灯は繋がりの証
街中が一夜にしてガラリと装いを変えた朝。
九条医院へ向かう途中、僕は芯から冷える寒さに思わず自分の腕を抱いてしまった。
支度をしながら見るでもなく流していたニュース番組の天気予報では、今朝未明からこの時期としては異例の寒波が列島を覆っているとのことだった。
もしかしたら平地でも雪がチラつくかも知れません、と気象予報士が云っていた通り、空は低く重たい色。
いよいよ年末。カレンダーの都合上明日が年内最終診療日とあって、診療所は年末処方を求める患者とウイルス性の流行り風邪の患者で嬉しくない盛況具合。
昼休憩も殆ど取れずに一日が終わるのは最早珍しくない毎年末の恒例行事のようでもある。
まぁ……閑古鳥が鳴くよりは、余程有難いことなのだけれど。
最後の患者を診察室から見送ったのは十九時過ぎ。
溜め込んだら明日の自分が苦しむのは明らか過ぎる現実で。僕は休む間もなく紙カルテに記載した分の記録を電子カルテに打ち込む作業に移った。
「九条先生、締め終わりましたよ。お疲れ様ですわぁ」
戸口と会計の締め作業を終えた医療事務の林さんが「どーぞ」とデスクの端に置いてくれたのは焙じ茶の入ったマグカップ。
「あぁ、有難うございます……林さんも、一日お疲れ様でした。締め作業もしていただいて助かります」
丁度、電子カルテの保存ボタンを押した手でそのままマグカップを包み込む。
コーヒーとはまた違った落ち着く香りが神経を宥めてくれる。
「先生はもう少しやっていきますかね?」
「えぇ。これだけは片付けていかないと自分が地獄を見るのは最初の頃に痛い程味わったので……」
まだ診療所を継いだばかりの頃、効率の悪さで僕が自分の言葉通り地獄を味わっていたことを知っている林さんは「そぉねぇ」と小さな苦笑。
「そなら、先生。大したもんじゃないけどこれでも食べて残り頑張ってくださいな」
そう云って彼女が紺色のカーディガンのポケットから取り出したのは、あまじょっぱい粉がまぶしてあるお煎餅の小袋ひとつ。
「あぁあこのお煎餅、僕、大好きなヤツです……」
有難うございますともう一度林さんを拝んでから、年内最後の明日もよろしくお願いしますと彼女の帰宅を見送った。
二十一時頃の空は相変わらず低いまま。
雲が厚い夜は逆に普段よりも仄明るい気がする。
仄かに明るい夜というのは、安心より不穏を感じる気がするのはどうしてなのだろう。
通い慣れた雑居ビルのガタつくエレベーターで四階へ。
自宅ではない夜の僕の居場所である部屋は、外よりも更に冷えた空気で僕を迎え入れた。
部屋の中がシンとしているのはいつものこと。
その静けさの中にパトカーや救急車のサイレンが遠くに聞こえることは別に珍しいことじゃない。
だけど……単なる気の所為だろうか。今ふと外で響いたサイレンの音は、いつもよりももう少し近くで僕の鼓膜を揺るがした気がした。
暫くコートはおろかマフラーを外す気にもなれず、エアコンの暖房が効いてくるまで防寒対策はそのまま。
間接照明の下、温かいハーブティーを淹れて身体が温まるのをデスクの椅子でジッと待つ。
三十分程して漸くマフラーを外し、更に十分程経ってからやっとコートを脱ぐ。
冷えきっていた指先も平熱を取り戻し、滑らかに動くようになった。
そろそろ『相談対応可』の札を外に出そうかと椅子を立ったところで突然震えた携帯電話。
眩しく点灯するディスプレイには『佐伯さん』の文字が浮かんでいた。
この『佐伯さん』というのは、以前クライアントに渡した名刺に記載されていた名前――佐伯零司とは別の人。僕が『佐伯さん』の表示で登録してある人というのは零司さんのお父さんだ。
「……? 珍しいな……」
佐伯さんには昔とても世話になった身だし今も尚交流は途絶えていないが、それでも電話が鳴ることは割と珍しい。
通話ボタンをタップして携帯電話を耳に当てる。
「お久し振りです、どうしましたか?」
『あぁ、燈。今どこに居る?』
「今ですか? 繁華街のビルですけど……」
『そうか、なら数時間後にそっちに一人患者を行かせるから後は頼んだ。さっき俺のところに薬物の過剰摂取で救急搬送されてきた十八歳女性、ギリギリ成人だ。外科処置は終えて今点滴を入れている』
淡々としたその声に、折角温まった身体がすぅ……と、また冷えていく。
『残念ながらウチには病床の余裕がないからな。長くは置いてやれないんだ』
それに、この先はお前の方が俺より対応に明るいだろうと云われ、胸裡が何とも複雑になる。
それでも、判りましたと返して通話を終えた僕は外に出そうとしていた札をこの夜外気に触れさせるのをやめることにした。
ピーーーーーンポーーーン……、と。
悪戯に長押しされた時特有のチャイム音。
だけど、僕はそれが悪質な悪戯だとは思わなかった。
ゆっくりと椅子から立ち上がって、そっと扉を開ける。
そこには決して顔色の良くない少女が、一枚のメモを握り締めて立っていた。
サイズがブカブカな色褪せたパーカーの胸元には『汚れ』の痕跡。
ショートパンツから伸びる足先は裸足で、底が厚い革靴とのちぐはぐさが目の奥に痛い。
「……これ、ココ、あってる……?」
のったりとした口調で握り締めていたメモを見せてくる少女。
それにはココの場所を示す手書きの簡易地図と、『S・S』というイニシャルが記載されている。
Sの特徴的な曲線具合には見覚えがある。メモを差し出しながら僕をぼんやりと見上げている彼女が、佐伯さんから連絡を受けていた『患者』で間違いないだろう。
「うん、ココで合ってる。待ってたよ。さ、中にどうぞ」
「……ん」
少女は驚く程警戒心なく僕の誘導に従った。
もし僕が彼女に危害を加える魂胆があったら、彼女はどうするつもりだったのか。
否、どうするつもりもないから従順なのかも知れない。
何はともあれ、僕からしてみれば彼女が無事にココへ辿り着いてくれたことに安堵するばかりなのだが。
少女を待っている間、何度も加温を繰り返していたからケトルのお湯が沸くのは早かった。
ストックしてある中でも取って置きのハーブティーを丁寧に淹れて、椅子へと座らせた少女の目の前に出す。
「まだ熱いかも知れないけど……」
どうぞ、と僕が置いたティーカップに手を伸ばさないのは、怪訝とかではなくきっともう『動きたくない』という意思表示なのだろう。表情はおろか視線も殆ど動かない。
壁時計の秒針の音すら響かせるのが申し訳なくなるような沈黙。
迎合でも拒絶でもない、彼女が纏っている『無』に息苦しくなるような既視感。
「たすかるつもりとか……なかったのに」
ぽつり、と。彼女の色のない唇から零れ落ちたそれは会話をするつもりで発せられたものではないのだろう。
その証拠に彼女は僕へ焦点を合わせようとしない。
だから僕は自身の呼吸音すら潜めてただ彼女の独白を聞いていた。
「……やだ、なぁ……」
「………………」
「なっさけな……」
「……情けない? それは、何に対して?」
ただ彼女の独白を聞いているだけにするつもりだったけれど、彼女の言葉が尖り始めたような気がして、思わず口を挟んでしまった。
「だって……さぁ……たすかるつもりなんかなかったのに、いきてるし……」
彼女の台詞は会話というより自動応答音声のよう。
それに、と彼女は間延びする声を微かに震わせた。
