灯の守り人(BL)


<ep-1>
 瞼の裏に明るさを感じてふわりと浮上した意識。
 薄ら瞼を開けると、カーテンを閉め忘れた窓からやや斜めに陽が射し込んでいた。
 俺の部屋の窓は南西を向いているから、もう昼はとうに過ぎたらしいことが陽射しの角度で知れた。
 のそり、起き上がって身体をひとつ震わせる。
「さむ……」
 十月も半ばを過ぎた季節だ。ジャケットを脱いだシャツ一枚で毛布も被らずに寝ていれば、昼でも幾らか冷えるのは当然だろう。
 クローゼットからパーカーを引っ張り出して袖を通す。
 廊下に出てリビングの扉を開けたら、朝と同様仄かな暖気が身を包んだ。
「おう、起きたか」
 奥のソファからダイニングテーブルに移動して本を読んでいた父さんに欠伸混じりで頷く。
「ん……父さん、飯は?」
「雑炊ならさっき作ったのがある。お前も食うなら好きに温めてよそえ」
「なら、遠慮なく……」
 コンロの前に立って鍋の蓋を持ち上げると、雑炊の具は卵とシラス。多分あの朝出会った少年でも食べやすいように、だろう。
 あぁそうだ……あの少年は……? と。
 コンロの火を点けてから振り返る。
 ダイニングテーブルの向こう、奥のソファに視線を流せば、その上に毛布の塊。
 どうやら少年はソファで毛布を被って眠っているらしい。
「……空いてる部屋に布団くらい敷いてやれよ」
「今、日干し中だ」
「…………っそ」
 雑なようで丁寧。父さんの人柄がよく出ている言動そのものだ。
「……で? 改めて訊くけど、あのガキ、どこのどいつ?」
「知らん」
「知らん、って……」
 はぁあ、と思わず額に手を当てる。
「仕方がないだろう。本人も自分のことが分かってないらしいからな」
「……は? どういうことだ?」
 くつくつと音を立て始めた鍋の中身をぐるりと掻き回してから火を止める。
 適当な器に雑炊をよそって父さんの向かいの席に座れば、父さんは本を閉じてソファの方を一瞥した。
「名前も家も分からんらしい。昨晩職場に行く途中の路地でぶっ倒れてるのを見付けた」
「……そんで、そのまま拾ってきたって訳か」
 犬猫じゃねーんだぞ、と。また朝と同じ台詞が口の中で転がる。
「警察案件だろ」
 もぐ、と口に運んだ雑炊の塩気は薄い。
「警察は駄目だ、と。やたら怯えたもんだからな」
「捜索願でも出されてたら……」
「そりゃ後で確認はする。昨日欠勤した代わりに今夜出勤になったんでな。そのついでに寄るさ」
「…………そ」
 父さんには父さんなりの考えがあるなら俺はこれ以上口を挟まないでおく。
「今夜仕事になったんなら、流石に少しは寝てくんだろ?」
「あぁ……そうだな。二、三時間くらい仮眠したいとこだ」
「んじゃ、俺がこれ食い終わって風呂上がるまで待っててくれ。その後ここ、変わる」
 ここ、というのは、少年を見守るポジションのこと。
「理解ある息子で助かるな」
「父さんの拾い癖は今に始まったことじゃねーし」
 嫌味のつもりで云ってみたものの、こんな皮肉は父さんにな何の痛手にもならない。
 その証拠に、父さんの表情は平素と何ら変わらない。
 俺は残りの雑炊を掻き込んで食器を軽く洗ってから、シャワーを浴びに浴室へと向かった。

 父さんが寝ている間、少年も目を覚ますことはなかった。目を覚まさないどころか、小さな身動ぎひとつすらしない。
 ちゃんと生きてるのか、と思わず二回くらい鼻先に手を翳して呼吸の有無を確かめてしまった程だ。
 仮眠から起きてきた父さんがコーヒーを啜っている間に、俺は日干しされていた布団を取り込んで空き部屋に敷いておく。因みに、空き部屋は俺の部屋の向かいの扉だ。
 そうして夕方、陽も殆ど落ちた頃。
「何かあったら、すぐに連絡して来い」
 玄関口でそう告げられ、云われなくとも、と軽く肩を竦める。
「それより、父さん。めんどくせぇ、とかなって警察寄らないとかはナシだからな?」
「分かってる。親子の立場を逆転させるな」
「させてんのは誰だよ」
 やれやれと大仰に溜息を吐いて見せたら、父さんは微かに苦笑しながら家を出て行った。
 シンとしているリビングで俺は先日仕上げたレポートの最終確認をすることにした。
 明かりはキッチンの小さなものだけにして、ダイニングテーブルでノートパソコンを開く。
 どれだけ画面と睨めっこしていたか、不意にもぞ、と微かな衣擦れ。
 その音を耳聰く拾って顔を上げれば、毛布の塊がゆるゆると高さを増すのが見えた。
 小さな頭がゆるりゆるりと左右に動く。
 まるで、ここはどこだろう……と確認するように。
「目ぇ、覚めたか?」
 大きくなり過ぎないよう声量を控えて声を投げる。ダイニングテーブルからは動かない。
「…………ぁ、」
 恐る恐ると云わんばかりに振り返った少年の顔には緊張と疲労の色が濃い。
「腹、減ってないか?」
 俺の問い掛けに答えない少年は瞬きひとつすらしないでいる。
「雑炊、父さんが作ったやつある。少しで良いから食っとけ」
 父さんの存在を仄めかしたところで、漸く少年の肩が動いた。こくん、と小さく頷いたのを見て、俺はノートパソコンを閉じてから雑炊を温める為に立ち上がった。
「飯食う時は、こっちのテーブル。来れるか?」
 首だけで振り返った俺に、少年はまたひとつ頷いてからそろりとソファから下りてダイニングテーブルに近寄って来た。
