灯は繋がりの証


 昼の診療所は日祝の他に平日の木曜日が休診日になっている。
 日中でも羽織るものが一枚恋しくなってきたとある木曜日の十七時過ぎ。
 僕は零司さんから頼まれた『お遣い』の為、使い慣れない路線の某駅に降り立った。
 そこは、サブカルチャーを愛する人たちが多く集まる街。
 学生時代に訪れたことのある場所ではあったが、その頃の面影は影も形もない。
 高いビルが並んでいる訳でもなければ、木々が鬱蒼と茂っている訳でもない。それなのにどうしてか薄暗い灰色の印象を与えてきていた改札前には見覚えのないロータリー広場が整えられていて、街は何だかとても健康的な様相へと変容していた。
 たまにはノスタルジーに浸るのも悪くないかも知れない、などと思っていたのに、そんなものは欠片も感じようがなかった。
「えーと……どっち側に行けば良いんだったっけ……」
 ただでさえ土地勘がないのに、記憶とすっかり変わってしまっている改札前。
 うっかり反対方向へ向かって迷ったりでもしたら困る、と。僕は地図を確かめる為にジャケットのポケットから携帯を取り出した。
 地図を読むのは余り得意ではない。背後の駅改札と、伸びている線路の方向を地図と交互に見遣りながら僕はその場で右に左にと四半回転を何回か繰り返す。
「こっち……だな、うん……きっと大丈夫」
 確認行動というのはつくづく大事だと思う。何故なら僕は案の定とでも云うべきか、目的地とは真逆の方向を向いていたからだ。
 そうして無事に『お遣い』を済ませた僕は寄り道をすることもなく来た道をそのまま戻る。
 駅の改札まであと百メートル程というところで、どこからか軽やかな歌声とアコースティックギターの調べが鼓膜にすぅっと染み入ってきた。
 思わず止まった歩み。音源を探すようほんの僅かに首を回したら、高架下の薄闇の中に真っ白な影を見付けた。
 近くを通り過ぎる人たちがこぞってその真っ白な影を一瞥していく様子と、観客なのかやや年配と思しき外国人の男女が影の傍から離れないことから、音源はそこだと確信した。
 とは云え、僕も観客として聴き入るつもりはなく。
 ほんのり歩速を緩めながらもそのまま高架下を通り過ぎようとした、のだけれど。
 影の周りに何本も立ててあるアルミ缶がふと目に入って足が止まってしまった。
 鈍い色のアルミにサイケデリックな塗装をしたそれはチューハイのロング缶。
 飲酒の習慣がさしてない自分でも一目で分かる程、そのロング缶は良くも悪くも知名度の高いものだった。
 ただ、足を止めてしまった理由の最たるはそのロング缶ではない。そのロング缶が、地べたにそのまま腰を落としている白い影の面差しとは到底不釣り合いだったからだ。
 透き通るような肌の色と、繰り返し脱色しているのだろうか……肩に届く長さの金髪のコントラストは高くない。目を閉じて歌っているから縦幅は分からないけれども長い睫毛が縁取る横幅は広め。鼻先と唇は小さく化粧っ気のない顔立ちは小動物さを醸し出しており、その幼さは十代半ばくらいの少女だと想定された。
 そう、未成年の飲酒疑惑を目の前にしてしまい、僕の足は我知らず止まってしまったという訳だ。
 ただ、それともうひとつ。僕の視線が白い影……もとい、少女から離せなくなってしまったのは彼女の服装だ。
 夕方の空っ風は鋭利さを宿し始めているというのに、弾き語り少女が纏っているのは白いキャミソールのミニワンピース一枚。それと、足先に引っ掛かっているのはヒールの磨り減ったミュール。
 投げ出されている脚も、アコースティックギターを抱えている腕も、弦を押さえたり弾いたりする指も細い。
 女性特有の線の細さだとか、発達途上の線の細さとは違う。少女の姿と重なるよう、一瞬だけ脳裡に浮かんだのは不健康に痩せぎすな少年の姿。
 無意識に下唇の内側を噛んだその一瞬、世界が遠退いていたのか不意に鼓膜を打った拍手の音と外国語が僕の意識をイマココに引き戻した。
 満面の笑みと聞き慣れない言語で少女を一頻り絶賛(恐らく……。正直僕は外国語には弱い。殊、リスニングは不得手にも程がある)した外国人の二人連れは銀色の硬貨を二枚、ロング缶のプルタブに乗せて去って行った。
 その硬貨だけを、ギターケースにぶら下げているコインケースに食べさせた少女は流れるような手付きでさっきまで硬貨が乗っていたロング缶のプルタブを起こそうとするものだから、思わず一歩二歩と彼女に近付いて腰を屈める。
