24.陽光 ~上司と部下の約束
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寝床を失った沖舂次は、斎藤に助けられた。斎藤からすれば、部下に手を差し伸べるのは、何も特別なことではない。必要な時に限るが、今宵はその時だ。
一晩の宿に案内される間、沖舂次は口を閉ざして、斎藤の踵を追うように俯いている。日が落ちて、沖舂次の視界はますます暗く、沈んで見えた。
「兄が気になるか」
「警部補……」
斎藤が立ち止まり、つと肩越しに沖舂次を見た。
「兄さん、一緒に暮らした家をあんな簡単に壊しちゃうなんて……兄さんは思い入れが無かったのかな、なんて思ったら、淋しくて……」
斎藤は、目端に沖舂次を入れて黙り込んだ。
難しいところだ。単に都合の良い攻撃の一手として破壊しただけか、もしくは、こんな長屋から早く出て、次の生き方を見つけろと言いたかったのかもしれない。
正直、巡査、それも密偵の給金ならもっと良い場所へ移れる。
思い出の地かもしれんが、縛られ捕われることを危惧したのではないか。あの男が妹の沖舂次に向ける目は、優しかった。
「警部補は、思い出の場所ってありますか」
「そんなものは無い。記憶にある地は多いが、お前が言う思い出の地とやらはまた別物だろう」
「警部補は、大人ですね……」
塞ぐ沖舂次を見ていると、青さを感じる。若いのだから当然か。
斎藤にも忘れられぬ、忘れてはならぬ記憶は幾つもある。人や場所、闘い、様々な記憶だ。それが思い出かと問われると、違う。
「兄が回収した手紙には何が書いてあった」
「普通の手紙です、『東京はそろそろ桜の季節ですね、こちらはすでに葉桜です』とか、『この辺りは蝉の声が違います』とか、季節の便りや私の心配とか」
「調べれば足取りが分かりそうだな。だから回収したのか」
もしくは、手紙を持ち出せば沖舂次が追いかけてくると狙ったか。
「お前の兄は、なかなかの策士かもしれんな」
「そうなんでしょうか、……警部補は」
沖舂次は、言いかけてやめてしまった。
「どうした」
「いえ、警部補のご家族のことを聞きそうになって……すみません、お聞きしようとしたものの、失礼ですよね。それに実感が湧かなくて」
目を逸らした沖舂次は視線を落とし、大きな背中に話しかけた。斎藤が遠い存在のように思える。
前は何も考えずに問えた。身の上についても、普段の生活についても、答えてはもらえなかったが、躊躇わず好きなだけ問えた。楽しい食事のひと時、家族のような親しみさえ感じたのに。
警部補は所帯、妻子を持って当たり前の年齢、立場にある。
気づいた途端、手が届かない存在だと知り、何も問えなくなっていた。
何も考えていなかった。自分は何て失礼なんだろう。……何が失礼なんだろう。
沖舂次は疑問を抱いた自らに問い掛けた。胸の奥がもやもやする。どうしてだか、気持ちが晴れない。
「本当にすみません、今まで、私……」
「何を謝る」
「別に、深い意味は……」
沖舂次は訳も分からず、謝っていた。
まただ、おかしな感覚が生じて、制御できない。何故。沖舂次は自らに問い掛け続けた。
警部補だ。警部補を見ていたら、謝りたくなった。胸の奥がもやもやするのも、警部補を見ているからだ。警部補が嫌いなわけじゃないのに、どうして。
沖舂次は更に視線を落とした。
俄かに、感情を揺さぶられた出来事は幾つもあった。
少しだけ、感じていた。胸の隠しに覚書を押し込まれた時、飛び散った釦を拾い上着を貸してくれたあの時、不甲斐ない自分を案じてくれた時、強引な試練を与えては距離を縮めてきた時、どれも、少しだけ、嬉しかった。
嬉しかったのは、相手が警部補だったからだ。
問い続け理由を求めた沖舂次は、己の情けなさに気づき、斎藤に対する胸の奥のもやもやの原因に辿り着いた。
違うと拒んでみても、胸の内に生じるものは風を受ける木々が見せる陰陽のように激しく、盛んに生まれる数多の感情は、兄に対するものとは異なり、他の同僚や先輩にも湧き起らない感情だ。
警部補には家が、家族が、御内儀が、きっとお子様も。
沖舂次は思い巡らせて、恥ずかしさを覚えた。
務めを果たす上司に甘えて、自分は胸を焦がしていたのか。
稽古を求めたのは強くなりたかったから、それから、一緒にいたかったからだ。
町中を駆け回り警部補を探すのは楽しかった。任務が果たせるからだけではない、警部補を探して会えるのが嬉しかったのだ。
横浜で張に迫られて悲しく腹が立ったのは、相手が警部補では無かったから、仕組んだのが警部補だったから、落ち込んだのだ。
「私……」
顔を隠してしまいたいのを堪え、沖舂次はその場で拳を握った。
