【明】どんぐりと、大切な贈り物
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吐き出した息は、澄んだまま消えていく。それでも腕をさすりたくなるような冷えた朝、夢主は玄関で斎藤を手招いた。
上着に手を通して出勤支度を済ませた斎藤は、シャツの首回りを引っ張って緩ませると、夢主に続いた。
普段は家の中で夫を見送る夢主が、珍しく玄関を出て、すぐ左手にある庭への木戸を押した。わざわざ玄関を経由して庭に出たのは、斎藤がこのまま仕事に向かえるように気遣ってのことだ。斎藤は既に刀も帯びている。
「見てください、一さん」
「何だ、このどんぐりの山は」
嬉しそうに夢主が見せたのは、庭の隅に積みあがったどんぐりの山だった。
選び抜かれたとみられる幾つかが、どんぐりの山の淵にそって綺麗に並べられている。
実りの季節、山どころか道端にも秋の恵みが落ちている。
幼い勉は、どんぐりを拾うのが大好きだった。
「ふふっ、勉さんが拾うんですよ。遊びに出ては、両手いっぱいに持って帰るんです」
「それでこの山か。どうする気だ」
「どうってコトは特にないんだと思います。見つけて拾うのが楽しいんでしょうね」
「お前に渡すのが楽しいんじゃないのか」
ふふっと笑う夢主は、庭の向こう、奥の障子に目をやった。今朝、勉はまだ眠っている。
「最初はひとつふたつだったんですよ。毎日数が増えていって、こんなに大きな山になったんです。勉さんはどんぐりを見つけるのが上手ですね」
「今に庭が樫の木畑になりそうだな」
斎藤のぼやきに、夢主はくすくすと肩を揺らした。愛らしい笑顔だが、俄かに下がった眉は、小さな息子の可愛い熱意に困惑しているようだった。
「夢主」
「ふふっ、はぃ」
笑い声を潜ませて応じた夢主は、首を傾げて斎藤を見上げた。
「いや、……行ってくる」
「はぃ、行ってらっしゃいませ」
首を傾げたまま微笑む夢主に、斎藤は軽く口づけてから家を出て行った。
残された夢主は、不意打ちじゃないですかと呟いて、唇を袖口で覆った。触れた名残がすぐに消えてしまいそうな口づけを繰り返すように、自らの唇に触れていた。
この日、警察署の外に用が生じた斎藤は道すがら、道端に転がるどんぐりに何度も目をとめた。
庭のどんぐり山と、夢主の困った笑顔が思い浮かぶ。塵も積もれば何とやら、斎藤はフッと口端を緩めた。
日が暮れて、仕事を切り上げて家に戻った斎藤は、家族揃って夕餉を済ませ、片づけを夢主に任せて勉を座らせていた。
幼い勉は、嬉しそうに姿勢を正して、父を見上げている。愛くるしい瞳は父ではなく、母に似ている。
斎藤が夢主の瞳を思い浮かべて勉を見つめていると、勉はにこにこと首を傾げた。仕草まで母そっくりだった。
勉にとって、忙しい父が一緒に過ごしてくれる夜は珍しい。それだけでも嬉しいのに、父が男二人だけの話があると耳打ちしてきたのだ。嬉しくて、落ち着かなかった。
「勉、お前は母が好きらしいな」
「はい、もちろんです。父上がそうであるように、わたしも母上が大好きです!」
真っ直ぐな返事に、斎藤は思わず大きな咳払いをしそうになった。心配した夢主が顔を見せては困る。斎藤は静かに衝動を飲み込んで、拳を口元に近づけるだけに留めた。
「んっ、そうだな。お前、母にどんぐりを渡すのが好きらしいな」
「はい、大好きです! どんぐりってきれいです。母上に、きれいなおくりものをしたいのです、たくさん、おくりたいんです!」
「女に贈り物か、そいつは有効だ」
「ゆうこう?」
「母上は喜んでいただろう、大切な女に贈り物をするのは、いい事だ」
「はい、母上は、よろこんでくださいました!」
「そうだろう。だがな、しつこ過ぎると嫌がられるもんだぞ」
「そ、そうなのですか、母上は……めいわくなのですか」
「いや、喜んでいるがな、これ以上続けるのは賢くない」
「そうですか……」
父の言葉に、幼い顔がしゅんと俯く。
母は優しいから、困った顔を隠しているのかもしれない。勉の手が膝の上で小さな拳に変わった。察しが良く、周囲に気を払う性質は夢主譲りだ。勉は母の感情に想いを馳せて、口を噤んでいた。
「特別な女 には、特別な贈り物。贈り物というのはな、特別な時や、特別なものに絞って贈るのがいい」
「とくべつ……ですか」
「そうだ」
頼もしい父の助言に、勉は顔を上げた。晴れやかな笑顔を見せた勉は、何やらひらめきを得ていた。
「わかりました、父上、ありがとうございます!」
笑顔で礼を述べた勉は、ぺこりと可愛く頭を下げてから立ち上がり、片づけを手伝うべく母のもとへ駆けていった。
斎藤は聞こえてきた夢主と勉の楽しげな声に薄い頬を緩めて、姿勢を崩した。
それから何日か経った朝、夢主は思い出したように「あっ」と声を上げた。
仕事に向かう斎藤に続いて玄関を出ると、見てくださいと庭に続く木戸を押した。
そこには、相変わらずどんぐりの山がある。以前、夢主が見せてくれた時から変わらないどんぐりの山だ。
斎藤は時折り庭を覗き、どんぐりの山に変わりがないことを確かめていた。その、どんぐりの山がどうかしたのか。斎藤は黙って夢主の様子を見守った。
