【幕・明】明治10年、振り子時計の悪戯
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明治十年、十月十日、午前十時十分。
朝の家事を終えた夢主は、柱に掛けられた時計の前にいた。
手には巻鍵、そろそろゼンマイを巻く頃合いだと、思い立ってのことだ。
鍵を差す穴は文字盤上にある。鍵穴に目を留める寸前、夢主は針が示す時刻に目を丸くした。
時計のそばには暦が貼られている。暦と時計の間で目線を行き来させた夢主は、暦を読み上げた。
「明治10年の10月10日……10時10分!」
夢主の声は弾んでいた。
同じ数字の並び、しかもキリが良い十の数字で、元号まで同じとなれば、滅多に味わえるものではない。
貴重な瞬間を誰かに伝えたいが、夫である斎藤は既に家を出ている。
そうこうしている内に針は進んでしまう。
誰かに伝えたい想いは叶わず、針は間もなく次の目盛りを指すだろう。
「あぁぁぁ時間が変わっちゃう! 夜、一さんに伝えようかな。しょうもないって笑うかな。ふふっ」
残念だけど仕方がない。
貴重な瞬間をひとり楽しんだ夢主は、愛おしげに時計に触れた。
日常に溶け込むこの時計は、珍しい瞬間を教えてくれて、分かち合えた存在かもしれない。そう思い、微笑んだ。すると突然、視界が歪んだ。
時計の文字盤だけが鮮明に見えている。自分を取り巻く世界が円を描くように大きく歪み、ぐにゃりと回転する感覚に覆われて、夢主は意識を失った。
夢主の手から零れ落ちた巻鍵だけが、畳に落ちた。
──おぃ、おい。大丈夫か。
「ん……」
意識が途切れ、体が動かない。
そんな夢主の耳に、馴染みある声が繰り返し届き、徐々に意識が呼び戻されていった。
蘇りつつある弱い思考の中、そうだ、おかしな感覚に襲われたのだと、思い出す。
「おい起きろ、大丈夫か」
「はぃ……は、一さん?!!」
夢主は自分を起こした主に驚き、勢いよく身を起こした。
出勤したはずの斎藤が目の前にいる。
いや、それよりも何か、違和感がある。着物だ。何故か斎藤が着物に着替えている。
ぼんやりする頭で斎藤を見つめる夢主が、覚醒したように目を見開いた。
「えっ、どうしてっ、一さん?!!」
斎藤の髪が、長かった。
前髪こそ変わらないが、総髪の髷がごとく、長い髪を後ろで一つに束ねている。見覚えある、懐かしい髪形だ。
辺りを見れば、部屋の様子も異なっていた。
知らぬ場所ではない。だが、住み慣れた我が家とは異なる場所だ。
片づけたはずの布団が再び敷かれている。いや、その布団も朝、畳んだものとは異なっていた。
斎藤が見守る中、部屋を見回した夢主は、ある物に目を止めて身を乗り出した。
「衝立っ!」
「衝立がどうした」
「あの衝立、昔の……屯所にあった衝立では」
夢主が指さした衝立は、沖田の屋敷から運んだ物ではなかった。沖田から譲り受けた衝立は似ていた。昔懐かしく、愛おしい日々を傍で見守ってくれた衝立に似ていたから、新居に置くことを望んだのだ。
今、夢主の目の前には、その衝立ではなく、思い出の中の衝立が置かれている。
「ここがその屯所だろう、何を言っている」
「だって一さっ……」
「さっきからハジメ、ハジメと、随分馴れ馴れしくなったものだな。倒れた拍子に頭でも打ったか」
状況を飲み込み始めた夢主は、体の強張りを感じた。
閉じた部屋の障子も、衝立と同じく違和感を訴えている。障子の向こうからは、聞こえるはずのない男の声が複数近づき、遠ざかって行った。
衝立が懐かしい物に入れ替わっている理由も、斎藤の髪が長い理由も、一と呼ばれて不機嫌な理由も、ひとつに繋がっていく。
「本当に頭を打ったんじゃあないのか」
「い、いぇ、あの、そ……そうかも、しれません」