様子がおかしい沖舂次を見て、斎藤は寄り道を告げた。僅かでも、沖舂次には一人の時間が要ると見て取れたのだ。
「風呂と飯に寄って帰るぞ」
「帰る?」
「俺の家だ。お前の家の状況を忘れたか。一晩の宿を貸してやると言っただろう」
「あっ、は、はい。でも、あの」
「嫌なら来んでいいぞ」
「いえっ、あの、お世話に……なります」
一瞬、沖舂次の頭は真っ白になった。だが、意を決して頭を下げた。
そうだ、ご家族に挨拶をして、覚悟を決めよう。丁度良かったのだ。これ以上深みに落ちる前に、気づいたのだから。
顔を上げた沖舂次が空笑いを見せ、斎藤は眉間に皺を刻んだ。
二人が辿り着いたのは、明治2年、混浴禁止が発令されて以降に開業した男女の脱衣所も湯舟も別れた湯屋。
湯あみをして身も心も綺麗にして来いと、斎藤は沖舂次を送り出した。自身も温かい湯に身を浸して気分を整える、束の間の安息だ。
斎藤の思惑通り、沖舂次は斎藤と離れた僅かな間に、凝縮した思考を繰り返し、やがてやめた。湯屋を出ると、沖舂次は何かが吹っ切れたように、表情を変えていた。
湯屋を出た二人が蕎麦を食べ終える頃には、町はすっかり夜の色に染まっていた。
真っ暗な夜空に微かな光を放つ星々と、細い月が照らす薄光。時折見かけるのは、夜営業の店に置かれた小さな提灯。夜の通りを、二人の警官は灯りも携えず歩いていく。
賑やかな通りを離れると、暫く落ち着いた町並みが続いた。静まり返った道を行き、斎藤が足を止めた家の前で、沖舂次はぽかんと口を開けた。
想像していたのは、自分が暮らす長屋が幾分か立派になった家だった。
目の前にある家は想像と全く異なる。塀の真ん中に門があり、薄光の中、その奥に見えるのは家屋の二階部分、窓には硝子さえ見えた。長屋とは明らかに異なる造りの家、部屋は四つか五つか、沖舂次からしてみれば豪邸だった。
「り……立派なお家ですね、実は警部補って……立派なお家柄なんですか」
「この家は褒賞だ」
「褒賞?」
驚いた沖舂次が門とその奥の家をしげしげ眺めるのと同じように、斎藤もまた我が家を眺めていた。
分不相応だと心得ている。だが、これだけの評価を下さった彼の御方の想いを否定はしないと、思い馳せていた。
「凄いです、確かに警部補は功績いっぱい残してますもんね、私も頑張ったらこんな家に住めるのかな」
憧れるように言う沖舂次の瞳が、どこか淋しそうに見えた斎藤は、またも眉間に皺を刻んだ。
「褒賞と言っても今の政府に貰ったんじゃあない。幕末の功績に対して然る御方から賜ったものだ。お前も今の仕事を続け結果を出していけば、それなりの家に住めるだろう」
「そっか……そうですよね、私、頑張ります!」
言い切る沖舂次の姿が、まるで強がっているように見える。
我が家を感慨深く眺めていた斎藤は、その姿に首を捻りたいのを堪え、門を開けた。玄関の扉を開き家に上がるが、沖舂次が後に続かない。
「何をしている」
「だって、御内儀様にご挨拶してからと」
家の中は静かだ。誰かが来る様子もない。
何かマズいことを言っただろうか。
目を泳がせた沖舂次が、斎藤を盗み見ると、斎藤の視線は暗い廊下の奥に向けられていた。
「案ずるな、家内らは実家に下がっている」
「えっ」
まさか、三行半。
そう思う間もなく、沖舂次は睨まれた。
「お前余計なコトを考えただろ。そんなんじゃあない。端から、そんなモノでは」
「え……」
いいから上がれと促され、沖舂次は斎藤のあとに続いた。
誰もいない部屋に、頭を下げてから入る。火を灯した斎藤から座れと言われ、腰を下ろした沖舂次は、部屋を見回して落ち着かない。誰かがいる痕跡はないか、探ってみるが男一人の所帯らしく、小ざっぱりとして物が少ない。とても落ち着いた部屋だった。
品が無いぞと視線で窘められた沖舂次は、部屋を見回すのをやめて、居住まいを正した。
「何か、事情がおありなんですね」
「事情も何も、ありはせん」
「でも……」
何かあるんでしょうと、しつこく問う沖舂次の視線を、斎藤は睨んで黙らせた。
「賜り物のこの家を傷めるわけにも売り飛ばすわけにもいかんからな、家の管理は信頼できる会津の者に頼んである。この町は会津者が多いからな。時折、掃除に入ってくれている。俺は殆ど家にいないからな、物も増えん」
「本当に……」
本当にお一人なんですね。言いかけた沖舂次だが、さすがに言葉を飲み込んだ。
挨拶すべき家族は不在、それも一時的ではなく、恒久なのか。沖舂次は、決めた覚悟のやり場に困り、同時に、無意識の安堵に包まれていた。
一方の斎藤は、長屋を出てからの沖舂次の態度に首を傾げていた。
やけに他人行儀だ。いつもの軽口は影を潜め、冗談半分に呼び始めた「斎藤」の名前も口にしない。
