灯は繋がりの証
昼の診療所は午前の診療時間が昼の十二時まで。
とはいっても十二時に『休診中』の札を掛けられることなんて少なく、いつも大体十三時くらいまでは開いているのだけれど。
それを見越して、僕はその日十三時半に一件アポイントメントの打診を受け入れていた。
相手は区役所の福祉課のケースワーカー。
元々大学病院の勤務医だった僕はこの九条医院を継ぐことになった時、正直驚いた。
医者とケースワーカーが直接遣り取りをするなんて大学病院ではそうそうないことだったからだ。
医者の仕事は診察だけではない、というのは当然のようで当然でなかった僕だから、九条医院では諸雑務の殆ども自分で管理処理しなければならないことを知った時に改めて医者としての身を引き締めさせられたのを覚えている。
老医からこの診療所を引き継いでもう数年。
今では逆にそのスタイルの方が僕にとっての『当然』になっているけれど。
十三時を少し過ぎてやっと『休診中』の札を掛けられた院内。
紙カルテに記載した内容を電子カルテに入力していく。
午前の患者全員分ではない。電子カルテを嫌う古くからの患者数名分だけだ。
「九条先生、わたし出ちゃっても大丈夫かしらねぇ?」
医療事務として雇っている女性――九条医院では僕よりも遥かに先輩だ――の林さんにそう声を掛けられ、大丈夫ですよと微笑む。
彼女は家が近く、午後の診察の準備時間まで一度昼に帰宅するのが常なのだ。
ノートパソコンを閉じて、椅子の上でんーっと身体を伸ばす。
壁時計の針は十三時二十五分。レースのカーテン越しに窓から射し込む陽射しは明るい。
そういえば、午前の患者の中で「今日は暖かいを通り越して暑い」なんて云っている人も何人か居た。
やっと涼しくなってきたかと思ったのに……とうんざりするような顔を見て、僕は何度か苦笑を滲ませた気がする。
ステンレスボトルに淹れたお茶をひと口飲んだところで、戸口の呼び鈴が僕を呼んだ。
はーい、と間延びした声を出しつつ『休診中』の札を掛けた戸を内側から開ける。
「こんにちは、九条先生。先週は急なリスケで申し訳ありませんでした。改めて今日はお時間を作ってくださり有難うございます」
目が合うなり深く頭を下げてきたのは、予定通りに訪れて来た区役所のケースワーカーである男性だった。
歳は僕と然程変わらないことを以前聞いたことがある。
第一声の謝罪は、当初先週に予定されていた来訪が急遽今日に変更になったことに対してだろうが、僕は別に気にしていない。
「長く仕事をしていればたまにはそういうこともありますよ」
近年様々なデータのデジタル化が進んでいるとはいえお役所は未だアナログデータとデジタルデータが混在しているようで、彼が肩に掛けている大きな鞄はいつもパンパンに膨らんでいる。
「それより荷物も重いでしょう。さ、どうぞ中へ。もう患者さんも居ないので気楽に」
「済みません……では、失礼します」
ひらりと軽やかに白衣の裾を翻す僕に対し、彼の足取りはまるで白昼下の色濃い影を引き摺るようだった。
応接用の部屋なんてない小さな診療所だ。
診察室に彼を招き入れて患者用の椅子を勧める。
「今日は、外暑かったですか?」
「そうですね……立ち止まっているとそうでもありませんが。歩くとじっとり汗をかく暑さと云いますか」
そよぐ風は秋の気配を見せているのに、空気中にはまだ夏の名残が濃いとは彼曰く。
「それで、九条先生……先日お電話でお話した方のことですが……」
「えぇ。仰っていた通り、生活保護の手続きが進められるのでしたら僕からもお願いしたいというのが率直な意見です」
九条医院の患者は何人かがこのケースワーカーの支援も受けている。
だから、僕は彼と定期的にこうして顔を合わせては情報の共有をしながら支援方針にズレがないことを確かめるようにしているのだ。
手帳に小さな文字で書き込みをしていく彼のペンを握る手が時折胸元のシャツを摘み、二度、三度風通しするように動く。
「暑いですか? 少し空調入れましょうか?」
「あ、いや大丈夫です。すぐ治まると思うので」
「治まる……?」
つい言葉尻を拾ってしまったのは最早職業病とでも云うべきか。
「たまにあるんです。急にカァーッて火照るような感覚になることが。ヤダなぁ……先生とそんなに歳変わらない筈なのに、早めの更年期症状ですかね」
肩を竦めてわざとらしく苦笑する彼の頬は確かにやや熱を持った色に染まっている。
「ネクタイや襟は僕の前では遠慮なく緩めてくださいね…………あ、ちょっと失礼……」
白衣のポケットに手を入れて携帯に触れた僕は、それを取り出しながら席を立ち一瞬診察室を出た。
処置室を一周歩いてから、すぐに済みませんでしたと診察室の椅子に戻る。
「先生、お忙しいのでしたら……」
「伝言が入っただけなので大丈夫ですよ。それより、」
良かったらこれ使ってください、と。僕は彼の手の甲に拳サイズの固形化しない保冷剤を軽く当てた。