「最近、勉さんがどんぐりを持ち帰らなくなったんです。まだ季節なのに、不思議ですよね。飽きちゃったのかな……貰えなくなると、寂しいものですね」
ふふっと笑う夢主が少し寂しそうで、引っ掛かりを覚えた斎藤は無意識に眉を動かしていた。
その日の夕暮れ、斎藤は町で夢主を見かけた。夢主は何かを探して焦り、走っていた。
その場を離れられなかった斎藤は、夢主が向かった方角をしっかりと確認し、間もなく追いかけた。
一体どこへ向かったのか。予測した先に夢主はおらず、斎藤は速足で町中を巡回した。やがて見つけた夢主は、勉を連れて歩いていた。
「珍しいな、勉が迷子か」
焦りの正体は我が子の行方だったようだ。妻子の確かな姿に安堵した斎藤は、踵を返して任務に戻っていった。
今夜も早めに任務を切り上げるか。そんなことを考えながら、煙草を一本取り出した。脳裏には、夕日の中、仲睦まじく語らい歩く夢主と勉の姿があった。
斎藤が再び警察署を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。望んだ早い帰宅は叶わなかったのだ。斎藤は、夜道に紫煙をなびかせて歩んでいた。
やけに静かな夜だ。空気が冷えているから、そう感じるだけか。紫煙を吐き出す息の音が消えた後、己の靴音以外、何も響かぬ静けさだ。斎藤は静寂の闇に耳を澄まして、家路を急いだ。
家に着くと、勉は既に深い眠りの中にいた。
音もなく夢主がひとり、玄関で斎藤を出迎える。
一目見るなり、斎藤は夢主の異変を感じ取った。
いつも通りにこやかな様子で振舞いは穏やかだが、夫である俺に対して何か言葉を抱えている。
日中、勉が迷子になった報告だろうか。
斎藤が訊ねずにいると、刀を下ろして上着を脱いで、腰を下ろして一息ついたところで夢主が話を切り出した。
以前、斎藤が勉にそうさせたように、夢主が背筋を伸ばして座り直す。思わず斎藤も居住まいを正していた。夢主は半開きの襖の向こうで眠る勉を一瞥してから口を開いた。
「一さん」
「どうした」
「勉さんにおかしなことを吹き込みましたね」
「何か、変なことでも言ったのか」
斎藤は顎を俄かに引いて眉間に皺を寄せた。迷子の話ではないのか。
おかしな話をしたつもりはないが、思い当たる節は、ひとつしかない。勉とじっくり話したのは先夜くらいなものだった。どんぐりの山がこれ以上大きくならないよう、言い聞かせた話だ。
「今日、勉さん、突然姿を消したんです」
勉のヤツめ夢主に何を言ったと思案する斎藤に、夢主は後悔滲む声で告げた。
共に出かけてはぐれたのだろうと考えていた斎藤は、何、と声を漏らした。
「初めてです、黙って家を出て行ったんです。お昼寝の後に庭ではしゃいでて、それからどんぐりの山の前にしゃがんで、大人しくどんぐりで遊んでいると思ったんです。でも覗いたら、いなくて……それは、目を離した私が悪いんですけど」
「いや、子供は思いもよらぬ行動に出るものだ。しかし慎重で物分かりの良い勉が何故」
「一さんの話を真に受けて、こっそり家を出てしまったんです」
「俺の話だと」
斎藤は骨ばった手で口に触れて、呟いた。
どんぐりはもう渡すなと伝えたつもりだった。勉には、異なる部分が響いてしまったのだ。
「特別な……贈り物か」
答えを導いて声にしたところで、夢主は緊張を解して微笑んだ。小さくふふっと声を漏らして、斎藤の心を弛ませた。
この日、家を抜け出した勉は、上野の山のふもとで座り込んでいたのだ。
勉を見つけた頃には、日が傾いていた。
夕日の中、どうしたのと夢主が訊ねた時、我が子を見つけた安堵よりも、姿を見失った時の不安が強く残っていた。
そんな不安を察した勉は、素直にごめんなさいと謝り、顔を上げて夢主にどんぐりを手渡したのだ。
『どんぐり?』
『はい、どんぐりです。母上に、とくべつな……とくべつな、おくりものです』
夢主は斎藤の前に手を伸ばして、開いた。
帽子付きの大きなどんぐりがひとつ、姿を現した。
「最近どんぐりを拾わなかったのは、これまでと同じものばかりだったからだそうです。勉さんは、特別などんぐりを、それもこっそりと……見つけたかったそうです」
「そうだったのか、勉。そんな事があったとは」
「赤い目で涙を堪えて、道に迷ってしまったと言ってました。探すうちにどんどん知っている道を逸れてしまったみたいで」
「俺が余計なことをしたか。いや、伝え方を間違えたな」
俺の失態だと深く省みる斎藤を見て、夢主は柔らかに笑んでいた。
勉の思いもよらぬ行動は、芽生えた自我と優しさが起こしたものだ。
そのきっかけは予想外のものだったが、斎藤の思いやりが生んだもの。目の前で反省する姿は、我が子を大切に想う姿だ。見ていると、どうしても顔が緩んでしまう。もうひとつ、嬉しい言葉に、夢主の顔は緩んでいた。
「特別な人には、特別なものを……」
「んんっ」
ぽつりと呟かれた言葉、喜びが滲む声に突かれた斎藤は、控えめな咳払いをして、夢主を牽制した。
「ふふっ、勉さん、大切な人には特別な物をと、父上に教わったと言ってました。特別な物をというお話は……嬉しいですけど、お気を付けくださいね。勉さんは素直に受け取っちