灯は繋がりの証
もうすっかり本格的なコートが必要になってきた夜。
繁華街の騒々しさが嘘のように遠い小さな部屋にしっかりと暖房を効かせながら、僕は某コーヒーチェーン店の期間限定ドリンクをちまちまと啜っていた。
「お菓子を飲み物にするという発想が素晴らしい……」
シナモンの香りが、寒さで強張りがちな心を弛めて深部体温を上げる手助けをしてくれる。
今夜は最低でも午前一時まで待機していなければならない。
理由は簡単。月に一度、定期的にココを頼りにしてくる女性の来訪予定があるからだ。
その人は繁華街でそこそこ名の知れた夜の蝶。
いつも退勤後に寄る人だから、そんな遅い時間になってしまうのだ。
とは云え、深夜一時を過ぎても来なかった時は彼女が仕事の都合でこちらに寄れないという意味を持っている為、それ以上は待たずにココは閉めても良いというルールも設けている。
果たして今夜の彼女は無事退勤してここに来られるのだろうか……。
頭の隅っこでそんなことを考える僕の手元には定期刊行されている医学雑誌の最新号。
それのページをのんびり捲ること暫し。
来訪者を告げる音が部屋に響き、僕はハッと意識を瞬間的に現実へと戻す。
存外熱心に読み耽ってしまっていたのだろうか。
いつの間にそんな時間に……とインターフォンのモニターを確認するより先に腕時計を見て、おや? と首が傾く。
時刻はまだ二十三時前。となると、夜の蝶とは別の来訪者か。
こちらが応答する前に、インターフォン越し特有のガサツいた音が鼓膜を打った。
「す、済みません、ここにかかるのにどれくらいお金が必要でしょうか……あの、値段次第では、このまま帰ります……」
成程、部屋の中に入ってしまったら最後、財布の中身を毟られるに違いないと思っている類いだろうか。
「お話の内容と所要時間等で多少変動はしますが、多くても一万以内には収まるかと思います」
現時点で明確な症状が何か出ていて困っているのか、それとも話すことがメインなのか問う僕に返ってきたガサガサの声は話の方がメインだと云う。
「それなら、十分ごとに料金を重ねていくことも対応として可能ですが如何ですか?」
十分区切りの加算金額も併せて伝えれば、ガサガサの声が僅かに安堵を纏った。
「あっ、じゃあ、それでお願いします……!」
その一言で、僕はガサガサ声の主を部屋に招き入れることにした。
冷たい空気と共に入って来たのは、二十代後半と思しき男性。第一印象は、細長い。
身長は僕より十センチ程は高いだろうか。体躯は不健康そうとまではいかないけれども脂肪も筋肉も蓄えが多そうには見えない。
パーカーの袖はリブ部分が擦り切れて小さな穴が幾つか。ジーンズの裾や、ハイカットスニーカーの布地やラバーソールにも経年の傷みが見て取れた。
細長い、のに。椅子に腰を落とした彼は僕よりもずっと姿勢が悪く、目線の高さは殆ど変わらない。
「……あの、実はここに来る前、ちょっと怖かったんです」
「怖かった……?」
安価なインターフォン越しのガサガサ声とは違う、しっとりとしたテノールはほんのり甘ささえ含んでいる。
猫背の彼曰く、職業は昼夜アルバイトに勤しむ自称『うだつの上がらない』舞台俳優とのこと。
成程、耳馴染みの良い発声は本職故か。
「はい……。夜だけ営業する非公認のカウンセラーさんが居るって聞いていたんで……もっとこう怪しいお香が焚いてあったり、水晶玉とか置いてあったりとかするのかなとか……あ、済みません! 先生が普通に、何ていうかその……ちゃんとした人っぽそうで安心しました」
「…………それは、何ていうか……うん、光栄だな」
彼の台詞に僕は思わず語彙を喪失したよう彼と似た言葉で返し、メタルフレームのブリッジを中指で押さえながら視線を泳がせた。
まさかそんな噂が流布されているとは。
些か……いや、不本意極まりないことこの上ない。
