【幕】【明】刻まれぬ狼の傷
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※いつもより傷など生々しいかもしれません。
存在が知られてから、短期間で新選組一番の標的になった男がいる。
どんな維新志士よりも最短で、危険視されるようになった。
「またアイツだ、左頬に十字傷の」
「緋村抜刀斎か」
新選組の男たちの間では、この会話が繰り返された。
姿を見つけ、追いかけ、剣を交えるが逃げられる。残されるのは隊士の死体。今際の際に隊士が絞り出す「抜刀斎」の一言が、駆け付けた者に重く圧し掛かる。
取り逃しが繰り返され、新選組幹部は我こそが抜刀斎を討ち取らんと執着していくことになる。
斎藤一もまた抜刀斎を狙い、追い続けた。
抜刀斎に出会うのは夜だ。
姿を見つけた新選組の男は、無条件で刃を向ける。
斎藤が抜刀斎に出会った夜も、無条件で斬り掛かっていた。
「もらった、抜刀斎!」
「いい気になるな、斎藤!」
互角の闘いの中、僅かに訪れる攻撃の好機、斎藤は得意の剣を繰り出すが、見事に躱されて舌打ちをした。
切っ先は微かに掠った程度。
斎藤の剣は、抜刀斎の顔に小さな傷を残して終わった。
それからひと月ほどが経った頃だ。
斎藤は再び抜刀斎に遭遇した。
己の幸運を喜ぶが、ふと抜刀斎の顔に目が留まる。
先日付けた刀傷が消えている。
傷が癒えるのは当然だ。しかし、付けた傷のそばにある十字傷は、残っている。
抜刀斎の象徴ともいえる左頬の十字傷は、初めてその姿を見た時から変わらず、左頬に刻まれている。
意識したことはなかった。
だが、気付いてみると不思議に思えて仕方がなかった。
この日も抜刀斎と決着は付かず、屯所に戻った斎藤は、監察方であり医学にも通じている山崎を訪ねた。
「山崎、お前医学の心得があったな」
「へぇございますが、何か気掛かりでも?」
抜刀斎の十字傷はいつ頃のものだ。何故消えない。
先日俺がつけた傷は、綺麗に消えたというのに。
斎藤は山崎に抜刀斎の傷の謎をぶつけた。
「傷の新しい古い、深い浅いでは無いのでしょう。聞いたコトがあります、強い想い、念が込められた傷は消えずに残ると」
「強い想いか、念だと」
「怨念、執念、愛念みたいなもんでしょう。傷を刻んだ者の強い想い、それと、傷を受けた者が相手に抱く想い、念の強さが揃って、初めて残るのだとか」
「傷を受けた者、抜刀斎自身の念の強さというコトか」
「まぁ迷信みたいな話ですよ。抜刀斎の傷にさほど特別な理由があるとは思えませんがね」
つまり、山崎の話では、抜刀斎は傷を付けた相手に対して何らかの強い感情を抱いていることになる。
話の内容を咀嚼した斎藤は、妙な憤りを感じた。
刀を握りたい衝動に駆られる。
左手を強く握り締めて、肉に食い込む己の爪の痛みを味わった。
その痛みを戦闘に重ねて思い返す。柄を握り抜刀斎と刃をぶつけ、掌で受ける衝撃。何度も立て続けに刃を交え、時に長く鍔迫合う。
刀を、柄を、掌を通じて味わう抜刀斎、筋肉の力みや息遣いすら伝わる。相手が変われば、あの感覚も変わる。
そうだ、あれは俺と抜刀斎であればこその感覚。他の誰であっても得られないモノだ。
──抜刀斎の首は俺が獲る。抜刀斎、お前も俺の首が欲しいだろう。誰よりも俺の首を望め、抜刀斎!
斎藤の左手に血が滲み、微かに鉄の香りが漂った。
気付いた山崎が止めに入り、斎藤はようやく力を弱めた。
「斎藤さん、最近緋村さんに執着し過ぎじゃありませんか」
抜刀斎の十字傷について考えた夜から暫く経った頃だった。
斎藤は沖田に指摘された。
執着だと。斎藤は普段と変わらぬ冷めた目で睨み返した。
「それを言うなら君も同じだろう、沖田君」
「あははっ、それもそうです。僕も、貴方も、皆が緋村さんの首を狙っていますからね」
「緋村抜刀斎の首を獲るのは、俺だ」
そう言われたら言い返す沖田が、この夜は何故か言い返せなかった。立ち去る斎藤の背中を無言で見送った。
俺が抜刀斎の首を獲る。
新選組幹部ならば誰もが口にする決まり文句だが、今宵の斎藤の言葉は、深い闇の奥で何かが蠢くような不快さを纏っていた。声を聞いた途端、沖田は喉の奥が詰まる感覚がして、声を出せなかったのだ。
新選組の男たちの間で、最近斎藤の剣が変わった、密かにそう囁かれるようになっていた。
ある夜、緋村は斎藤の切迫した剣に追い込まれていた。
新選組の幹部はどの男も闘い辛い。
緋村にとって、斎藤も圧しきれぬ相手だ。
かといって劣る訳ではない。勝機はある。なのに、今は妙な勢いに気圧されて、防いで躱す闘いに追い込まれていた。
「何故だ、何故消える!」
「何を言っているっ」
緋村は凄まじい勢いで振り下ろされた刃をなんとか受け止めた。だが、異様な力で押され、刀が震えた。
いくら闘い慣れした斎藤が相手とは言え、尋常ならざる事態だった。
何かがおかしい。気迫とも違う、味わったことのない感覚を受け、緋村は困惑していた。間近で感じる斎藤の息が、恐ろしいほどに熱を帯びている。その熱さを感じるたびに、厭な感覚は増していった。
恐怖ではない。けれども、心地悪い感覚だ。
「俺がつけた傷は、何故消える!」
「何をっ」
「何故だ、何故その傷は消えんのだ!」
「何っ?!」
叫ぶ斎藤の刀を弾いて距離を取った緋村は、これ以上闘っていられないと路地に飛び込んだ。
常に冷静な闘いを仕掛けてくる斎藤が、今宵は狂気に満ちた剣を振るっていた。
路地を駆け抜ける緋村は、背中で斎藤の声を聞いた。獣の咆哮に似た声で抜刀斎を呼ぶ、身の毛がよだつ声だった。
危険が及ばぬ道まで駆け抜けた緋村は、今までになく汗を掻いていた。
どれ程の闘いを斎藤と重ねたか、緋村は覚えていなかった。
斎藤は覚えていた。数えた記憶はないが、確かに覚えていた。
後の時代、鳥羽伏見の戦いと呼ばれる場に、斎藤と緋村はいた。
視界の端に互いの姿が入った瞬間、刀を握る手に力が籠る。
以前、京の町でこんな風に互いの姿を視認した時は、斎藤は薄ら笑みを浮かべ、緋村は笠で顔を隠したものだ。
今、この戦場で互いを視認した斎藤は、表情を変えずに緋村を見つめていた。
「斎藤、貴様との決着は今この場で付ける、全てをここで、終わらせる!」
「抜刀斎……」
この闘いを最後に刀を置く意思を持つ緋村は、長く続いた斎藤との闘いを終わらせる気で全身全霊を注いだ。
斎藤は無論、抜刀斎の首を狙っていた。新時代がどう転ぼうが、この首だけはここで奪わねばならない。
抜刀斎の体に刃を入れる。誰よりも深く強く、傷を刻んでやる。
その執念で斎藤は緋村と刀をぶつけ、斬り結んだ。
戦場は砲弾の打ち合いから、白兵戦に変わっている。
雄叫びが轟き剣戟音が無数に響く。漂う鉄の臭いは刀か流血か、確かめる間もなく互いの刃が飛び交った。
鬼気迫る闘いが続く中、ほんの一瞬の神の差配か、斎藤は緋村を殺せる間合いを得た。
──しまった!
