【明】月見舟
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人の往来が静まった夜の町は、いつしか、秋の虫の音に包まれていた。
何処からともなく、そこらじゅうで、薄布で覆われたように柔らかに響いている。
そんな穏やかな空間を、斎藤と夢主は歩いていた。
家を出てふらりと南へ歩き、神田川を越えたら夜食を取って一休み、それからまた歩いて通り過ぎざまに酒処の笑い声を聞き、人の気配が途切れると、また虫の音に耳を澄ませた。
二人きりの夜道、他愛のない話をしながら袖を振り合わせた長い散歩は、帰り道に差し掛かっていた。
今宵は珍しく、斎藤と夢主が似た姿をしている。夢主の可愛い我が儘に付き合って、斎藤は着流し姿だった。夢主にとってはお揃いか、和装デートの気分だ。着物の色も似ている。夢主が身を包む花浅葱の小袖は、斎藤が纏う濃藍に寄せたものだった。
外では滅多に見られない着流し姿の夫を目に焼き付けたくて、夢主は何度も斎藤を見つめていた。
目が合い、はにかんでは目を反らす。
そんなことをせずとも見ればいい、言ってやりたい斎藤だが、敢えて口を閉ざして夢主の愛らしい恥じらいを楽しんでいた。
二人は神田川まで戻っていた。なだらかな弓なりの橋を上ると、川筋に沿って視界が広がる。
ふと見上げると、強く輝く月が夢主を見ていた。家を出る時、斎藤は夜歩きだが提灯は不要と言った。それは、この月があったからだ。
夢主はおもむろに足を止めた。
橋を越えたら家まで四半刻もかからない。この素敵な時間も終わってしまう。当たり前でいて、とても贅沢な二人だけの時間に、終わりが見えていた。
「今夜は、ひときわ……お月さまが綺麗ですね」
「あぁ、もうすぐ十五夜だったな」
どこか淋しそうに顔を上げていた夢主が視線を落とすと、光が差した。大きな月の明かりを受ける、川からの光だ。夢主の瞳も輝きはじめた。
「見てください、川に月が映ってますよ、とっても綺麗です!」
静かな川べりに夢主のはしゃぎ声が響き、斎藤は堪らず笑っていた。斎藤の袖を引いて川を指差している。
今夜は虫の音よりも穏やかな川のせせらぎだ。川面も穏やかで、空に浮かぶ月を美しく映している。
「フッ、見事だな。そうだな、あぁちょうどいい、来い」
「えっ?」
斎藤は袖を摘む夢主の手を外すなり手首を掴み、「こっちだ」と橋を進んだ。
「あの、一さん……」
手を引かれるまま夢主は橋をくだり、川辺に下りていく。何が起きているのかわからないが、斎藤の強引さに、夢主の胸は高鳴っていた。とても楽しそうに、何かを企んでいる。
砂利を踏みしめて岸に辿り着いたところで、斎藤は手を離した。
「あった。丁度いい」
「丁度いいって、この舟」
「戻しておけばいい、少し借りるだけさ」
川辺に繋がれた小舟に目を付けた斎藤は、岸に舟を繋ぐ縄を解いて握ると、夢主を舟に座らせ、自らも舟に乗り移った。
恐る恐るしゃがんだ夢主は、舟の中を見回した後、斎藤を見上げた。
斎藤は月明かりを受けて、日に焼けぬその肌が際立って白く見える。いつもなら、そんな美しさに目を奪われる夢主だが、今は不安げに斎藤を見つめていた。
「大丈夫ですか、怒られませんか、それにちょっと怖いです」
「安心しろ、怒られはせん。今は浅水で風も皆無。揺れはしない」
舟の上で聞こえるのは相変わらず虫の音だ。