「えっと……一応、訂正しておくけれどね。僕はれっきとした医者だよ。まぁ……精神科の専門医ではないけれどね。ココでは確かにカウンセリングをメインにはしているけれども、カウンセラーとは少し違うし、ましてや非公認の怪しい術師でもないよ」
「あ、あはは、ですよね! でも先生、なんか安心感ある雰囲気だから、自分的にはどっちでも良いかな……って」
良くない。ちっとも良くない……けれども、自分のアイデンティティが『怪しいカウンセラー』に分類されかけている事実に僕がどれだけ重たい嘆息を零そうが、目の前の彼にはきっと関係ないのだろう。
そんな瑣末事に時間を割くのは悪い気がして、僕は「それで、ココに来た理由は?」と早速本題に入ることにした。
すると、彼は猫背を直さないまま真面目な顔付きになった。
「おれ……怖いんです」
「……怖い? 何が?」
「彼女と、自分……どちらも、が」
ふむ……恋人と自分のどちらもが怖い、と。
成程、これはどうやら思いの外深い話になりそうだ。
デスクの上で両手を組み、僕はまず彼女さんのことを教えてもらえますか? と話を分けることにした。
「……はい。えーっと、付き合ってもう五年くらいですか……そろそろ結婚とかも考えたり考えなかったりみたいなタイミングではあるんですけど……おれ、彼女に優しくされるのが、怖いんです」
「……彼女が怖い、ではなく? 彼女の優しさが怖い、と?」
「あっ、そうです! 彼女自体は全然怖くなくて、寧ろ優し過ぎるくらい優しくて……。菩薩か天使か、はたまた女神かみたいな存在なんですけど……それが、おれには怖くって……」
尻窄みになっていく声に、あぁ、と既視感が記憶の隅に走る。
これは恐らく恋人に難はない。問題を抱えているのは恐らく彼自身の認知能力。
「何故、その優しい彼女が怖いと感じるのか……理由は判っている?」
「なんか、なんていうか……どうしておれなんかにこんなに優しくするんだろう、みたいな……」
少しずつ明度が沈んでいく声色。
「おれなんか、とは……? 君は自分が彼女に優しくされるべきではないとでも考えているのかな?」
僕の遠慮のない切り口に、彼は喉の奥で息を詰まらせた。
浅く何度か喘ぐような呼吸を繰り返してから、彼の頭が縦に振られる。
「おれ……舞台俳優としていつまでも三流のままだし、 なのに端役では使ってもらえるからって俳優業にしがみついて結局三十歳近くになっても少ない出演料と、掛け持ちしてるバイトの給料を合算してどうにかっていうギリギリな生活だから……結婚相手にって考えた時、おれって明らかに男としての甲斐性がないんですよね……」
彼女は本当に優しくて、人間的にも賢い人で。
だからこそ、何でこんなおれと一緒に居てくれてるのかが判らないんです。
だって、おれと同年代の男なんてちょっと探せば立場的にも金銭的にも精神的にも……色んな面で安定している男の方がずっと多いだろうに。
どうしておれなんだろう、って……。いつ愛想を尽かされるかと思うと、それが物凄く怖いんです。
そんな風に自分の内面を吐露する彼の視線はまるで迷子になった子供のような落ち着きのなさ。
「……じゃあ、自分が怖い、の理由は? 今の話だと君は自分が情けないと感じているように僕には聞こえたけれど……自分のことを怖いと感じている理由は何か他にあるのかな?」
「あ、あぁ、はい……」
頷いて、彼は言葉を探しながら自分のことを話し始めた。
「おれ……役に、呑まれやすいんです」
「役に、呑まれやすい?」
「はい……。えーと、良い云い方をすれば憑依型なんですけど……たまに、私生活でもその役柄から抜け出せなくなるんです」
「ふむ……つまり、一時的に自分が素の自分で居られなくなる、というような?」
「そうです。そうなると、役柄が自分の素だと完全に思い込んでるから、抜け切るまで違和感に気付けなくて……そういう自分が、怖いんです」