夢主が手に触れた布団を掴んで強く握りしめると、その力を和らげる、温かな声が届いた。
「どうしたんです?」
「総司さん!」
「えっ」
「総司さんっ、沖田、総司さん……」
「えぇそうですよ、沖田総司です」
戸惑う夢主の前に、沖田総司が顔を覗かせた。
部屋に入るなり真っ直ぐ布団までやってきて、言葉通り、夢主を覗き込んだ。
裏心のない笑顔は、部屋の緊張を一気に解す。
「大きな物音がしたので、頭でも打ってしまったのかと心配したんですよ。顔色は良さそうですね」
「お前、気を失っていたんだぞ」
この屯所にやってきた時と同じように、気を失って倒れていた。だから布団に寝かされたのだ。
流石の斎藤も、倒れた夢主を見つけて血の気が引いた。故に気を張った様子で夢主に接していた。
障りないと分かるや、斎藤も俄かに肩の力を抜いた。
「すみません、大丈夫です、ただの立ち眩みだと思います」
「本当に大丈夫か」
二人の男が自分を案じて首を傾げている。
夢主は、自分が十年前に戻ったのだと認識した。
どうしてこんなことが起きたのか。
考えて思い出すのは、時計と暦だ。数字の並びに驚いたあと、おかしな感覚に襲われて気を失った。
元の時代に戻れるのだろうか。
「屯所に、時計なんてありませんよね」
「時計だと」
時計がきっかけであれば、戻るにも時計が必要かもしれない。
戻れる機会は一度だけ。そんな気がした夢主は、身震いを起こした。
この世界にいた、もうひとりの自分が消えている。そう感じる。
この時代の自分が同じように時を越えたならば、行先は入れ替わり、明治の世だろうか。
そうであれば、夫である斎藤が気付き、異変の機巧を解くきっかけを見つけてくれるかもしれない。
「お願いします、一さん……」
夢主は思わず夫の名を声にして、祈るように手を合わせた。
その様子に斎藤は苦い顔を見せた。やけに馴れ馴れしく呼ばれたかと思えば、己のことでは無いと見える。
斎藤は無言で顎を小さく振り、沖田を廊下へ連れ出した。
「どう思う」
「夢主ちゃんですか?」
眉間の皺がこの上なく深く刻まれている。沖田はその皺を見て、密かに笑った。
「様子がおかしいと思わんか」
「確かにいつもと少し違いますが、夢主ちゃんには違いありませんよ」
「何故言い切れる。鎌でも掛けてみるか」
「必要ありませんよ。だって、夢主ちゃんの匂いがしましたもの」
ふふんと笑んで、匂いを嗅ぐ仕草をした沖田の頭に、直上から斎藤の拳が落ちた。
「いだっ!! 何するんですか!」
「ったく阿呆が!」
斎藤は君に聞くんじゃなかったとばかりに再び肩を怒らせ、部屋に戻るなり、ぴしゃりと障子を閉めた。沖田は廊下に置き去りだ。
思わぬ音と衝撃に、夢主はビクリと跳ねた。
反射的な驚きは怯えか、嘘偽りを抱える警戒からくるものか。
斎藤は、座り込む夢主を睨み下ろした。
鎌、か。
斎藤が一歩、二歩と、威圧を与えながら時間を掛け、じっくりと近づく。
出会ったばかりの夢主なら、目に涙を浮かべただろう。怯えて肩を震わせたかもしれない。
しかし妻として斎藤に向き合って長い夢主は、たじろぐも、逃げずに視線をぶつけた。
「貴様、何者だ。夢主じゃないな。夢主を模した間者か? 夢主を何処へやった」
斎藤は違和感が気になって仕方がなかった。
夢主に違いないと訴える声と、己が知る夢主とは何かが異なると認める声が、斎藤の中でせめぎあっている。
どっちだ。どちらの声が正しい。
真偽が分からぬもどかしさをぶつけるように、斎藤は夢主に視線と剣気を叩きつけていた。
「っ、さ、斎藤さっ……私は、私です」
視線には耐えても、体中に叩き付けられ、貫き、その場に刺止められるような鋭い剣気には抗えず、夢主は声を歪めた。
