23.斜陽の一刃 ~別れの腕試し
夢主名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夕方、駆け込むように長屋に戻った沖舂次は、真っ先に部屋の奥の行李を開いた。お気に入りの袷仕立ての小さな布包みを取るためだ。兄からの手紙を纏めて包んでいる。
明日一番、警部補に見てもわらねばならない手紙だ。
手を伸ばした行李の中、一番上に置かれた袷の布は、やけに姿を崩していた。
「嘘、中身が、手紙が、ない……」
沖舂次は慌てて行李の中を探った。
外はまだ明るいが、部屋の中は既に薄暗い。明かりもつけず行李を漁り、見つからない焦りから、荷物をひっくり返し始めた。
兄からの大切な手紙を紛失。まさか、置いてあるだけの物を失くすだろうか。
物取り。物取りなら袷の布を持ち去るだろう。
手紙の存在を知り、持ち去る人物など、限られている。
行李を探る沖舂次の指先が、焦燥と困惑で震えだした。
「これを探しているのかな、舂次」
声がして、沖舂次は振り返った。
狭い長屋の一室、懐から手紙を覗かせて、兄が立っていた。土間で壁にもたれる様子は、まるで待ち伏せでもしていたように見える。
驚きのあまり、沖舂次は掠れた声で「兄さん」と漏らした。
「いけないよ舂次、手紙っていうのはね、他人に見せるものではないんだよ」
大人びた物言いで沖舂次を窘める兄は、生き写しのように、双子と見紛うほど似た顔立ちをしている。
違いといえば、沖舂次より上背があり、男ならではの筋肉を纏う体の線だろう。それも並んで比べねば分からぬ違いだ。
「返してください兄さん、その手紙は……」
貴方がくれた物。
兄は、手紙を確かめるように触れると、懐の奥に押し込んでしまった。
「僕が舂次に送った手紙は、僕の物か、舂次の物か。迷うところだね」
どうして手紙が必要なんだい。瞳で問われた沖舂次は、言葉を失って拳を握った。
下手人殺しの犯人を特定する、手掛かりになるかもしれないから必要なのだ。
兄の無実を晴らせるかもしれない。でも、きっと。
沖舂次は顔を上げた。
手紙を調べたら何かが分かるのだろう。だから兄は回収した。
調べれば疑念が真実に変わってしまう。
それでも、真実を突き止めなければ。
兄を睨む顔は、一人前の警官だった。
「いい眼だ。舂次もすっかり巡査だね。安心したよ、一人でしっかり生きていける」
もう手紙を送り、身を案じる必要もなさそうだ。
少しだけ淋しそうに微笑んだ兄は、舂次から目を逸らして、ちらりと瞳を動かした。
「一人前の舂次に、ひとつだけ忠告したいんだけど、聞いてくれるかな」
「えっ」
兄につられて、沖舂次は部屋の入り口を見た。
ただの空間だ。日が傾き、夕暮れ特有の日差しが路地を照らしている。
「舂次の上司、あの藤田五郎警部補? 近づいちゃ駄目だよ、勿論仕事の上では仕方がないだろうけど、こんな年若い娘を揶揄う中年なんて趣味が悪い。そうですよね、覗きも立ち聞きも悪趣味だ」
兄が大声で外に訴えかけると、斎藤がゆっくりと姿を現した。
部屋の中で兄が隣室との壁にもたれていたが、斎藤もまた外で長屋の壁にもたれて話を聞いていた。
「警部補!」
「フッ、まさかと思ったが、本当に沖舂次の兄が下手人殺しらしい」
「下手人殺しか、嫌な響きだね」
ふふっと笑う姿が、沖田総司に似ていた。
笑った後の瞳の冷たさだけが、似ていない。
沖舂次の兄に合わせてニヤリと笑い返した斎藤だが、その冷たさを見て笑いが消えた。
「予感がしたんでな、沖舂次を追ってきて正解だったな。覗き立ち聞きはお互い様だろう、お前もそうやって情報を仕入れたんじゃあないのか」