身の危機を感じた緋村は覚悟して構えるが、斎藤は緋村の右頬に深く斬り付けるだけで、体を離した。
──どういうコトだ……。
訳が分からず、緋村は滴る血を拭った。
間合いの外で、斎藤はその姿を執拗に見つめている。
緋村はもう一度、手で傷を拭った。深く刃が入り込んだ感触が残っている。皮膚の下を抉られる感覚が残る太刀を受けたのは、久しぶりだった。
そう、左頬に一つ目の傷を受けた時以来だ。
拭き取った血は多く、手が滑る感触に緋村は顔をしかめた。これでは刀が滑り兼ねない。
また仕掛けてくるのか。
警戒するが、斎藤は緋村が右頬に触れる姿を見るばかりで、攻撃してこない。
やがて戦局の変化を告げる伝令が駆け抜け、斎藤は口惜しそうに身を引いた。
勝ったのは自陣だと言うのに、緋村は味わったことのない脂汗を掻いていた。去り行く斎藤の張り付くような視線が、最後まで緋村を捉えていた。
視線が消えても尚暫く、まるで膿か何かが肌に纏わりつくような、鈍い感覚が消えずにいた。
時代は流れ続ける。
戦場で斎藤と緋村抜刀斎が最後に刀を交えてから、数多の月日が過ぎ去った。
二人が互いを見失って、十年。
東京で密偵として働く道を選んだ斎藤は、上からの指示で抜刀斎の動向を探っていた。
抜刀斎を見つけ出し、見張っていた。
政府を利用し、利用される身に不満はない。
だが、上がり込んだ神谷道場で、緋村剣心と名乗る抜刀斎を迎えた斎藤は、激しい不快さに襲われた。不満だ。体の中を蟲が這うように、忌まわしい感覚となって不満が全身を駆け巡る。
動きが鈍る唇を開いて発した声は、酷く重苦しく響いた。
「久しぶりだな、緋村抜刀斎」
「斎藤一……」
抜刀斎の声が鼓膜を震わせ己の名を聞いた時、斎藤の全身に達した不満が、弾けた。不満が激しい怒りに変わる。体中を這った何かが皮膚の内で潰れ、臓腑の粘液が弾けたように、瞬間的に変化した。
長らく陰から抜刀斎の動向を追っていた。
そう、陰からだ。
互いに顔をよく見るのは、実に十年ぶり。
流浪人と名乗る緋村抜刀斎の、その姿が、斎藤には不愉快極まりなかった。
「緋村抜刀斎。単身痩躯、赤い髪の男。左頬には──── 十字傷」
抜刀斎の特徴を述べて、斎藤は深い溜め息を吐いた。
深く長い溜息は、床を這うように消えていった。
消えぬ傷には強い想いが込められているという。
それは、傷を付けた者と、受けた者の強い想いが重なり、想いが揃った時にだけ躰にその痕が焼き付いて、消えないという。
殺めた相手に負い目を感じた時、それとも、失いたくない相手を殺めた時か。
十字傷を付けた相手、ひとりか、ふたりか、その者は緋村抜刀斎の中に刻まれて、消えぬ存在。
「右頬は、綺麗なもんだな」
「何を言っている」
「俺程度では、不足だったというワケだ」
斎藤は細い目で抜刀斎の右頬を睨みつけた。
──何が不足だった。
俺の念か。
それとも、抜刀斎か。
あぁそうに違いない、抜刀斎は微塵も感じていなかったのだろう。
この十年、右頬に深い傷を刻んだ男のコトなど、綺麗に傷が癒えるほどに、無関心だったのだ。
「最早、見ていられん」
左頬の十字傷だけを後生大事に刻み、保つお前を。
斎藤は怒気を孕んだ視線をぶつけた。抜いた刀を左に持ち替え、狙い定めるように、刃をゆっくりと抜刀斎に向ける。
「斎藤っ、さっきから何を」
「お前の全てを否定してやる」
切っ先の奥に抜刀斎を捉えた斎藤から、抑えていた怒りが噴き出した。
十年間、何事も無かったかのように佇む抜刀斎がいる。
許せぬ程に鈍った闘気、薄れた殺気、遅い思考。