夢主に怖さがあるなら、理解してもらえぬ怖さだ。気づいて欲しい。この人なら、きっと分かってくれる。夢主は懸命に斎藤を見つめ返した。
「こうまでされて、耐えられる夢主ではない。やはり貴様、別人だな」
「っ、違ぅ……」
斎藤は苦しそうな夢主の手首を掴み、畳に押し付けた。
何だこの女は。
睨み続ける斎藤の脳裏に、沖田の声が蘇る。
匂いだと、阿呆臭い。だが、俺が夢主の匂いを知らぬ訳ではない。
ちっ、と無意識の舌打ちをして、斎藤は夢主に顔を寄せた。
「んっ」
身を強張らせて抗う女の首筋に鼻を寄せ、静かに深く息を吸った斎藤は、匂いの記憶に脳髄を叩かれた。
鼻腔を抜けて届く匂いは、感覚を変えて体中に広がる。
この得も言われる感覚、手足の指先まで疼き、意味もなく全身に力を籠めたい衝動に駆られる。堪え難い感情が湧き起こる。細い手首を掴む手に力が籠められていく。
これ以上は駄目だ。
これ以上、この匂いを吸い込んではならぬ。
己を律した斎藤は、夢主の首筋で深い溜息を吐いた。
斎藤の視界の外で、夢主はその深く熱い溜息を直に受け、身を縮めていた。
驚きだった。同じ人物であるのに、夫である斎藤とは全く異なる感覚だ。
自分を押さえる力も、向けられる視線も、声色も、息の感覚までもが異なる。
後ろで束ねた斎藤の長い髪が届き、動くたびに体を擽る。
目の前の斎藤も知っているはずなのに、与えられる感覚は初めて受けるものと体が錯覚し、五感を刺激され、戸惑っていた。
斎藤は顔を確かめようと身を離し、ほんのり色づく夢主を見下ろした。
手首を固定され、体を押さえ込まれた夢主は、何かを訴えるよう斎藤を見上げていた。
「貴様……」
何かが異なる。だがこの姿、この恥じらい、似ている。
本当に夢主なのか。
斎藤は再び屈むと、鼻と鼻が触れるほどに顔を近づけた。
「本当に、夢主なんだな」
熱い息が掛かり、夢主は息を吞んだ。
肌が触れそうな怖さを感じつつ、小さく頷くと、斎藤は観念したように、今度こそ完全に体を離した。そして、長い溜息を部屋に響かせた。
斎藤が味わったのは間違えようもない、夢主の匂いそのものだった。
溜息が消えて、部屋に静けさが蘇る。
夢主は、おずおずと身を起こし、考えを述べた。
「あ、あの、推測なのですが、私……十年後の私です」
自ら確かめた現実と違和感に困惑する斎藤の眉間の皺が、更に深く浮き上がった。
「厳密にいえば、十数年……十数年後、この時代の私、貴方がたがよく知る私は今、十数年後の世界にいて、入れ替わってしまったんだと思います」
「正気か」
「時の悪戯とでも言いますか……実際、斎藤さんの前に急に現れた私がいるんです、入れ替わったとしか……。入れ替わった私は、きっと私の家にいるでしょうから、大丈夫です」
「断言できるのか、何故だ」
「それは、私たちが居た場所同士で入れ替わったとすれば、十数年後の世界で一さっ……斎藤さんがそばにいらっしゃるからです。沖田さんもそばにいてくださいます」
「俺が」
どういう意味だ。眉をぴくりと動かす。沖田も共にいるのならば、今と変わらぬ世が続いているということか。
斎藤は、ふぅと大きく息を吐いた。
「それでお前は馴れ馴れしい訳か。まぁ十年も傍にいれば、というコトか」
言いながら、己の言葉に疑問を抱いた斎藤は、俄かに首を傾げた。
今後十年、今と変わらぬ混乱が続くのか。
それとも世が落ち着き、それでも尚、俺たちは近しい関係を続けているのか。
「妙なもんだ」
「本当に、おかしなものですね、夢主ちゃん」
「沖田さんっ」
障子の向こう、静けさの中で沖田は待っていた。
斎藤の鎌掛けを黙認し、割って入りたい想いを制し、声を掛ける時機を待っていた。
姿を現した沖田は、にこやかに笑んでいた。
「でも嬉しいですね、十年後も一緒にいられるようで」
「はぃ。でもきっと、この出来事は忘れてしまうと思うんです」