川は流れが見えないほど穏やかだった。それでも慣れない不安定な小舟の上、怖がる夢主は舟のへりに手を置いて、川の様子を確かめた。当然、夢主の重みで舟の均衡が僅かに崩れる。
「でも、……わっ!」
「お前が動くからだ。俺に任せて、じっとしていろ。折角の月見舟だぞ、顔を上げてみろ」
「月見……舟?」
「あぁ」
斎藤が見せたかった景色が、夢主の目の前に広がっていた。
夜空に浮かぶ大きな月と、その月から流れ落ちるような光が、川面に繋がっていた。川面に伸びる光の筋は舟に届かず途切れるが、水面は煌々と月明かりに輝いている。
「凄いです……綺麗、橋の上で見るより、ずっと……」
「輝きが近いな」
「はぃ……」
櫂に手を置いていた斎藤だが、岩陰に寄せて舟が流れないのを確かめると手を離し、腰を下ろした。
月と川の美しさに目を奪われる夢主を眺めて、笑んでいる。
「こんな楽しみ方があるんですね、知りませんでした」
「古くからある遊びだな、海に舟を出す者もいたらしいぞ」
「海に? 夜の海は怖いです、この川とこの舟でちょうどいいですね、ふふっ」
「そうだな」
夢主がにこりと微笑んだ刹那、夢主の髪が揺れた。
柔らかく揺れた髪はすぐに戻ったが、川の上を走る冷たい風に、夢主は肩を竦めた。
「寒いか」
「風が出てきましたね、ちょっとだけ……あの、そちらに行ってもいいですか?」
「阿呆、立つな」
「ひゃぁ」
腰を浮かせた夢主は舟を揺らしてしまい、驚いて体勢を崩したことで更に舟を大きく揺らした。
危険を察するがどうにも出来ず、思わず目をつぶった夢主は、斎藤の胸の中に倒れ込んだ。
川に落ちないよう、斎藤が夢主を引っ張ったのだ。
「急に立つと危ないんだよ、舟の上は。分かったか」
夢主は赤い顔で、ごめんなさいと頷いた。
頷いたものの、頬を寄せる形になった斎藤の胸から離れられずいる。
「お前にしては大胆だな」
「一さんが引っ張ったんです」
「ほぉぅ、ただ助けたつもりなんだが」
「一さん、あったかいです」
「全く、呑気なもんだ」
しなだれるように斎藤に身を寄せる夢主は、自身の艶めいた姿勢など気にもせず、温かいですと微笑んで、斎藤の胸に手を添えた。
「ふふっ、凄く安心します、あったかくて……心地よくて……」
目と閉じて眠ってしまいたいほど心地よいです。
夢主が目を伏せると、斎藤はやれやれと目の前の頭を一撫でして、そのまま滑らせた手を小さな肩に置いた。
川の上に吹き始めた風のせいか、小さな肩は俄かに冷えている。
「人肌は温かいと言うからな、少し温めてやる」
「えっ」
斎藤は不意に己の濃藍の衿を崩して、驚く夢主が躊躇う間を与えず、もっと強く体を寄り添わせた。
夢主の頬は、斎藤の胸板に直に触れていた。
「あぁぁあの、はじめ、さんっ……」
「どうした、今夜のお前は大胆なんじゃないのか」
「大胆だなんて、違いますから、ぁ、温かいです、です……けど……ぁの」
「いいから、少し温まってから帰るぞ」
「……一さんが、寒いのでは」
「寒いか阿呆、これくらいのこと」
「はぃ……」
斎藤の体を案じる気持ちと、それを上回る恥じらいから、夢主の眉根が酷く下がっていた。
誰に見られているわけでもないのに、全身の肌がひりひりとして落ち着かない。
感覚が鋭くなるにつれ、自らの崩れた姿勢が気になり始める。身動きの取れない夢主は、堪らず斎藤の衿を握りしめた。
吹き始めた川風は、時折、夢主の頬を擽る。風を受けても、体は冷えるどころか火照りが増していく。