家に上がり緊張しているのか。上司とはいえ、男の家に上がることに抵抗があったか。いや、その逆も考えられる。ここで燻る想いに委ねるがまま、女の顔をされたらどうする。その時は冷静に諭してやれば良いか。素直に警察署へ戻るべきだったか。
あれこれ思いあぐねる斎藤だが、ひとまずと、使い込まれた木箱を持ち出した。
「刀の手入れをしておけ。道具だ」
「よろしいのですか、ありがとうございます」
刀を持つ者は、自ら手入れをする。通常の認識だが、斎藤は沖舂次が刀を手入れする様子を確かめた。
状態の確認、汚れを落とすさま、どのように持ってどのように扱うか、刀に真摯に向き合う様子を、斎藤は口を閉ざして眺めていた。
幸い、兄との戦闘による刀への傷は見受けられない。
沖舂次が刀を鞘に戻したところで、斎藤は口を開いた。刀の扱いは申し分なく、心の乱れも表れなかった。
「いい刀だな。兄の物より少々反りがあるか。それに気持ち、小振りだな」
「良く分かりますね、そうなんです。さすが警部補……。実は昔、兄の刀を欲しがったコトがあって、そうしたら兄がお前に合う刀は別にあると、用意してくれた刀なんです」
「成程、お前の兄はとっくにお前の特性に気付いていたんだな」
「えっ」
「自分より小柄な妹に合う、軽く柔らかく強い刀。突きを得意とする兄よりも、身軽さを活かす剣を見越して反りのある刀身」
「そこまで違うんですか」
「お前はその刀しか知らんのだな。自分に合う刀を覚えておけ」
「はい」
沖舂次は手入れを終えた刀を見ながら、斎藤の言葉を敬服して聞き入れていた。そこまで考えてくれていた兄、いつか再会したらお礼を伝えたい。
沖舂次はもう一度刀を抜くと、掲げて、改めて刀姿を眺めた。
確かに兄の刀とは違う。警部補の刀とも違う。少しだけ小振り。自分自身に刀が重なり、沖舂次は頬を緩めた。
ようやく気が緩んだかと肩の荷を下ろした気分で、斎藤も気を緩めた。
「私、脇差ですね」
「脇差?」
脇差というには、沖舂次の刀は長い。長脇差とも異なる。
訝しむ斎藤に向かって、沖舂次は「ふふっ」と笑った。刃をしまうと丁寧に床に置き、全体を眺めた。
「私のコトです。昔、正式な場では必ず二本差しだったんですよね、でしたら警部補は当然長い刀、私が脇差だなぁって」
「成程、長刀が折れても脇差があると」
新撰組の教えもそうだった、懐かしいもんだ、いい皮肉じゃないかと笑う斎藤に、沖舂次は真面目な顔を見せた。
「そういう意味じゃありません! 何て言うか、いつも一緒で、片方だけを差すこともあるけど、いざという時に揃ってないといけない、欠かせない存在って言うんですか」
「……」
嬉しそうに言う沖舂次に、斎藤は言葉を失った。
半分呆れて、半分は何とも言い難い気分だった。
「あれっ、私なんか変なこと言いましたね、すみません、忘れてください!」
「ククッ、面白いコトを言うな」
笑った斎藤が、煙草を取り出した。
予想外の反応を見て、沖舂次が目を瞬 いている。
「一本吸うぞ」
「あっ、はい」
何故だか煙草が欲しい気分だ。斎藤は気遣いつつも、煙草嫌いの沖舂次の前で紫煙を燻らせ始めた。
「悪いが、戸を開けてくれるか」
「はい」
部屋の障子を開け、その先にある外に続く硝子戸を開けた。雨戸は片付けられたのか、見当たらない。
庭と部屋が繋がると風が流れ込み、独特の匂いと煙が和らぐ。
沖舂次は不意にその香る煙が消えてしまう前にと吸い込み、味わっていた。
「本当に、嫌いじゃないかも……」
あんなに嫌だった煙草の煙。お医者さんが言っていた、体に良くない物だと。それでも心の奥が安らいで感じるのは、警部補の香りだからだろうか。
ふと庭を眺めると、物干し竿がある。よくある形だ。竿が二本掛けられる。それなのに、竿は一本しか掛かっていない。男一人、それで足りてしまうのだ。
「どうして、ご家族はご実家にいらっしゃるんですか、……淋しく、ありませんか」
庭を眺めて漏らした本音が斎藤の気に障ったらしく、沖舂次は背筋に悪寒を感じた。
時間をかけて怖々振り返ると、思った通り鋭い視線が突き刺さっていた。
「すみません、過ぎたことを聞きました」
だって、私なら淋しいです。
沖舂次は顔に感情を浮かべていた。
「フン」
斎藤は煙草の灰を灰皿に落とし、再び口に戻した。
深く煙草を吸い、味わっているのが分かる。
「妻と子か。家内には家内の覚悟があるらしい。婚姻を結ぶ時から、あったようだ。全ては、会津に尽くした俺の為なんだろう」
沖舂次は首を傾げた。
戦果を挙げた、会津に尽くした男に何も与えぬ訳にはいかない。
贈られたのは家と妻。戦国時代でもあるまいに。思った斎藤だが、受け入れるしかなかった。会津には恩義がある。妻となった女性にもその父にも、仲人を引き受けた男にも恩義があった。不満は無かった。全てが穏便にいくのだから。