「どうしてですか?」
「はっきりした理由はわかりませんが、なんとなく……ただ、私は今回のこと、何も覚えていませんでしたから」
「ほぅ。意図せぬ出来事か、繰り返されているのか不明だが、記憶が残らんのは確からしいな」
「この記憶を失ってしまうのは淋しいですが、変わらずそばにいられる事実があるならば、僕は構いませんよ」
「沖田さん……」
優しく微笑む沖田だが、その穏やかさを打ち消すように、音もなく人影が現れた。温かくも緊張感を漂わせる空気が広がる。
「騒々しいな」
「ひ、土方さんっ!」
沖田の背後から現れた土方の姿に、夢主は飛び上がった。背中を痛めるぞと斎藤が言いたくなるほど素早く立ち上がり、小走りに歩み寄る。土方が無意識に背を反らすくらい、夢主は背筋をこれでもかと伸ばして、土方を見上げた。
感極まった夢主は、自らの口を覆い隠した。
最後に土方の姿を見たのは、冬の海風が吹き荒ぶ、寂しげな崖の上だった。
冷たい風の中に立つ土方は総髪の髷を切り落とし、西洋仕立ての軍服に身を包んでいた。
肌を刺す寒さと、激しい風音が強い記憶となり残っている。
薄暗い冬の景色の中、真っ黒な軍服が鮮烈な存在だった。
寂寥の念に搔き立てられた夢主は、土方に飛びつきそうになるのを懸命に堪えた。生きている。生命力に満ちた、力強い佇まいで立っている。組んだ腕が袖から覗き、浮き上がる血管や筋は、命そのものを見せているようだった。
嬉しさのあまり浮かび上がる涙を隠すため、夢主は目を何度も瞬いた。
「な、何でぃ」
「ひ、土方さんっ……は、お、鬼の副長っ」
「てめっ、今日は随分と調子がいいみてぇだな。ったく、騒ぐんじゃねぇぞ!」
想定外の一言に機嫌を損ねた土方は、心配して来てやったんだぞと言いたげに、夢主の額を軽く小突いて部屋を後にした。
感情を隠した夢主が咄嗟に引っ張り出した言葉は、土方の威勢の良い声となって返ってきた。
小突かれたことで、浮かんだ涙は痛みの弾みだと誤魔化せる。夢主は「えへへ」と笑って目尻を拭った。
「ははっ、大丈夫ですか夢主ちゃん。本当にいつもの夢主ちゃんでは無いようですね」
土方を前に怯みもせず、それどころか駆け寄って悪態を吐くとは。
沖田が夢主を笑うと、斎藤もつられるようにフッと笑っていた。どうやらコイツの話は真実。土方に対する態度で腑に落ちた斎藤も、沖田も、消えた夢主に意識が向いた。
「ですが、十年後に飛んだ夢主ちゃんは心配ですね」
「あぁ確かに。十年後とやらのお前は少々落ち着きがあるものの、俺たちが知る夢主は押しに弱く怯えがちだ。己に自信がないのか、世界を怖がっているのか。元に戻るまでの僅かな間だとしても、十年後の世界でやっていけるのか」
「本当にそれです、僕はともかく十年後の斎藤さんを想像してみてください? 傍にいるんですよ? あぁ厭らしいに違いありません、今ですらこうなんですから」
「君は俺に喧嘩を売っているのか。君とて十年経てば図々しさが更に増して、夢主を困らせているんじゃあないのか?」
「あぁぁ、あの……」
夢主は十数年前の自分を思い出し、途端に不安に襲われた。確かに昔の自分を思うと、心細い。
斎藤も沖田も誠実で優しい男だ。弱みに付け込んだり、弄ぶような真似はしない。だろう。きっと、そのはず。しかし拭い切れない不安から、本音を零してしまった。
「一さん、意地悪だから……」
「ほら! 斎藤さん聞きました?」
「ちっ、阿呆が、戯言だろ」
斎藤と沖田がやんやとはしゃぐ傍で、夢主は悪い想像を膨らませていた。
鋭い斎藤だから、普段と異なる妻にはすぐ気付くだろう。誠実に接してくれるならば問題はない。
だがもし、悪い癖が出てしまったら。幼気な昔の私は深く傷つくのではないか。
笑いごとではない。