それはつまり、役柄に一定期間支配されているような感覚なのだろうか。
そうなのだとしたら、一種の精神的な役柄からの離脱不全と判断しても良さそうだ。
「その……役に呑まれている時に何かしらの問題行動を起こしたことは、」
「あるんです」
僕の言葉に被せるよう。彼は強く、そして慚愧に堪えないとばかりの表情で顔を歪めながら云い切った。
「そもそも、彼女と出会った時もおれは軽く役に呑まれていたんです。その時は穏やかで優しいソツのない好青年の役でした。付き合うことになった時は一応素の自分だったとは思います。出会ったばかりの頃はカッコつけてたの? なんて云われてましたけど……」
まぁ素の自分も比較的穏やかな方ではあるから、その時はそうかもなんて曖昧にしたのがきっと悪かった。
毎回じゃないですよ。でもたまに役に呑まれたまま彼女との関係を続けている内に、何だか自分がよく判らなくなってきたんです。
彼の口振りが次第に朗読者のそれのようになっていく。
「今、彼女を愛しているのは『おれ』なのか、それとも『役』なのか。そんな疑心暗鬼に苛まれるようになりました」
そんなある日……付き合って三年目くらいのことです。
おれ、荒くれた役柄に完全に呑まれて彼女に暴力を振るって怪我をさせてしまったことがあるんです。
その時のおれは彼女に酷い言葉も沢山投げたような気がします。
彼が語るその過去は、所謂自己不信の刻印になった出来事なのだろう。
「それなのに、彼女はおれを許した。病院沙汰になるような怪我を負わされて、どうしておれを許せるのかがおれには判らない」
それどころか、それまで以上におれに優しくしてくれる。
いつまでも夢に縋っていないでそろそろ現実を歩けとも云わない。
彼女が注いでくれる無償の愛が自分には過剰な『光』過ぎて、そこに指輪という『永遠の約束』を置くことが出来ないでいるんです。
そこで言葉を区切り、下唇を噛む彼。
どうやら彼女の慈愛は彼の過去の過ちを赦す『聖水』ではなく、傷口を焼く『熱湯』のように感じられているらしい。
「またいつか、『役』が自分を乗っ取って、今度こそ彼女を取り返しが付かなくなるくらい傷付けるかも知れない」
それが堪らなく怖いんですと恐怖を口にする彼に、僕は珍しく硬い表情。
表向きは結婚という永続的な契約を結ぶことが、彼女を一生そのリスクに晒し続けることと同義だと思ってしまっているようだけれど。これは思い遣りの顔をした自己保身だと僕は思った。
暫しの沈黙。張り詰めるような空気を割くよう僕はデスクの上の手を組み替えた。
そして普段の僕らしからぬ硬い声で言葉を紡ぐ。
「……君は、彼女に『罰』を求めているんだね。彼女に突き放され、蔑まれることで、君は自分の罪の形を確定させたい……違うかな?」
自身の罪を認めるのは怖いことだ。
しかしそれと同時に、自身の罪を認めて断罪を強く求めることは、責任の放棄にも似ている。
「それはね、君が楽になりたいだけの『断罪の強要』だよ。彼女に君を裁く役を押し付け君は被害者の顔をしてその陰に隠れようとしている。それはある種の逃避行動でさえある」
判らないではない。自分が悪いのだと思い続けることは楽なのだ。
自責の殻の中というのは案外心地が好い。
自分はこういう人間なんだ、と。
免罪符を掲げて許されようとする、それは――狡さだ。
けれどもそれを責めるばかりでは何の助けにもならない。
彼は、僕に何かしらの助けを求めてココに来ているのだ。
今の彼は世界に対して酷く視野狭窄になっている。
それが今の彼自身を苦しめている原因なのだと、云うのは簡単だけれども気付かせることや自覚させることは容易ではない。
頭の中で辞書を捲りながら、どの言葉が彼の心を揺らすだろうかと選別する。
僅かな沈黙の後、僕は細く息を吸った。
「君はずっと自分の罪ばかりを見ている」
静かに紡いだ台詞に、彼が息を呑む音が聞こえた。
