34.警官と密偵
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日が高くなり昼間の暖かさが増すたび、夢主は春の訪れを近くに感じた。
瓦斯燈を見に行く夜を待ちわびている。
しかし朝晩の手足が痺れる寒さは消えず、吐く息が白く変わる朝は続いた。
斎藤はある日、新しく赴任してきた密偵に町を案内していた。
東京府に馴染みのない男を連れ歩くのは破落戸どもが集まる町外れ、賭博屋、吉原から夜鷹が現れる土手道まで、通常ならば近付きたくない場所ばかり。
二人は袴に詰襟シャツの裾を押し込んで着ている。いくらか変わった服装になるが、物騒な地を歩くのに警官の制服を着るよりはましだった。
戦闘になった時も動きやすい。それぞれ腰に日本刀を帯びて歩いていた。
「藤田さん、あれは」
土手を上りきった所で河原に顔を向けると、喧嘩をしている若者達が見えた。町からは見えないが、土手に上がれば丸見えだ。
それでも土の壁が男達の怒号を防ぐのか、たいした騒ぎには聞こえない。
「止めに行きますか」
「放っておけ、周りに市民もいない。ありゃあただの喧嘩だろう」
「そうですか……ですが」
男が一人殴られて、耐え切れずに倒れ込んだ。尻をついて立ち上がれないようだ。
殴った男は既に次の男に標的を変えている。
「見ろ、馬鹿共の憂さ晴らしだ。死人は出んさ。馬鹿共なりに弁えた喧嘩だ」
このまま捨て置いてもたいした騒ぎにはなるまい。度が過ぎれば誰かが警官を呼びに行くものだ。
一対多数というのが気になるが、その一人の拳が一番強く見える。問題ないだろう。
斎藤は喧嘩を横目に入れたまま歩き始めた。
「それよりもまだお前に教えることが山ほど、ある……」
「藤田さん?」
……あのトリ頭、どこかで……
ふと目に留まった若造の後ろ姿に足を止めた。
白い服に赤い鉢巻、見覚えある姿だ。
……白い上着にあれは……悪の一文字、あの餓鬼か……
あれはいつかの河原で同じように喧嘩をしていた子供ではないか。少しの間に随分とがたいが良くなったものだ。
斎藤は感心するように「ほぅ」と小さく呟いた。
ヤクザ連中と警官に喧嘩を売って逃げ去った阿呆ぶりは健在らしい。
今回も多数を相手に一人立ち向かっている。
以前と違うのは低かった背が伸びて、取り囲む連中との差が無くなっている事だ。
「やはり止めに行きますか」
「いや、いい。行くぞ」
面白い阿呆だ……フンと鼻をならした斎藤は今度こそ歩き始めた。
「やはり若者の喧嘩は多いのですね、大事に至らなければ良いのですが」
「ああいうのは余程でなければ介入しなくて良い。すぐに警官が駆け付けるさ。場合によっては多少の怪我人も見過ごさねばならん。己の存在を悟られてはならん時、その時は覚悟を決めてただ見守るんだな」
「はい、心得ております」
時に目を瞑らなくてはならない。
心身ともに強靭でなければ務まらぬ役回りだ。
「この辺りは道場がいくつかある。幸いどこも忠恕ある道場主ばかりだ。顔を知っておくといい」
土手を行き、再び町に下りると斎藤は町道場の話を始めた。
強い門弟を多く抱える道場は江戸時代の町火消しのように有事の際、頼りになる存在だ。
ただ剣術が下火になりつつある今、実際どこまで頼りになるかは分からない。
そして一箇所、井上道場を紹介するには気が引ける。
だが素通りも出来ず、他の道場と同じように看板が掲げられた門前を通り「ここも道場だ。井上道場、新しいが悪くはない」と短く告げた。
最後の道場を通り過ぎて案内を終えた時、連れ立つ男が無視できない話を持ち出した。
「この辺りの道場、噂の別嬪さんがいるそうですが、藤田さんはご存知なのでしょうね」
「別嬪?」
「えぇ、ご存知ありませんか、身分ある女人が逃げてきてこの辺りの道場に住んでいるらしいのです」
「そんな話は聞いたこともない」
「そうですか……身分ある女人が浪人と駆け落ちをし身の上を隠して暮らしている。普段は厳つい顔の用心棒が守っていると、そう聞きました。若い巡査の間ではもっぱら有名な噂です」
「ほぅ、それは初耳だな」
嫌な予感に顔が歪む。
身の上に謎を持つ別嬪の女だと。道場に住み浪人と暮らしている……それは夢主と沖田ではないか、ならば厳つい顔の用心棒が己という事になる。