「まぁ、いろいろですよ」
腕を組んで、沖舂次の兄は再び笑った。にこりと優しく見える微笑みだ。
斎藤は、初めて会う男には思えなかった。顔を傾げて流れる髪の動きまでもが、彼の男に似ている。しかしその奥の瞳だけは、見覚えのない光を湛えていた。
「話は聞いていましたよね、申し訳ないのですが警部補、可愛い妹を誑かさないでください」
「言われずとも」
二人の会話を、沖舂次は複雑な面持ちで聞いていた。
兄はどこまで知っているのだろうか。
そっと兄を見ると、目が合い、妙な気恥しさを感じてしまった。
兄は、警部補や先輩とのやりとりを何処まで知っているのだろう。
誑かすは言いすぎだが、過ぎたアレコレは確かにあった。でも、どれも心底嫌だったわけではない。
沖舂次が、今度は斎藤を視界に入れた。
斎藤は兄だけを視界に入れ続けている。兄もまた、すぐに視線を戻した。
「今回は横取りになってしまい、申し訳ありません、警部補。どうしても許せなかったんです、子殺しの悪党が」
「子殺し?」
「おや、知らなかったんですか。人買い時代、過ぎた暴力で幼い子を殺めていた男、上納金を納めず逃げた子を川に追い詰めて殺めた男。それに、貴方がちゃんと妹を導けるか気になったんです。でも良かった、ちゃんと僕に辿り着けるだけの能力があったようで」
にこり。改めて大きく笑んだ兄は、
「最後に」
そう言うと、背後に隠し持っていた剣を抜いた。
言葉を切って、一直線に斎藤に斬りかかった。
「兄さん!」
青ざめた沖舂次が叫んだ時、兄は笑っていた。
兄の俊速の刃は、斎藤の刀が受け止めていた。
二人の足元の地面が、踏ん張りに耐えかねて徐々に抉れていく。刃を押しあう二人を、西日が差していた。
「へぇ、受け止めるなんてやりますね」
「来ることは分かった。分かりやすい剣だ」
沖田総司に似た剣だから、余計に手に取るように分かる。
言ってやりたい斎藤だが、その言葉は飲み込んだ。
「でも地の利は僕にあります。ここは住み慣れた我が家ですから」
沖舂次の兄が地面を蹴り、何、と斎藤が見上げた時には長屋の屋根まで飛び上がり、傷んだ屋根板を蹴り崩していた。
大小様々な木屑が斎藤の頭上から降り注ぐ。
堪らず飛び退いた斎藤の足元を、刃が狙っていた。
「警部補!」
その刃を防いだのは、兄のやり口を知り尽くした沖舂次だった。
驚いた兄が今度は路地の上を大きく飛び退いた。残照の中、抜身の刃が鋭く光を反射する。沖舂次は眩しさに目を細めた。
「やるじゃないか舂次、いい反応をするようになったね」
「警部補に鍛えていただきました!」
沖舂次も路地に出ると、崩れてしまった我が家の入り口を振り返った。
思い出が詰まった大切な場所だから、離れたくなくて長屋暮らしを続けた。こんなに簡単に壊してしまうなんて、兄は、この家に思い入れはないのだろうか。
哀しみが込み上げて、沖舂次の声が俄かに潤んだ。
「昔より、強くなっています。だから、お願いです、やめてください兄さん」
「僕は舂次の上司の腕を見たかっただけなんだ。しっかり舂次を守れるのか見極めたくて」
「私は守られません。兄さん、私は警官で、密偵なんです。自分の身は自分で守ります!」
「へぇ、本当に大人になったね、舂次。じゃあ……次はお前の腕を見てみようかな」
「えっ」
兄から殺気を感じ取り、沖舂次の体が強張った。
刀を握る手に余分な力が加わるのを、自覚した。
「警部補は確かにいい腕です。舂次が間に入らなければ、あの後、僕が突かれていた。でしょう、警部補」
「あぁ。よく見えているじゃないか」
「ふふっ、目はいいんです。勘もいいんですよ。舂次は、どうかな」