 座る位置を教えるよう、自分が座っている席の斜向かいに箸と麦茶のグラスを置いてやる。
「今あっためてるから少し待ってろ。寝起きは水分飛んでるから、麦茶。ちびちびでも飲んどけ」
 そう落としたら、椅子に座った少年は素直に頷いて麦茶のグラスを両手で持ち上げた。
 小さい手だな、と。ぼんやり自分の手と見比べながら思う。
 淡く湯気が立ち上りはじめたところで火を止める。
 茶碗によそった雑炊の量は少なめ。
「ほら、熱いから気を付けて食えよ」
 俺が茶碗を置くと、少年はグラスを置いて何かを窺うように視線を揺らした。
 何だ? と思いながら座ると少年の肩が少し下がって、あぁ俺が座るのを待っていたのかと知る。
 おずおず箸を手に取った少年はちゃんと手を合わせてから殆ど唇を動かさずに「いただきます」と小さく呟いた。
 食べているところをジッと見られていると食い辛いだろうか、とノートパソコンをまた開く。
 画面を見ている振りをしながら少年が雑炊を食う様子を観察する。
 箸を握る指は細い。未発達な手に大人用の箸は扱いにくいのか雑炊を掬うのに苦戦を要していたが、すぐにただ箸の持ち方がヘタクソなのだと悟る。
 そっと立ち上がった俺にびくりと身体を硬直させる少年は一体何に怯えているのだろうか。
 洗いカゴからスプーンを取って、麦茶のグラスの横にそれを置く。
「悪かった。つい癖で先に箸出したけど、雑炊って箸だと食いにくいよな。俺もさっきスプーンで食ってたわ」
 多分、箸よりスプーンの方が食いやすいだろう。
 食事に余計なストレスを抱えるのは良くない。
 俺もスプーンを使っていた、と付け足したところで少年はやっと箸を下ろしてスプーンに持ち替えた。
 さっきよりスムーズに運ばれていく雑炊。
 それでもひと口は小さい。咀嚼も嚥下もゆっくり。それ故に、食うのが遅い。
 にしても、音、全然立てないな……。
 ノートパソコンの画面に視線を戻した振りをしながら、また少年の観察を続ける。
 不揃いに伸びた髪の毛にツヤはない。
 薄い唇も頬も血色が薄い。
 伏し目がちな瞼から伸びる松葉のような睫毛だけが少年の存在感を主張している。
 ゆっくりと、それでもちゃんと雑炊を完食した少年は、スプーンを置くとまた唇を殆ど動かさずに「ごちそうさまでした」を唱えた。
「もう良いか? まだあるから食えるならよそうぞ?」
 ノートパソコンの画面を僅かに下げて視線を絡ませれば、少年は小さく頭を左右に振っただけだった。
「そんなら、片付けるぞ」
「ぁ……や、りま……」
「麦茶、残ってるの飲み切るのが先」
 茶碗を持ち上げた瞬間立ち上がろうとした少年を椅子に留め、俺はさっさと食器を洗ってしまう。
「これ……も、ぁりがと、ござぃました……」
 すぐにグラスを持ってきた少年からグラスを受け取り、あぁ、とリビングの扉を指差す。
「お前の部屋だけど、トイレの並びにあるドアの部屋使え。布団は敷いてある。あと、その向かいが俺の部屋。俺はリビングかその部屋にいるから、何かあったら遠慮せずに叩いて良い」
 暫くリビングに居るのは良いけど寝るのはソファじゃなくて布団でな、と付け足したら、少年は一歩足を引いてからぺこりと頭を下げてリビングを出て行った。
 その後ろ姿が空き部屋の中に消えるのを確認してから、俺は思わず大きく息を吐く。
「何か……ガキにあんな緊張されてると、こっちも気ぃ張るな……」
 小さく言ちながら、少年から受け取ったグラスを持ったままの手に視線を落とす。
 受け取った瞬間、僅かにだけ触れた少年の指先の冷ややかさがまだ残っている気がした。
 

<ep-2>
 ついでだからとレポートの確認を最後までリビングで終わらせた俺。
 自室に戻る前にそっと少年が身を隠した部屋の様子を廊下で窺ってみたが、息遣いどころか物音は衣擦れさえも聞こえなかった。
 せめて眠れていれば良いんだが……などと思いながら自分もベッドに潜り込む。
 明日はまた朝から夕方までしっかり講義の予定が組まれている。寝不足は大敵だ。
 それでも何かあればすぐ気付けるように、と。
 俺は自室の扉をほんの少しだけ開けたまま眠りに就いた。
 起床は六時。普段通りに目を覚ました俺はスウェット姿のまま廊下に出る。
 向かいの部屋はやっぱり静か。
 もう起きてリビングに居るだろうかという予想は当たらない。
 まぁまだ早い時間だ。少年が寝ていようが起きていようが、声を掛ける必然性はない。
 リビングに出て、カーテンを開ける。
 射し込む朝陽は明るく、今日の天気は穏やかそうだ。
 鍋に残った雑炊は大人の一人前には満たない。
 これはあの少年の朝飯にするか、と器によそってラップを掛ける。
 それから自分と父さん用に白米を研いで炊飯器へセットする。
 普段夜勤明けの父さんは朝飯を俺に要求しないが、この朝は寝ている間に『朝飯頼んだ』というメールが入っていたから、用意するのは二人分。
 味噌汁用の湯を鍋に沸かしながら、雑炊の鍋を洗ってしまう。
 朝飯を担当するようになってからもう何年か。
 いつ一人暮らしを始めても困らない程度の自炊力は身に付いた。
 味噌汁を作るのと並行して塩鮭を魚焼き器に入れて焼けば、朝飯の準備はほぼ終わり。
 七時を幾らか手前にした頃、玄関から新聞受けの新聞を抜く音と鍵が回る音がした。