「君は……彼女の本当の幸せを考えてあげたことがある?」
「…………え?」
僕から投げたボールを受け止め損ねた彼に、もうひとつ、ボールを投げる。
「何故君と一緒に居ることを彼女が選んでいるのか。きちんと聞いたことは?」
「あ……え、と…………ない、です」
決まり悪そうに下を向く彼に、僕は声音を少し和らげる。
「彼女が何を大切にして、何を生き甲斐としているのか。そして、どんなことを頼りにしているのか。彼女の気持ちを、価値観を、一度しっかりと聞いてみたらどうだろう」
彼は決して悪い人間ではない。
ただ、過剰なまでに臆病なだけだ。
それはまるで――かつての僕のように。
「世の中にはね……案外、ダメ人間の世話を焼くことが好きな変わり者も居るんだよ」
そう云いながら苦笑する僕の声音は重くはない。
「今の君に必要なのは、彼女の本心と真正面から向き合うことだ」
その結果、また悩みが出てきたらその時は改めてココの戸を叩けば良い。
淡い微笑と穏やかに戻した声音で、僕はこの場を締め括った。
「さて、存外話し込んでしまったね……」
ノートパソコンを弄って駆動させたプリンターから排出された領収書。金銭面を気にしていた彼に苦笑しながらそれを見せたら、彼はハッと時計を見てから短く唸った。
「で、でも……仕方ないです……今日、先生と話せて良かったように思う、し……」
うん、うん……とまるで自身を納得させようとするように彼はブツブツと呟く。
二つ折りの財布を開いて札入れに指を差し込んだその時。
つるりと財布が彼の手から逃げて床に落ちる。
「あぁあ済みませんモタモタして……」
散らばってしまったカード類を僕もしゃがんで拾い集めようとしたら、ふと札入れから斜めに飛び出している紙幣ではないものに目が留まった。
「それは?」
「え? あ、これですか? 次の舞台のチケットです……まだ自分のノルマ分、捌けてなくて……」
「ふぅん……それ、ちょっと見せてもらえるかな?」
「え? あぁ、はい……」
差し出された舞台チケットの日時と場所、そして金額をサッと確認する。
「……これ、もう一枚、あるかな?」
「へ? あります、けど……」
「なら、もう一枚くれるかな? この二枚は僕が買い取るよ。今日の会計は、このチケット代と相殺にしよう。チケット代の差額は僕から払うから」
はい、と領収書と共に僕は差額の紙幣を彼に渡す。
「い、いいんです、か……?」
「君が舞台上でどれだけ役に入り込むのか見てみたいというのもあるし、たまにはこういう一瞬の非日常で息抜きをさせてあげたい人も居るんだ」
だからこれは正当な取引だ、と笑みを浮かべる。
そんな僕の笑みに対し、彼は深く深く頭を下げてきた。
「……有難うございます!」
玄関口まで一緒に行き、彼がスニーカーの爪先をトントンと地面に打ち付けている間にポツリと零す。
「優しさが怖い、そう感じる自分を欠陥品みたいに思ってしまう気持ちは判らないでもないよ」
「…………先生も、怖かったことがあるんですか?」
驚いたように顔を上げた彼に、眉尻を下げて小さく頷く。
「まだ子供だった頃……他人に優しくされると怖かった覚えがある」
自分がそれを受け取る資格なんてない。
同等の対価を払える気がしないものを受け取るのは怖いと感じて当然だ。
そう続けて肩を竦めた僕に、彼はじゃあ、と唇を震わせた。
「先生は、今も怖いですか……?」
「……正直、たまに。まだ怖いと感じる時もある」
「たまに、っていうことは……今は、マシに?」
「うん……大分、マシになったよ」
「どうやって、」
「……慣れ、かな。何の参考にもならない答えで申し訳ないけど」
「慣れ、ですか……」
「そう……ただ、怖い、と。ココに云いに来れた時点でもう何か、は変わり始めてるのかも知れないね」
その言葉は彼にどう響いたのだろう。
