灯は繋がりの証
頬を引っ掻く風が鋭さを増した十九時過ぎ。昼の診療所の戸締まりをした僕はのんびりと繁華街にある雑居ビルへと向かう。
ショーウィンドウには赤と緑の配色が増え、街路樹は星や雪を連想させる色のライティングで彩られている。
「さむ……」
吐く息こそ白くないものの、空気は確実に季節の移り変わりを教えるように冷たくよそよそしくなっていた。
首を竦めて少し緩めに巻いたマフラーに口許を埋める。自然と猫背になってしまう姿勢。
「シャンとしろ」
と、昔よく僕の猫背を窘めてきた兄貴分の声がつい懐かしく感じた、その瞬間。
鼓膜を叩いたのは誰かの声ではなく鍵盤の音だった。
鍵楽器が奏でる音、ではなく。鍵盤の、音。
鍵盤が、暴力的に叩かれているような音だった。
広い地下通路に期間限定で置かれているストリートピアノをぐるりと囲んでいる人集りを見留めて、あぁあのピアノの音かと思い至る。
ストリートピアノの存在は知っていたけれど、こんなに人集りが出来ているのは初めて見た。
誰か有名な奏者でも来ているのだろうか?
それにしても……と僕は意識的に聴覚を鈍感にさせながらぼんやり思う。
もう朧気な記憶だけれど、子供の頃自分が通っていた幼稚園の先生が奏でるピアノの音はこんな風にガンガン響くような音ではなかった。
弾む音はもっとまろやかで、旋律は春の陽だまりに全身を包み込まれるような音色だった気がする。
今奏でられているストリートピアノは一音一音が何だか痛がっているような尖りを帯びていて。
ピアノが悲鳴を上げる度、鼓膜は元より視界までチカチカするような気がした。
早く通り過ぎてしまおうと歩幅を大きくしたら、人集りからほんの数歩分離れた場所でスーツ姿の壮年男性が僕の視界の端に飛び込んできた。
その男性はまるで僕の感受性を代弁するかのよう、眉を寄せ険しいとも渋いともつかない複雑な表情を薄らと色の付いた眼鏡の奥に潜めながらただそこに立ち尽くしていた。
この夜は二十一時頃に若い女性が一人訪れただけで終わるかと思いきや、二十三時を半分程過ぎた辺りでまた来訪者を報せる音が部屋の中に響いた。
インターフォンのモニターに映っている顔を見て、ほんの少しだけ驚く。
モニター越しにも判る、薄い色付き眼鏡をしたスーツ姿の壮年男性。
来訪者はストリートピアノの音に表情を歪めていたその人だったのだ。
しかしあくまでも擦れ違いざまにこちらが一方的に見掛けたというだけの相手。
僕は数時間前の記憶を頭の隅に押し遣り、男性を初めて見る顔だというテイで部屋に招き入れた。
「ココは、一応プライベートクリニックのような認識で良いのかな?」
光量を絞った室内。勧めた椅子へ腰を落とし、色付き眼鏡を外した男性の第一声に「えぇそうですね」と短く肯定する。
「表向きはカウンセリングルームですが、僕自身の医師免許の登録番号が必要でしたらお伝え出来ますよ」
喩え調べられようと医者として後ろ暗い過去はないことを言外に匂わせれば、彼は小さく首を左右に振っただけ。
「朝から夜まで仕事が中々に忙しくてね。昼間病院にかかるような時間が取れないでいるんだ」
かといって、夜間救急にかかる程ではない。
それに自分の症状がどの科にかかれば良いのかも正直よく判らずに悩んでいたら、ココの存在を聞き及んだのだと、彼は抑揚の少ない声で続けた。
「そうですか……差し支えなければ、どちらでココの話を?」
基本的に来る者拒まずというスタンスではあるものの、情報の流通経路は把握出来るならしておきたい。
もし万が一妙なネットワーク内で存在が広まるのは余り本意ではないからだ。
けれどもそれはあっさりと杞憂に終わる。
「レイナの知り合い、と云えば判ると云われたが……」
その名前を聞いた瞬間、僕はあぁと合点して少し肩の力を抜いた。
レイナ、とはこの繁華街でそこそこ知名度のある蝶の名前だ。そして、ココでは珍しい定期的な来訪者でもある。