「……未成年が、こんな目立つところでお酒は良くないと思うな」
 プルタブに引っ掛けられている深爪気味の指先へ視線を流せば、少女は僕を見上げて煩わしそうな顔。小さな唇が更に小さく尖った。
「あたし、もーハタチこえてるんだけど」
 むくれた顔でそう云われ、えっ、と次の言葉に詰まる。
「いやまぁそーゆーこと云われるの慣れてるけどー。分かるよ? あたし身長は百四十センチちょっとしかないチビだし幼児体型だし? おまけに超童顔だしさーぁ」
 でもほら、と彼女が僕の眼前に突き付けてきたのは、コインケースと一緒にぶら下げてあったカードケース。そこから取り出されたのは個人番号カードだった。
 髪の毛の色は違うが、写真に写る顔立ちは確かに目の前の少女で間違いなさそう。
生年月日の生年が示すのは、彼女が二十一歳である事実。それを確認した僕は素直に自分の非を認めるしかなかった。
「ごめんね、見た目で判断した僕が悪かったよ」
 演技ではない、素の謝罪を呈する僕に、彼女はすぐに不機嫌さを放り出すようカラカラと笑った。
「一杯奢ってくれたら、許してあげる」
「え……?」
「たまには缶じゃないお酒飲みたいしー」
「……でも、」
 戸惑う僕を余所にアコースティックギターをケースへとしまい、クシャクシャのコンビニ袋にロング缶を収めていく彼女。
「ま、おにーさんが奢ってくれなくてもバーに行けば誰かが奢ってくれると思うけどね~」
 軽やかに立ち上がった彼女のその台詞に危うい湿り気を感じた僕は、本来ならば断わるべき場面だと思いつつも咄嗟に「判った、一杯だけだよ」と答えてしまった。
「やったねー! おにーさんやっさしーぃ」
 近くにお気に入りのバーがあるんだ。多分もうやってると思うから行こ、と。
 ミュールの踵を引き摺る彼女の半歩後ろを着いて行くこと五分弱。
 雑居ビル同士の間にある階段を下った秘密基地のような地下空間に、そのバーはあった。
 カウンター席しかない小さな店内。先客は居らず、店内奥のスツールに並んで腰を落とす。
「あたし、カルーアミルク濃いめ。おにーさんは何にする?」
「え、っと……じゃあ、マミー・テイラーを……辛口多めで」
「マミー・テイラー? 何それ初めて聞いたー、何かいかにも大人ですって感じー!」
 茶化してくる彼女に肩を竦めながら、マスターからの無言の『辛口多めとはこれのことか?』という瓶を持ち上げるジェスチャーに小刻みに頷く。
「マミー・テイラーは、ウイスキーベースのカクテルだよ」
 但し、僕はそこまで酒に強くないから『辛口』のジンジャーエール多めでウイスキーを割ってもらうことにしているのだが。
 それぞれ手にしたグラスを微かに触れ合わせてからアルコールを舐める。
 うん、マスター……バッチリ薄めに作ってくれて有難うございます。
「おにーさん、少しくらいはあたしが歌ってるの聞いてたでしょ? あたしの歌、どーだった?」
「んー……僕、音楽にはあんまり詳しくなくて」
「そーゆー人の意見の方が寧ろ知りたい。どんな感じした? 雰囲気でいーからさ」
 強請るように感想を求められた僕は短く唸ってからひとつ思い付き、マスターにハードビスケットがあるかを問うた。
 すぐにカウンターに出てきた小皿にはハードビスケットが三枚。
 それを、彼女の手元へと滑らせながら唇を開く。
「パッと聴こえる印象は軽やかだけど、少し聴き入ると奥にしっとりした甘さを含んでいるような……そのカルーアミルクに浸したハードビスケットみたいな歌、だと思ったかな」
「……うわ、思ったよりしっかり文学的比喩の感想きたし、キザってゆーかクサ過ぎて一周まわって逆にメロさすらある」
 ケラケラと笑う彼女の頬は間接照明とアルコールの火照りで杏子色に染まっていた。
「おにーさんは何してる人? フツーの会社員じゃなさそーだけどフリーターとかでもなさそうだし……自由業? あ、投資家とか?」
「あはは、投資家じゃないけど……自由業といえば自由業、かな……個人病院の院長だよ」
「院長……てことは、お医者さん?」
 大きな目をぱちくりさせながら問うてくる彼女に、僕はそうだと穏やかに頷く。
 ちっとも見えなーい、なんて揶揄が飛んでくるかと思いきや、彼女は朗らかな声をカルーアミルクと一緒に飲み込んでしまった。