子を三人授かり、親戚と交わした約束の養子も出し、役目を果たしたと言わんばかりに、家内は俺の内情を察して実家に下がった。あっさりと、自らの全てを引き払って、出て行った。
出来すぎた女だ。申し訳なさすら感じる。
「己が正義に生きる男には、要らぬもの」
「え……」
斎藤が漏らした言葉を、沖舂次は確かに聞いていた。
聞いたうえで、理解できずに聞き返していた。
「互いに果たすべき責を果たした。それだけだ。俺はこれからも果たし続ける。刀を置くつもりはない」
「警部補……」
望んで求めた男一人の暮らしか、妻と夫それぞれの役目を果たし、元に戻っただけの一人暮らしなのか。
斎藤は独りでいることを望み、貫いていた。
それはこれからも、続くのだろうか。もう誰も、隣には立てないのだろうか。
沖舂次は斎藤から顔を背けたくなり、闇が落ちる庭を見つめた。
夜風を身に受けて風になびく綺麗な髪を見た斎藤が、密かに笑った。
かつての友にそっくりで、そのクセ似ても似つかぬ女の姿が、可笑しかったのだ。
「警部補は私の上司で、あくまでも私はその部下で」
自らに言い聞かせるよう言葉を紡ぐと、声もなく笑んでいた斎藤が続けた。
「その通りだ。部下と上司、その関係を崩す気はない」
「当たり前です。って、その関係……って」
その関係って、私の考えすぎでしょうか、そんな考えが、警部補にもあったんですか。
驚いて振り返った沖舂次は、斎藤は変わらず煙草を楽しむ姿を見た。心から楽しそうに、煙草を味わっている。身の上を語る時に漂っていた影は、消えていた。
「何だ」
「なんでもありませんっ、なんでも」
部屋で落ち着く斎藤が、細い息で紫煙を躍らせた。
灰が伸びると器用に弾いて、それを落とす。
慣れた美しい指の動きに、沖舂次は見惚れていた。
斎藤は気にせず煙草を楽しみ、灰はまたも伸びていく。
「私、警部補に憧れるくらいは、許してくれますか」
「んっ?」
「いえ、やっぱりいいです、なんでも……。私、警部補の、斎藤さんの隣に並べるくらい強くなりたいです!」
「あぁ。期待しているぞ」
灰皿を見て目を伏せた斎藤が、灰を弾きながら言った。
灰を弾いたものの、煙草は短すぎた。もう終いだ。吸い終えた煙草を圧し潰すと、新しい一本を取り出した。
「え……」
「期待ぐらいするだろう、阿呆」
「は、はいっ!」
顔を上げて煙草を咥え直した斎藤と目が合った時、沖舂次は掛けられた言葉に対する嬉しさと驚きのあまり、その場で敬礼をしていた。
目を泳がせて、ほんのり頬を色づかせた、頼りない敬礼姿だ。
「何を突然、畏まっている」
「か、畏まりもしますよ、鬼の警部補ですよ、噂はご存じでしょう」
敬礼を崩した沖舂次は、何故か目尻に涙を溜めていた。
「何の噂だよ。それより欠伸でもしたか、眠いならさっさと寝ろ」
「そうですね、今日は早く寝ちゃいたいです。警部補と二人きりはこれ以上とても耐えられそうにありませんから」
沖舂次が悪戯に軽口を叩くと、斎藤は嬉しそうに姿勢を崩した。
「阿呆が」
「独りで動く任務もあるんでしょうけど、私、しつこくついて行きますからね、斎藤さん! 覚悟してください、淋しさ感じてる暇なんてありませんよ」
斎藤のもとに戻り、膝をついて迫る沖舂次は、酒にでも酔ったような勢いだ。
強気な目をして、上司を睨むように見つめている。その目がやけに輝かしくて、斎藤はフッと笑った。
「お前、湯屋で酒でも貰ったか、大丈夫か」
「正気です! ずっとついて行きますし、ちょっとだけ憧れて斎藤さんの背中を追いかけます!」
「それで、追いついてくれるんだろうな」
「……え」
「いつまでも部下のままでいてくれるなよ。同僚として仲間として、並べる所まで来い。いいな」
待っているからなと言われた気がした沖舂次は、目を丸くした。
斎藤の手が不意に沖舂次の肩を叩き、我に返る。
沖舂次は力強く頷いた。
いつまでも独りで全てを負うなんて許しません。そんな優しく頼もしい微笑みに、斎藤も思わず顔が緩む。
「その代わり覚悟してくださいね、私、一度隣に立ったら誰にも譲りませんから」
「ククッ、そいつは楽しみだな。待っているさ。その時は、何かが変わるかもしれんからな」
俺に惚れるなら、俺を認めさせてからにしろ。
挑戦的な笑みを見せられた沖舂次は、躊躇わず笑み返していた。
いつか必ず、その時は、立場が逆転しても知りませんよと、沖舂次が遠慮なしに見せた笑顔に、斎藤は目尻を細めた。
仲間を失い時代が変わり、生き残った己は正義を貫き続けるだけで十分だった。
もう二度と、自分に光は差さないものだと、時代の影から牙を剝いて生きるだけだと考えていた。
そんな斎藤に再び、沖舂次という陽光が差した瞬間だった。