斎藤の衿を掴む力を強めてみても、肌のざわつきは治まらない。斎藤に触れる頬が汗ばんで吸い付く気がした夢主は、体を起こそうとしたが、変化を察した斎藤が夢主をしっかり抱き寄せて離さなかった。
「あ、あの、もう温まりましたよ。本当です、体……あったかいです。一さんの体、とても熱いから……」
頬で触れる斎藤の肌は、火照る夢主の肌よりも熱かった。
斎藤はいつも夢主より体温が高い。夢主は衿を掴んでいた手を離し、無意識に、斎藤の胸に触れて熱を確かめていた。
「確かに、お前の手も随分と温まったようだな」
「ぇ……ぁっ、あの、ごめんなさい、違うんです、あまりに温かいからついっ」
「構わんさ、もっと触れろ」
「だ、駄目です、危ないですよ、私、舟の上は慣れませんし……その、これ以上乗っていても舟を揺らしちゃいそうで……ひっくり返しちゃうかも、声も響いちゃうし、あの、月は十分楽しませていただきました。ありがとうございます、舟を出してくださって」
「ククッ、おかしなことを口走っているぞ。だが折角の月見舟だ、もう少し月を見てはどうだ」
「こんな姿勢じゃ……見えません……」
夢主は自らの勘違いに顔の火照りを強めた。顔を隠して、月になんて見えないと拗ねている。
「川に映った月が見えるだろ」
「川……」
夢主はちらりと視線を動かした。
月は好きだ。川面の月を見て、夢主は斎藤が自分のためにしてくれたことを思い出した。
この舟を出してくれたことも、今夜付き合ってくれたことも、あまり出歩きたくない着流し姿で自分に合わせてくれたことも、ひとつひとつ、思い出すたびに川面の月が揺れて輝く気がした。
「月……見えます、綺麗にきらきら、ちょっとだけ揺れてて、綺麗ですね。一さんが見せてくれた月だからいつも以上に……凄く、……綺麗です」
「フッ、そうか」
斎藤が夢主を抱き寄せる力は消えていた。
夢主はそっと斎藤の胸を押し離すと、顔を上げた。
自分を見下ろす斎藤を見つめ返す。今夜の斎藤の瞳は、どこか穏やかだ。月の光を受ける美しさだけではない。愛しい者と過ごした時間がそうさせていた。
夜の町に流れる穏やかさもあるだろう。今も虫の音だけが二人を包んでいる。
夢主は背を反らせて斎藤に顔を寄せた。
ほんの少し唇を開いて、斎藤に口づけた。
驚いた斎藤は、不覚にも夢主が唇を離すまで、何もせずその顔を見つめていた。
艶やかな睫毛が上向いて瞳が見えるまで、見つめていた。
「ぁの……」
突然ごめんなさいと、夢主が恥じらって顔を反らそうとした時、斎藤は夢主の頬に手を添えて、それをとどめた。
夢主の恥じらい顔は好きだが、口づけをして後悔の滲む顔をさせるのは本意ではない。
斎藤は今の口づけ、嬉しいぞと目を細めた。その表情の変化に恥じらう夢主は悪くない。斎藤はフッと笑んで、唇を重ねた。
静かな夜を壊すような無粋な振る舞いはしない。
斎藤は優しい口づけを、何度か繰り返した。
唇を重ねながら夢主の髪に長い指を差し入れ、梳き下ろす。その手で首根を優しくさすり、頬にもう一度触れたところで唇を離した。
顔を離して見えたのは、夢主の甘い表情だ。斎藤ですら心の高まりを覚えた。
「んんっ。あと少し、月を愛でて舟を戻すか。それで、帰るぞ」
「はぃ」
熱を持った顔で頷いた夢主は、斎藤に手を添えたまま、川面に視線を流した。
先程よりも、煌めく光の筋が舟に近づいている。
口づけをしている間も横顔に月明かりを感じていた。