殺気は感じる。だが、殺す気はない。悟った斎藤は、大人しく兄妹の行く末を見守っている。
何より、捕らえる気が失せていた。
沖舂次の腕が如何ほどまで上がったか、見極めるいい機会でもあった。
斎藤の落ち着いた視線に気づき、冷静さを取り戻した沖舂次は、刀を握り直した。
「確かに私は兄さんの剣裁きよりも遅いです、でもっ」
兄が三段突きを見せた刹那、沖舂次は踏み込んで、飛び込んでいった。
身軽さを活かして、飛び込みながら交わしたのだ。
「三度突けなくても、私はっ!」
「三度、踏み込む、か。やるね、舂次」
前進することに注力した兄の横を取った沖舂次が、兄の二の腕に刀の峰を置いていた。
三度同時の突きを、三度踏み込んで躱しつつ、兄の横を取ったのだ。
傍から見る斎藤には一瞬の、長い跳躍に感じられた。
思わず「ほぅ」と声が漏れる、しなやかな体の転回を見た。
兄と妹、見目は似ていても体は違う。沖舂次は筋力で兄に劣るが、柔軟性で勝る。
得意な疾さが異なるだけで、沖舂次もまた疾さを備えている。兄と向き合い、気づいた疾さだった。
沖舂次が刀を離すと、斜陽が反射し、今度は兄が目を細めた。
「兄さんの技を知っていたから出来たんです。兄さんが、手加減をしてくれたから……」
「あははっ、やっぱり流石じゃないか舂次、全部感じ取っていたんだね」
沖舂次の兄は笑って刀を下ろし、鞘に納めようと切っ先を鯉口に掛けた。
殺気をぶつけはしたが、はなから手加減して終わらせるつもりだった。大切な妹を傷つけるわけがない。
それを理解した上で、我が妹は遠慮なく実力を見せ、兄から一本取ったのだ。手加減返しの峰による軽い一本だったが、兄には満足の一手だった。
「分かったよ。舂次も、あの警部補も見事だ。安心して僕は旅立てる」
「旅?」
軽い音を立てて最後まで納刀した兄が、微笑んでいる。
その微笑みを見た斎藤は、変化を感じ取った。先程までの瞳の奥のくすんだ光が消えていた。
「えぇ。北の方でね、苛烈な目に合っている子供たちがいると聞いたんです」
「そんな情報、何処から仕入れた」
沖舂次の兄の言葉を、斎藤は間髪入れず問い質した。
兄は逆らわず、笑って素直に事情を続けた。裏のない微笑みだ。言葉にも裏はなかった。
「あははっ、知り合いに子供好きな熱血漢がいましてね。子供同士の殺し合いを目撃したそうで、一度は止めたものの、相手が厄介らしく、面識がある僕に手紙を寄こしてきたんです。僕も放っておけませんからね」
「何故、警察に知らせん」
「知らせたんじゃありませんか? 西南戦争の折には警察の抜刀隊に身を置いた人ですから。でも待てないんでしょう、一人で動いているそうです。僕も早く行かないと。不殺 なんて言っている御仁ですから、頼りないんです」
「不殺?」
それも元警視庁抜刀隊だと。
心当たりがある斎藤は、顔をしかめた。
同じく不殺を謳う緋村剣心が身を置く道場の、行方不明の主だ。
「もう下手人を奪ったりしませんから、今回は見逃してください。舂次、悪かったね」
兄は強引に同意を取り付けようと、交互に二人の目を見た。
斎藤はフンと鼻を鳴らし、沖舂次は淋しそうにただ見つめ返す。
「それでは、しっかりやるんですよ舂次。警部補、くれぐれも妹を大切にしてくださいね」
「兄さん!」
二人の返事を待たず、沖舂次の兄は消えるように去った。
黄昏の中、どこへ向かったかも分からない。
「お前の兄は疾いな。疾いが、厄介だな。まぁ、悪くはないが」
下手人殺しの件をどう処理するか。
未開の地、北海道へ逃げたことにでもするか。事実、北海道に向かうようだから虚偽の報告には当たらない。