長身を丁寧に折り曲げてから、彼は静かに冬の夜気に溶けていった。
繁華街の騒々しさが嘘のように遠い小さな部屋にしっかりと暖房を効かせながら、僕は某コーヒーチェーン店の期間限定ドリンクをちまちまと啜っていた。
「お菓子を飲み物にするという発想が素晴らしい……」
シナモンの香りが、寒さで強張りがちな心を弛めて深部体温を上げる手助けをしてくれる。
今夜は最低でも午前一時まで待機していなければならない。
理由は簡単。月に一度、定期的にココを頼りにしてくる女性の来訪予定があるからだ。
その人は繁華街でそこそこ名の知れた夜の蝶。
いつも退勤後に寄る人だから、そんな遅い時間になってしまうのだ。
とは云え、深夜一時を過ぎても来なかった時は彼女が仕事の都合でこちらに寄れないという意味を持っている為、それ以上は待たずにココは閉めても良いというルールも設けている。
果たして今夜の彼女は無事退勤してここに来られるのだろうか……。
頭の隅っこでそんなことを考える僕の手元には定期刊行されている医学雑誌の最新号。
それのページをのんびり捲ること暫し。
来訪者を告げる音が部屋に響き、僕はハッと意識を瞬間的に現実へと戻す。
存外熱心に読み耽ってしまっていたのだろうか。
いつの間にそんな時間に……とインターフォンのモニターを確認するより先に腕時計を見て、おや? と首が傾く。
時刻はまだ二十三時前。となると、夜の蝶とは別の来訪者か。
こちらが応答する前に、インターフォン越し特有のガサツいた音が鼓膜を打った。
「す、済みません、ここにかかるのにどれくらいお金が必要でしょうか……あの、値段次第では、このまま帰ります……」
成程、部屋の中に入ってしまったら最後、財布の中身を毟られるに違いないと思っている類いだろうか。
「お話の内容と所要時間等で多少変動はしますが、多くても一万以内には収まるかと思います」
現時点で明確な症状が何か出ていて困っているのか、それとも話すことがメインなのか問う僕に返ってきたガサガサの声は話の方がメインだと云う。
「それなら、十分ごとに料金を重ねていくことも対応として可能ですが如何ですか?」
十分区切りの加算金額も併せて伝えれば、ガサガサの声が僅かに安堵を纏った。
「あっ、じゃあ、それでお願いします……!」
その一言で、僕はガサガサ声の主を部屋に招き入れることにした。
冷たい空気と共に入って来たのは、二十代後半と思しき男性。第一印象は、細長い。
身長は僕より十センチ程は高いだろうか。体躯は不健康そうとまではいかないけれども脂肪も筋肉も蓄えが多そうには見えない。
パーカーの袖はリブ部分が擦り切れて小さな穴が幾つか。ジーンズの裾や、ハイカットスニーカーの布地やラバーソールにも経年の傷みが見て取れた。
細長い、のに。椅子に腰を落とした彼は僕よりもずっと姿勢が悪く、目線の高さは殆ど変わらない。
「……あの、実はここに来る前、ちょっと怖かったんです」
「怖かった……?」
安価なインターフォン越しのガサガサ声とは違う、しっとりとしたテノールはほんのり甘ささえ含んでいる。
猫背の彼曰く、職業は昼夜アルバイトに勤しむ自称『うだつの上がらない』舞台俳優とのこと。
成程、耳馴染みの良い発声は本職故か。
「はい……。夜だけ営業する非公認のカウンセラーさんが居るって聞いていたんで……もっとこう怪しいお香が焚いてあったり、水晶玉とか置いてあったりとかするのかなとか……あ、済みません! 先生が普通に、何ていうかその……ちゃんとした人っぽそうで安心しました」
「…………それは、何ていうか……うん、光栄だな」
彼の台詞に僕は思わず語彙を喪失したよう彼と似た言葉で返し、メタルフレームのブリッジを中指で押さえながら視線を泳がせた。
まさかそんな噂が流布されているとは。
些か……いや、不本意極まりないことこの上ない。