 迷いなくリビングに入ってきた足音の主は勿論父さん。
「お帰り」
「あぁ、ただいま」
 父さんの部屋はリビングと引き戸で繋がっている。
 父さんが荷物を置いてジャケットを脱いでいる間に俺も一度自室に引っ込んで着替えてしまう。
 再びリビングに戻れば、父さんはダイニングテーブルで朝刊を広げていた。
「飯、もう食う?」
「お前が食うなら」
「なら用意する」
 サッと朝食をダイニングテーブルに二人分並べ、父さんと向かい合って座る。
「アイツは、まだ起きてきてないのか?」
 箸を握った瞬間父さんから問われ、部屋には居るっぽいけど寝てんのか起きてんのかは知らんと返して味噌汁を啜る。
「ん……で? 父さん。警察には?」
「寄ったさ。今のところそれらしき捜索願は出ていないようだ」
「ならどーすんだよ」
「暫く面倒を見る。流石に子供を外に放れないだろう」
「そりゃ、そうだけど……いつまで」
「さぁな」
「さぁな……って、」
 白米を口に運んで肩を竦める。
 つまり、先のことは無計画……ということか。
「一応、ウチで保護しているとは伝えてきた。顔見知りの警官にな」
「……っそ」
 父さんは無駄に顔が広い。殊、職場近くの警察には特に。
「安心しろ、今日はもう出掛ける予定はない」
「俺、五限まである」
「夕飯は俺が用意してやる」
「ん、頼んだ。俺も今日は講義終わったら真っ直ぐ帰るようにする」
 その台詞は極々自然に本心として口から出たものだったけれど……後々考えてみたら、どうしてこの時の俺はこんなにも協力的な台詞を無意識に発したのだろうかと疑問符が浮かんだ。
 朝食を終え、後片付けを父さんに任せた俺はそのまま身支度の続きをして家を出た。
 ノートパソコンを入れたカバンが重たい。
 駅までの道程を歩きながら、あぁそうだと財布の中身をチラリと覗く。
 父さんから預かっている家計費の幾らかにまだ余裕があることを確認した俺は、真っ直ぐ帰るようにする、と宣言した前言を胸の裡で撤回し、軽く寄り道してから帰宅することを決めた。

 その日帰宅したのは十九時過ぎ。
 父さんに遅かったな、と咎めるでもなく云われた俺は手に持っていた紙袋を見せ付ける。
「あのガキ、いつまでか決まってないなら、必要だろ」
 何を、とは云わずとも紙袋にデカデカとプリントされている店の名前で中身は充分伝わってくれたらしい。
「気が利く息子だな」
「父さんが考えナシ過ぎんだよ」
 わざとらしく呆れた声を出してから、俺はリビングのソファの上で所在なさげにしている少年の目の前にその紙袋を差し出した。
「……?」
「これ、お前の服」
 キョトンとした顔に紙袋の中身を教えてやる。
「ぇ……でも……」
「そのブカブカなスウェットじゃ動きづらいだろ。多分それよりはマシなサイズの服選んできた。あと、お前が今着てるそれ、普通に俺のだから、ないと俺が着替えに困るんだよ」
 ほら、と紙袋を押し付けるも、少年は受け止めるだけで中身を漁ろうとはしない。それが遠慮なのか躊躇いなのかは判別しにくいところ。
 とは云え、これは受け取ってもらわなければ困る。
 少年が着ているスウェットがないと俺が自分の着替えに困るのは事実だし。
 少年に紙袋を抱えさせた俺は、文具を纏めてある抽斗からハサミを取り出し、紙袋を取り返す代わりにハサミを握らせる。
 フローリングの上に座り、紙袋からまず取り出したのはTシャツ。
「ほら、お前のなんだから自分でタグ切れ」
 ずい、とTシャツを突き付けてやれば、少年は数瞬狼狽した様子を見せつつもソファからずり落ちてきて俺の手からTシャツを受け取った。
 慎重な手付きでタグを切る指は、箸の持ち方同様どこかぎこちない。
「切ったヤツは取り敢えずこの辺に置いて……で、次はこれ」
 そんな風にして、部屋着と軽く外にも着て行ける服を一揃え。それに下着と靴下も全部タグを自分で切らせる。
「よし、じゃあ次はそれ全部洗濯機に入れて来い。洗面所にあるの、分かるだろ? 一回洗って、明日干す。どーせ他の洗濯物もあるしな。んで乾いたら、次からは今着てるのじゃなくてその服着ろ」
 ゴミになったタグを集めながら、少年を洗濯機へ誘導すれば、少年は躊躇いつつも立ち上がって俺の指示通りに動いた。
「零司、今月の生活費足りなくなったら云え」
 キッチンのゴミ箱にタグを捨てる俺に、父さんの微苦笑。
「今んとこ大丈夫。足りなくなったら当然請求するわ」
 飄々とした声で返して、それより腹減った、とわざとらしく腹を押さえる。
「もう夕飯は出来てる。並べるからお前は茶の用意しろ。三人分な」
「分かってる」
 云われた通り、麦茶のグラスを三人分テーブルに置いたところで少年がリビングに戻って来た。
 洗濯機に服放り込むだけで何をそんなに時間掛けてたんだ……とは云わずに席に着くようにだけ。
 静かな食卓だったが、温かい食事を囲む空気もまたちゃんと温かかった。
 

<ep-3>
 少年が父さんに拾われてきてからあっという間に一週間近くが経った。
 大学の講義にレポートと比較的平日は忙しくしている俺だから、少年とゆっくりと会話をする機会が訪れたのは、金曜日の夜のこと。
 帰宅して玄関のドアを開けたら、丁度父さんがリビングから出てきたところだった。その背後には少年の姿も見える。
「ただいま……あれ? 父さん、今日いつもより出るの早くないか?」