取り逃がしたようで後味が悪いが、北海道にいるという悪党共に下手人殺しも背負わせるのが丁度いい。実際、今回殺された下手人共とも繋がりがあるやもしれん。
斎藤はフゥと息を吐いた。
沖舂次の兄にも何やら正義があるらしい。子供に対する強い庇護欲か。幼き日に両親を失ったが故の定めだろうか。
「俺達も北海道行きになりそうだな」
「北海道?!」
「お前の兄も言っていただろう。同じ連中かは分らんが、謎の武装集団が目撃されたと報告があった。北海道だ」
この長屋へ来る直前、新しい報告が上がってきた。
北海道に於ける武装集団の活動。放置出来ない事態だ。
おまけに、先日壊滅させた上海マフィアによる武器密輸、武器が北海道に流れた疑いも報告された。
元々、沖舂次を同行させるつもりだったが、兄との遣り取りを見て満足した。己が身を守るには十分な力を既に得ている。その先は、共に経験を積んで行けば良い、時間は掛からないだろう。
「調査に行くんですか」
「あぁ。武器密売の件も絡んでな。捨て置けん事案だ」
長屋が、沖舂次の部屋が壊れたのは何かの導きか。兄が北海道へ来いと言っているようだ。
手紙は失われたが、斎藤の目的は果たされた。沖舂次自身は手紙の消失を悲しみ、複雑な兄との再会を消化しきれずにいる。
寝る場所を失った部下に、寮の斡旋を告げるべきか。それとも警視庁に戻り資料室で眠らせるか。
迷った斎藤は一番近い場所を思い浮かべ、沖舂次に告げた。
「ここで一晩明かす訳にもいかんだろう。一晩だけだ、宿を貸してやる」
「……宿?」
沖舂次の数少ない荷物は、この場に残しても構わんだろう。斎藤は部屋の奥、木片を免れた行李に目をやった。
長屋の住人はみな顔見知りだ。騒動を詫びて大家への伝言を頼み、警察から見舞金を贈るとでも告げればよい。
「ついて来い」
沖舂次はわけも分からず頷いた。
まさか行先が藤田五郎の家だとは、思いもしなかった。
路地を歩き出した二人の道の先、町の向こうでは、今にも日が沈もうとしている。
二人が纏う制服に似た宵闇が、町を覆わんとしていた。
明日一番、警部補に見てもわらねばならない手紙だ。
手を伸ばした行李の中、一番上に置かれた袷の布は、やけに姿を崩していた。
「嘘、中身が、手紙が、ない……」
沖舂次は慌てて行李の中を探った。
外はまだ明るいが、部屋の中は既に薄暗い。明かりもつけず行李を漁り、見つからない焦りから、荷物をひっくり返し始めた。
兄からの大切な手紙を紛失。まさか、置いてあるだけの物を失くすだろうか。
物取り。物取りなら袷の布を持ち去るだろう。
手紙の存在を知り、持ち去る人物など、限られている。
行李を探る沖舂次の指先が、焦燥と困惑で震えだした。
「これを探しているのかな、舂次」
声がして、沖舂次は振り返った。
狭い長屋の一室、懐から手紙を覗かせて、兄が立っていた。土間で壁にもたれる様子は、まるで待ち伏せでもしていたように見える。
驚きのあまり、沖舂次は掠れた声で「兄さん」と漏らした。
「いけないよ舂次、手紙っていうのはね、他人に見せるものではないんだよ」
大人びた物言いで沖舂次を窘める兄は、生き写しのように、双子と見紛うほど似た顔立ちをしている。
違いといえば、沖舂次より上背があり、男ならではの筋肉を纏う体の線だろう。それも並んで比べねば分からぬ違いだ。
「返してください兄さん、その手紙は……」
貴方がくれた物。
兄は、手紙を確かめるように触れると、懐の奥に押し込んでしまった。
「僕が舂次に送った手紙は、僕の物か、舂次の物か。迷うところだね」
どうして手紙が必要なんだい。瞳で問われた沖舂次は、言葉を失って拳を握った。