「しにぞこなったあげく、こんな、あったかいとこ……きちゃったじぶんが……やだ……」
その言葉に僕は一瞬、呼吸をし損う。
「……ココは、君にとって……あたたかい?」
「ぅん…………あったかい……こわく、なるくらい……」
ホントは、こんなトコ来たくなかった、と。
そう洩れてくる彼女の言葉はどこからどこまでが心の核なのか。
「来たくなかった……けど、君は自分の足で、ココに来たね……」
「……だって……もう、もどれないもん…………」
「戻れない……? どうして?」
どこに、という言葉は敢えて省いた。
「ダサいじゃん……ほんきでしにぞこなったやつなんか……」
笑えないから、逆にダサいと彼女は繰り返す。
「このまちはさぁ……だっさいうわさほど、はやくまわるんだぁ……」
フツーの人は、迷惑だって怒るの知ってるよ。
でもこの街では失敗が本気であればあるだけダサくてカッコ悪くて、バカバカしいんだ。
そんな風に自分を……自分たちを蔑まないと生きていられない彼女に喉の奥が詰まる。
「つめたくなれなかったじぶんが、なさけなくて、やんなる……」
涙の気配は感じられない、乾いた声。
きっと、涙を流すだなんてそんな高等な感情表出の仕方をこの子の身体はもう覚えていないのだろう。
「あたたかい場所を求めるのは、人間の本能だよ」
「そのにんげんをさぁ……やめるつもりだったのに……」
彼女の視線が漸く動いてカップの中の琥珀に落ちる。
「けっきょくやめらんなかったわたし、よわいなぁ……」
やだなぁ……と。またも繰り返した彼女に、僕は眼鏡の奥の目を細めて深く、慎重に息を吸う。
そしてほんの微かにだけ、彼女の為に淹れた琥珀色の水面を吐息で揺らした。
「口を付けてみて。ひと口……いや、舌先で舐めるだけでも良い」
僕の言葉に操られるかのよう、幽霊のような手付きで細い指がカップの持ち手に絡まった。
恐る恐る顔に近付けてほんの少し鼻先を動かした後、彼女はそのまま縋り付くようにその熱を両手で包み込んだ。
もう色のない湯気が、彼女の凍てついた前髪を僅かに解く。
「弱いだなんて、とんでもない勘違いだ」
いっそ畏怖の念すら抱きながら静かに紡ぐ。
「君は君の生き方を自分なりに決めて行動した……。本当に弱い人は、そんな勇気の要る行動は起こせないよ」
少なくとも、その行動からすら逃げた僕よりも君はずっとずっと強い。
無理に顔を上げて明日を向く必要はない、と。彼女の云うダサさを否定も肯定もしない。
「明日なんていうものは……今日を生き延びた結果として勝手にやってくるだけの、ただの現象だ」
そう。もう来ないでと幾ら望んでも、明日はいつも同じ速度で勝手にやってくる。
公転と自転の支配下に在る限り、僕たちの明日は誰にも等しく勝手にやってくるのだ。
「今は無理に『生きよう』なんて思わなくて良い……」
「…………ぇ?」
この時、ようやっと彼女が『生きた人間』らしい反応を見せた。
「君が終わる為に使ったエネルギーを……今はただ、泥のように眠るために使ってみたらどうかな……?」
人間は眠るにも膨大なエネルギーが必要だ。
起きていて何か考えたり行動したりするよりも。
それを眠る為のエネルギーに変えてしまう方が心にも身体にも余程優しい。
「どろのよーに、ねむる……」
のったりと復唱する彼女に無言で大きく頷く。
「人間は誰にでも望む望まないにしろ必ず終わりが来る。だから……今はその順番がくるのをぼんやりとで良いから待ってみないかい?」
本気の失敗がダサいのなら、君の中でダサくない在り方を探せば良い、と。
僕は順番待ちという提案をしてみる。
「……じゅんばんを、まつ……」