「えっと……一応、訂正しておくけれどね。僕はれっきとした医者だよ。まぁ……精神科の専門医ではないけれどね。ココでは確かにカウンセリングをメインにはしているけれども、カウンセラーとは少し違うし、ましてや非公認の怪しい術師でもないよ」
「あ、あはは、ですよね! でも先生、なんか安心感ある雰囲気だから、自分的にはどっちでも良いかな……って」
良くない。ちっとも良くない……けれども、自分のアイデンティティが『怪しいカウンセラー』に分類されかけている事実に僕がどれだけ重たい嘆息を零そうが、目の前の彼にはきっと関係ないのだろう。
そんな瑣末事に時間を割くのは悪い気がして、僕は「それで、ココに来た理由は?」と早速本題に入ることにした。
すると、彼は猫背を直さないまま真面目な顔付きになった。
「おれ……怖いんです」
「……怖い? 何が?」
「彼女と、自分……どちらも、が」
ふむ……恋人と自分のどちらもが怖い、と。
成程、これはどうやら思いの外深い話になりそうだ。
デスクの上で両手を組み、僕はまず彼女さんのことを教えてもらえますか? と話を分けることにした。
「……はい。えーっと、付き合ってもう五年くらいですか……そろそろ結婚とかも考えたり考えなかったりみたいなタイミングではあるんですけど……おれ、彼女に優しくされるのが、怖いんです」
「……彼女が怖い、ではなく? 彼女の優しさが怖い、と?」
「あっ、そうです! 彼女自体は全然怖くなくて、寧ろ優し過ぎるくらい優しくて……。菩薩か天使か、はたまた女神かみたいな存在なんですけど……それが、おれには怖くって……」
尻窄みになっていく声に、あぁ、と既視感が記憶の隅に走る。
これは恐らく恋人に難はない。問題を抱えているのは恐らく彼自身の認知能力。
「何故、その優しい彼女が怖いと感じるのか……理由は判っている?」
「なんか、なんていうか……どうしておれなんかにこんなに優しくするんだろう、みたいな……」
少しずつ明度が沈んでいく声色。
「おれなんか、とは……? 君は自分が彼女に優しくされるべきではないとでも考えているのかな?」
僕の遠慮のない切り口に、彼は喉の奥で息を詰まらせた。
浅く何度か喘ぐような呼吸を繰り返してから、彼の頭が縦に振られる。
「おれ……舞台俳優としていつまでも三流のままだし、 なのに端役では使ってもらえるからって俳優業にしがみついて結局三十歳近くになっても少ない出演料と、掛け持ちしてるバイトの給料を合算してどうにかっていうギリギリな生活だから……結婚相手にって考えた時、おれって明らかに男としての甲斐性がないんですよね……」
彼女は本当に優しくて、人間的にも賢い人で。
だからこそ、何でこんなおれと一緒に居てくれてるのかが判らないんです。
だって、おれと同年代の男なんてちょっと探せば立場的にも金銭的にも精神的にも……色んな面で安定している男の方がずっと多いだろうに。
どうしておれなんだろう、って……。いつ愛想を尽かされるかと思うと、それが物凄く怖いんです。
そんな風に自分の内面を吐露する彼の視線はまるで迷子になった子供のような落ち着きのなさ。
「……じゃあ、自分が怖い、の理由は? 今の話だと君は自分が情けないと感じているように僕には聞こえたけれど……自分のことを怖いと感じている理由は何か他にあるのかな?」
「あ、あぁ、はい……」
頷いて、彼は言葉を探しながら自分のことを話し始めた。
「おれ……役に、呑まれやすいんです」
「役に、呑まれやすい?」
「はい……。えーと、良い云い方をすれば憑依型なんですけど……たまに、私生活でもその役柄から抜け出せなくなるんです」
「ふむ……つまり、一時的に自分が素の自分で居られなくなる、というような?」
「そうです。そうなると、役柄が自分の素だと完全に思い込んでるから、抜け切るまで違和感に気付けなくて……そういう自分が、怖いんです」
