灯は繋がりの証
金曜日の午後四時半。
待合室の小窓にぶら下げている風鈴が小さく鳴った。
夏の名残を連れてきた風が、古い診療所のカーテンを揺らす。
ぎこちないリズムを刻む靴音が木板を微かに軋ませながら近付いてくる。
この診療所は、僕の祖父と呼べるような歳の老医から引き継いだ場所。
机の上には紙カルテと万年筆。
水銀の血圧計に水銀の体温計なんて今時流行らない診療道具を置いているのは前院長の老医を慕ってきた古くからの患者が好むからだ。
診察室の片隅に置かれている黒電話も同様。もう使われてはいないけれど、それはここが昔から変わらない診療所であることを示唆する象徴のひとつになっている。
僕は昼間、ここで町医者をしている。
老医から診療所ごと引き継いだ患者は高齢者が多く、薬嫌いな人も少なくないから言葉を処方の代わりにすることもままある。
病は気から。気の持ちようで心身の健康はどうにかなる、だなんて古い考え方を僕も今では完全には否定出来ない。
現代医学を履修している僕からしたらそれは些か時代錯誤な思想だけれども、実際それが『効く』患者も居るのが現実なのだ。
だから僕は患者に合わせて塩梅を変えながら薬と言葉を処方する。
薬と同じよう、言葉にも適切な用量があることを僕は身を以て知っているから。
「あー、あー、遅くなっちまった。悪いねぇ先生」
診察室に顔を覗かせたおばあさんに、大丈夫ですよと微笑んで椅子を勧める。
「午後の診察時間は五時までですから、店仕舞いまではまだ時間があります」
最初こそ数値の読み取りに戸惑った水銀の血圧計の扱いにももう慣れた。
少し高めだけれど、御歳を考えれば大袈裟にする程でもない。
ただもう少し寒くなったらやや気を付けた方が良いかも知れないとカルテに数値とメモを走り書いた。
それから、先月の血液検査の結果を説明する。
概ね悪くはないが、ヘモグロビンの数値が少しずつ減ってきているのが心配の種。
これに関しては鉄剤を処方したいところだけれど、このおばあさんは鉄剤の副作用が嫌だと断固拒否を示すのだ。
だから、世間話のように最近の食生活へと話題を変えてみる。
「そういえば、そろそろほうれん草が美味しい季節ですね」
「あぁ、そうだねぇ。あれはそんなに値が上がらないから助かるよ」
「僕、ほうれん草と卵を炒めたやつが好きなんです」
「へぇ……先生、若いのに地味なおかずが好きなんだねぇ」
揶揄するようなおばあさんの口調に、はいと眉尻を下げる。
「ほうれん草と卵を炒めたやつに、納豆ご飯とお味噌汁があったら幸せです」
嘘、ではない。事実、ホッとする味として好きなメニューだ。
「ははっ、そりゃあたしらも真似しやすい献立だ」
「えぇ。是非真似してください」
栄養価がどうとか、吸収率がどうとかいう話は敢えて出さない。
ただ、こうして話題に出すことでそれを積極的に摂取しようと思ってもらえたら良いなというところ。
それからまた少しだけ世間話を装った問診をして今日の診察を終える。
「代替わりした時はどーなるかと思ったけどねぇ、先生。あんたが居るうちは安心だよ」
帰り際、そんな風に笑われる度に心のどこか奥深い部分が少しだけ疼く。
患者の安心源は僕自身ではなく――また別の誰かの『灯』なんじゃないか、と――。
夜になると、僕は白いワイシャツから黒いワイシャツに着替えてもうひとつの診療所を開ける。
診療所とはいってもコチラは登録が医療機関ではなくカウンセリングルームの扱いだから、原則的に医療行為は行わない。
主に行っているのは来談者中心療法だ。
看板も広告も出していない、繁華街の雑居ビルの中に埋もれている小さな部屋がそう。
辛うじて、自分がそこに居る時間は両面仕様の小さな札を吊るしている。
片面には『相談対応可』、もう片面には『相談対応中』の文字。
昼の古い診療所とは違い、ココでは基本的に紙媒体での記録は行わない。
机の端に置いてある電気ケトルの湯気が、蛍光灯の光を柔らかく歪めている。
ここに来る患者の大抵は、本名も素顔も出さない。
だけど、それで良い。
昼はきちんと保険診療をしているけれど、夜は自由診療だから。
診療時間も明確には定めていない。