じわり、保冷剤に巻いたガーゼ布が彼の表面温度で湿る音が微かに聞こえるような錯覚。
「軽く握っているだけでも少し落ち着くかも知れません」
勿論、熱を感じる部分に当てても構いませんし。
そう続けると、彼は「有難うございます」と素直に保冷剤を受け取ると、握り直したそれを数秒ずつ首筋と頬に押し当てた。
話を終えるまで、右手でペンを。左手で保冷剤を当てる位置を時折変えていた彼は、区切りがついたところで刹那だけ腕時計の盤面を確認すると僅かに視線を泳がせた。
午後の診察まではまだ時間がある。
もう帰ってくれ、などとは急かさずに。僕はデスクの抽斗から固形栄養食のアルミ袋を取り出してギザギザの間に爪を食い込ませた。
「……先生、もしかしてそれがお昼ですか?」
「ん? あはは、そうです。これだとゴミが少なくて済むし、何より選ぶことにリソースを割かなくて済むので楽なんです」
もそもそと粉っぽいそれを咀嚼すれば、やや呆れたような茶化す声。
「医者の不養生、ってきっと先生のようなことを云うんでしょうね」
「……最低限は食べていますし、睡眠も取ってますよ?」
「でも同じ生活を先生は患者さんに勧めないでしょう?」
「まぁ……それはそう、です」
粉っぽさと一緒に言葉を喉に詰まらせたら、目の前の彼は「ほら」と云わんばかりに大袈裟に肩を竦めて見せた。
タンブラーに口を付けた僕を眺めながら、先生……と呼び掛けてきた声。
「体調がコロコロ変わるとか、朝目が覚めるまでその日動けるか動けないかが判らないとか……自分の体調がまるで天気みたいって感じるの……意味がよく判らないですよね」
それは一体誰のことを云っているのか。
「そんなことないですよ」
あくまで僕は「意味が判らない」話ではないという姿勢で眼鏡のブリッジを押し上げる。
「安静時は完全な無になって次の活動時まで同じ状態を保っている……なんてことはないです。寝ている間にも脳内では神経が絶え間なく情報の送受信をしていますから」
人って、外見は同じでも中の仕組みや感じ方は全然違うじゃないですか。
頭の中の配線や、身体の反応の速さ、
眠りの深さとか、ストレスの受け取り方とか。
季節で花が咲くタイミングが少しずつ違うみたいに、或いはそれこそ真夏の夕方の変わりやすい空模様みたいに。
人のリズムも人の数だけ一人ずつ違って、似たリズムはあっても完全一致することはほぼないでしょう。
「そのリズムに絶対的な正解はありません」
ちらり、明るい飴色が射し込む窓辺に視線を流す。
その明度がいつまで続くかだなんて、予測は出来ても確定は決して出来ない。
きっともうぬるくなってきたであろう保冷剤を握ったまま僕から視線を離さない彼に、更に続ける。
「人の心にはね、きっと空があると僕は考えていて。元気な晴天も、ちょっと落ち込む曇天も、動けなくて泣きたくなる雨天も、全部その人の心の空模様なんだと僕は思います」
「…………人の心は、空模様……」
「そう。さっき僕は夏の夕方の天気を予測出来ても確定は出来ないと云ったけれど……つまりはそういうことなんです」
外の天気が朝の空を見ただけじゃ読み切れないみたいに、自分の心や身体の空も前の晩には判らないものです。
朝になって、光の入り方とか、空気の重さとか、その時の『自分の心の天気』を知って漸く確定出来る。
だから「ちょっと先の自分の体調さえ判らない」というのは怠けでも弱さでもなくて、自分の中の空模様が少し不安定なだけなのかも知れない。
でもね、と。僕はデスクの上を指先で軽く叩く。
「ひとつだけ大事なのは……どんな天気でも、空そのものは変わらないということ。曇りの日も、雨の日も、雷の日も、雲の上には絶対に青がある。その青は、僕の中には勿論、あなたの中にもあるんだということです」
これは誰一人として例外はない。
そうやって僕自身を引き合いに出すことで、さっき彼が「意味が判らない」と云った『体調が天気みたい』というのが彼自身の話でも、他の――彼がケースワーカーとして支援している人の話でも何らおかしな話ではないことなのだと暗に告げる。
「…………なる、ほど」
僕の話に静かに耳を澄ませていた彼は、十二分に間を空けてからふと奥歯を噛み締めるようにポツリと零した。
「寝る前は何でもなかったのに……目が覚めた瞬間、あぁどうしよう今日は動けない……そんな風に思う朝があると……酷く自己嫌悪に陥るんです」
たまに、起き上がることすら出来ない日もあります。
気持ちは「仕事に行かなきゃ」の一辺倒なのに、身体が云うことを聞かない。
まるで心と身体がバラバラになってしまって統制が取れない……そんな感覚はいっそ怖ささえあります。
ずっと、誰にも明かせなかった秘密を暴露するかのような声音。
出会い頭の彼の謝罪の本当の意味を、僕はここでやっと知った気がした。
あれはただのリスケに対する謝罪ではなかったのだ。