それはつまり、役柄に一定期間支配されているような感覚なのだろうか。
そうなのだとしたら、一種の精神的な役柄からの離脱不全と判断しても良さそうだ。
「その……役に呑まれている時に何かしらの問題行動を起こしたことは、」
「あるんです」
僕の言葉に被せるよう。彼は強く、そして慚愧に堪えないとばかりの表情で顔を歪めながら云い切った。
「そもそも、彼女と出会った時もおれは軽く役に呑まれていたんです。その時は穏やかで優しいソツのない好青年の役でした。付き合うことになった時は一応素の自分だったとは思います。出会ったばかりの頃はカッコつけてたの? なんて云われてましたけど……」
まぁ素の自分も比較的穏やかな方ではあるから、その時はそうかもなんて曖昧にしたのがきっと悪かった。
毎回じゃないですよ。でもたまに役に呑まれたまま彼女との関係を続けている内に、何だか自分がよく判らなくなってきたんです。
彼の口振りが次第に朗読者のそれのようになっていく。
「今、彼女を愛しているのは『おれ』なのか、それとも『役』なのか。そんな疑心暗鬼に苛まれるようになりました」
そんなある日……付き合って三年目くらいのことです。
おれ、荒くれた役柄に完全に呑まれて彼女に暴力を振るって怪我をさせてしまったことがあるんです。
その時のおれは彼女に酷い言葉も沢山投げたような気がします。
彼が語るその過去は、所謂自己不信の刻印になった出来事なのだろう。
「それなのに、彼女はおれを許した。病院沙汰になるような怪我を負わされて、どうしておれを許せるのかがおれには判らない」
それどころか、それまで以上におれに優しくしてくれる。
いつまでも夢に縋っていないでそろそろ現実を歩けとも云わない。
彼女が注いでくれる無償の愛が自分には過剰な『光』過ぎて、そこに指輪という『永遠の約束』を置くことが出来ないでいるんです。
そこで言葉を区切り、下唇を噛む彼。
どうやら彼女の慈愛は彼の過去の過ちを赦す『聖水』ではなく、傷口を焼く『熱湯』のように感じられているらしい。
「またいつか、『役』が自分を乗っ取って、今度こそ彼女を取り返しが付かなくなるくらい傷付けるかも知れない」
それが堪らなく怖いんですと恐怖を口にする彼に、僕は珍しく硬い表情。
表向きは結婚という永続的な契約を結ぶことが、彼女を一生そのリスクに晒し続けることと同義だと思ってしまっているようだけれど。これは思い遣りの顔をした自己保身だと僕は思った。
暫しの沈黙。張り詰めるような空気を割くよう僕はデスクの上の手を組み替えた。
そして普段の僕らしからぬ硬い声で言葉を紡ぐ。
「……君は、彼女に『罰』を求めているんだね。彼女に突き放され、蔑まれることで、君は自分の罪の形を確定させたい……違うかな?」
自身の罪を認めるのは怖いことだ。
しかしそれと同時に、自身の罪を認めて断罪を強く求めることは、責任の放棄にも似ている。
「それはね、君が楽になりたいだけの『断罪の強要』だよ。彼女に君を裁く役を押し付け君は被害者の顔をしてその陰に隠れようとしている。それはある種の逃避行動でさえある」
判らないではない。自分が悪いのだと思い続けることは楽なのだ。
自責の殻の中というのは案外心地が好い。
自分はこういう人間なんだ、と。
免罪符を掲げて許されようとする、それは――狡さだ。
けれどもそれを責めるばかりでは何の助けにもならない。
彼は、僕に何かしらの助けを求めてココに来ているのだ。
今の彼は世界に対して酷く視野狭窄になっている。
それが今の彼自身を苦しめている原因なのだと、云うのは簡単だけれども気付かせることや自覚させることは容易ではない。
頭の中で辞書を捲りながら、どの言葉が彼の心を揺らすだろうかと選別する。
僅かな沈黙の後、僕は細く息を吸った。
「君はずっと自分の罪ばかりを見ている」
静かに紡いだ台詞に、彼が息を呑む音が聞こえた。
