灯は繋がりの証
珍しい苗字というのは殊更に覚えが良いもので。
この日の午前診療最後の患者は新患だったにも関わらず、診察前に一瞥した問診票でおや? と思った理由は簡単。その人の苗字が、老医から引き継いだ古参患者の老年女性と同じだったからだ。
下の名前は違う。年齢も僕と似たり寄ったり。主訴も異なるから別人なのは間違いないが。
「診察室へどうぞ」
その声掛けにより診察室へと踏み入ってきたのは中肉中背で品のある、良くも悪くも特徴に欠ける女性だった。
「よろしくお願いします」
控えめな声はそれでも滑舌が良く鼓膜をまろやかに打った。
ボートネックのざっくり編みニットに、緩く羽織るだけのロングカーディガン。下に合わせているのは細いプリーツの利いたロングスカートだった。足元はローヒールのシンプルなパンプス。
「今日はどうなさいましたか?」
初診患者へのお決まりの第一声。
返答が返ってくるまでのコンマ数秒で顔色や表情、姿勢などから何か読み取れるものはないかと観察する。
「えっと……その、何だか疲労感が中々抜け切らなくて……あと、喉の奥にずっと何か引っ掛かっているみたいな感じがするんです……たまに、触れてもいないのに首をギュッと掴まれているような感覚がしたりもして息をしづらくなることも……」
赤みの少ない顔色。目の下にはクマが目立つ。
「あと、お化粧をしていない時の顔色があんまり良くないと義祖母に云われて……」
するり、顔色の話をしているのに彼女の指は自分の喉元を軽く撫でる。
「義祖母……?」
「はい……義祖母はこちらに長く通っているそうで……九条医院の先生は良い先生だからあなたも一度診てもらって来なさいと……」
ふむ、成程。心当たりのある患者名を口にし、そちらへ嫁がれたんですか? と世間話のように問うたら、嫌がられることもなく「はい、そうです」と肯定された。
「義母とは余り……その、関係が上手くいってないんですけど……義祖母は私に良くしてくださっていて……最近顔色が良くないから、って……」
こちらの受診を勧められたんですけど、ともう一度。
ほう、と頭の中に一筆。まずひとつ、義実家での関係不和が重要になりそうな気配。
「でも嫁姑の関係が……なんていうのはよくあることですし……」
「確かに少なくない話ではありますが、だからと云ってそれを全く負担がないものとして扱うのはまた違う話になりますよ」
義母であろうと実母であろうと、人間対人間の関係であることには変わらないのだ。
その関わりの中で何か小さくでも心身に影響を及ぼさない可能性は皆無ではない。
「それは、確かに……えっと……でも多分、原因はやっぱりそうじゃなくて……」
「と、云いますと……?」
他にもっと明確な心当たりがあるのか。
穏やかに先を促すと、彼女はまた自分の首筋に細くて白い指を軽く這わせた。
「職場で……制服の一部として首にスカーフを巻くのが義務付けられているんですが……最近どうにもそれが息苦しくて……」
だらしなく見えない程度に緩めに巻く工夫をしたりもしているものの、それでも喉を圧迫されるような感覚に陥ることがだんだん増えてきていて……と、続ける彼女。
しどろもどろ、という訳ではないものの、一文一文の合間に多めに入る『間』は彼女なりのバランスの取り方なのか。
「差し支えなければ、職業をお聞きしても?」
「あ、はい……銀行員、です。窓口対応も行っています」
あぁ、だからスカーフの着用が義務付けられているのか。
「僕は余り銀行員の職務内容に明るくないんですが……アレですよね? 一円でも合わないと帰れない、といった……」
「えぇ、その通りです。切っ掛けは、まさにそれだったような気が、します……」
少し前に自分のミスで、一円合わない日があった。
自分が金銭的なミスをしたのはそれが初めてで。
ゴミ箱を漁り、床に這いつくばって一円を探す。
一円合わなかった、それだけでも支店の連帯責任になる。
『自分が間違えた』という罪悪感は元より、それ以上に。
『自分のせいで他人の時間を奪っている』という重圧で、首が締め付けられるような感覚になるんです。
少しずつ小さく、そして震え気味になっていく声。
彼女にとって、それはとてもとても恐ろしいことなのだろう。
「いつしか、自分ではない誰かがそのミスをした時も。次第に首元が苦しくなるようになってきました」
空調の効いた室内でも一円が合わない焦りでじっとりと汗をかき、制服のスカーフが喉元に張り付く。まさに「首を絞められる」感覚です。
そういう時、視界が暗くなるような目眩を感じる日も出てきました。
彼女の声から、色と温度までもが消え始める。
「そして、最近では朝着替えてスカーフを首に巻いた瞬間、その違和感が襲ってくるようになってきたんです……」
ゆっくりと、しかし理路整然と語られる彼女の恐怖に、僕はじっくりと耳を傾けていた。
「それに加えて……私は結婚してもう三年が経つのですが……職場には私よりも年齢が一回り以上上の方が多くて。子供はまだなのか、とか云われると……あれ? 私この職場に居ない方が良いと思われてるのかなとか……思ってしまって……そういう時も、スカーフがベッタリと首に張り付いて、結び目が勝手にキツくなるような感覚に陥るんです」
