず喉の奥から素っ頓狂な声が出た。
 コイツ、今何て云った?
「引越し……?」
 聞いてないぞ、と無意識に零れたのはおかしな話でもないだろう。
 だって、些かリズムが擦れ違う生活を送っているとはいえほぼ毎日顔は合わせていたのだから。
「大学卒業を機に、この家から出ることは少し前から佐伯さんとお話していたので」
 何だ、それは。父さんには話していて、俺には一言もなかったのか。
「あっ、部屋選びとかは自分で頑張ったんですよ?」
 不動産屋さんとのお話とか大変でしたけどどうにかなりました、と小さく笑う燈の口振りは嬉々として成果報告する子供のようなそれ。
 ただこの時の俺は、いつの間にそんなことまで一人で出来るようになったんだ、という感動よりも。
 どうし今まで一言も云わなかったんだ、という気持ちの方が先に込み上げた。
 込み上げたけれど、その不満はぐっと飲み込んだ。
 だってそれは俺のただの我儘だ。
 それこそ自分が蚊帳の外にいたことに拗ねる子供と何ら変わりやしない。
「……そうか。お前にしちゃあ頑張ったな」
 平静を装いながらどうにか褒め言葉を絞り出す。
 終始見守っていた訳でもなく、頻繁に声を掛けて様子を窺っていた訳でもない。
 それでも燈が同じ屋根の下で暮らしていることはもう俺にとって当たり前のことになっていて。
 だから……だから――、
「てことは、お前が出てったら作る飯の量間違えないようにしないとな」
「ふふ、零司さんらしい云い方ですね」
「何だそれ、嫌味か?」
「そのままの事実ですよ」
 じゃれ合うような会話の応酬。
 この数年で当たり前になったそれが、そうでなくなるのか。
 どうやら、俺にとって燈が自分のすぐ傍に居ること――在ることが余りにも当たり前になり過ぎていたらしい。
 その夜、数年振りに元カノとの別れ際を思い出した。
 ――零司はさ、当たり前のことを当たり前だと思い過ぎるところあるよね。
 ――当たり前って、全然当たり前じゃないんだよ。
 ――本当はそうだって、零司はとっくに知ってる癖に。
 あぁ、そうだ。俺は当たり前が一生当たり前じゃないことくらいとっくに知っていた。
 高校二年の時、母さんが亡くなってそれを知った筈だった。
 否、知ったからこそ。逆に余計に当たり前を当たり前だと信じていたかったのかも知れない。
「……出て行く、か」
 天井に投げ上げた溜息は、明かりのない夜気の中にそっと溶け込んだ。



 燈の引越しは桜が咲く頃に行われた。
 元々地域枠入学した燈だ。勤務先を選ぶ自由は燈にはなく、佐伯家からその就職先までは些か距離があるから職場近くに引越すのだと云われた。
 燈の荷物は多くないし、俺は車の免許があったから大きめのレンタカーでも借りれば引越しの手伝いくらいしてやるぞ、と思わず提案してしまった俺はただの金銭的お節介やアドバイスというよりも、『当たり前の日常』をもう少し当たり前に引き延ばしたかっただけかも知れない。
 繁忙期なのに手を煩わせられません、なんて俺の手伝いを一度は断ってきた燈だったけれども。
 この時期の引越し代は高くつくんだぞ? 余計な出費は抑えるに超したことないだろうと押したら、父さんも、使えるもんは使うのが賢い行き方だなんて俺に加勢したものだから、結局燈が折れて俺の手伝いを承諾する運びになった。
 どうして俺がそこまで燈に構おうとするのか――その理由は恐らく簡単で。でも簡単だからこそ、その理由を認めるのがすぐには難しかった。
 当たり前だった日常を当たり前のままにしたい。
 それは詰まるところ俺の生活に燈が存在していて欲しいということに違いなく。
 だけどその執着がどんな感情に由来するのか、俺には名前が付けられないのだ。
 ひとつの仮説を立てるのであれば、俺が燈に並々ならぬ執着――好意を抱いているということになるのだろうが、二十代半ばにもなって情けない話。俺はその執着にくっ付いている『恋心』というものがよく判らないままでいる。
 過去の恋愛遍歴でも『この人と一緒に居ると心地好いから』という理由で付き合ってきた。でもそれでは相手が納得いかなかったらしい。