下手人殺しの犯人を特定する、手掛かりになるかもしれないから必要なのだ。
兄の無実を晴らせるかもしれない。でも、きっと。
沖舂次は顔を上げた。
手紙を調べたら何かが分かるのだろう。だから兄は回収した。
調べれば疑念が真実に変わってしまう。
それでも、真実を突き止めなければ。
兄を睨む顔は、一人前の警官だった。
「いい眼だ。舂次もすっかり巡査だね。安心したよ、一人でしっかり生きていける」
もう手紙を送り、身を案じる必要もなさそうだ。
少しだけ淋しそうに微笑んだ兄は、舂次から目を逸らして、ちらりと瞳を動かした。
「一人前の舂次に、ひとつだけ忠告したいんだけど、聞いてくれるかな」
「えっ」
兄につられて、沖舂次は部屋の入り口を見た。
ただの空間だ。日が傾き、夕暮れ特有の日差しが路地を照らしている。
「舂次の上司、あの藤田五郎警部補? 近づいちゃ駄目だよ、勿論仕事の上では仕方がないだろうけど、こんな年若い娘を揶揄う中年なんて趣味が悪い。そうですよね、覗きも立ち聞きも悪趣味だ」
兄が大声で外に訴えかけると、斎藤がゆっくりと姿を現した。
部屋の中で兄が隣室との壁にもたれていたが、斎藤もまた外で長屋の壁にもたれて話を聞いていた。
「警部補!」
「フッ、まさかと思ったが、本当に沖舂次の兄が下手人殺しらしい」
「下手人殺しか、嫌な響きだね」
ふふっと笑う姿が、沖田総司に似ていた。
笑った後の瞳の冷たさだけが、似ていない。
沖舂次の兄に合わせてニヤリと笑い返した斎藤だが、その冷たさを見て笑いが消えた。
「予感がしたんでな、沖舂次を追ってきて正解だったな。覗き立ち聞きはお互い様だろう、お前もそうやって情報を仕入れたんじゃあないのか」
「まぁ、いろいろですよ」
腕を組んで、沖舂次の兄は再び笑った。にこりと優しく見える微笑みだ。
斎藤は、初めて会う男には思えなかった。顔を傾げて流れる髪の動きまでもが、彼の男に似ている。しかしその奥の瞳だけは、見覚えのない光を湛えていた。
「話は聞いていましたよね、申し訳ないのですが警部補、可愛い妹を誑かさないでください」
「言われずとも」
二人の会話を、沖舂次は複雑な面持ちで聞いていた。
兄はどこまで知っているのだろうか。
そっと兄を見ると、目が合い、妙な気恥しさを感じてしまった。
兄は、警部補や先輩とのやりとりを何処まで知っているのだろう。
誑かすは言いすぎだが、過ぎたアレコレは確かにあった。でも、どれも心底嫌だったわけではない。
沖舂次が、今度は斎藤を視界に入れた。
斎藤は兄だけを視界に入れ続けている。兄もまた、すぐに視線を戻した。
「今回は横取りになってしまい、申し訳ありません、警部補。どうしても許せなかったんです、子殺しの悪党が」
「子殺し?」
「おや、知らなかったんですか。人買い時代、過ぎた暴力で幼い子を殺めていた男、上納金を納めず逃げた子を川に追い詰めて殺めた男。それに、貴方がちゃんと妹を導けるか気になったんです。でも良かった、ちゃんと僕に辿り着けるだけの能力があったようで」
にこり。改めて大きく笑んだ兄は、
「最後に」
そう言うと、背後に隠し持っていた剣を抜いた。
言葉を切って、一直線に斎藤に斬りかかった。
「兄さん!」
青ざめた沖舂次が叫んだ時、兄は笑っていた。
兄の俊速の刃は、斎藤の刀が受け止めていた。
二人の足元の地面が、踏ん張りに耐えかねて徐々に抉れていく。刃を押しあう二人を、西日が差していた。
「へぇ、受け止めるなんてやりますね」
「来ることは分かった。分かりやすい剣だ」
沖田総司に似た剣だから、余計に手に取るように分かる。
言ってやりたい斎藤だが、その言葉は飲み込んだ。