沖田総司に似た密偵の部下・完
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一晩の宿に案内される間、沖舂次は口を閉ざして、斎藤の踵を追うように俯いている。日が落ちて、沖舂次の視界はますます暗く、沈んで見えた。
「兄が気になるか」
「警部補……」
斎藤が立ち止まり、つと肩越しに沖舂次を見た。
「兄さん、一緒に暮らした家をあんな簡単に壊しちゃうなんて……兄さんは思い入れが無かったのかな、なんて思ったら、淋しくて……」
斎藤は、目端に沖舂次を入れて黙り込んだ。
難しいところだ。単に都合の良い攻撃の一手として破壊しただけか、もしくは、こんな長屋から早く出て、次の生き方を見つけろと言いたかったのかもしれない。
正直、巡査、それも密偵の給金ならもっと良い場所へ移れる。
思い出の地かもしれんが、縛られ捕われることを危惧したのではないか。あの男が妹の沖舂次に向ける目は、優しかった。
「警部補は、思い出の場所ってありますか」
「そんなものは無い。記憶にある地は多いが、お前が言う思い出の地とやらはまた別物だろう」
「警部補は、大人ですね……」
塞ぐ沖舂次を見ていると、青さを感じる。若いのだから当然か。
斎藤にも忘れられぬ、忘れてはならぬ記憶は幾つもある。人や場所、闘い、様々な記憶だ。それが思い出かと問われると、違う。
「兄が回収した手紙には何が書いてあった」
「普通の手紙です、『東京はそろそろ桜の季節ですね、こちらはすでに葉桜です』とか、『この辺りは蝉の声が違います』とか、季節の便りや私の心配とか」
「調べれば足取りが分かりそうだな。だから回収したのか」
もしくは、手紙を持ち出せば沖舂次が追いかけてくると狙ったか。
「お前の兄は、なかなかの策士かもしれんな」
「そうなんでしょうか、……警部補は」
沖舂次は、言いかけてやめてしまった。
「どうした」
「いえ、警部補のご家族のことを聞きそうになって……すみません、お聞きしようとしたものの、失礼ですよね。それに実感が湧かなくて」
目を逸らした沖舂次は視線を落とし、大きな背中に話しかけた。斎藤が遠い存在のように思える。
前は何も考えずに問えた。身の上についても、普段の生活についても、答えてはもらえなかったが、躊躇わず好きなだけ問えた。楽しい食事のひと時、家族のような親しみさえ感じたのに。
警部補は所帯、妻子を持って当たり前の年齢、立場にある。
気づいた途端、手が届かない存在だと知り、何も問えなくなっていた。
何も考えていなかった。自分は何て失礼なんだろう。……何が失礼なんだろう。
沖舂次は疑問を抱いた自らに問い掛けた。胸の奥がもやもやする。どうしてだか、気持ちが晴れない。
「本当にすみません、今まで、私……」
「何を謝る」
「別に、深い意味は……」
沖舂次は訳も分からず、謝っていた。
まただ、おかしな感覚が生じて、制御できない。何故。沖舂次は自らに問い掛け続けた。
警部補だ。警部補を見ていたら、謝りたくなった。胸の奥がもやもやするのも、警部補を見ているからだ。警部補が嫌いなわけじゃないのに、どうして。
沖舂次は更に視線を落とした。
俄かに、感情を揺さぶられた出来事は幾つもあった。
少しだけ、感じていた。胸の隠しに覚書を押し込まれた時、飛び散った釦を拾い上着を貸してくれたあの時、不甲斐ない自分を案じてくれた時、強引な試練を与えては距離を縮めてきた時、どれも、少しだけ、嬉しかった。
嬉しかったのは、相手が警部補だったからだ。
問い続け理由を求めた沖舂次は、己の情けなさに気づき、斎藤に対する胸の奥のもやもやの原因に辿り着いた。
違うと拒んでみても、胸の内に生じるものは風を受ける木々が見せる陰陽のように激しく、盛んに生まれる数多の感情は、兄に対するものとは異なり、他の同僚や先輩にも湧き起らない感情だ。
警部補には家が、家族が、御内儀が、きっとお子様も。
沖舂次は思い巡らせて、恥ずかしさを覚えた。
務めを果たす上司に甘えて、自分は胸を焦がしていたのか。
稽古を求めたのは強くなりたかったから、それから、一緒にいたかったからだ。
町中を駆け回り警部補を探すのは楽しかった。任務が果たせるからだけではない、警部補を探して会えるのが嬉しかったのだ。
横浜で張に迫られて悲しく腹が立ったのは、相手が警部補では無かったから、仕組んだのが警部補だったから、落ち込んだのだ。
「私……」
顔を隠してしまいたいのを堪え、沖舂次はその場で拳を握った。
様子がおかしい沖舂次を見て、斎藤は寄り道を告げた。僅かでも、沖舂次には一人の時間が要ると見て取れたのだ。
「風呂と飯に寄って帰るぞ」
「帰る?」