「私のこと本当に好きなの?」
 と訊かれると困った。好きは好きだ。一緒に居て心地好いと感じるのだから。でも、それは多分『愛情』による好きで、相手はいつだって『愛情』ではなく『恋情』での好きを求めてくるから、擦れ違って結局別れる……というのがお決まりのパターンだった。
 燈の引越し前夜にふとそんなことを思い出したのはどうしてだろう。
 引越し屋の単身パックでさえ余りそうなくらい燈の荷物は少なかったから、引越し作業はさして手間取らなかった。
 借りてきたハイエースに積み込んだ荷物を燈の新居へと運ぶ。
 移動中の会話は少なくて、たまに「そういえばこの前、」みたいにポツリと近況を云い合うくらいのものだった。
 燈の新居は小綺麗な1Kアパートだった。築年数自体は古いと燈が云っていたから、若い層向けにリノベーションがしっかりされていたのだろう。
 もうライフラインは整っていて、最低限の家電も揃っていた。
 本当に、燈は『出行く』つもりだったのだろう。
 荷解きを手伝う程でもなかったから、荷降ろしだけしてじゃあこのままレンタカー返して帰るわ、と。片足を靴に差し込もうとした時。
「……っ、零司さん!」
 大きな声では無いが、俺の背を引き寄せるような強さで名前を呼ばれ、俺は動きを止める。
「……どうした?」
 忘れてた用事でも思い出したか? なんて調子で振り返った先に立っている燈の顔は真面目な顔。
 どうした? と。もう一度繰り返そうとした俺よりも先に、燈が唇をハッキリと動かした。
「…………零司さん、好きです」
「…………」
 すぐに返す言葉が出てこなかったのは、燈の声が余りにも真剣だったからだ。
 体が動かないのはどうしてか。
「無事資格も取れて、四月からの就職先も決まってます。もう……これからは僕だって、ちゃんと自活出来ます……だから――、」
 そこまで聞いて、突如脳裡を過ぎった記憶。
 お互い今よりまだほんの少し若かったころの夜のことだ。
 疲れ果てて帰った夜に酒を飲んで、酔っていた自分。
 隣にそっと添っていてくれた燈。
 不意に重ねられた手は少しだけひんやりしていて、なのに温かくて。あの時は体の内側に溜まった熱と重たい澱のような疲れがじわじわと吸い取られていくような気がしたのを思い出す。
 ――そういえばあの夜、燈は今と同じ台詞を云わなかったか。
「すき、です……」
 と。切な声で。それを、あの夜の俺はどう受け止めた?
 その本意を確かめる為に……大胆にもキスをして、こういうことか? と訊かなかったか?
 そして、訊いた癖に燈のその気持ちは憧憬である可能性を示唆して話を終わらせた気がする。
 それに――自活出来ねぇ『学生』が、なんてはぐらかして突き放したようなことを云った記憶も蘇ってきた。
 途端に、今更過ぎる恥ずかしさと、あの夜燈から逃げた自分への呆れで俺は思わず顔を覆いたくなった。
 あの時の俺はきっと怖かったのだと思う。
 疲れ果てていて、しっかりと向き合うだけのエネルギーがなかったというのもある。
 それでも一番の理由はやっぱり『怖かった』の一言、ただそれだけに尽きる。
 当たり前が当たり前じゃなくなるかも知れないこと、が怖かったのだ。
「お前、それずっと覚えてたのか……」
 自活云々の部分に気持ち目を丸くしたら、燈は逆に軽く目を細めた。
「当たり前、です……。あの時のあれ……僕には図星過ぎて、結構ショックだったので……」
 でもこうして自分は自活する術を漸くちゃんと手に入れた。
 もう面倒を見てもらうばかりの子供ではなくなるのだと訴えてくる眼差しの出処である双眸は微かに揺らいで見えた。
 そんな燈に俺は意味を持たない溜息をひとつ。
 一度視線を斜め下に落としてから、また元の位置に戻す。
 大学の入学祝いに買ってやった眼鏡のレンズの向こうで揺れている双眸の奥には、小さな小さな星がひとつずつ。
 これまでの当たり前が当たり前じゃなくなるのが確定しているこの場面で俺が守るべきは何だ?