夢主は若い二人の楽しげな姿を眺めた。
十数年後の世界も、こうであって欲しいと願い、見つめていた。
朝の家事を終えた夢主は、柱に掛けられた時計の前にいた。
手には巻鍵、そろそろゼンマイを巻く頃合いだと、思い立ってのことだ。
鍵を差す穴は文字盤上にある。鍵穴に目を留める寸前、夢主は針が示す時刻に目を丸くした。
時計のそばには暦が貼られている。暦と時計の間で目線を行き来させた夢主は、暦を読み上げた。
「明治10年の10月10日……10時10分!」
夢主の声は弾んでいた。
同じ数字の並び、しかもキリが良い十の数字で、元号まで同じとなれば、滅多に味わえるものではない。
貴重な瞬間を誰かに伝えたいが、夫である斎藤は既に家を出ている。
そうこうしている内に針は進んでしまう。
誰かに伝えたい想いは叶わず、針は間もなく次の目盛りを指すだろう。
「あぁぁぁ時間が変わっちゃう! 夜、一さんに伝えようかな。しょうもないって笑うかな。ふふっ」
残念だけど仕方がない。
貴重な瞬間をひとり楽しんだ夢主は、愛おしげに時計に触れた。
日常に溶け込むこの時計は、珍しい瞬間を教えてくれて、分かち合えた存在かもしれない。そう思い、微笑んだ。すると突然、視界が歪んだ。
時計の文字盤だけが鮮明に見えている。自分を取り巻く世界が円を描くように大きく歪み、ぐにゃりと回転する感覚に覆われて、夢主は意識を失った。
夢主の手から零れ落ちた巻鍵だけが、畳に落ちた。
──おぃ、おい。大丈夫か。
「ん……」
意識が途切れ、体が動かない。
そんな夢主の耳に、馴染みある声が繰り返し届き、徐々に意識が呼び戻されていった。
蘇りつつある弱い思考の中、そうだ、おかしな感覚に襲われたのだと、思い出す。
「おい起きろ、大丈夫か」
「はぃ……は、一さん?!!」
夢主は自分を起こした主に驚き、勢いよく身を起こした。
出勤したはずの斎藤が目の前にいる。
いや、それよりも何か、違和感がある。着物だ。何故か斎藤が着物に着替えている。
ぼんやりする頭で斎藤を見つめる夢主が、覚醒したように目を見開いた。
「えっ、どうしてっ、一さん?!!」
斎藤の髪が、長かった。
前髪こそ変わらないが、総髪の髷がごとく、長い髪を後ろで一つに束ねている。見覚えある、懐かしい髪形だ。
辺りを見れば、部屋の様子も異なっていた。
知らぬ場所ではない。だが、住み慣れた我が家とは異なる場所だ。
片づけたはずの布団が再び敷かれている。いや、その布団も朝、畳んだものとは異なっていた。
斎藤が見守る中、部屋を見回した夢主は、ある物に目を止めて身を乗り出した。
「衝立っ!」
「衝立がどうした」
「あの衝立、昔の……屯所にあった衝立では」
夢主が指さした衝立は、沖田の屋敷から運んだ物ではなかった。沖田から譲り受けた衝立は似ていた。昔懐かしく、愛おしい日々を傍で見守ってくれた衝立に似ていたから、新居に置くことを望んだのだ。
今、夢主の目の前には、その衝立ではなく、思い出の中の衝立が置かれている。
「ここがその屯所だろう、何を言っている」
「だって一さっ……」
「さっきからハジメ、ハジメと、随分馴れ馴れしくなったものだな。倒れた拍子に頭でも打ったか」
状況を飲み込み始めた夢主は、体の強張りを感じた。
閉じた部屋の障子も、衝立と同じく違和感を訴えている。障子の向こうからは、聞こえるはずのない男の声が複数近づき、遠ざかって行った。
衝立が懐かしい物に入れ替わっている理由も、斎藤の髪が長い理由も、一と呼ばれて不機嫌な理由も、ひとつに繋がっていく。
「本当に頭を打ったんじゃあないのか」
「い、いぇ、あの、そ……そうかも、しれません」
夢主が手に触れた布団を掴んで強く握りしめると、その力を和らげる、温かな声が届いた。
「どうしたんです?」