「俺の家だ。お前の家の状況を忘れたか。一晩の宿を貸してやると言っただろう」
「あっ、は、はい。でも、あの」
「嫌なら来んでいいぞ」
「いえっ、あの、お世話に……なります」
一瞬、沖舂次の頭は真っ白になった。だが、意を決して頭を下げた。
そうだ、ご家族に挨拶をして、覚悟を決めよう。丁度良かったのだ。これ以上深みに落ちる前に、気づいたのだから。
顔を上げた沖舂次が空笑いを見せ、斎藤は眉間に皺を刻んだ。
二人が辿り着いたのは、明治2年、混浴禁止が発令されて以降に開業した男女の脱衣所も湯舟も別れた湯屋。
湯あみをして身も心も綺麗にして来いと、斎藤は沖舂次を送り出した。自身も温かい湯に身を浸して気分を整える、束の間の安息だ。
斎藤の思惑通り、沖舂次は斎藤と離れた僅かな間に、凝縮した思考を繰り返し、やがてやめた。湯屋を出ると、沖舂次は何かが吹っ切れたように、表情を変えていた。
湯屋を出た二人が蕎麦を食べ終える頃には、町はすっかり夜の色に染まっていた。
真っ暗な夜空に微かな光を放つ星々と、細い月が照らす薄光。時折見かけるのは、夜営業の店に置かれた小さな提灯。夜の通りを、二人の警官は灯りも携えず歩いていく。
賑やかな通りを離れると、暫く落ち着いた町並みが続いた。静まり返った道を行き、斎藤が足を止めた家の前で、沖舂次はぽかんと口を開けた。
想像していたのは、自分が暮らす長屋が幾分か立派になった家だった。
目の前にある家は想像と全く異なる。塀の真ん中に門があり、薄光の中、その奥に見えるのは家屋の二階部分、窓には硝子さえ見えた。長屋とは明らかに異なる造りの家、部屋は四つか五つか、沖舂次からしてみれば豪邸だった。
「り……立派なお家ですね、実は警部補って……立派なお家柄なんですか」
「この家は褒賞だ」
「褒賞?」
驚いた沖舂次が門とその奥の家をしげしげ眺めるのと同じように、斎藤もまた我が家を眺めていた。
分不相応だと心得ている。だが、これだけの評価を下さった彼の御方の想いを否定はしないと、思い馳せていた。
「凄いです、確かに警部補は功績いっぱい残してますもんね、私も頑張ったらこんな家に住めるのかな」
憧れるように言う沖舂次の瞳が、どこか淋しそうに見えた斎藤は、またも眉間に皺を刻んだ。
「褒賞と言っても今の政府に貰ったんじゃあない。幕末の功績に対して然る御方から賜ったものだ。お前も今の仕事を続け結果を出していけば、それなりの家に住めるだろう」
「そっか……そうですよね、私、頑張ります!」
言い切る沖舂次の姿が、まるで強がっているように見える。
我が家を感慨深く眺めていた斎藤は、その姿に首を捻りたいのを堪え、門を開けた。玄関の扉を開き家に上がるが、沖舂次が後に続かない。
「何をしている」
「だって、御内儀様にご挨拶してからと」
家の中は静かだ。誰かが来る様子もない。
何かマズいことを言っただろうか。
目を泳がせた沖舂次が、斎藤を盗み見ると、斎藤の視線は暗い廊下の奥に向けられていた。
「案ずるな、家内らは実家に下がっている」
「えっ」
まさか、三行半。
そう思う間もなく、沖舂次は睨まれた。
「お前余計なコトを考えただろ。そんなんじゃあない。端から、そんなモノでは」
「え……」
いいから上がれと促され、沖舂次は斎藤のあとに続いた。
誰もいない部屋に、頭を下げてから入る。火を灯した斎藤から座れと言われ、腰を下ろした沖舂次は、部屋を見回して落ち着かない。誰かがいる痕跡はないか、探ってみるが男一人の所帯らしく、小ざっぱりとして物が少ない。とても落ち着いた部屋だった。
品が無いぞと視線で窘められた沖舂次は、部屋を見回すのをやめて、居住まいを正した。
「何か、事情がおありなんですね」
「事情も何も、ありはせん」
「でも……」
何かあるんでしょうと、しつこく問う沖舂次の視線を、斎藤は睨んで黙らせた。
「賜り物のこの家を傷めるわけにも売り飛ばすわけにもいかんからな、家の管理は信頼できる会津の者に頼んである。この町は会津者が多いからな。時折、掃除に入ってくれている。俺は殆ど家にいないからな、物も増えん」
「本当に……」
本当にお一人なんですね。言いかけた沖舂次だが、さすがに言葉を飲み込んだ。
挨拶すべき家族は不在、それも一時的ではなく、恒久なのか。沖舂次は、決めた覚悟のやり場に困り、同時に、無意識の安堵に包まれていた。
一方の斎藤は、長屋を出てからの沖舂次の態度に首を傾げていた。
やけに他人行儀だ。いつもの軽口は影を潜め、冗談半分に呼び始めた「斎藤」の名前も口にしない。
家に上がり緊張しているのか。上司とはいえ、男の家に上がることに抵抗があったか。いや、その逆も考えられる。ここで燻る想いに委ねるがまま、女の顔をされたらどうする。その時は冷静に諭してやれば良いか。素直に警察署へ戻るべきだったか。