あの平身低頭とも云える姿勢は『天気みたいな体調』に振り回された己への不甲斐なさによるリスケを詫びていたのだろう。
「僕の仕事とあなたの仕事には共通点があるんですが……何か判りますか?」
「……え? 共通点?」
「えぇ。医師と役人、職種は異なれど僕もあなたも『他人の不安定な分子を自分の構造の中に取り込まなければならない』という共通点です」
感情論ではなく、構造論として僕はもう少し話を続ける。
「ベンゼン環、って知ってますか?」
名前よりも見た目の方が知名度が高いかも知れません、とペン立てからボールペンを取ってデスク端の裏紙を再利用したメモ帳にペン先を滑らせる。
書いたのは、ベンゼン環みっつ。僕のペンの握り方が悪い所為か、六角形が不均等になってしまったけれど……まぁ問題はない。
「不安定に揺れてるように感じるのは、弱いからじゃありません。構造を保つ為に、心や身体の中で電子や原子や分子が必死に共鳴して、衝撃を逃がしてる証拠です」
例えばこのベンゼン環……と六角形の角をトントンとペン先で叩いていく。
「この六個の角にはそれぞれ原子がひとつずつ。そしてその六個それぞれがまだ他の原子ひとつと手を繋いでいる図を表したものがこの六角形……分子です」
いっぱい原子が結合するとぐちゃぐちゃになる。
で、その枝が増えすぎたり、結合角が歪んだりすると、全体の分子が不安定になって「揺れている」より「暴れている」に近い状態になってしまうんです。
でもね、ベンゼン環の良いところは結合のどれもがひとつに固定されてないところ。
常に入れ替わって『平均化』されてるから、喩え歪んだり暴れたりしても、この六角形自体は壊れにくい。
心の中の六角形も同じ。そうやって、一瞬ごちゃごちゃになってもまた時間が経つと静かに共鳴して戻ってくる構造になっているんです。
「……という説明だと講義っぽくてイメージしづらいですよね」
一息に説明してから、今の話をもう一度……今度は噛み砕いて説明する。
「つまり、六角形の角がどれも固定されてなくて常にゆらゆらと入れ替わっている。だから歪んでも壊れ難いんです」
僕がボールペンで六角形を軽く叩きながら云うと、彼は視線を僕からメモ帳へと移した。
「……つまり、ぐちゃぐちゃになっても、元に戻ろうとする力があるってことですか?」
「そう。戻ろうとする力があるからこそ、『不安定』に見えるだけ」
ゆっくりと。それこそごちゃごちゃになった分子が静かに共鳴していく様子を現すようにのんびりとした口調で僕は続ける。
「天気の話に少し戻りましょう。空気がただの透明な空間だと思ったら大間違いですよ?」
「……どういうことですか?」
「天気が変わる時、僕たちの周りでは何兆個もの分子がぶつかり合い、電子が火花を散らしている。その激しい『世界の変容』を正しく感知して必死に同期しようとしてしまう人は自律神経が乱れがちになり、体調に変化が現れやすくなります。天気に由来するこれは所謂気象病、と呼ばれています」
「天気が、由来していなければ……?」
「他の理由で原子の乱れに影響を受けやすい人は、程度の差によって自律神経失調症とも云えますね」
決して『弱さ』ではないのだ、と。
ただ一言そう云ってしまえば終わることを長い言葉で語ってしまったのは、自責に走りやすい人程『構造』を理解しなければ納得しないからだ。
構造的な不和は、努力や管理不足では補い切れない。
だからこそ、医者が居るのだ。
その道理が、彼には伝わっただろうか。
不意に戸口の蝶番が鳴く音が遠くに響く。
「先生お疲れ様です……と、あぁどうも」
診察室に顔を覗かせたのは、休憩を終えて戻って来た林さんだ。
お疲れ様です午後もよろしくお願いしますと声を投げてから、目の前の彼に軽く頭を下げる。
「済みません……つい僕がお喋りし過ぎましたね。時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ここでのお話の後そのまま休憩時間の予定になってましたから。寧ろ私が長居をしてしまって申し訳ないです」
テキパキと荷物を纏め始める彼の動きは先程までよりもどこか滑らか。
「これ、有難うございました。お陰様で落ち着きました」
立ち上がり、彼が差し出してきたのはもうだいぶぬるくなった保冷剤。
「どういたしまして。そうだ、良かったらこれ、おやつにどうぞ」
保冷剤を受け取る代わりに彼の手に乗せたのは、個包装のラムネ。
「それ、個包装のパッケージにベンゼン環が印刷されているところが僕のお気に入りなんです」
ブドウ糖は頭を使う仕事にはもってこいですからね、と微笑を浮かべれば、彼もそうでしたねと小さく笑う。
「いただきます。では先生、今日は――本当に有難うございました」
「こちらこそ。またよろしくお願いします」
出会い頭とは違う、軽い会釈に頷いて。
僕はケースワーカーの彼を見送ってから、ラムネをひとつ口に放り込んだ。