夜空の月は、先程よりも低い位置で二人を見ていた。
❖ ❖ ❖
何処からともなく、そこらじゅうで、薄布で覆われたように柔らかに響いている。
そんな穏やかな空間を、斎藤と夢主は歩いていた。
家を出てふらりと南へ歩き、神田川を越えたら夜食を取って一休み、それからまた歩いて通り過ぎざまに酒処の笑い声を聞き、人の気配が途切れると、また虫の音に耳を澄ませた。
二人きりの夜道、他愛のない話をしながら袖を振り合わせた長い散歩は、帰り道に差し掛かっていた。
今宵は珍しく、斎藤と夢主が似た姿をしている。夢主の可愛い我が儘に付き合って、斎藤は着流し姿だった。夢主にとってはお揃いか、和装デートの気分だ。着物の色も似ている。夢主が身を包む花浅葱の小袖は、斎藤が纏う濃藍に寄せたものだった。
外では滅多に見られない着流し姿の夫を目に焼き付けたくて、夢主は何度も斎藤を見つめていた。
目が合い、はにかんでは目を反らす。
そんなことをせずとも見ればいい、言ってやりたい斎藤だが、敢えて口を閉ざして夢主の愛らしい恥じらいを楽しんでいた。
二人は神田川まで戻っていた。なだらかな弓なりの橋を上ると、川筋に沿って視界が広がる。
ふと見上げると、強く輝く月が夢主を見ていた。家を出る時、斎藤は夜歩きだが提灯は不要と言った。それは、この月があったからだ。
夢主はおもむろに足を止めた。
橋を越えたら家まで四半刻もかからない。この素敵な時間も終わってしまう。当たり前でいて、とても贅沢な二人だけの時間に、終わりが見えていた。
「今夜は、ひときわ……お月さまが綺麗ですね」
「あぁ、もうすぐ十五夜だったな」
どこか淋しそうに顔を上げていた夢主が視線を落とすと、光が差した。大きな月の明かりを受ける、川からの光だ。夢主の瞳も輝きはじめた。
「見てください、川に月が映ってますよ、とっても綺麗です!」
静かな川べりに夢主のはしゃぎ声が響き、斎藤は堪らず笑っていた。斎藤の袖を引いて川を指差している。
今夜は虫の音よりも穏やかな川のせせらぎだ。川面も穏やかで、空に浮かぶ月を美しく映している。
「フッ、見事だな。そうだな、あぁちょうどいい、来い」
「えっ?」
斎藤は袖を摘む夢主の手を外すなり手首を掴み、「こっちだ」と橋を進んだ。
「あの、一さん……」
手を引かれるまま夢主は橋をくだり、川辺に下りていく。何が起きているのかわからないが、斎藤の強引さに、夢主の胸は高鳴っていた。とても楽しそうに、何かを企んでいる。
砂利を踏みしめて岸に辿り着いたところで、斎藤は手を離した。
「あった。丁度いい」
「丁度いいって、この舟」
「戻しておけばいい、少し借りるだけさ」
川辺に繋がれた小舟に目を付けた斎藤は、岸に舟を繋ぐ縄を解いて握ると、夢主を舟に座らせ、自らも舟に乗り移った。
恐る恐るしゃがんだ夢主は、舟の中を見回した後、斎藤を見上げた。
斎藤は月明かりを受けて、日に焼けぬその肌が際立って白く見える。いつもなら、そんな美しさに目を奪われる夢主だが、今は不安げに斎藤を見つめていた。
「大丈夫ですか、怒られませんか、それにちょっと怖いです」
「安心しろ、怒られはせん。今は浅水で風も皆無。揺れはしない」
舟の上で聞こえるのは相変わらず虫の音だ。
川は流れが見えないほど穏やかだった。それでも慣れない不安定な小舟の上、怖がる夢主は舟のへりに手を置いて、川の様子を確かめた。当然、夢主の重みで舟の均衡が僅かに崩れる。
「でも、……わっ!」