 暫しの沈黙。僕が傾けたグラスの氷がカラン、と高い音を立てたのを合図にしたかのよう、彼女はゆっくりと僕と視線を絡めてきた。
「おにーさん、何科のお医者さんなの……?」
「昼は保険診療で内科メインだけど、」
「だけど……?」
「夜は、基本自由診療で精神科めいたこともしてる」
「………………」
 普段の僕は夜も誰かしら診ていることを余り口に出さないけれど、今は何となくそれを伝える必要性がある気がした。
 そしてその勘は実際見事に当たった。
「自由診療って、保険証が要らないんだよね……?」
「そうだね。その代わり病院側が好き勝手な値段で診療するけれど」
 わざと皮肉めいた苦笑を混じえて云うのはふるいにかける為。
「それ、夜の病院……場所……ここから遠い?」
 そう続いた問い掛けから、どうやら彼女はふるいにかけられても落ちることが出来ない程の『何か』を抱えているのだと察する。
「正確には病院、じゃないけれどね……そんなに遠くないよ。沿線を上り方面に終点まで」
 ここからなら電車に揺られる時間は十五分もないだろう。
 サイトも名刺も作ってないんだけれど、と付け加えれば、彼女は
「まるで秘密基地じゃん」
 と、小さく笑いながら僕が夜の居場所にしているビルの住所を携帯のメモアプリに登録した。
 本当に一杯だけで終わったその場。
 数日後、二十二時をやや過ぎた頃に雑居ビルの小さな一室でインターフォンが鳴った。
 来訪者はあのカルーアミルクの彼女。
 夜はもう暖房器具さえ欲しくなるような気温なのに、彼女は今日もキャミソールのミニワンピース姿だ。先日と違うのは、色が白ではなく黒であることと、足元がスニーカーであること。
 駅からここに来るまでの短い距離だけでも、きっと彼女は幾つもの奇異な視線を浴びてきたに違いない。
 それでも僕はそんな彼女を良くも悪くも特別視しない態度で迎え入れる。
「あのね、おにー……んーん、先生。あたしさ、フツーじゃない、のかな……?」
 椅子に腰を落としてから彼女が喋り出すまでには、壁時計の秒針が何周分か掛かった。
「……どうして、そう思うのかな?」
 彼女の台詞に、僕はこの前のバーでの『おにーさん』ではなく、医者の顔をして問う。
「高校の卒業式でさ、友達……だと思ってた子に『あんたオカシイから病院行った方が良いと思う』って云われてから、なんとなくずっとそう思ってる……」
 友達……だと思っていた、という云い淀みに、彼女が胸に抱える重苦しさを知る。
「でも普通の病院は記録が残っちゃうから、バレたら説明するの大変だしなぁって行きづらくって……」
 そんな彼女の言は存外珍しくない。医者にかかったことを知られたくないから病院に行かないという選択を取る人間は思いの外多いものだ。
「君は……自分で、オカシイと思うことは何かある?」
「ん……あんまり食べたり飲んだり出来ないこと……出来ない、ってゆーか……一定の量を超えそうになると怖くなっちゃうのは……確かにちょっと変かな、って……」
「それはいつから?」
「小五くらい、から」
「何か、そうなった原因に心当たりは?」
 僕の問い掛けに、彼女はうーん、と緩く首を傾げてから「判んないけど……」と前置きをしてから話し始めた。
「お母さんがね、よく云ってたの。『あなたはいつまでもお母さんの可愛い子』って。今はあたし、訳あってお母さんと一緒に住んでなくて、おばあちゃんと住んでるからお母さんからそう云われることないんだけど……」
 ぽつり、零すように呟く彼女。
「あたしが『可愛い子のまま』でいられるおまじない、って……ぎゅってされるの……親不孝だろうけど、あれ……あんまり好きじゃなかった……」
「おまじない……か」
 苦い自嘲を洩らす彼女に、僕はゆっくりと息を吸う。
「君は、おまじない、にはどういうイメージを持ってる?」
「おまじない、は……願い事が叶う、みたいな……」
「それは、良いイメージ? それとも悪いイメージ?」
「いい、ほう」
「そっか。じゃあ、君はおまじない、ってどんな漢字を書くか知ってるかな?」
 僕にそう問われた彼女は首を大きく横に振る。
「のろい、と同じ漢字を書くんだよ」
 空中に、指で『呪い』と書いたら、彼女の表情が驚きと淡い嫌悪で複雑に歪んだ。
「君の身体と心にはきっとお母さんのおまじないがよく効いてしまっているんだと、僕は思う」