もう一度刻んでやる、貴様の身体に俺の記憶を。
いや、もう、どうでもいい。
力試しも任務も、どうでもいいのだ。
想いも体も俺を拒むというのならば、俺も応じるまでだ。
どう刻もうが残らぬと言うならば、全て消し去ってくれよう。
その十字傷ごと、貴様を消し去る。
斎藤は宿敵、緋村抜刀斎を今ここで葬らんと、刃に全てを乗せて斬り込んだ。
❖ ❖ ❖
存在が知られてから、短期間で新選組一番の標的になった男がいる。
どんな維新志士よりも最短で、危険視されるようになった。
「またアイツだ、左頬に十字傷の」
「緋村抜刀斎か」
新選組の男たちの間では、この会話が繰り返された。
姿を見つけ、追いかけ、剣を交えるが逃げられる。残されるのは隊士の死体。今際の際に隊士が絞り出す「抜刀斎」の一言が、駆け付けた者に重く圧し掛かる。
取り逃しが繰り返され、新選組幹部は我こそが抜刀斎を討ち取らんと執着していくことになる。
斎藤一もまた抜刀斎を狙い、追い続けた。
抜刀斎に出会うのは夜だ。
姿を見つけた新選組の男は、無条件で刃を向ける。
斎藤が抜刀斎に出会った夜も、無条件で斬り掛かっていた。
「もらった、抜刀斎!」
「いい気になるな、斎藤!」
互角の闘いの中、僅かに訪れる攻撃の好機、斎藤は得意の剣を繰り出すが、見事に躱されて舌打ちをした。
切っ先は微かに掠った程度。
斎藤の剣は、抜刀斎の顔に小さな傷を残して終わった。
それからひと月ほどが経った頃だ。
斎藤は再び抜刀斎に遭遇した。
己の幸運を喜ぶが、ふと抜刀斎の顔に目が留まる。
先日付けた刀傷が消えている。
傷が癒えるのは当然だ。しかし、付けた傷のそばにある十字傷は、残っている。
抜刀斎の象徴ともいえる左頬の十字傷は、初めてその姿を見た時から変わらず、左頬に刻まれている。
意識したことはなかった。
だが、気付いてみると不思議に思えて仕方がなかった。
この日も抜刀斎と決着は付かず、屯所に戻った斎藤は、監察方であり医学にも通じている山崎を訪ねた。
「山崎、お前医学の心得があったな」
「へぇございますが、何か気掛かりでも?」
抜刀斎の十字傷はいつ頃のものだ。何故消えない。
先日俺がつけた傷は、綺麗に消えたというのに。
斎藤は山崎に抜刀斎の傷の謎をぶつけた。
「傷の新しい古い、深い浅いでは無いのでしょう。聞いたコトがあります、強い想い、念が込められた傷は消えずに残ると」
「強い想いか、念だと」
「怨念、執念、愛念みたいなもんでしょう。傷を刻んだ者の強い想い、それと、傷を受けた者が相手に抱く想い、念の強さが揃って、初めて残るのだとか」
「傷を受けた者、抜刀斎自身の念の強さというコトか」
「まぁ迷信みたいな話ですよ。抜刀斎の傷にさほど特別な理由があるとは思えませんがね」
つまり、山崎の話では、抜刀斎は傷を付けた相手に対して何らかの強い感情を抱いていることになる。
話の内容を咀嚼した斎藤は、妙な憤りを感じた。
刀を握りたい衝動に駆られる。
左手を強く握り締めて、肉に食い込む己の爪の痛みを味わった。
その痛みを戦闘に重ねて思い返す。柄を握り抜刀斎と刃をぶつけ、掌で受ける衝撃。何度も立て続けに刃を交え、時に長く鍔迫合う。
刀を、柄を、掌を通じて味わう抜刀斎、筋肉の力みや息遣いすら伝わる。相手が変われば、あの感覚も変わる。
そうだ、あれは俺と抜刀斎であればこその感覚。他の誰であっても得られないモノだ。
──抜刀斎の首は俺が獲る。抜刀斎、お前も俺の首が欲しいだろう。誰よりも俺の首を望め、抜刀斎!