彼女が繰り返し僕の言葉を復唱するのは、きっとそうしないと言葉が自分の中に染みたり落ちてきたりしないからなのだろう。
意識的でも無意識にでも、そうやって他人の言葉を自分の中に刻もうとする彼女はまだ順番が回って来ていないのだと思うから。
「うん、そう。横入りせずに、ただ自分の順番を待つだけ」
僕が続ける言葉に、彼女は何かを考え込むようぼんやりと琥珀色の底を見詰めた。
彼女がまた尖った言葉で自分の喉を傷付け始める前にと、僕はデスクの隅に伏せてあった携帯電話へと手を伸ばした。
アドレス帳で検索、表示した名前は『常察(つねみ)先生』。
まだ僕が医者として半人前だった頃にお世話になった精神科医の名前だ。
常に察すると書いて『ツネミ』と読むその苗字は正に名は体を表すの具現化だと思っている。
少々……いや、カナリ変わった人ではあるが……精神科医としてはお世辞抜きに全幅の信頼を置ける人だ。
彼は今独立して精神科病棟とはまた少し違う、静養を目的にした療養施設を運営・管理している。
揺れる世界で生きることに疲れた人を揺るがない安心で包み込むような、そんな場所。
この少女が今身を置くべきは元居た繁華街の片隅ではなく、常察先生の広い懐の中しかないのではないかと彼女を待っている間に考えていたし、今はそれが確信に変わっていた。
発信ボタンをタップして三コール半で繋がった電波。
「もしもし……ご無沙汰しております、九条です。このような時間に申し訳ありません……どうしても常察先生にしか頼めないお願いがありご連絡させて頂きました……――」
始発電車が動き出す直前。僕は少女を連れて駅へ向かってゆっくりと歩いた。
空は深夜と変わりなく低く重たくて、でも仄明るい。
一歩踏み出すごとに芯はどんどん冷えていくのに、肌を撫でる空気は不思議と温かさすら感じる。
不意に、視界の端を白いものが横切った。
気の所為かと思った次の瞬間には二粒、三粒と、灰色の空から場違いな白い結晶がまるでガラスの破片みたいにパラパラと落ちてくる。
「ゆ、き……?」
僅かに視線を空へと向けて呟いたそれが確かな音になったかは判らない。
十二月の雪なんて珍しい地域。ニュースの予報は大当たりしたという訳だ。
アスファルトに落ちては一瞬で溶けて消えていく、積もる術を持たない迷子のような雪。
隣を歩く少女の髪に、溶け切れなかった白が一粒絡む。
それを見た瞬間、僕は思わず眩しいものでも見たかのように目をギリギリまで細めてしまった。
ターミナル駅のロータリー広場はまだ人が少ない。
少し待っていると、するり、外車が一台僕たちの目の前に滑り込んできた。
車に詳しくない僕は車種なんて判らないけれど、綺麗に手入れがされたその車はきっと高級車なのだろう。
運転席から出てきたのは長身の女性……ではなく、女性のように身を飾った男性。
中性的な顔立ちと緩いウェーブのかかった長い髪の毛の所為でパッと見は大柄な女性にしか見えないが。
「お久し振りです、常察先生」
「まったくも~! 九条くんったら久々に連絡してきたと思ったら人遣いが荒いんじゃなくって? アタシのことちゃんと大先輩として敬う気はあるのかしらっ?」
こんな常識外れの時間でも艶やかに彩られた薄い唇は、開かれたと同時に何とも云えない残念さと謎の信用を一緒くたに抱かせる。
「大先輩として敬う気があるからこそ、今回常察先生にご連絡したんです」
「ンもう! ホンットに、九条くんってそーゆーとこよね」
「どういう意味ですか……」
「どーもこーもないわ。それにしても、あらあらあら……」