レイナは自分が後回しにされるのを嫌がって、僕の顧客を増やしたがらない。
付き合いが長いという理由だけで僕がレイナに対して融通を利かせないからというのもきっとあるだろう。
だからこそ。そんなレイナがここの存在をこの目の前の男性に教えたということはそれなりの必要性を彼女が感じ取ったのだろう。
「どのようなことにお困りですか?」
ともあれ、まずは話を聞かなければ何も出来ない。
穏やかに始めた僕の問診を彼は素直に受け入れてくれた。
「最近どうにも光や音が煩わしく感じてしまって……」
煩わしいというか、刺さるような……神経を直に撫でられているような……そんな不快感を覚えることがあるんだよ。
呻くような声には苦悶と悲愴のようなものが入り混じっていた。
「単に神経質になり過ぎているだけなのだろうか」
ポツリと零れた、自身を疎むような声音にはキッパリとした否定を示す。
「疲労の蓄積は感覚鈍麻、感覚過敏、どちらをも引き起こします」
朝から夜まで仕事がお忙しいとのことですから、我知らずと溜まった疲労が自律神経を乱している可能性は大いに考えられますと医学的観点での所見を述べる。
「疲労の蓄積により五感のボリューム調整が上手くいかずに最大音量で世界が流れ込んできてしまう状態、と云うと判り易いでしょうか」
これを改善するには休息が何よりもの薬になるのですが……と続けると、それは困ったなと彼は苦く笑う。
「休息、か……けれども人材不足の昨今、気安く休む訳にはいかなくてね」
「えぇ……立場がある方であれば尚更でしょうしね」
ココを訪れる患者は大体似たようなことを云う。
一日、或いは半日だけでも自己メンテナンスの為に保険診療を受ける時間すら確保出来ない――それが本人の意志であろうがなかろうが――というのはそれだけでもう不健全な話だと思わざるを得ない。
だから、僕はそういった理由で医療を受ける機会を逸してしまっている人たちに対してのセーフティーネットでもありたくてココを開設したのだ。
「普段の睡眠時間はどれくらいですか?」
「……五時間以内、といったところかな。平均すると三~四時間だが」
「そうですか……では、その睡眠時間と重ねて構いませんので、一日最低三時間は音も光も遮断するようにしてください」
真っ暗な部屋で耳栓等をして、ただ呼吸して存在する時間。
それは『無駄な時間』ではなく、あなた自身のパフォーマンスを維持する為の『最低限必要なメンテナンス時間』です、と。
僕は『何もしない』ことが苦手な人への常套句を紡ぐ。
何もしない時間というのは、決して無駄な時間だとは限らない。
何もしないということ自体が、脳を刺激から守る仕事をしていることになるのだ。
休息を取るのが苦手な人はこれを履き違えがちだからこそ、その必要性を最低限伝えなければならない。
「また、普段どうしても落ち着かなさを感じる時は意識を逸らす為に何か柔らかい感触の物を持ち歩くと良いです。厚手のガーゼハンカチや、フェルトの端切れなど……何でも構いません。柔らかい物に触れる、握る、という行為は脳の報酬系を刺激して副交感神経を優位にする効果があります」
僕の言葉にふむ、と唸る彼。
「部屋を暗くすることや、柔らかなものに触れるというのは対処が難しくなくて助かるな……しかし音の方が少々問題なんだ。既に耳栓やノイズキャンセリングイヤホンを試してみたりもしたんだが……それでもどうもノイズが走ることがあってね……そうなるとどうにもならない」
それは静寂すらも耳に痛い、ということか。
理解出来ないでもない感覚にもう少し聞き取りが必要だなと思った僕は、ところで、と話の方向を少しズラすことにした。
「ピアノはお好きですか?」
先程見掛けた、とは云わずにそれだけを問う。
「……随分と唐突だね。ピアノ、か……そうだね、嫌いではないよ」