斎藤の左手に血が滲み、微かに鉄の香りが漂った。
気付いた山崎が止めに入り、斎藤はようやく力を弱めた。
「斎藤さん、最近緋村さんに執着し過ぎじゃありませんか」
抜刀斎の十字傷について考えた夜から暫く経った頃だった。
斎藤は沖田に指摘された。
執着だと。斎藤は普段と変わらぬ冷めた目で睨み返した。
「それを言うなら君も同じだろう、沖田君」
「あははっ、それもそうです。僕も、貴方も、皆が緋村さんの首を狙っていますからね」
「緋村抜刀斎の首を獲るのは、俺だ」
そう言われたら言い返す沖田が、この夜は何故か言い返せなかった。立ち去る斎藤の背中を無言で見送った。
俺が抜刀斎の首を獲る。
新選組幹部ならば誰もが口にする決まり文句だが、今宵の斎藤の言葉は、深い闇の奥で何かが蠢くような不快さを纏っていた。声を聞いた途端、沖田は喉の奥が詰まる感覚がして、声を出せなかったのだ。
新選組の男たちの間で、最近斎藤の剣が変わった、密かにそう囁かれるようになっていた。
ある夜、緋村は斎藤の切迫した剣に追い込まれていた。
新選組の幹部はどの男も闘い辛い。
緋村にとって、斎藤も圧しきれぬ相手だ。
かといって劣る訳ではない。勝機はある。なのに、今は妙な勢いに気圧されて、防いで躱す闘いに追い込まれていた。
「何故だ、何故消える!」
「何を言っているっ」
緋村は凄まじい勢いで振り下ろされた刃をなんとか受け止めた。だが、異様な力で押され、刀が震えた。
いくら闘い慣れした斎藤が相手とは言え、尋常ならざる事態だった。
何かがおかしい。気迫とも違う、味わったことのない感覚を受け、緋村は困惑していた。間近で感じる斎藤の息が、恐ろしいほどに熱を帯びている。その熱さを感じるたびに、厭な感覚は増していった。
恐怖ではない。けれども、心地悪い感覚だ。
「俺がつけた傷は、何故消える!」
「何をっ」
「何故だ、何故その傷は消えんのだ!」
「何っ?!」
叫ぶ斎藤の刀を弾いて距離を取った緋村は、これ以上闘っていられないと路地に飛び込んだ。
常に冷静な闘いを仕掛けてくる斎藤が、今宵は狂気に満ちた剣を振るっていた。
路地を駆け抜ける緋村は、背中で斎藤の声を聞いた。獣の咆哮に似た声で抜刀斎を呼ぶ、身の毛がよだつ声だった。
危険が及ばぬ道まで駆け抜けた緋村は、今までになく汗を掻いていた。
どれ程の闘いを斎藤と重ねたか、緋村は覚えていなかった。
斎藤は覚えていた。数えた記憶はないが、確かに覚えていた。
後の時代、鳥羽伏見の戦いと呼ばれる場に、斎藤と緋村はいた。
視界の端に互いの姿が入った瞬間、刀を握る手に力が籠る。
以前、京の町でこんな風に互いの姿を視認した時は、斎藤は薄ら笑みを浮かべ、緋村は笠で顔を隠したものだ。
今、この戦場で互いを視認した斎藤は、表情を変えずに緋村を見つめていた。
「斎藤、貴様との決着は今この場で付ける、全てをここで、終わらせる!」
「抜刀斎……」
この闘いを最後に刀を置く意思を持つ緋村は、長く続いた斎藤との闘いを終わらせる気で全身全霊を注いだ。
斎藤は無論、抜刀斎の首を狙っていた。新時代がどう転ぼうが、この首だけはここで奪わねばならない。
抜刀斎の体に刃を入れる。誰よりも深く強く、傷を刻んでやる。
その執念で斎藤は緋村と刀をぶつけ、斬り結んだ。
戦場は砲弾の打ち合いから、白兵戦に変わっている。
雄叫びが轟き剣戟音が無数に響く。漂う鉄の臭いは刀か流血か、確かめる間もなく互いの刃が飛び交った。
鬼気迫る闘いが続く中、ほんの一瞬の神の差配か、斎藤は緋村を殺せる間合いを得た。
──しまった!