 父さんが今夜夜勤なのは知っていたが、普段家を出る時間より一時間程早い。
「おぅ、零司。丁度良かった。少し早めに来てくれって連絡がはいってな。夕飯は出前でも取って二人で食え。アイツのこと頼んだぞ」
 アイツ、とは訊かずもがな。あの居候少年に他ならない。
 俺が靴を脱いで家の中に上がれば、入れ替わるように父さんが革靴に足を差し込む。
 靴べらを使って丁寧に革靴を履いた父さんは、鞄を手にして斜めに振り返った。その視線は俺より奥へと向けられている。
「ともる、零司に気を遣う必要はないからな」
 ともる……? と俺が首を傾げるのと同時に父さんはさっさと家を出て行く。
 静かにドアが閉まり、外から施錠の音。
 それを合図に少年へと視線を流せば、彼は微かに肩を揺らしてリビングに引っ込んでしまった。
 どうしてそんなに怯えられてるんだ俺は……。
 何とはない理不尽さを感じつつもひとまず自室に荷物を置き、部屋着に着替えてリビングへ。
 ソファの端っこでこちらに背を向けて毛布を被っている少年を視界の端に入れながら、麦茶をグラスに注いで呷る。
 夕飯……どうするかな。出前って云っても、あのガキ何食うんだ……。
 ダイニングテーブルにグラスを置いて、食器棚の隅に束ねて差し込んである出前のチラシを引っ張り出す。
「なぁ、夕飯お前何食いたい」
「な、んでも……いぃです……」
 辛うじて鼓膜に届いた、か細い声。
 何でも良いって云われてもなぁ……。
 チラシを持ったまま、ソファに近付く。
「ほら、これ見て何か好きなの選べ」
 俺が差し出した出前のチラシを受け取りパラパラ捲るものの、少年は積極的に何かを選ぶ目をしていない。
「……食いたいもんがない? それとも何食いたいか分かんねぇ?」
 やや隙間を空けてソファに腰を落とし、膝に肘をついて少年の顔を覗き込む。
「ぇ……と、わ……かんなぃ……くて……」
 まぁ、そんなことだろうとは思った。
「んー……じゃあ、ピザにするか」
 ピザなら食べる量も調整しやすいだろうし、片付けも外箱をゴミにするだけだ。
 味を訊いてもきっとどれでも良いとか云われそうだなと思って、俺は一枚で四種類の味が楽しめるピザの中でもシンプルな組み合わせのものを注文した。
 出前のチラシを元の場所に戻してからまたソファに戻り、少年とやや距離を置いて腰を落とす。
 毛布を被ったまま膝を抱えている少年は、その姿勢が落ち着くんだろうか。
 小さい身体が余計に小さく見える。
「……ともる、って……お前の名前?」
「え……? ぁ、ぇと……それ、は……」
「さっき父さんがそう呼んでた気がするから。記憶ないって聞いてたけど、少しは何か思い出したのか?」
 詰問にならないよう声音をなるべく柔らかく響くように意識する。
「ぁの……それ、が……」
 暫くゴニョニョと口の中で言葉を淀ませていた少年は、毛布の下から少し顔を出して、俺を見上げた。
「名前……覚えてなく、て……その……佐伯、さん……に、つけて、もらいました……」
 成程ね。拾ってきたガキに名前まで……本当に犬猫じゃねーんだぞ……。
 そんな内心は胸の隅に追い遣って、それならと続ける。
「ふーん……で? 漢字は ?父さんのことだからちゃんと字も当ててんだろ?」
「ぇと……火へん、に……登山とかの登る、っていう字を書く、そうです……」
 火へんに登る……あぁ、灯り、の難しい方か。
「また画数の多いめんどくせぇ漢字だな……まぁ、良い字だけど」
 父さんらしいと云えば父さんらしいと苦笑して、俺は更に少年――燈の顔をジッと見詰めた。
 拾われてきたばかりの頃より顔の血色は良い。
 部屋着も俺のスウェットよりもう少し無難なサイズになってからは小柄さに不自然が減った。
「そーいや俺お前の歳も聞いてないけど、それも覚えてねぇのか?」
「ぁ、いぇ……歳は……じゅう、ご……です」
「十五……てことは……中三、か?」
「ゃ……そぅ、じゃない……です……。僕、早生まれで……中学は、一応……何とか、卒業してます……」
「……へぇ」
 その俺が発した「へぇ」には様々な感情がこもってしまった。
 ランドセルをギリギリ卒業している歳かと思ったら、義務教育は卒業済。
 しかし本人曰く、一応……そして、何とか。
 これはまたひとつどころかふたつもみっつも訳がありそうな少年だ。
「で……燈、俺の名前は覚えてるか?」
 俺が深掘りしなかったことに安堵するかのよう、少年の纏っている緊張がほんのり薄まった気がした。
「ぁ、はぃ……っ、えっと……れーじ、さん……」
 おずおずと俺の名前を音にする燈にひとつ頷く。
「そ。漢数字の零に、司るって字で零司。一応、何かの時の為に漢字も覚えとけ」
「はぃ……ゼロと、ツカサドル……で、れいじ、さん……おぼえて、おきます……」
 ゼロとツカサドル……ともう二度三度小さな声で呟いてから、燈は俺の顔色を窺うよう瞬きの度に何度も視線の方向を変えた。
「どうした?」
「ぁ、いゃ……その……零司さんは……なんにも、訊かないんだな……と、思っ、て……」
「訊いて欲しいのか?」
「ぅ……や、訊かれ、ても……答えられること、そんなにないと、思うんですけ、ど……」
「そーだろーなって思ったし、どうせ父さんからは色々訊かれてんだろ? 同じ説明すんのも面倒だろ」