「そうですか。いえ、今日ココに来る途中地下広場のストリートピアノの演奏を耳にしたのをふと思い出しまして」
「あぁ……あれは、酷い演奏だった」
僕の発問に彼がそう答えたのはどうやら殆ど無意識だったらしい。
苦々しく呟いてから、おやどうやら私たちは数時間前にも同じ場に居合わせたようだねと彼は肩を竦めた後、己の前言を訂正するよう緩く首を左右に振った。
「いや……酷い、という言葉で一括りにするのは些か雑だな。技術はそこそこだろう……ただ、」
そこで一度言葉を切った彼は、どこか遣る瀬ない溜息を視線と共に斜め下へと落とした。
「速弾きの技術は、確かにね……あるとは思ったよ。ただ、あの演奏はピアノに対する敬意を欠片も感じられなかった」
酷い演奏だった、というのはそういう意味だと補足する彼に、成程と自分の中にあった違和感の種に気付く。
「ピアノへの敬意……です、か」
「ふふ、無機物に敬意がないだなんてオカシイ話だろう」
「いえ。僕はそれを決してオカシイ話ではないと思います」
ここだけの話、と。僕は密やかな声で共犯者めかすよう続ける。
「僕もあの音が、ピアノが痛がっているように聞こえていたんです」
どうしてそういう風に感じたのかその時は理由が判らなかったんですが、今あなたの話を聞いて納得しました。
きっとその敬意や慈しみのような気持ちを相手に――この場合はピアノに対して、ですが……それが足りていないように感じたから、余り好意的に聞けなかったのかも知れません。
あくまでも自分の感想を述べてみせると、彼は少し驚いたように忙しない瞬きを三度。それから、ふはっと吐息で笑った。
「レイナが私に君のことを紹介してきた理由はあながち的外れでもなさそうだ」
「……レイナさんは僕のことをどのように?」
「あのお医者はピアノみたいな人だからアナタとの相性はきっと良い筈だわ、と」
レイナの口真似をしてみせる彼はその言葉通り僕への警戒をすっかり解いた様子。
「ピアノみたい……というのが一体どういう比喩になっているのか、音楽に詳しくない僕にはちょっと難しいのですが……」
解説を請う色でメタルフレームの上から視線を注げば、彼はまた軽やかに吐息を揺らした。
「簡単に云えば、繊細な感性の持ち主……というところかな」
ピアノが痛がっている音、だなんて形容する人間はそう多いものじゃないよと悪意のない揶揄。
それからふた呼吸分の間を空けてから、彼はゆっくりと唇を動かした。
「私はね、こう見えて元ピアニスト志望だったんだ」
そっと、彼の手元に下りる視線を一緒に追う。
節の目立つ指はスラリと長く、云われてみれば確かに鍵盤の上がよく似合いそうだ。
「私はあんな風に無邪気に――そして残酷に鍵盤を叩くことが出来なかった。だからこそ私はその道に乗ることが出来なかったんだろう。嫉妬、諦念……そういう様々な感情が私の中でグズグズと未練がましく燻り続けているんだろうな」
今夜聴いたストリートピアノのような、まるで見せびらかすような……指先で鍵盤を叩く衝撃そのものが私の神経を逆撫でするんだ、と呟く声はどこか口惜しさすら感じる響きを孕んでいた。
「ああいう音を聴いていると……何だか自分を殴られているような気がして耐え難くなる」
その言葉を聞いて、僕はこの男性こそピアノのように繊細な人間じゃあないかと思う。
狂いない音を奏でるピアノに定期的な調律が必要なよう。
健やかな生活を維持する為には彼に定期的な経過観察が必要そうだと仮説を立てる。
「あなたは、きっとあらゆる事柄に対して誠実過ぎる程誠実な性質なのでしょうね」
「はは、それは買い被り過ぎだ」
「えぇ、そうかも知れません……あくまでも僕の第一印象です」
深刻になり過ぎないトーンで謙遜を受け流してから、僕はデスクのタブレットを手に取った。
「先程、耳栓やノイズキャンセリングイヤホンも効果的ではなかったと仰っていましたよね」
無音もまた苦になるのであれば……と。