「君は……彼女の本当の幸せを考えてあげたことがある?」
「…………え?」
僕から投げたボールを受け止め損ねた彼に、もうひとつ、ボールを投げる。
「何故君と一緒に居ることを彼女が選んでいるのか。きちんと聞いたことは?」
「あ……え、と…………ない、です」
決まり悪そうに下を向く彼に、僕は声音を少し和らげる。
「彼女が何を大切にして、何を生き甲斐としているのか。そして、どんなことを頼りにしているのか。彼女の気持ちを、価値観を、一度しっかりと聞いてみたらどうだろう」
彼は決して悪い人間ではない。
ただ、過剰なまでに臆病なだけだ。
それはまるで――かつての僕のように。
「世の中にはね……案外、ダメ人間の世話を焼くことが好きな変わり者も居るんだよ」
そう云いながら苦笑する僕の声音は重くはない。
「今の君に必要なのは、彼女の本心と真正面から向き合うことだ」
その結果、また悩みが出てきたらその時は改めてココの戸を叩けば良い。
淡い微笑と穏やかに戻した声音で、僕はこの場を締め括った。
「さて、存外話し込んでしまったね……」
ノートパソコンを弄って駆動させたプリンターから排出された領収書。金銭面を気にしていた彼に苦笑しながらそれを見せたら、彼はハッと時計を見てから短く唸った。
「で、でも……仕方ないです……今日、先生と話せて良かったように思う、し……」
うん、うん……とまるで自身を納得させようとするように彼はブツブツと呟く。
二つ折りの財布を開いて札入れに指を差し込んだその時。
つるりと財布が彼の手から逃げて床に落ちる。
「あぁあ済みませんモタモタして……」
散らばってしまったカード類を僕もしゃがんで拾い集めようとしたら、ふと札入れから斜めに飛び出している紙幣ではないものに目が留まった。
「それは?」
「え? あ、これですか? 次の舞台のチケットです……まだ自分のノルマ分、捌けてなくて……」
「ふぅん……それ、ちょっと見せてもらえるかな?」
「え? あぁ、はい……」
差し出された舞台チケットの日時と場所、そして金額をサッと確認する。
「……これ、もう一枚、あるかな?」
「へ? あります、けど……」
「なら、もう一枚くれるかな? この二枚は僕が買い取るよ。今日の会計は、このチケット代と相殺にしよう。チケット代の差額は僕から払うから」
はい、と領収書と共に僕は差額の紙幣を彼に渡す。
「い、いいんです、か……?」
「君が舞台上でどれだけ役に入り込むのか見てみたいというのもあるし、たまにはこういう一瞬の非日常で息抜きをさせてあげたい人も居るんだ」
だからこれは正当な取引だ、と笑みを浮かべる。
そんな僕の笑みに対し、彼は深く深く頭を下げてきた。
「……有難うございます!」
玄関口まで一緒に行き、彼がスニーカーの爪先をトントンと地面に打ち付けている間にポツリと零す。
「優しさが怖い、そう感じる自分を欠陥品みたいに思ってしまう気持ちは判らないでもないよ」
「…………先生も、怖かったことがあるんですか?」
驚いたように顔を上げた彼に、眉尻を下げて小さく頷く。
「まだ子供だった頃……他人に優しくされると怖かった覚えがある」
自分がそれを受け取る資格なんてない。
同等の対価を払える気がしないものを受け取るのは怖いと感じて当然だ。
そう続けて肩を竦めた僕に、彼はじゃあ、と唇を震わせた。
「先生は、今も怖いですか……?」
「……正直、たまに。まだ怖いと感じる時もある」
「たまに、っていうことは……今は、マシに?」
「うん……大分、マシになったよ」
「どうやって、」
「……慣れ、かな。何の参考にもならない答えで申し訳ないけど」
「慣れ、ですか……」
「そう……ただ、怖い、と。ココに云いに来れた時点でもう何か、は変わり始めてるのかも知れないね」
その言葉は彼にどう響いたのだろう。
長身を丁寧に折り曲げてから、彼は静かに冬の夜気に溶けていった。