「でも地の利は僕にあります。ここは住み慣れた我が家ですから」
沖舂次の兄が地面を蹴り、何、と斎藤が見上げた時には長屋の屋根まで飛び上がり、傷んだ屋根板を蹴り崩していた。
大小様々な木屑が斎藤の頭上から降り注ぐ。
堪らず飛び退いた斎藤の足元を、刃が狙っていた。
「警部補!」
その刃を防いだのは、兄のやり口を知り尽くした沖舂次だった。
驚いた兄が今度は路地の上を大きく飛び退いた。残照の中、抜身の刃が鋭く光を反射する。沖舂次は眩しさに目を細めた。
「やるじゃないか舂次、いい反応をするようになったね」
「警部補に鍛えていただきました!」
沖舂次も路地に出ると、崩れてしまった我が家の入り口を振り返った。
思い出が詰まった大切な場所だから、離れたくなくて長屋暮らしを続けた。こんなに簡単に壊してしまうなんて、兄は、この家に思い入れはないのだろうか。
哀しみが込み上げて、沖舂次の声が俄かに潤んだ。
「昔より、強くなっています。だから、お願いです、やめてください兄さん」
「僕は舂次の上司の腕を見たかっただけなんだ。しっかり舂次を守れるのか見極めたくて」
「私は守られません。兄さん、私は警官で、密偵なんです。自分の身は自分で守ります!」
「へぇ、本当に大人になったね、舂次。じゃあ……次はお前の腕を見てみようかな」
「えっ」
兄から殺気を感じ取り、沖舂次の体が強張った。
刀を握る手に余分な力が加わるのを、自覚した。
「警部補は確かにいい腕です。舂次が間に入らなければ、あの後、僕が突かれていた。でしょう、警部補」
「あぁ。よく見えているじゃないか」
「ふふっ、目はいいんです。勘もいいんですよ。舂次は、どうかな」
殺気は感じる。だが、殺す気はない。悟った斎藤は、大人しく兄妹の行く末を見守っている。
何より、捕らえる気が失せていた。
沖舂次の腕が如何ほどまで上がったか、見極めるいい機会でもあった。
斎藤の落ち着いた視線に気づき、冷静さを取り戻した沖舂次は、刀を握り直した。
「確かに私は兄さんの剣裁きよりも遅いです、でもっ」
兄が三段突きを見せた刹那、沖舂次は踏み込んで、飛び込んでいった。
身軽さを活かして、飛び込みながら交わしたのだ。
「三度突けなくても、私はっ!」
「三度、踏み込む、か。やるね、舂次」
前進することに注力した兄の横を取った沖舂次が、兄の二の腕に刀の峰を置いていた。
三度同時の突きを、三度踏み込んで躱しつつ、兄の横を取ったのだ。
傍から見る斎藤には一瞬の、長い跳躍に感じられた。
思わず「ほぅ」と声が漏れる、しなやかな体の転回を見た。
兄と妹、見目は似ていても体は違う。沖舂次は筋力で兄に劣るが、柔軟性で勝る。
得意な疾さが異なるだけで、沖舂次もまた疾さを備えている。兄と向き合い、気づいた疾さだった。
沖舂次が刀を離すと、斜陽が反射し、今度は兄が目を細めた。
「兄さんの技を知っていたから出来たんです。兄さんが、手加減をしてくれたから……」
「あははっ、やっぱり流石じゃないか舂次、全部感じ取っていたんだね」
沖舂次の兄は笑って刀を下ろし、鞘に納めようと切っ先を鯉口に掛けた。
殺気をぶつけはしたが、はなから手加減して終わらせるつもりだった。大切な妹を傷つけるわけがない。
それを理解した上で、我が妹は遠慮なく実力を見せ、兄から一本取ったのだ。手加減返しの峰による軽い一本だったが、兄には満足の一手だった。
「分かったよ。舂次も、あの警部補も見事だ。安心して僕は旅立てる」
「旅?」
軽い音を立てて最後まで納刀した兄が、微笑んでいる。
その微笑みを見た斎藤は、変化を感じ取った。先程までの瞳の奥のくすんだ光が消えていた。