あれこれ思いあぐねる斎藤だが、ひとまずと、使い込まれた木箱を持ち出した。
「刀の手入れをしておけ。道具だ」
「よろしいのですか、ありがとうございます」
刀を持つ者は、自ら手入れをする。通常の認識だが、斎藤は沖舂次が刀を手入れする様子を確かめた。
状態の確認、汚れを落とすさま、どのように持ってどのように扱うか、刀に真摯に向き合う様子を、斎藤は口を閉ざして眺めていた。
幸い、兄との戦闘による刀への傷は見受けられない。
沖舂次が刀を鞘に戻したところで、斎藤は口を開いた。刀の扱いは申し分なく、心の乱れも表れなかった。
「いい刀だな。兄の物より少々反りがあるか。それに気持ち、小振りだな」
「良く分かりますね、そうなんです。さすが警部補……。実は昔、兄の刀を欲しがったコトがあって、そうしたら兄がお前に合う刀は別にあると、用意してくれた刀なんです」
「成程、お前の兄はとっくにお前の特性に気付いていたんだな」
「えっ」
「自分より小柄な妹に合う、軽く柔らかく強い刀。突きを得意とする兄よりも、身軽さを活かす剣を見越して反りのある刀身」
「そこまで違うんですか」
「お前はその刀しか知らんのだな。自分に合う刀を覚えておけ」
「はい」
沖舂次は手入れを終えた刀を見ながら、斎藤の言葉を敬服して聞き入れていた。そこまで考えてくれていた兄、いつか再会したらお礼を伝えたい。
沖舂次はもう一度刀を抜くと、掲げて、改めて刀姿を眺めた。
確かに兄の刀とは違う。警部補の刀とも違う。少しだけ小振り。自分自身に刀が重なり、沖舂次は頬を緩めた。
ようやく気が緩んだかと肩の荷を下ろした気分で、斎藤も気を緩めた。
「私、脇差ですね」
「脇差?」
脇差というには、沖舂次の刀は長い。長脇差とも異なる。
訝しむ斎藤に向かって、沖舂次は「ふふっ」と笑った。刃をしまうと丁寧に床に置き、全体を眺めた。
「私のコトです。昔、正式な場では必ず二本差しだったんですよね、でしたら警部補は当然長い刀、私が脇差だなぁって」
「成程、長刀が折れても脇差があると」
新撰組の教えもそうだった、懐かしいもんだ、いい皮肉じゃないかと笑う斎藤に、沖舂次は真面目な顔を見せた。
「そういう意味じゃありません! 何て言うか、いつも一緒で、片方だけを差すこともあるけど、いざという時に揃ってないといけない、欠かせない存在って言うんですか」
「……」
嬉しそうに言う沖舂次に、斎藤は言葉を失った。
半分呆れて、半分は何とも言い難い気分だった。
「あれっ、私なんか変なこと言いましたね、すみません、忘れてください!」
「ククッ、面白いコトを言うな」
笑った斎藤が、煙草を取り出した。
予想外の反応を見て、沖舂次が目を
「一本吸うぞ」
「あっ、はい」
何故だか煙草が欲しい気分だ。斎藤は気遣いつつも、煙草嫌いの沖舂次の前で紫煙を燻らせ始めた。
「悪いが、戸を開けてくれるか」
「はい」
部屋の障子を開け、その先にある外に続く硝子戸を開けた。雨戸は片付けられたのか、見当たらない。
庭と部屋が繋がると風が流れ込み、独特の匂いと煙が和らぐ。
沖舂次は不意にその香る煙が消えてしまう前にと吸い込み、味わっていた。
「本当に、嫌いじゃないかも……」
あんなに嫌だった煙草の煙。お医者さんが言っていた、体に良くない物だと。それでも心の奥が安らいで感じるのは、警部補の香りだからだろうか。
ふと庭を眺めると、物干し竿がある。よくある形だ。竿が二本掛けられる。それなのに、竿は一本しか掛かっていない。男一人、それで足りてしまうのだ。
「どうして、ご家族はご実家にいらっしゃるんですか、……淋しく、ありませんか」
庭を眺めて漏らした本音が斎藤の気に障ったらしく、沖舂次は背筋に悪寒を感じた。
時間をかけて怖々振り返ると、思った通り鋭い視線が突き刺さっていた。
「すみません、過ぎたことを聞きました」
だって、私なら淋しいです。
沖舂次は顔に感情を浮かべていた。
「フン」
斎藤は煙草の灰を灰皿に落とし、再び口に戻した。
深く煙草を吸い、味わっているのが分かる。
「妻と子か。家内には家内の覚悟があるらしい。婚姻を結ぶ時から、あったようだ。全ては、会津に尽くした俺の為なんだろう」
沖舂次は首を傾げた。
戦果を挙げた、会津に尽くした男に何も与えぬ訳にはいかない。
贈られたのは家と妻。戦国時代でもあるまいに。思った斎藤だが、受け入れるしかなかった。会津には恩義がある。妻となった女性にもその父にも、仲人を引き受けた男にも恩義があった。不満は無かった。全てが穏便にいくのだから。
子を三人授かり、親戚と交わした約束の養子も出し、役目を果たしたと言わんばかりに、家内は俺の内情を察して実家に下がった。あっさりと、自らの全てを引き払って、出て行った。