「総司さん!」
「えっ」
「総司さんっ、沖田、総司さん……」
「えぇそうですよ、沖田総司です」
戸惑う夢主の前に、沖田総司が顔を覗かせた。
部屋に入るなり真っ直ぐ布団までやってきて、言葉通り、夢主を覗き込んだ。
裏心のない笑顔は、部屋の緊張を一気に解す。
「大きな物音がしたので、頭でも打ってしまったのかと心配したんですよ。顔色は良さそうですね」
「お前、気を失っていたんだぞ」
この屯所にやってきた時と同じように、気を失って倒れていた。だから布団に寝かされたのだ。
流石の斎藤も、倒れた夢主を見つけて血の気が引いた。故に気を張った様子で夢主に接していた。
障りないと分かるや、斎藤も俄かに肩の力を抜いた。
「すみません、大丈夫です、ただの立ち眩みだと思います」
「本当に大丈夫か」
二人の男が自分を案じて首を傾げている。
夢主は、自分が十年前に戻ったのだと認識した。
どうしてこんなことが起きたのか。
考えて思い出すのは、時計と暦だ。数字の並びに驚いたあと、おかしな感覚に襲われて気を失った。
元の時代に戻れるのだろうか。
「屯所に、時計なんてありませんよね」
「時計だと」
時計がきっかけであれば、戻るにも時計が必要かもしれない。
戻れる機会は一度だけ。そんな気がした夢主は、身震いを起こした。
この世界にいた、もうひとりの自分が消えている。そう感じる。
この時代の自分が同じように時を越えたならば、行先は入れ替わり、明治の世だろうか。
そうであれば、夫である斎藤が気付き、異変の機巧を解くきっかけを見つけてくれるかもしれない。
「お願いします、一さん……」
夢主は思わず夫の名を声にして、祈るように手を合わせた。
その様子に斎藤は苦い顔を見せた。やけに馴れ馴れしく呼ばれたかと思えば、己のことでは無いと見える。
斎藤は無言で顎を小さく振り、沖田を廊下へ連れ出した。
「どう思う」
「夢主ちゃんですか?」
眉間の皺がこの上なく深く刻まれている。沖田はその皺を見て、密かに笑った。
「様子がおかしいと思わんか」
「確かにいつもと少し違いますが、夢主ちゃんには違いありませんよ」
「何故言い切れる。鎌でも掛けてみるか」
「必要ありませんよ。だって、夢主ちゃんの匂いがしましたもの」
ふふんと笑んで、匂いを嗅ぐ仕草をした沖田の頭に、直上から斎藤の拳が落ちた。
「いだっ!! 何するんですか!」
「ったく阿呆が!」
斎藤は君に聞くんじゃなかったとばかりに再び肩を怒らせ、部屋に戻るなり、ぴしゃりと障子を閉めた。沖田は廊下に置き去りだ。
思わぬ音と衝撃に、夢主はビクリと跳ねた。
反射的な驚きは怯えか、嘘偽りを抱える警戒からくるものか。
斎藤は、座り込む夢主を睨み下ろした。
鎌、か。
斎藤が一歩、二歩と、威圧を与えながら時間を掛け、じっくりと近づく。
出会ったばかりの夢主なら、目に涙を浮かべただろう。怯えて肩を震わせたかもしれない。
しかし妻として斎藤に向き合って長い夢主は、たじろぐも、逃げずに視線をぶつけた。
「貴様、何者だ。夢主じゃないな。夢主を模した間者か? 夢主を何処へやった」
斎藤は違和感が気になって仕方がなかった。
夢主に違いないと訴える声と、己が知る夢主とは何かが異なると認める声が、斎藤の中でせめぎあっている。
どっちだ。どちらの声が正しい。
真偽が分からぬもどかしさをぶつけるように、斎藤は夢主に視線と剣気を叩きつけていた。
「っ、さ、斎藤さっ……私は、私です」
視線には耐えても、体中に叩き付けられ、貫き、その場に刺止められるような鋭い剣気には抗えず、夢主は声を歪めた。
夢主に怖さがあるなら、理解してもらえぬ怖さだ。気づいて欲しい。この人なら、きっと分かってくれる。夢主は懸命に斎藤を見つめ返した。