「えぇ。北の方でね、苛烈な目に合っている子供たちがいると聞いたんです」
「そんな情報、何処から仕入れた」
沖舂次の兄の言葉を、斎藤は間髪入れず問い質した。
兄は逆らわず、笑って素直に事情を続けた。裏のない微笑みだ。言葉にも裏はなかった。
「あははっ、知り合いに子供好きな熱血漢がいましてね。子供同士の殺し合いを目撃したそうで、一度は止めたものの、相手が厄介らしく、面識がある僕に手紙を寄こしてきたんです。僕も放っておけませんからね」
「何故、警察に知らせん」
「知らせたんじゃありませんか? 西南戦争の折には警察の抜刀隊に身を置いた人ですから。でも待てないんでしょう、一人で動いているそうです。僕も早く行かないと。
「不殺?」
それも元警視庁抜刀隊だと。
心当たりがある斎藤は、顔をしかめた。
同じく不殺を謳う緋村剣心が身を置く道場の、行方不明の主だ。
「もう下手人を奪ったりしませんから、今回は見逃してください。舂次、悪かったね」
兄は強引に同意を取り付けようと、交互に二人の目を見た。
斎藤はフンと鼻を鳴らし、沖舂次は淋しそうにただ見つめ返す。
「それでは、しっかりやるんですよ舂次。警部補、くれぐれも妹を大切にしてくださいね」
「兄さん!」
二人の返事を待たず、沖舂次の兄は消えるように去った。
黄昏の中、どこへ向かったかも分からない。
「お前の兄は疾いな。疾いが、厄介だな。まぁ、悪くはないが」
下手人殺しの件をどう処理するか。
未開の地、北海道へ逃げたことにでもするか。事実、北海道に向かうようだから虚偽の報告には当たらない。
取り逃がしたようで後味が悪いが、北海道にいるという悪党共に下手人殺しも背負わせるのが丁度いい。実際、今回殺された下手人共とも繋がりがあるやもしれん。
斎藤はフゥと息を吐いた。
沖舂次の兄にも何やら正義があるらしい。子供に対する強い庇護欲か。幼き日に両親を失ったが故の定めだろうか。
「俺達も北海道行きになりそうだな」
「北海道?!」
「お前の兄も言っていただろう。同じ連中かは分らんが、謎の武装集団が目撃されたと報告があった。北海道だ」
この長屋へ来る直前、新しい報告が上がってきた。
北海道に於ける武装集団の活動。放置出来ない事態だ。
おまけに、先日壊滅させた上海マフィアによる武器密輸、武器が北海道に流れた疑いも報告された。
元々、沖舂次を同行させるつもりだったが、兄との遣り取りを見て満足した。己が身を守るには十分な力を既に得ている。その先は、共に経験を積んで行けば良い、時間は掛からないだろう。
「調査に行くんですか」
「あぁ。武器密売の件も絡んでな。捨て置けん事案だ」
長屋が、沖舂次の部屋が壊れたのは何かの導きか。兄が北海道へ来いと言っているようだ。
手紙は失われたが、斎藤の目的は果たされた。沖舂次自身は手紙の消失を悲しみ、複雑な兄との再会を消化しきれずにいる。
寝る場所を失った部下に、寮の斡旋を告げるべきか。それとも警視庁に戻り資料室で眠らせるか。
迷った斎藤は一番近い場所を思い浮かべ、沖舂次に告げた。
「ここで一晩明かす訳にもいかんだろう。一晩だけだ、宿を貸してやる」
「……宿?」
沖舂次の数少ない荷物は、この場に残しても構わんだろう。斎藤は部屋の奥、木片を免れた行李に目をやった。
長屋の住人はみな顔見知りだ。騒動を詫びて大家への伝言を頼み、警察から見舞金を贈るとでも告げればよい。
「ついて来い」
沖舂次はわけも分からず頷いた。
まさか行先が藤田五郎の家だとは、思いもしなかった。
路地を歩き出した二人の道の先、町の向こうでは、今にも日が沈もうとしている。
二人が纏う制服に似た宵闇が、町を覆わんとしていた。