ブツクサ云いながら常察先生は僕から隣の少女へと視線を移し、その薄い肩に手を置くと長身を屈めて彼女と目線を同じ高さにした。
「アナタ……すごく、すごーく……今までどうしようもなく必死に足掻いて藻掻いて……頑張って頑張って、頑張り疲れた顔をしてるわね……」
僕に対する声音から一変して慈愛に満ち満ちた常察先生の声音に、少女は俄に困惑を漂わせる。
「……わ、わたし……なんもがんばってなんか――」
「ううん、頑張ってない筈ないわ。それに疲れてない筈もないの。そんなことないってアナタが云い張ったとしても、アタシにはアナタが泣き疲れてもう眠ってしまいたいって顔をしているようにしか見えないもの」
だからね、と常察先生の大きな手が少女の頭を撫でる。
「今は細かいことはぜーんぶ放り出してウチにいらっしゃい。もう嫌だ飽きたって暴れ出したくなるまでずっとあったかくてやさしい子守唄を聞かせてあげるから」
柔らかな笑みを少女に向けてから、常察先生は僕を見ると長い睫毛の束を大きく上下させた。
「あとはアタシに任せなさい。この子の諸々は全て引き受けるわ」
その代わり、と人差し指を立てる常察先生。
「その内、アタシとディナーデートしてちょうだいね」
パチリ、器用に片目を瞑って見せる常察先生に思わず肩を竦める。
「そんな……まるで僕が都合付かないみたいな云い方ですけど、常察先生の方が日々お忙しいんじゃないですか」
「ふふ、そーよ。だから、『その内』って云ってるでしょ」
常察先生が強調した『その内』という言葉に、あぁ成程そういうことか……と合点する。
本当にこの人は人心掌握が上手い。僕が作った『借り』に対価を要求することでこの件は『貸し借り』ではなく等価交換なのだと暗に明示してくれているのだ。
「……判りました。『その内』是非ご一緒させて頂きます」
やっぱり常察先生にはいつまで経っても頭が上がらない。
「そんなことより九条くん、アンタ昼の医院はもう年末休みに入ったの? 一般的には今日まで開けてる病院が多いんじゃないかしら? そっちにアンタの代わりは居ないんでしょ。ほらさっさとアンタは帰んなさい!」
なんて蹴飛ばすように退散を命じられてしまう。
つい苦笑を滲ませた僕は改めてよろしくお願いしますと頭を下げる。
「…………ね、ぇ…………」
くい、と。一瞬だけ引かれたコートの袖口。
「…………?」
「…………ぁりがと……」
僕から離れる寸前に聞こえた少女のか細い声は一瞬空耳かと思う程小さかったけれど。
常察先生に背を支えられている彼女の目が薄ら揺らいでいるように見えた僕は軽く睫毛を伏せて頷いた。
「では、失礼します」
また一度軽く頭を下げてから、僕は振り返らずにそのまま九条医院へと革靴の先を向けた。
昼の診療所は無事に仕事納めをし、夜の方も今夜は平和。
流石に頭も身体もそろそろ限界かも知れない……と普段よりやや早めではあるが帰り支度を始めようとしたその瞬間。
インターフォンの音ではなく直接扉を叩く音が部屋の中に響いた。
トン、トトン。そんな癖のある叩き方で、今外に誰が居るのかは姿を確認せずとも判った。
帰り支度の手を止め施錠を外して扉を開けると、そこには予想していた通りの男の姿がひとつ。
「零司さん……来るなら事前に連絡してください……」
「仕事のついででたまたま通り掛かっただけだからな」
勝手知ったる何とやら。彼は遠慮なく室内に上がり込んでくる。
それより、と彼はスーツのポケットから取り出した紙煙草を咥えた。
反射的に抽斗から取り出したアルミ製の灰皿を彼の手が届く場所に置く。
「昨日、父さんがお前に無茶振りしたんだってな」
「え? あぁ……全然……いや、まぁ無茶振りは無茶振りでしたけど」