僕はタブレットを弄り、とあるアプリを起動させた。
数拍後にチッ、チッ、チッと規則的に響き始めた音はメトロノームの音。
「こういった音は比較的あなたにとって耳馴染みのあるものではないでしょうか? 無音が落ち着かないのであれば、敢えてこういう音を響かせてみるのも対策のひとつになると思います」
僕の声が完全に消えてから、彼はまるで頭の中で検分するかのようにじぃっと規則的な音に耳を澄ます。
暫くしてからその一定のリズム音と彼の瞬きの間隔が同期したのを見留め、僕は再び静かに口を開いた。
「因みに今のテンポ……一般的にBPM六十くらいが心音に近く落ち着くとされています」
チッ、チッ、チッという音に合わせ、トントントンと指先でデスクから数センチ上の空気を叩くと、彼は一度ぎゅっと強く目を瞑った。瞬きの間隔がまた自然な不規則へと戻る。
「……これで六十、なのか……。何だか、少し急かされている気がするな」
信じられないとでも云いたげな声に、それではとディスプレイを触る。
「このくらいだとどうですか?」
ディスプレイの数字を六十から五十に下げると、彼は短く唸った。
「いや……今度はゆっくり過ぎて息が詰まる感じがする」
「そうですか……では、このくらいは?」
先程は一回でテンポが十下がるボタンを叩いた指で、今度は一ずつ上がっていくボタンを五回叩く。
「……あぁ、うん。これくらいが、丁度良い」
「成程……これはBPM五十五です。心拍にしてやや徐脈、といった速さが今のあなたに必要な緩やかさのようですね」
容易いことではないと思いますが。この心地好いと思える速度を生活の端々で意識してみてください。
そう付け足してから、メトロノームの音を最小まで落として室内に淡く響かせる。
「痛い音に顔が歪んでしまうのは、あなたがあの楽器の本当の声を記憶し続けているからではないでしょうか……。忘れた振りをしていても、あなたの指先は未だ鍵盤の感触を離していないのかも知れません」
微かに……けれども規則的に揺れる空気の中。暫しの沈黙を破ったのは彼の方。
「そう、なのだろうか……」
その声には戸惑いよりも再確認の色の方が濃い。
「いつまでも手離せないのであれば……いっそ手離すことを諦めるのもひとつの考え方だと僕は思います」
「手離す、ことを……諦める……」
「……えぇ。ピアノ自体に触れる機会は持てなくても、最近ではスマートフォンやタブレットのアプリケーションで、鍵盤を叩くことの出来るものもあると聞きます」
無論実際の打鍵とは違いますから、コレではないという物足りなさはあるかも知れませんが。
もしそう感じた時は――
「あなたが、あのストリートピアノの鍵盤に指を乗せてみてはいかがでしょうか?」
僕のささやかかつ大胆な提案に彼は大きな瞬きをひとつ。そうして小さく肩を揺らしながらスーツの内ポケットに手を入れ、そこから取り出した長形四号の封筒を静かにデスクの端へと滑らせてきた。
何か、と問わずとも。それが今夜の対価だということは知れた。
「有難う……。今夜はここに来て良かったと思えたよ」
「そう云って頂けると幸いです」
色付きの眼鏡を掛け直してそっと立ち上がる彼に僕も倣う。
「……また、来ても良いだろうか?」
ドアノブに手を掛けながら問われ、返す言葉は「勿論」の一言。
「僕は基本的に来る者拒まずのスタンスでここを開いていますから」
「ははっ、それこそ君はまるでストリートピアノのようだ」
「ですが、症状が悪化傾向にあると判断が向けば僕は問答無用で療養休暇必須の診断書を書きますからね」
「ふむ、何とも善良な医者らしい台詞だな」
穏やかに小さく笑う声が外界へと一歩踏み出す、その直前。
もしもいつか、『その時』が訪れた際には君に私の演奏を聴いてみて欲しいものだと言ちた彼に「そのいつかの時には是非お誘い下さい」と微笑んで。
僕は夜の街に溶けていくスーツの背中を見送った。