 他意なく、ガキの負担になることをさせる気がないだけだと匂わせれば、燈は二度大きく瞬いてから、ほんの……ほんの僅かにだけ表情を緩めた。
「零司さんって……優しい、ですよね……」
「は? 俺、お前に何か優しくしたか?」
 特別な心当たりがなく首を傾げたら、燈はこくんと頷いた。
「佐伯さんはもちろん、優しいですけど……零司さんも、初めて会った時から、優しいです……」
 ふふ、と。淡く吐息を揺らす燈の双眸の奥は穏やか。
 幾らか燈の世話というか、面倒を見ている自覚はあるが、特に優しくしているつもりはない。
「よく分かんねぇけど……あー、じゃあそうだな……俺から、ひとつだけ気になってること訊くわ」
「はい……答えられること、なら……」
「お前、家出でもしてきたのか? それともそれもよく分かんねぇ感じ?」
 なるべく簡単に答えられそうな問いを投げた俺に、燈は小さく喉を鳴らした。
「それ、は……」
 多分……家出、です……と。
 燈が零したのと同時にインターフォンが鳴る。
「あ、ピザ屋かな……ちょっと待ってろ」
 よっ、と立ち上がってインターフォンの受話器を取る。
 来訪者は案の定ピザ屋の配達員。
 多分家出してきた、と本人の口から聞いたことで質問欲が満たされた俺の中でその話は終わったものとして完結してしまった。
 だから、燈が俺の背を見ながらぽつりと続けた声には注意が届かなかった。
「……僕には帰れる場所が、多分もう……――」
 
 
<ep|4>

 頼んだ宅配ピザを、燈は二切れ食べただけで満足してしまったらしい。
 四種類の味、すべて一切れずつくらいは食べると思ったのに……どうやら燈は俺が思っている以上に食が細いようだ。
 そんなんだから歳の割に小さいんだろうか……などとぼんやり思う。
 立って並ぶと燈の頭は俺の肩より少し低いくらい。俺の身長が百八十センチくらいだから、多分燈の身長は百六十センチもないだろう。
 高一男子で百六十センチ以下は一般的指標と照らし合わせるとやや物足りない。
 残ったピザは数切れ。俺一人で残り全部食べるのは難しくなかったけれど、まぁ小腹が空いた時に誰かが手軽に食べれるものがあると便利だし。
 キッチンからラップを取れば、零司さん…っ、と燈の声。
「なんだ?」
「ぼ、僕も、お手伝いし、ます……」
「あー……じゃあ、ラップ切るから、それで包んでくれ」
 何となく……。偏見ではあるがラップを切るところから任せたら、燈はそこで苦戦するような気がしたから、テーブルに広げたラップにピザを置いて包んでもらう役目を任せる。
 そして案の定。四隅を中心に寄せて畳んで包めば良いだけなのに、何故かぐちゃぐちゃな包み方をされたピザ数切れ。
 まぁ……そこに突っ込みはしないけど。
「これ……冷凍庫入れとくから、もし腹減った時は電子レンジで勝手にあっためて食え」
「はぃ……ぁ、あの、零司さん……?」
「ん?」
「僕、他にお手伝い出来ること、ありませんか……?」
 手伝い、か……と俺は思わず腕を組む。
 基本的に日常生活の家事は父さんとの分担が上手く回っているからすぐにこれというものが思い浮かばない。
「あの……手際良く出来るかは……保証出来ない、んですけ、ど……」
 置いてもらってるのに、何もしないのも何だかダメな気がして……と。
 語尾が小さくなっていく燈に、成程何もしてない方が居心地が悪い……といったところだろうかと一人合点。
「んー……なら、洗濯。明日纏めて洗濯機回すつもりだったから、洗濯機の使い方教えるついでに明日お前に頼むわ」
 掃除、洗濯、料理……と大きく分類した時、一番失敗が少なそうなのが洗濯な気がする、
「洗濯……分かりました。あと、僕……料理は、出来ないですけど……お皿洗いとかは、出来るので……」
「ん。じゃあ、飯作るのは俺か父さんで、後片付けは燈にも一緒にやってもらう……それで良いか?」
「はい……!」
 俺が割り振った家事分担に大きく頷く燈がどこか嬉しそうに見えたのは気の所為だろうか。
 こうして、洗濯と食後の後片付けは本格的に燈の担当へと定着していった。
 それと、もうひとつ。俺はスーパーへの買い出しにも燈を連れ立つようになった。
 発端は父さんの「散歩ついでに燈も連れてってやれ」という声掛けだったが、初めて一緒にスーパーへ行った時の燈の様子が余りにも世間慣れしていなさすぎたからだ。
 高校一年に該当する年齢ならスーパーもコンビニもとっくに馴染みがあるだろうに、スーパーに踏み込んだ途端、燈は迷路にでも迷い込んだ幼児みたいに俺を見失うまいと必死な顔で後を着いてきていた。
 少しずつ言葉数は増えているものの、燈は自分の欲を出さない。否、出し方を知らないだけなのか……この辺りはまだ謎が多い。
 燈とスーパーに買い出しに行く日、俺は必ず燈に食べたいものを最低ひとつは云わせることにした。
 父さんは当分燈をウチに居候させるつもりでいるらしい。
 それならば、燈の食が進む飯を作る日があっても良いのでは……と云うのは建前で、単に俺が献立を考えるのが面倒なだけ。
「何でも、良いです……」
 と燈得意の言葉は禁止して、食べたいものが思い付かないのなら家の本棚の端に何冊か並べてあるレシピ本を見て選ぶように義務付けた。
 頬を引っ掻く風がじゃれる猫の爪痕みたいに残るようになったある日のこと。