「こうまでされて、耐えられる夢主ではない。やはり貴様、別人だな」
「っ、違ぅ……」
斎藤は苦しそうな夢主の手首を掴み、畳に押し付けた。
何だこの女は。
睨み続ける斎藤の脳裏に、沖田の声が蘇る。
匂いだと、阿呆臭い。だが、俺が夢主の匂いを知らぬ訳ではない。
ちっ、と無意識の舌打ちをして、斎藤は夢主に顔を寄せた。
「んっ」
身を強張らせて抗う女の首筋に鼻を寄せ、静かに深く息を吸った斎藤は、匂いの記憶に脳髄を叩かれた。
鼻腔を抜けて届く匂いは、感覚を変えて体中に広がる。
この得も言われる感覚、手足の指先まで疼き、意味もなく全身に力を籠めたい衝動に駆られる。堪え難い感情が湧き起こる。細い手首を掴む手に力が籠められていく。
これ以上は駄目だ。
これ以上、この匂いを吸い込んではならぬ。
己を律した斎藤は、夢主の首筋で深い溜息を吐いた。
斎藤の視界の外で、夢主はその深く熱い溜息を直に受け、身を縮めていた。
驚きだった。同じ人物であるのに、夫である斎藤とは全く異なる感覚だ。
自分を押さえる力も、向けられる視線も、声色も、息の感覚までもが異なる。
後ろで束ねた斎藤の長い髪が届き、動くたびに体を擽る。
目の前の斎藤も知っているはずなのに、与えられる感覚は初めて受けるものと体が錯覚し、五感を刺激され、戸惑っていた。
斎藤は顔を確かめようと身を離し、ほんのり色づく夢主を見下ろした。
手首を固定され、体を押さえ込まれた夢主は、何かを訴えるよう斎藤を見上げていた。
「貴様……」
何かが異なる。だがこの姿、この恥じらい、似ている。
本当に夢主なのか。
斎藤は再び屈むと、鼻と鼻が触れるほどに顔を近づけた。
「本当に、夢主なんだな」
熱い息が掛かり、夢主は息を吞んだ。
肌が触れそうな怖さを感じつつ、小さく頷くと、斎藤は観念したように、今度こそ完全に体を離した。そして、長い溜息を部屋に響かせた。
斎藤が味わったのは間違えようもない、夢主の匂いそのものだった。
溜息が消えて、部屋に静けさが蘇る。
夢主は、おずおずと身を起こし、考えを述べた。
「あ、あの、推測なのですが、私……十年後の私です」
自ら確かめた現実と違和感に困惑する斎藤の眉間の皺が、更に深く浮き上がった。
「厳密にいえば、十数年……十数年後、この時代の私、貴方がたがよく知る私は今、十数年後の世界にいて、入れ替わってしまったんだと思います」
「正気か」
「時の悪戯とでも言いますか……実際、斎藤さんの前に急に現れた私がいるんです、入れ替わったとしか……。入れ替わった私は、きっと私の家にいるでしょうから、大丈夫です」
「断言できるのか、何故だ」
「それは、私たちが居た場所同士で入れ替わったとすれば、十数年後の世界で一さっ……斎藤さんがそばにいらっしゃるからです。沖田さんもそばにいてくださいます」
「俺が」
どういう意味だ。眉をぴくりと動かす。沖田も共にいるのならば、今と変わらぬ世が続いているということか。
斎藤は、ふぅと大きく息を吐いた。
「それでお前は馴れ馴れしい訳か。まぁ十年も傍にいれば、というコトか」
言いながら、己の言葉に疑問を抱いた斎藤は、俄かに首を傾げた。
今後十年、今と変わらぬ混乱が続くのか。
それとも世が落ち着き、それでも尚、俺たちは近しい関係を続けているのか。
「妙なもんだ」
「本当に、おかしなものですね、夢主ちゃん」
「沖田さんっ」
障子の向こう、静けさの中で沖田は待っていた。
斎藤の鎌掛けを黙認し、割って入りたい想いを制し、声を掛ける時機を待っていた。
姿を現した沖田は、にこやかに笑んでいた。
「でも嬉しいですね、十年後も一緒にいられるようで」
「はぃ。でもきっと、この出来事は忘れてしまうと思うんです」
「どうしてですか?」