身の危機を感じた緋村は覚悟して構えるが、斎藤は緋村の右頬に深く斬り付けるだけで、体を離した。
──どういうコトだ……。
訳が分からず、緋村は滴る血を拭った。
間合いの外で、斎藤はその姿を執拗に見つめている。
緋村はもう一度、手で傷を拭った。深く刃が入り込んだ感触が残っている。皮膚の下を抉られる感覚が残る太刀を受けたのは、久しぶりだった。
そう、左頬に一つ目の傷を受けた時以来だ。
拭き取った血は多く、手が滑る感触に緋村は顔をしかめた。これでは刀が滑り兼ねない。
また仕掛けてくるのか。
警戒するが、斎藤は緋村が右頬に触れる姿を見るばかりで、攻撃してこない。
やがて戦局の変化を告げる伝令が駆け抜け、斎藤は口惜しそうに身を引いた。
勝ったのは自陣だと言うのに、緋村は味わったことのない脂汗を掻いていた。去り行く斎藤の張り付くような視線が、最後まで緋村を捉えていた。
視線が消えても尚暫く、まるで膿か何かが肌に纏わりつくような、鈍い感覚が消えずにいた。
時代は流れ続ける。
戦場で斎藤と緋村抜刀斎が最後に刀を交えてから、数多の月日が過ぎ去った。
二人が互いを見失って、十年。
東京で密偵として働く道を選んだ斎藤は、上からの指示で抜刀斎の動向を探っていた。
抜刀斎を見つけ出し、見張っていた。
政府を利用し、利用される身に不満はない。
だが、上がり込んだ神谷道場で、緋村剣心と名乗る抜刀斎を迎えた斎藤は、激しい不快さに襲われた。不満だ。体の中を蟲が這うように、忌まわしい感覚となって不満が全身を駆け巡る。
動きが鈍る唇を開いて発した声は、酷く重苦しく響いた。
「久しぶりだな、緋村抜刀斎」
「斎藤一……」
抜刀斎の声が鼓膜を震わせ己の名を聞いた時、斎藤の全身に達した不満が、弾けた。不満が激しい怒りに変わる。体中を這った何かが皮膚の内で潰れ、臓腑の粘液が弾けたように、瞬間的に変化した。
長らく陰から抜刀斎の動向を追っていた。
そう、陰からだ。
互いに顔をよく見るのは、実に十年ぶり。
流浪人と名乗る緋村抜刀斎の、その姿が、斎藤には不愉快極まりなかった。
「緋村抜刀斎。単身痩躯、赤い髪の男。左頬には──── 十字傷」
抜刀斎の特徴を述べて、斎藤は深い溜め息を吐いた。
深く長い溜息は、床を這うように消えていった。
消えぬ傷には強い想いが込められているという。
それは、傷を付けた者と、受けた者の強い想いが重なり、想いが揃った時にだけ躰にその痕が焼き付いて、消えないという。
殺めた相手に負い目を感じた時、それとも、失いたくない相手を殺めた時か。
十字傷を付けた相手、ひとりか、ふたりか、その者は緋村抜刀斎の中に刻まれて、消えぬ存在。
「右頬は、綺麗なもんだな」
「何を言っている」
「俺程度では、不足だったというワケだ」
斎藤は細い目で抜刀斎の右頬を睨みつけた。
──何が不足だった。
俺の念か。
それとも、抜刀斎か。
あぁそうに違いない、抜刀斎は微塵も感じていなかったのだろう。
この十年、右頬に深い傷を刻んだ男のコトなど、綺麗に傷が癒えるほどに、無関心だったのだ。
「最早、見ていられん」
左頬の十字傷だけを後生大事に刻み、保つお前を。
斎藤は怒気を孕んだ視線をぶつけた。抜いた刀を左に持ち替え、狙い定めるように、刃をゆっくりと抜刀斎に向ける。
「斎藤っ、さっきから何を」
「お前の全てを否定してやる」
切っ先の奥に抜刀斎を捉えた斎藤から、抑えていた怒りが噴き出した。
十年間、何事も無かったかのように佇む抜刀斎がいる。
許せぬ程に鈍った闘気、薄れた殺気、遅い思考。
もう一度刻んでやる、貴様の身体に俺の記憶を。
いや、もう、どうでもいい。
力試しも任務も、どうでもいいのだ。
想いも体も俺を拒むというのならば、俺も応じるまでだ。
どう刻もうが残らぬと言うならば、全て消し去ってくれよう。
その十字傷ごと、貴様を消し去る。
斎藤は宿敵、緋村抜刀斎を今ここで葬らんと、刃に全てを乗せて斬り込んだ。
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