 その日、燈が食べたいと挙げてきたのは肉じゃがだった。
 肉じゃがを作る為に必要な食材は他の料理にも流用しやすいから悪くないチョイスだ。
 他にも適当な食材を買い物カゴに放り込んでいると、一瞬だけ斜め後ろで燈の足が止まった気がした。
 首だけで振り返った時にはもう燈は俺のすぐ後ろにいたけれど。その二歩後方に視線を遣ったら、プリンやらゼリーが並んでいるチルドケース。
 買い物カゴの中身の合計金額を大雑把に割り出してから、燈、と軽い声音で名前を呼ぶ。
「なんですか? 零司さん……?」
「お前、プリン好きか?」
「え……ぁ、えと、きらい、じゃなぃ……ですけど……」
 燈の「嫌いじゃない」には二種類ある。
 瞬きが増える時は好き寄り。
 伏し目がちになる時は余り好きじゃない寄り。
 今の燈は何かを誤魔化すかのように忙しない瞬きを繰り返している。
「なら、あれ。ほら、お買い得の値札が付いてるプチッてするプリンの三個パック、取って来い」
 あれ、父さん好きなんだよと唇の片端を僅かに上げれば燈はまた何度か瞬いてから小さく頷き、チルドケースから俺が指定したプリンを手に取り買い物カゴにそっと入れた。
 嘘は云っていない。事実、三個パックのプリンを買った時にふたつを胃の中に収めるのは俺よりも父さんなことの方が多いのだから。
 その後会計を済ませて袋詰め。みっつになった買い物袋のひとつを燈に持たせて家路を辿る。
「……あのプリン、プチッてする時……なんだか、うれしくなります、よね……」
 細い声で呟いた燈に、そういうもんなのか、と笑う。
「俺、あれ何だかんだあんまり皿に出して食ったことないな」
 いつもカップのまま食うタイプだわ、と肩を揺らしてから、俺はじゃあと続ける。
「じゃあ、あのプリンは俺と父さんの分もお前がプチッてする係だな」
 頼んだぞプリン係、ともう一度肩を揺すったら、燈はやたら神妙な顔付きをしながらこくんと頭を上下に動かした。

 
<ep-5>

 師走という異称に相応しく、学生も社会人もどことなくバタバタし始めた頃。
 例に洩れず……何なら、医学部三年である俺は下手な社会人よりも過密なスケジュールの中に身を投じていた。
 秋のレポート地獄を乗り越えてホッとしたのも束の間。今は年明けの本試験の勉強は勿論、年内の分野別科目試験の勉強。そして一年後に控えている所謂『医師の仮免試験』のことも考えて動きはじめなければならない時期。
 時は金なり――まさにこれ。
 とはいえ、程々に休息を挟むのも効率上昇の秘訣。
 その日の夜、俺は父さんから頼まれていた小用を息抜きとしてこなすことにした。
 夜勤に出る前父さんが作っておいてくれたミートソースのスパゲッティを燈と二人で食べる。
 粉チーズを味調整の塩コショウか、くらい控えめにしか振らない燈。いくらなんでも控えめ、の度を越している。
「もう少しかけた方が美味いぞ」
 とうっかりを装い、燈のミートソースの上に粉チーズをドバッとぶちまけた俺を見る燈の目は驚きでか、目ん玉がこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらいまん丸になって少し面白かった。
 燈が皿洗いをしている間に俺は廊下の納戸の中を漁り、奥から三十センチ四方、高さ一メートルくらいの箱と、その横にあった年季の入った大きい紙袋を引っ張り出してリビングに戻った。
 そうしてそれを窓際のチェストの横へと運び、箱の蓋を早速開ける。
 中には台座付きの木の幹。そして、その幹の表面に点在している節に差し込む葉の繁った枝が大量に。
 箱から取り出したそれを黙々組み立てていたら、皿を洗い終えたらしい燈が俺の斜め後ろからおずおずと声を掛けてきた。
「零司、さん……それ、なんです、か……?」
「は? 見りゃ分かんだろ」
「……木?」
「……まぁ、木だけど……ツリー。クリスマスツリーな?」
 そう。俺が父さんから頼まれていたのは、このクリスマスツリーを出して飾っておくことだった。
 佐伯家では毎年クリスマスツリーを飾る習慣がある。
 元々はクリスチャンだった母さんが始めたことらしいが、母さんが居なくなった後もこの習慣は変わらずに続けてている。
「クリスマス、ツリー……」
 あぁ、と手をポンと叩いた燈だったが、でもと軽く首を傾げる。
「クリスマスツリーって……家の中でも飾るんですね……」
「何、お前の家は飾ってなかったのか?」
 つい燈が記憶喪失だということを失念して問うてしまったけれど、燈は短く唸ってから頷いた。
「家、の中でクリスマスツリーを見たことは、多分ない、です……」
「……ふぅん」
 まぁ、一メートル程のクリスマスツリーを飾る家は確かにそう多くないかも知れない。
 俺は物心ついた時からもう見慣れた風物詩だったから逆に違和感を覚えないだけで。
 燈の記憶はまだハッキリしていない……となると、小さなオブジェみたいなクリスマスツリーくらいはあった可能性もなくはない。
 ただ、もしあったとしても、燈の記憶に残る程印象的なものではなかったのだろう。
 ツリーの基礎だけをさっさと組み立てた俺は、紙袋の中を覗いてから燈に視線を遣る。
「お前、これ手伝え」
「……手伝い、ですか?」
「そ。ツリーの飾り付け。二人でやった方が早いだろ」