「はっきりした理由はわかりませんが、なんとなく……ただ、私は今回のこと、何も覚えていませんでしたから」
「ほぅ。意図せぬ出来事か、繰り返されているのか不明だが、記憶が残らんのは確からしいな」
「この記憶を失ってしまうのは淋しいですが、変わらずそばにいられる事実があるならば、僕は構いませんよ」
「沖田さん……」
優しく微笑む沖田だが、その穏やかさを打ち消すように、音もなく人影が現れた。温かくも緊張感を漂わせる空気が広がる。
「騒々しいな」
「ひ、土方さんっ!」
沖田の背後から現れた土方の姿に、夢主は飛び上がった。背中を痛めるぞと斎藤が言いたくなるほど素早く立ち上がり、小走りに歩み寄る。土方が無意識に背を反らすくらい、夢主は背筋をこれでもかと伸ばして、土方を見上げた。
感極まった夢主は、自らの口を覆い隠した。
最後に土方の姿を見たのは、冬の海風が吹き荒ぶ、寂しげな崖の上だった。
冷たい風の中に立つ土方は総髪の髷を切り落とし、西洋仕立ての軍服に身を包んでいた。
肌を刺す寒さと、激しい風音が強い記憶となり残っている。
薄暗い冬の景色の中、真っ黒な軍服が鮮烈な存在だった。
寂寥の念に搔き立てられた夢主は、土方に飛びつきそうになるのを懸命に堪えた。生きている。生命力に満ちた、力強い佇まいで立っている。組んだ腕が袖から覗き、浮き上がる血管や筋は、命そのものを見せているようだった。
嬉しさのあまり浮かび上がる涙を隠すため、夢主は目を何度も瞬いた。
「な、何でぃ」
「ひ、土方さんっ……は、お、鬼の副長っ」
「てめっ、今日は随分と調子がいいみてぇだな。ったく、騒ぐんじゃねぇぞ!」
想定外の一言に機嫌を損ねた土方は、心配して来てやったんだぞと言いたげに、夢主の額を軽く小突いて部屋を後にした。
感情を隠した夢主が咄嗟に引っ張り出した言葉は、土方の威勢の良い声となって返ってきた。
小突かれたことで、浮かんだ涙は痛みの弾みだと誤魔化せる。夢主は「えへへ」と笑って目尻を拭った。
「ははっ、大丈夫ですか夢主ちゃん。本当にいつもの夢主ちゃんでは無いようですね」
土方を前に怯みもせず、それどころか駆け寄って悪態を吐くとは。
沖田が夢主を笑うと、斎藤もつられるようにフッと笑っていた。どうやらコイツの話は真実。土方に対する態度で腑に落ちた斎藤も、沖田も、消えた夢主に意識が向いた。
「ですが、十年後に飛んだ夢主ちゃんは心配ですね」
「あぁ確かに。十年後とやらのお前は少々落ち着きがあるものの、俺たちが知る夢主は押しに弱く怯えがちだ。己に自信がないのか、世界を怖がっているのか。元に戻るまでの僅かな間だとしても、十年後の世界でやっていけるのか」
「本当にそれです、僕はともかく十年後の斎藤さんを想像してみてください? 傍にいるんですよ? あぁ厭らしいに違いありません、今ですらこうなんですから」
「君は俺に喧嘩を売っているのか。君とて十年経てば図々しさが更に増して、夢主を困らせているんじゃあないのか?」
「あぁぁ、あの……」
夢主は十数年前の自分を思い出し、途端に不安に襲われた。確かに昔の自分を思うと、心細い。
斎藤も沖田も誠実で優しい男だ。弱みに付け込んだり、弄ぶような真似はしない。だろう。きっと、そのはず。しかし拭い切れない不安から、本音を零してしまった。
「一さん、意地悪だから……」
「ほら! 斎藤さん聞きました?」
「ちっ、阿呆が、戯言だろ」
斎藤と沖田がやんやとはしゃぐ傍で、夢主は悪い想像を膨らませていた。
鋭い斎藤だから、普段と異なる妻にはすぐ気付くだろう。誠実に接してくれるならば問題はない。
だがもし、悪い癖が出てしまったら。幼気な昔の私は深く傷つくのではないか。
笑いごとではない。
夢主は若い二人の楽しげな姿を眺めた。
十数年後の世界も、こうであって欲しいと願い、見つめていた。