不愉快さが眉間の深い皺となった。
瓦斯燈を見に行く夜を待ちわびている。
しかし朝晩の手足が痺れる寒さは消えず、吐く息が白く変わる朝は続いた。
斎藤はある日、新しく赴任してきた密偵に町を案内していた。
東京府に馴染みのない男を連れ歩くのは破落戸どもが集まる町外れ、賭博屋、吉原から夜鷹が現れる土手道まで、通常ならば近付きたくない場所ばかり。
二人は袴に詰襟シャツの裾を押し込んで着ている。いくらか変わった服装になるが、物騒な地を歩くのに警官の制服を着るよりはましだった。
戦闘になった時も動きやすい。それぞれ腰に日本刀を帯びて歩いていた。
「藤田さん、あれは」
土手を上りきった所で河原に顔を向けると、喧嘩をしている若者達が見えた。町からは見えないが、土手に上がれば丸見えだ。
それでも土の壁が男達の怒号を防ぐのか、たいした騒ぎには聞こえない。
「止めに行きますか」
「放っておけ、周りに市民もいない。ありゃあただの喧嘩だろう」
「そうですか……ですが」
男が一人殴られて、耐え切れずに倒れ込んだ。尻をついて立ち上がれないようだ。
殴った男は既に次の男に標的を変えている。
「見ろ、馬鹿共の憂さ晴らしだ。死人は出んさ。馬鹿共なりに弁えた喧嘩だ」
このまま捨て置いてもたいした騒ぎにはなるまい。度が過ぎれば誰かが警官を呼びに行くものだ。
一対多数というのが気になるが、その一人の拳が一番強く見える。問題ないだろう。
斎藤は喧嘩を横目に入れたまま歩き始めた。
「それよりもまだお前に教えることが山ほど、ある……」
「藤田さん?」
……あのトリ頭、どこかで……
ふと目に留まった若造の後ろ姿に足を止めた。
白い服に赤い鉢巻、見覚えある姿だ。
……白い上着にあれは……悪の一文字、あの餓鬼か……
あれはいつかの河原で同じように喧嘩をしていた子供ではないか。少しの間に随分とがたいが良くなったものだ。
斎藤は感心するように「ほぅ」と小さく呟いた。
ヤクザ連中と警官に喧嘩を売って逃げ去った阿呆ぶりは健在らしい。
今回も多数を相手に一人立ち向かっている。
以前と違うのは低かった背が伸びて、取り囲む連中との差が無くなっている事だ。
「やはり止めに行きますか」
「いや、いい。行くぞ」
面白い阿呆だ……フンと鼻をならした斎藤は今度こそ歩き始めた。
「やはり若者の喧嘩は多いのですね、大事に至らなければ良いのですが」
「ああいうのは余程でなければ介入しなくて良い。すぐに警官が駆け付けるさ。場合によっては多少の怪我人も見過ごさねばならん。己の存在を悟られてはならん時、その時は覚悟を決めてただ見守るんだな」
「はい、心得ております」
時に目を瞑らなくてはならない。
心身ともに強靭でなければ務まらぬ役回りだ。
「この辺りは道場がいくつかある。幸いどこも忠恕ある道場主ばかりだ。顔を知っておくといい」
土手を行き、再び町に下りると斎藤は町道場の話を始めた。
強い門弟を多く抱える道場は江戸時代の町火消しのように有事の際、頼りになる存在だ。
ただ剣術が下火になりつつある今、実際どこまで頼りになるかは分からない。
そして一箇所、井上道場を紹介するには気が引ける。
だが素通りも出来ず、他の道場と同じように看板が掲げられた門前を通り「ここも道場だ。井上道場、新しいが悪くはない」と短く告げた。
最後の道場を通り過ぎて案内を終えた時、連れ立つ男が無視できない話を持ち出した。
「この辺りの道場、噂の別嬪さんがいるそうですが、藤田さんはご存知なのでしょうね」
「別嬪?」
「えぇ、ご存知ありませんか、身分ある女人が逃げてきてこの辺りの道場に住んでいるらしいのです」
「そんな話は聞いたこともない」
「そうですか……身分ある女人が浪人と駆け落ちをし身の上を隠して暮らしている。普段は厳つい顔の用心棒が守っていると、そう聞きました。若い巡査の間ではもっぱら有名な噂です」
「ほぅ、それは初耳だな」
嫌な予感に顔が歪む。
身の上に謎を持つ別嬪の女だと。道場に住み浪人と暮らしている……それは夢主と沖田ではないか、ならば厳つい顔の用心棒が己という事になる。
不愉快さが眉間の深い皺となった。