 そこには、さっさとツリーの飾り付けを終えて自分の勉強の時間を少しでも増やしたいという打算が七割。そして二割は燈に役割を与えることで彼の居心地の悪さが薄まれば良いと思った結果。
 もう一割は、イベント事に触れることで何か思い出すことがあるかも知れないという淡い期待だった。
 別に燈が記憶を取り戻そうが取り戻さなかろうが、俺には何の影響も及ばないだろうが、自分の過去をよく覚えていないというのは不安なんじゃないかというお節介みたいなものだ。
「……でも僕、ツリーの飾り付けとかしたこと……」
「ないなら、やってみりゃ良いだけだろ。ほら、俺が電飾のコード巻くから、お前は紐の輪っかが付いてる飾りを枝に適当に引っ掛けてってくれ」
 飾る場所に決まりはない。好きな所に好きな飾りを引っ掛けるだけだ。
 そう続け、俺は電飾のコードを引っ張り出した紙袋を燈の足元に置いてやった。
 青と白、赤と緑の小さな電飾コードを交差するようツリーに巻き付けていく俺と、覚束無い手付きでオーナメントを枝に引っ掛けていく燈。
 細々したオーナメントを引っ掛ける役目を燈に任せたのは正解だった。
 俺が一人で飾り付けを完成させるよりも幾分か早くツリーは彩に溢れてくれた。
「……零司さん、この……星は? 紐がついていないんですが……」
「あぁ、それはツリーを完成させる大事な飾りだ。ほら、底に穴が空いてるだろ? ツリーのてっぺんに差し込むヤツだ」
 飾り付けの仕上げは任せた、と燈に云えば、彼はおずおずとツリーのてっぺんへまるで王冠でも被せるかのよう手の平大の星飾りを恭しい手付きで被せた。
「よし。そーいや電飾ちゃんと光るか試してなかったからちょっと確認するぞ」
 そう宣言し、一旦リビングの照明を落としてから床に寝そべらせたスイッチを、『切』から『入』へカチリと動かす。
 パッ、パッ、と。青と白、赤と緑の光が交互に点灯する。
 良かった、電飾は今年もまだちゃんと生きていた。
 規則正しく点滅を繰り返す光を、燈はまるで魔法でも目の当たりにしたかのよう、目を大きくしながらジッと見詰めている。
 そんな燈を横目に、俺はツリーの横のチェストに立て掛けてある写真立ての向きを僅かにだけツリーの方へと角度を調整した。
 それから一瞬だけ手を合わせて軽く目を閉じる。
 その仕草に気付いた燈がちょこんと首を傾げる。
「零司さん……その写真、は……?」
「ん? あぁこれな。母さんだよ。五年くらい前に亡くなっててな。ツリー飾るのは、母さんの為みたいなもんだからちゃんと見せてやらないと」
 無自覚に小さく笑ったら、燈は刹那キョトンとしてから慌てたようについさっきの俺と同じように数秒、手を合わせて目を閉じた。
 ただの真似じゃない。数秒だけだけれども何かを祈るような仕草。咄嗟に俺を真似ての反射的なものだったのだろうけれど、俺はこの時燈の心根の優しさを知った気がして、思わず口角がほんのりと上を向いた。
「よし、確認終わり」
 電飾のスイッチを切って、リビングの照明を元の明るさに戻す。
 チェストの上に戻した俺の手は写真立ての向きを変えはせずに普段そこにはない薄型の箱を手に取った。
 厚さは三センチ程。A4p用紙くらいの大きさをした紙箱は、父さんが買ってきた物だ。
 俺はそいつを何の躊躇いもなく燈の目の前に差し出す。
「これは、アドベントカレンダー。一から二十四まで数字が振ってあるだろ? 日付に該当する数字のところをクリスマスまで毎日ひとつずつ開けてくってヤツ」
「アドベント、カレンダー……」
 知らない単語だったのか、燈は慎重にその言葉を繰り返す。
「そ。中には、小さいお菓子とかオーナメントが入ってんだ。今年これを毎日開けるのはお前の役目な」
「え……? でも……」
 何で? という困惑の眼差しは敢えて気付かない振り。
「もし中味がチョコとかクッキーだったらそいつはお前が食って良い。んで、オーナメントが入ってたら、それはツリーの好きなとこに追加で飾れ」
 今日はもう五日。クリスマスツリーを飾るのもアドベントカレンダーを開けるのも恒例行事とはいえ、ついつい毎年十二月に入る前に用意し損ねてしまうのは多分俺にも父さんにも几帳面を象徴するA型の血が入っていないから……だと思う。
「ほら、五までは今開けて良いぞ」
 トントン、と一のマスを指先で叩くけれど、燈の手はまだ躊躇うように空中を彷徨っている。
 ふむ、とひと唸り。それならこうしよう、と俺は一のマスの扉を開ける。
「今日は、五のマスまで俺とお前交互で開ける。で、明日からはお前が毎日開ける係にしよう……お、ひとつめは早速プレゼントのオーナメントか。ほら、次はお前の番」
 手本を見せることで、燈に真似をさせる。
 未だ躊躇いがちに、それでも二のマスの扉に指を引っ掛けた燈。その中にはホイル紙に包まれたチョコレートが入っていた。
 そうやって五のマスまで順番に開けて、結果的に出てきたのはふたつのオーナメントとみっつの小さなお菓子。
 オーナメントはツリーの高い位置の枝に吊るし、お菓子はみっつ中ひとつを俺がもらっておく。
「よし、じゃあ明日から頼んだぞ」
「ぁ……はぃ……」
「んじゃ、俺部屋で勉強してっから。何かあったら遠慮なく呼べ」
 ホイル紙に包まれたチョコを指先で遊びながらリビングを出ようとしたら、燈があの、と小さな声を投げてきた。