「お前が動くからだ。俺に任せて、じっとしていろ。折角の月見舟だぞ、顔を上げてみろ」
「月見……舟?」
「あぁ」
斎藤が見せたかった景色が、夢主の目の前に広がっていた。
夜空に浮かぶ大きな月と、その月から流れ落ちるような光が、川面に繋がっていた。川面に伸びる光の筋は舟に届かず途切れるが、水面は煌々と月明かりに輝いている。
「凄いです……綺麗、橋の上で見るより、ずっと……」
「輝きが近いな」
「はぃ……」
櫂に手を置いていた斎藤だが、岩陰に寄せて舟が流れないのを確かめると手を離し、腰を下ろした。
月と川の美しさに目を奪われる夢主を眺めて、笑んでいる。
「こんな楽しみ方があるんですね、知りませんでした」
「古くからある遊びだな、海に舟を出す者もいたらしいぞ」
「海に? 夜の海は怖いです、この川とこの舟でちょうどいいですね、ふふっ」
「そうだな」
夢主がにこりと微笑んだ刹那、夢主の髪が揺れた。
柔らかく揺れた髪はすぐに戻ったが、川の上を走る冷たい風に、夢主は肩を竦めた。
「寒いか」
「風が出てきましたね、ちょっとだけ……あの、そちらに行ってもいいですか?」
「阿呆、立つな」
「ひゃぁ」
腰を浮かせた夢主は舟を揺らしてしまい、驚いて体勢を崩したことで更に舟を大きく揺らした。
危険を察するがどうにも出来ず、思わず目をつぶった夢主は、斎藤の胸の中に倒れ込んだ。
川に落ちないよう、斎藤が夢主を引っ張ったのだ。
「急に立つと危ないんだよ、舟の上は。分かったか」
夢主は赤い顔で、ごめんなさいと頷いた。
頷いたものの、頬を寄せる形になった斎藤の胸から離れられずいる。
「お前にしては大胆だな」
「一さんが引っ張ったんです」
「ほぉぅ、ただ助けたつもりなんだが」
「一さん、あったかいです」
「全く、呑気なもんだ」
しなだれるように斎藤に身を寄せる夢主は、自身の艶めいた姿勢など気にもせず、温かいですと微笑んで、斎藤の胸に手を添えた。
「ふふっ、凄く安心します、あったかくて……心地よくて……」
目と閉じて眠ってしまいたいほど心地よいです。
夢主が目を伏せると、斎藤はやれやれと目の前の頭を一撫でして、そのまま滑らせた手を小さな肩に置いた。
川の上に吹き始めた風のせいか、小さな肩は俄かに冷えている。
「人肌は温かいと言うからな、少し温めてやる」
「えっ」
斎藤は不意に己の濃藍の衿を崩して、驚く夢主が躊躇う間を与えず、もっと強く体を寄り添わせた。
夢主の頬は、斎藤の胸板に直に触れていた。
「あぁぁあの、はじめ、さんっ……」
「どうした、今夜のお前は大胆なんじゃないのか」
「大胆だなんて、違いますから、ぁ、温かいです、です……けど……ぁの」
「いいから、少し温まってから帰るぞ」
「……一さんが、寒いのでは」
「寒いか阿呆、これくらいのこと」
「はぃ……」
斎藤の体を案じる気持ちと、それを上回る恥じらいから、夢主の眉根が酷く下がっていた。
誰に見られているわけでもないのに、全身の肌がひりひりとして落ち着かない。
感覚が鋭くなるにつれ、自らの崩れた姿勢が気になり始める。身動きの取れない夢主は、堪らず斎藤の衿を握りしめた。
吹き始めた川風は、時折、夢主の頬を擽る。風を受けても、体は冷えるどころか火照りが増していく。
斎藤の衿を掴む力を強めてみても、肌のざわつきは治まらない。斎藤に触れる頬が汗ばんで吸い付く気がした夢主は、体を起こそうとしたが、変化を察した斎藤が夢主をしっかり抱き寄せて離さなかった。