 反論が飛んでくる気配を感じなかった僕は敢えて淡々と続ける。
「一定量以上食べたり飲んだり出来ないのが先天性の体質なら僕は何も云わないけれど……でも君のはきっと違う」
 今のままの生活で居たらいつか遠くない未来、アコースティックギターを弾くことも、歌うことさえも難しくなってくるかも知れない。
 更にそう続けたら、彼女は小さく息を呑んだ。
 俄に緊張したのが判って、逆に柔らかく笑って見せる。
「……だからといって栄養を摂る為に無理にでもあれを食べろ、このくらい食べろ、いついつまでに体重が増えてなきゃダメだ、なんてことを僕は云わない」
 だって、と眉尻を少しだけ下げる。
「だって、そうしたら君は『僕からも呪われてしまう』から」
 肩を竦めながら、僕はデスクの下から二段目の抽斗を開けた。
取り出したのはガラス製の小瓶。それを彼女の手にそっと握らせる。
「それは僕からの今日の処方薬」
「……おくすり……?」
 手の中の小瓶を見詰めながら訝しげな顔をする彼女の反応も無理はないだろう。
 だって僕が渡したそれは金平糖の入った小瓶だったのだから。
「これ、おか……」
「砂糖は遥か昔から薬として重宝されてきているし、乳糖は医薬品として登録されてる」
「お砂糖が、お薬……」
 彼女の言葉に、僕は尤もらしく頷いてみせる。
「そう。お薬。でも決まった時間に決まった量じゃなくて大丈夫。何となく気が向いた時に、最初はひとつ取り出してちょっと舐めてみるだけで良い」
 僕が示した方法に彼女はいよいよ不思議そうな顔。
「ホントに、舐めるだけでもいーの……?」
「うん、良い。ちょっとだけ舐めてから、齧れそうだったらトゲトゲの端っこを齧ってみて、食べられそうだなと思ったらそのまま口に入れて……噛んでも溶かしても、どっちでも良い」
 ゆっくりで良い。どれだけ時間を掛けても良いからという言葉に説得力を持たせるよう、言葉を紡ぐ速度を先程までより緩める。
 彼女に今必要なのは、怖くなってしまう一定量以上を口に含んでも大丈夫なのだと身体と心、そして脳が少しずつ抵抗を感じなくなる為の慣れ。
「もし、もう要らないって感じたらおしまいで良い。口の中に残っていても、要らないって思ったら出して構わないから」
 金平糖一粒単位での克服じゃなくて良い。半分でも、そのまた半分ずつでも。
 彼女のペースで前に進むことが何よりも大切な成功体験なのだ。
 ガラスの中に詰まっている金平糖は五色。その色数を視線で数えている彼女に、けれども……と続ければ、ちらり、こちらへ戻ってきた視線。
 僕は僅かに身を乗り出して軽く前傾姿勢になる。
「ひとつ食べ終わって、もしも体がもう少し欲しいなって感じる気がしたら、試しにもうひとつ中から出してみて」
 次は手の平に転がすだけでも良いから、と付け足す指示。
「これ以上はダメ、だなんて……怖がっているのは本当の君なのかな?」
「………………」
 何それ、どういう意味? そんな疑問は彼女の口から出てこなかった。
 少なからず、彼女の中では何かしらの心当たりがあるのだろう。
「自分の身体の『欲しい』という声を、ほんの少しずつで良いから否定しないであげてみよう?」
 そうやって彼女の意識にじわじわと浸透させるように金平糖の摂取方法を説明しきった僕は、ひとつ肩を揺すってから目を細める。
「僕は今でこそ身長百七十センチ以上あるけど……」
 そこで一度言葉を区切り、おもむろに手を床から一メートル半くらいの高さに上げる。
「僕も、中学校を卒業した頃の身長は百五十センチくらいしかなかったんだ」
「……先生も、おまじない、されてたの?」
 想像出来ない、と目を丸くする彼女の反応は予想通り。
「そうだね……僕も、とてもよく効くおまじないをされていたんだと思う」
 苦く笑ってから、ゆっくり瞬きをひとつ。
「おまじないも、のろいも。もし効果が現れてしまったら、それを無効化させるのは他人にしか出来ない」
 君にかかったおまじないがいつか溶けてなくなってしまうよう、僕は願ってる。
「また、気が向いた時にでもここに来ると良い」
 そう云って淡く微笑んだら、彼女は潤む目を隠すように睫毛を伏せて両手で小瓶を握り締めた。
 
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