 世間体か、体裁か、それとも……己の本心か。
「……俺は、」
 自分の首筋に手を遣り、窪みに軽く爪を立てる。
 もういい加減、向き合わなければならないと思った。
 自分の気持ちにも、燈の気持ちにも。
「俺は……もうとっくのとうに、お前の面倒しか見る気はねぇよ」
「…………ッ」
 俺の台詞に燈が息を呑む音が鼓膜を、大きく震わせた。
「そ、れっ……て……つまり、」
 明確な解を求めようとしてくる燈に、でもな、と腕を組み片手を口許に遣る。
「でもな、燈。俺は、正直……恋とかそういうのがイマイチ判んねぇんだ」
 だから、俺は燈のことを嫌いだとか思ったことはない代わりに恋だのなんだのという好意を以て見たこともない。
 ただ、と俺は淡々と静かに言葉を継ぐ。
「いつの間にかお前が傍に居るのが当たり前だって勝手に思ってたぐらいお前は俺の人生に欠けたら困る存在で……」
 云っていて、何だかむず痒い気持ちになってくる。
 だけどこれはきちんと云わなければならない。
 燈は真剣なのだ。それなら俺も真剣に応えなければこれまで築いてきた信頼関係が嘘になってしまうような気がする。
「……えぇと、だから、な? 好きだからどうのこうのは別として、この先も俺は……お前の傍に居るのが当たり前でありたい……とは、思ってる」
 俺なりの、精一杯誠意を込めた告白。
 理屈じゃなくて。ただただ、傍に在るのが当然なんだと言葉だけじゃなく眼差しでも訴える俺を見る燈の瞬きの回数が多くなる。
「俺がお前に抱いてるのは恋愛感情だ、とは云い切れない」
 寧ろラベル付けをするのであれば、俺のそれは恋愛感情じゃない確率の方が高い。
 それでも良いか? と。ゆっくり問い掛ければ、燈は軽く下唇を噛んでから、こくこくと首を縦に振った。
「……良い、どころか……充分過ぎるくらい、です……」
 はぁ、と燈が大きく息を吸う。
「零司、さん……」
 喉を微かに震わせながら俺の名前を紡いだ後、燈は顔を少しだけ伏せてわざとらしく肩を落として見せた。
「僕……すっごく待ったんですけど……」
 芝居掛かった不貞腐れ顔が俺を見上げてくる。
「……ッハハ、そりゃ普通はコッチの台詞だよな」
 唇を尖らせている燈の目の前まで歩み、頭に手を置いて小さく苦笑する。
「…………待たせて、悪かった」
 コツン、と額同士を軽くぶつけてやったら、本当ですよと消えそうな声が肩口に額と一緒に擦り付けられた。



 結局車は二人で返しに行くことにした俺たち。
 この日は仕事を休みにしてあったから、車を返してまた今度は電車で燈の新居へ向かう。
 食料品の買い物の手伝いと、その荷物持ちを理由に。
 そんな理由付け、もう必要ないのについそうしてしまうのは往年の癖として当面は許されたいところ。
「そーだ、鍵」
 電車で揺られながら、おもむろに燈へ向けて手を出す。
「……鍵?」
 あっ、佐伯家の……とキーホルダーをチノパンのポケットから取り出そうとするものだから。違ぇよ! と思わず手をそのまま燈の腕へと裏手でぶつける。
「何かあった時の為にウチの鍵はそのまんま持っとけ」
 そーじゃなくて、と僅かに背を丸めて横目にジトリと燈を軽く睨む。
「スペア。渡さないつもりか」
 お前の家の、と含めたそれに燈は三秒停止してから、あぁと手を叩いた。
「作りに行かないと、ないです」
「なら買い出しついでに作りゃ良いだろ」
 待ち時間ついでに飯も奢ってやる、と顎をしゃくる。
「何が食いたい?」
「零司さんが、作るご飯……食べたいです」
 控えめな云い方ではあるが、即答だった。
「……待つのめんどくせぇだろ」
「ご飯作ってもらう時間くらい、僕にとっては待ち時間に入りません」
 さっきよりもキッパリとした即答に、思わず「嫌味かそれ」と目を細める。
「そっ、そういうんじゃなくて……っ」
 他意はありません! と必死な顔で弁明してくる燈に内心小さく笑う。そんなこと、判っている。
 判っていて尚、わざと大きな溜息を吐き出した俺は丁度最寄り駅に停車した電車を先に降りる。
「…………で? 何を作って欲しいんだ?」
 改札を抜ける直前、肩越しに首だけで燈を振り返れば、俺の不機嫌な演技に騙されたとばかりに燈が唇をへの字に曲げる。
 しかしそれもほんの一瞬のこと。改札を抜けて一歩二歩と歩幅を大きくしながら俺の隣に並んだ燈はピッと人差し指を立てた。
「コーンスープは外したくない、です……と、あと……えーっと……」
「ならオムライスだな。チーズとキノコの」
 メインに悩んで唸っているところへそれならと出した提案に燈の表情がパッと明るくなる。
「デミグラスソースの?」
「そ。缶のお手軽版だけどな。玉ねぎ炒めるの……は、お前焦がすだろうから……コーンスープの鍋掻き混ぜるのくらい手伝え」
「それくらいはもちろんです!」
 スーパーはこっちです、と今度は半歩先を歩き出す燈。
 まだ夕景まで遠い空はどこまでも青いのに。
 どこからか、飴色の雫がパラパラと落ちてきていた。

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