「ん?」
「これ……部屋の電気消して……ツリーの明かり、見てちゃ……だめ、ですか……?」
 珍しい燈からのお願いに、思わず肩が揺れる。
「だめじゃねーよ。部屋暗くして、好きなだけ光るツリー眺めてていーぞ」
 電飾のスイッチをまた入れてやって、リビングの照明を落とせば、燈はソファの上から毛布を引っ張ってきてツリーの横に座って毛布を被った。
 座敷童子かよ……というツッコミは口の中で溶かし、風邪引くなよとだけ残して今度こそ俺が背中を向けると、燈のありがとうございます、が穏やかに背筋を撫でた。
 
 
<ep-6>
 
 年末年始の休み……という概念は今の俺にはない。
 寧ろ、大学の図書館が一週間使えないという不便極まりない連休。
 ただ、年末年始の休みという概念がないのは父さんも同じ。
 大晦日は休みらしいが、元日は新年早々夜勤らしい。
 だがまぁ大晦日が休みならば、日本人としては夕飯とは別に夜食として用意すべき物がある。
 それの仕込みの為、俺は息抜きと称して夕方に一度キッチンに立った。
 燈と父さんと三人で夕飯を食べた後は俺だけまた自室へ。
 そうして二十二時を過ぎた頃に再びリビングへと顔を出す。
 テレビに映っているのは大晦日ならではの音楽番組。
 けれども、テレビと向き合っているのは燈だけ。父さんはソファで英文雑誌を捲っている。
 丁度画面の向こうでは演歌歌手が派手な演出を披露しはじめたところ。それを物珍しいものでも見たかのよう真剣に見詰めている燈の様子の方が俺には物珍しく映って何だか少し面白い。
「父さん、そろそろ蕎麦用意して良いか?」
「ん? あぁ、そうだな頼む」
 俺と父さんの短い会話を拾ったのか、燈がテレビから視線を外して俺を不思議そうに見上げてくる。
「お蕎麦……? でも、夜ご飯はさっき……」
「おう、今日は大晦日だからな。夕飯とは別に、ウチでは年越し蕎麦も食うんだよ」
 大晦日に夕飯とは別腹で年越し蕎麦を食べる習慣はウチに限ったことではないだろうけれど。燈の『知らない』を馬鹿にするような云い方にならないようそんな風に答えた。
 夕方に出汁をとったそばつゆを温めながら、別の鍋で蕎麦を茹でる俺。
 燈は俺がキッチンに立つとソワソワしだすから、テーブルに箸を三人分並べてくれと指示を出す。
「あと、丼ふたつと……味噌汁のお椀ひとつな。一人前とは云わねーけど、お前もちょっとだけで良いから食え」
 味噌汁のお椀はお前の分の蕎麦を入れる為の器だと暗に告げれば、燈は素直に丼ふたつと味噌汁用のお椀をキッチンの作業スペースに置いた。
 具は輪切りのネギを小さな山にしただけのかけ蕎麦が我が家の年越し蕎麦スタイル。
 七味はそれぞれの加減で、と小さなビンだけテーブルの中央に置く。
 真っ先に七味のビンを手に取った父さんが、バサバサと蕎麦の表面を朱色に染めていくのに対し、俺は三振り。その違いを見て困惑したかのよう、燈は七味のビンを手にはするものの振りかける量に迷う様子が視界の端に入った。
「取り敢えず入れずに食って、一振り足して、食ってみ、て……って味確認しながら自分好みにすりゃ良い」
 それに折角丹念に出汁を取ったそばつゆだ。
 どうせならまずは素のままの味を知るのも燈にとっちゃ食育の一環になるだろう。
 結果的に、燈的には一振りで満足いく味になったらしい。
「……ところで、年越し蕎麦って……どうして食べるんですか?」
 わんこ蕎麦みたいな量の蕎麦を見詰めつつ燈が純粋な声で発した疑問に答えたのは父さんだった。
「日本の昔からの風習だ。今日までの一年の厄災や苦労を切り捨てて翌年に持ち越さない、って意味で食うんだ」
「なるほど……」
「あ? 俺、来年も細く長く暮らせるよーにってどっかで教わって覚えてたんだけど……」
 俺の知っている知識と父さんの解説が違う……と思わず口を挟んだら、父さんはどっちの説も同時に唱えられてるからどっちも間違ってはないと鷹揚に笑った。
「どちらにしても、新年も平和に過ごせますように……ってことです、か?」
「そーゆーことだ。ほら、燈。あと一口でも良いから食え」
「はい……あ、ぃえ、あと少しだけなので……残ってるのはちゃんと、全部食べます」
 そう宣言して箸を握り直した燈。
 相変わらず不器用な箸使いなものの、食べることに前向きな燈の姿勢には、俺も父さんも安堵めいた微笑を隠せずにはいられなかった。
 年が明けるまで起きている、とテレビの前で粘っていた燈だったが、結局は睡魔の誘惑に負けて日付が変わる少し前にソファで寝落ちてしまった。
「父さん、燈、どーする? このままここで寝かせとくか?」
「いや、夜中は冷えるからな……布団に連れて行ってやってくれ」
「はいよ、っと」
 父さんからの頼みに異論を唱えることなく、燈が包まっている毛布ごとその年齢不相応な細い体を抱き上げる。
「三が日は食っちゃ寝が日本の正月の常識で醍醐味だ、つって正月太りさせてやんねーとな……」
 腕に感じる重みの頼りなさから思わずそう呟いたら、まったくだ、と父さんは肩を揺らした。
 こうして、燈がウチに来てから初めて迎えた佐伯家の大晦日はそっと幕を閉じ、ゆったりと新しい年が始まろうとしていた。
 
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