僕も僕で常察先生に無茶振りをしてしまったので余り佐伯さんのことをとやかく云える立場ではない。
いつもなら咥えた煙草にすぐ火を点ける零司さんが、何やらアチコチのポケットを何度も探ったりパタパタ叩いたりしている。
「火ですか? 良かったらこれ、どうぞ」
「あぁ、サンキュ……」
僕が差し出したライターを受け取り火を点けてから、ん? と首を傾げる零司さん。
「何、お前も吸い始めたのか?」
「違います。そのライターはクライアントの忘れ物です」
僕は呆れ顔でライターを回収し、デスクの抽斗へと戻す。
すぐ近くで揺れる紫煙。深く吸い込んでは細く長く、ゆっくりと吐き出される煙を横目にしているとこちらの呼吸まで深くなっていく。
普段の零司さんはこんなに丁寧な煙草の吸い方をしない。
絶対にわざとだ。こんな風に煙草の煙を喫む人を、僕はもう一人知っている。
最後のひと吸いだけ。零司さんがふっと短く煙を吐き出したのを見て、あぁ、と思わず苦笑が滲んだ。
まるで「父さんの真似じゃないぞ」と云われたような気がしたから。
「……で? お前、その顔は寝てねぇだろ」
「寝ましたよ。朝、診療前に一時間くらい」
「あのな、世間じゃそれはほぼ完徹って云うんだよ」
呆れた、と大袈裟な溜息を吐かれて、いやそもそもそうなった元凶はあなたのお父さんなのだが……とはとてもじゃないが口が裂けても云えやしない。
まぁ、云う気もサラサラないのだけれど。
「飯は? ちゃんと食ってんのか? 院長先生なら定食屋くらい行けるだろ。生姜焼き定食とか食っとけ」
零司さんが僕のことを『院長先生』と呼ぶのは完全に揶揄っている時のそれ。
「生姜焼き定食とか……定食屋に入った時に一番頼みたくないメニューです……」
唸りながら返す僕に零司さんが不可解そうに首を傾げる。
「何でだよ。昔お前好きだったろ、生姜焼き」
「……だから、です」
「は?」
普段は察しが良過ぎるくらい良い人なのに、こういう時だけ鈍いのは一体何なのか。
「期待して頼んだのに、一口食べて、あー……零司さんが作る生姜焼きの方が美味しい……ってなるのが嫌なんです」
好物なのに外食では頼まない理由なんて他に何があろうか。
年甲斐なく唇を尖らせてむくれたような顔をして見せたら、お前なぁ……とまたしても呆れ返ったような溜息。
けれどもその後すぐにくしゃりと髪の毛を掻き乱された。
「……なら、今からウチ来い。確か冷凍庫に豚肉あったから作ってやる」
「え……?」
僕がキョトンとしている間に零司さんはスタスタと玄関へ。
「俺が作った生姜焼きの方が美味い、って理由で外食しないなんて知ったら、作らねー訳にはいかねぇだろ。ほら、さっさと帰り支度しろ」
その代わりウチまでのタクシー代はお前が出せよと背中を向けたまま凄まれてもそれくらいのことなら、喜んでという返事しか出てこない。
急いで荷物を纏めてコートを羽織り、ひと足先に外へ出て行った零司さんを追い掛ける。
肩を並べてタクシーが拾える大通りを目指しながら、そう云えばと自分より僅かに高い横顔を覗き込む。
「零司さん。とある演劇の舞台チケットがたまたま二枚あるんですけど……息抜きに、一緒にどうですか?」
空は昨夜とは打って変わり、遠く高いところで漆黒に染まっている。
夜の帳が上がり始めるまでにはまだもう少し時間が掛かるだろう。
それでも、僕の足元は決して暗くない。
何故ならそれは僕自身が――
灯を受け取り、絶やさぬようにと繋げて生きているからだ。
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