「あ、あの、もう温まりましたよ。本当です、体……あったかいです。一さんの体、とても熱いから……」
頬で触れる斎藤の肌は、火照る夢主の肌よりも熱かった。
斎藤はいつも夢主より体温が高い。夢主は衿を掴んでいた手を離し、無意識に、斎藤の胸に触れて熱を確かめていた。
「確かに、お前の手も随分と温まったようだな」
「ぇ……ぁっ、あの、ごめんなさい、違うんです、あまりに温かいからついっ」
「構わんさ、もっと触れろ」
「だ、駄目です、危ないですよ、私、舟の上は慣れませんし……その、これ以上乗っていても舟を揺らしちゃいそうで……ひっくり返しちゃうかも、声も響いちゃうし、あの、月は十分楽しませていただきました。ありがとうございます、舟を出してくださって」
「ククッ、おかしなことを口走っているぞ。だが折角の月見舟だ、もう少し月を見てはどうだ」
「こんな姿勢じゃ……見えません……」
夢主は自らの勘違いに顔の火照りを強めた。顔を隠して、月になんて見えないと拗ねている。
「川に映った月が見えるだろ」
「川……」
夢主はちらりと視線を動かした。
月は好きだ。川面の月を見て、夢主は斎藤が自分のためにしてくれたことを思い出した。
この舟を出してくれたことも、今夜付き合ってくれたことも、あまり出歩きたくない着流し姿で自分に合わせてくれたことも、ひとつひとつ、思い出すたびに川面の月が揺れて輝く気がした。
「月……見えます、綺麗にきらきら、ちょっとだけ揺れてて、綺麗ですね。一さんが見せてくれた月だからいつも以上に……凄く、……綺麗です」
「フッ、そうか」
斎藤が夢主を抱き寄せる力は消えていた。
夢主はそっと斎藤の胸を押し離すと、顔を上げた。
自分を見下ろす斎藤を見つめ返す。今夜の斎藤の瞳は、どこか穏やかだ。月の光を受ける美しさだけではない。愛しい者と過ごした時間がそうさせていた。
夜の町に流れる穏やかさもあるだろう。今も虫の音だけが二人を包んでいる。
夢主は背を反らせて斎藤に顔を寄せた。
ほんの少し唇を開いて、斎藤に口づけた。
驚いた斎藤は、不覚にも夢主が唇を離すまで、何もせずその顔を見つめていた。
艶やかな睫毛が上向いて瞳が見えるまで、見つめていた。
「ぁの……」
突然ごめんなさいと、夢主が恥じらって顔を反らそうとした時、斎藤は夢主の頬に手を添えて、それをとどめた。
夢主の恥じらい顔は好きだが、口づけをして後悔の滲む顔をさせるのは本意ではない。
斎藤は今の口づけ、嬉しいぞと目を細めた。その表情の変化に恥じらう夢主は悪くない。斎藤はフッと笑んで、唇を重ねた。
静かな夜を壊すような無粋な振る舞いはしない。
斎藤は優しい口づけを、何度か繰り返した。
唇を重ねながら夢主の髪に長い指を差し入れ、梳き下ろす。その手で首根を優しくさすり、頬にもう一度触れたところで唇を離した。
顔を離して見えたのは、夢主の甘い表情だ。斎藤ですら心の高まりを覚えた。
「んんっ。あと少し、月を愛でて舟を戻すか。それで、帰るぞ」
「はぃ」
熱を持った顔で頷いた夢主は、斎藤に手を添えたまま、川面に視線を流した。
先程よりも、煌めく光の筋が舟に近づいている。
口づけをしている間も横顔に月明かりを感じていた。
夜空の月は、先程よりも低い位置で二人を見ていた。
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