『これくらいの時間に行けば多分やっていると思う』
そんな曖昧な噂を頼りにしてくるのは、暗がりを生きる世界に居る人たちだ。
正規医療の枠を少しだけ外れた、そういう人たちの為に医者を名乗るのが僕の夜の顔。
昼は穏やかさをプラスする為に眼鏡のフレームは面が広く丸みのある鼈甲柄のセルフレームだけど、夜は細身の無機質なメタルフレームのものを掛けている。
暗がりで生きる人間というのは、不思議と多少冷ややかな外面の方が安心感を覚えるから……というのは、ただの持論だけれども。
この夜は深夜二時前に一人の女性が訪れた。
鼻腔の奥に絡むような甘ったるい香水と、苦い煙草の匂いが長い巻き髪に纏わり付いている。
僕と向かい合って座り、不安や焦燥を散らかす彼女の主訴は極度の不眠だった。
孤独。罪悪感。手放せない何か。
それらが複雑に絡み合って、彼女の睡眠という休息を奪っている様子だった。
「もうずっと碌に眠れてないの。でも、普通の病院は怖くって……」
唇を噛むようにして、彼女はそう呟いた。
「……ここ、煙草はダメ、よね?」
おずおずとした声に、僕は抽斗からアルミの灰皿を取り出して彼女の目の前に置くと静かに立ち上がった。
背を向けて簡易ラックから深めのカップを選び、ティーバッグの入った缶の蓋を開ける。
その音に重なるよう、カチッとライターの鳴き声。
電気ケトルの温度を確かめ、用意したカップにティーバッグを入れてお湯を注いだ。
煙草を揉み消す音を聞いてから、カップを片手にまた彼女と向き合う。
ゆっくりと広がる乳白色の香気の向こうで、彼女の指が微かに震えているのが見て取れた。
「どうぞ」
カップを差し出すと、彼女は両手で受け取りそっと鼻を近付けた。
「……これ、お茶?」
「ええ。僕も眠れない夜はそれを飲んでいます」
海外のものだけれど、ちゃんと市販で買えるものだから安心してと冗談めかすでもなく追述すれば、彼女はそっと褪せた色の唇をカップに付けた。
暫くの間、部屋が沈黙で満たされる。
外の街灯の光がブラインドの隙間から射し込んで、机の上に何本も斜めの線を描いている。
その光の中で、カップを持つ彼女の手が微かに揺れていた。
「効きそうですか?」
ゆっくりと問えば、彼女は伏せていた睫毛を僅かにだけ持ち上げた。
「……あたたかい、だけ」
「それで良いんですよ」
彼女のか細い声に僕は少しだけ目を細める。
あたたかさを感じることが出来るのは大事なことだ。
寒くて怖くて寂しい夜は――せめて心を温めることから始めれば良い。
心を立て直すということは、いつだってそんな小さな始まりからだ。
僕はまたラックに手を伸ばす。
底マチのある紙袋にティーバッグのセットと十錠シートの薬を一シート入れて、それを彼女に手渡す。
「薬はどうしても眠りたい時だけ。でもお茶は落ち着きたい時にいつ飲んでも大丈夫です。元々僕も親しい人から貰って気に入ったものなので」
そう云いながら、僕は一枚の名刺も彼女の華奢な手に握らせた。
「もしそのお茶が気に入ったらこの人に連絡すると良いですよ。対応してくれると思います」
横型の名刺には『佐伯零司』という名前とフリーのメールアドレスだけが記載されている。
次の予約は受けない。華やかに整えられた爪の合間から現金を受け取って彼女を帰した僕は、そのまま対応可否の札を回収する。
デスクに戻ると、置忘れのライターが目に留まった。
どこでも買えるような使い捨てライターのようだから、きっと愛着があるものではなかったのだろう。
それを拾い上げた指先に、ほんのりとした熱が移ってきた気がした。
ココに来る人たちは僕のことを孤高の医者だと思いがちなようだけれども、実際はそうじゃない。
僕はそんなに強い人間じゃない。
支えようとしてくれる人が居るから。
僕は誰かを助ける医者で在れるんだ――。
『九条(くじょう)燈(ともる)』それが僕の名前。
患者が忘れていったライターの火を点けて、すぐに消す。
灯は繋がりの証。
『燈』という『貰った』名前に恥じぬよう。
今日も僕はそれを絶やさないようにと生きている。
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