出来すぎた女だ。申し訳なさすら感じる。
「己が正義に生きる男には、要らぬもの」
「え……」
斎藤が漏らした言葉を、沖舂次は確かに聞いていた。
聞いたうえで、理解できずに聞き返していた。
「互いに果たすべき責を果たした。それだけだ。俺はこれからも果たし続ける。刀を置くつもりはない」
「警部補……」
望んで求めた男一人の暮らしか、妻と夫それぞれの役目を果たし、元に戻っただけの一人暮らしなのか。
斎藤は独りでいることを望み、貫いていた。
それはこれからも、続くのだろうか。もう誰も、隣には立てないのだろうか。
沖舂次は斎藤から顔を背けたくなり、闇が落ちる庭を見つめた。
夜風を身に受けて風になびく綺麗な髪を見た斎藤が、密かに笑った。
かつての友にそっくりで、そのクセ似ても似つかぬ女の姿が、可笑しかったのだ。
「警部補は私の上司で、あくまでも私はその部下で」
自らに言い聞かせるよう言葉を紡ぐと、声もなく笑んでいた斎藤が続けた。
「その通りだ。部下と上司、その関係を崩す気はない」
「当たり前です。って、その関係……って」
その関係って、私の考えすぎでしょうか、そんな考えが、警部補にもあったんですか。
驚いて振り返った沖舂次は、斎藤は変わらず煙草を楽しむ姿を見た。心から楽しそうに、煙草を味わっている。身の上を語る時に漂っていた影は、消えていた。
「何だ」
「なんでもありませんっ、なんでも」
部屋で落ち着く斎藤が、細い息で紫煙を躍らせた。
灰が伸びると器用に弾いて、それを落とす。
慣れた美しい指の動きに、沖舂次は見惚れていた。
斎藤は気にせず煙草を楽しみ、灰はまたも伸びていく。
「私、警部補に憧れるくらいは、許してくれますか」
「んっ?」
「いえ、やっぱりいいです、なんでも……。私、警部補の、斎藤さんの隣に並べるくらい強くなりたいです!」
「あぁ。期待しているぞ」
灰皿を見て目を伏せた斎藤が、灰を弾きながら言った。
灰を弾いたものの、煙草は短すぎた。もう終いだ。吸い終えた煙草を圧し潰すと、新しい一本を取り出した。
「え……」
「期待ぐらいするだろう、阿呆」
「は、はいっ!」
顔を上げて煙草を咥え直した斎藤と目が合った時、沖舂次は掛けられた言葉に対する嬉しさと驚きのあまり、その場で敬礼をしていた。
目を泳がせて、ほんのり頬を色づかせた、頼りない敬礼姿だ。
「何を突然、畏まっている」
「か、畏まりもしますよ、鬼の警部補ですよ、噂はご存じでしょう」
敬礼を崩した沖舂次は、何故か目尻に涙を溜めていた。
「何の噂だよ。それより欠伸でもしたか、眠いならさっさと寝ろ」
「そうですね、今日は早く寝ちゃいたいです。警部補と二人きりはこれ以上とても耐えられそうにありませんから」
沖舂次が悪戯に軽口を叩くと、斎藤は嬉しそうに姿勢を崩した。
「阿呆が」
「独りで動く任務もあるんでしょうけど、私、しつこくついて行きますからね、斎藤さん! 覚悟してください、淋しさ感じてる暇なんてありませんよ」
斎藤のもとに戻り、膝をついて迫る沖舂次は、酒にでも酔ったような勢いだ。
強気な目をして、上司を睨むように見つめている。その目がやけに輝かしくて、斎藤はフッと笑った。
「お前、湯屋で酒でも貰ったか、大丈夫か」
「正気です! ずっとついて行きますし、ちょっとだけ憧れて斎藤さんの背中を追いかけます!」
「それで、追いついてくれるんだろうな」
「……え」
「いつまでも部下のままでいてくれるなよ。同僚として仲間として、並べる所まで来い。いいな」
待っているからなと言われた気がした沖舂次は、目を丸くした。
斎藤の手が不意に沖舂次の肩を叩き、我に返る。
沖舂次は力強く頷いた。
いつまでも独りで全てを負うなんて許しません。そんな優しく頼もしい微笑みに、斎藤も思わず顔が緩む。
「その代わり覚悟してくださいね、私、一度隣に立ったら誰にも譲りませんから」
「ククッ、そいつは楽しみだな。待っているさ。その時は、何かが変わるかもしれんからな」
俺に惚れるなら、俺を認めさせてからにしろ。
挑戦的な笑みを見せられた沖舂次は、躊躇わず笑み返していた。
いつか必ず、その時は、立場が逆転しても知りませんよと、沖舂次が遠慮なしに見せた笑顔に、斎藤は目尻を細めた。
仲間を失い時代が変わり、生き残った己は正義を貫き続けるだけで十分だった。
もう二度と、自分に光は差さないものだと、時代の影から牙を剝いて生きるだけだと考えていた。
そんな斎藤に再び、沖舂次という陽光が差した瞬間だった。
沖田総司に似た密偵の部下・完
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