恐らくそんな他意はないんだと頭では判るんですけど、元々あんまりプラス思考の人間ではないのでついそんな風に考えが巡ってしまって……。
彼女が吐露するそれは、現代社会の前線で機能する女性特有の息苦しさなのかも知れない。
「ご家庭では、ゆっくりと休めていますか?」
僕の問いに、彼女は眉尻を下げて曖昧な微笑を浮かべた。
「家に帰れば帰ったで、やることは少なくないので……」
家事全般に加えて義母の話し相手。
彼女の義母は少々足が悪く、時に介助も必要になるのだと云う。
「主人は、嫁である私が義母の介助をするのは当たり前だと思っているんです」
「ご主人は、なさらないんですか? ご自分の御母堂なのに」
「自分は外でお前より遅くまで働いてきているんだから、と。悪い人ではないんですが昭和の価値観が強く残っている人で。それに、お風呂の介助などはやはり、どうしても……」
それは確かにそうかも知れない、そんな風に思わず納得しそうになってしまった自分を慌てて胸中で叱咤する。固定概念の枠に囚われてはいけない、と。
これまでの話を総合するに、彼女の不調はストレスによる社会や家庭への適応不全のようなものが原因と考えられる。
社会でも家庭でも、自分の居場所を守る為に必死に頑張って生きている……その頑張りが彼女の心身をオーバーヒート寸前へと追い込みつつあるのだろう。
一番の薬は休息に他ならないが、家庭でも明確な役割を付与されている彼女は仕事を長く休んだところで今度は家庭内でのストレスが増加傾向を示す可能性は大きい。
ふむ、とひと唸りしてから。僕は膝の上で組んだ手の指先で、自分の手の甲を軽く撫でた。
「ご実家は、あなたにとって落ち着ける場所なのでしょうか?」
突然方向が変わった質問に、彼女は一瞬キョトンとしてから瞬きを一度。
「はぁ……まぁ、ええ。両親共に私が結婚してからの方が私に優しくなりましたから……」
結婚前よりは、落ち着ける場所になっている気がします。
そんな彼女の言を聞いて、それならば、と僕はもうひとつまた方向を変えた質問を投げる。
「因みにあなたから見た主観で構いません。義母と義祖母の関係性はどのように見えますか?」
「えっ、と……私がお義母さんに余り何かを云えないよう、お義母さんも義祖母には強く出られない感じは……少なからずあります」
彼女の言葉に、そうですか……と口許に手を遣る。
思考を巡らせ、僕は今の彼女にまず必要だと思う結果を口にする。
「あなたには、『何もしない』を頑張るだけの時間が必要に思います」
「何もしない、を頑張る……?」
「はい。何もしない、を頑張る……です」
「でも……何もしない、訳には……」
「えぇ、そうですよね」
無論彼女にとってそれが難しいことは重々承知。
だからこそ、僕はそれを敢えて言葉にしたのだ。
「職場へは、必要であれば診断書を用意することは可能です」
それと、と僕は続けて付け足す。
「あなたがそれはやめて欲しい、と拒絶しないのであれば……暫くご実家で静養する期間を与えられないか、と。あなたの義祖母様に僕から少しお話をするのも検討したいと思っています」
実の所。僕は彼女のことを、その義祖母から二ヶ月程前から既に「孫の嫁が最近元気なくてなぁ……」と世間話の中のひとつとして聞き及んでいたのだ。
そこまで介入する必要があるかという自問は既に終えている。
深入りのし過ぎは確かに良くないが、ここで敢えて一歩踏み込むのが僕らしさなのだ。
「頑張り屋と見受けられるあなただからこそ。倒れてしまう前に、頑張らないことを頑張ってみる勇気を出してみませんか……?」
あなたがもし倒れてしまったら、それこそ本末転倒。
そうなったら、あなた自身だけではなく周囲もとても困ることになるのではないでしょうか?
あくまで穏やかな声で云うと、彼女は僅かに睫毛を伏せた。
「自責、他責の針筵にその心を貫かれる前に……僕は、あなたに『休む』という勇気を出して欲しいと思います」
そう続けた後、僕はひとつだけ世の中の残酷さを示す言葉を彼女へと向ける。
「世界というものは……存外、『自分』が居なくてもどうにか回ってしまうものなのですよ」
「…………っ」
彼女の頑張り過ぎてしまう理由の根源はきっとここだ。
自分が居ないと回らなくなってしまう。そんな考え方。
だけど社会も家庭も歯車がひとつ動きを鈍くしたくらいではどうにか回ってしまう。
回らなくなる時というのは、完全にその歯車が欠けてしまった時だ。
だから、僕は今の段階で彼女に休息することを頑張ってみて欲しいと願う。
「どうでしょうか?」
今のあなたのお気持ちや考えを正直に教えてくれませんか?
「…………私、は……」
何度か唇を空回りさせてから、彼女は喉を小さく震わせた。
「私……多分……少し、疲れました……」
「えぇ……疲れて当然です」
穏やかに頷いて、僕は抽斗の中から一筆箋と封筒を取り出す。
数行分ペンを走らせたそれを封筒に入れ、彼女の眼前に。
「これは義祖母様にお渡しください。それと――」
一週間以内に診断書を用意しておきますので、来週の土曜日辺りにでも、また来てくださればと思います。
そう告げた僕に彼女は逡巡の後、封筒を受け取ってから静かに頭を下げた。
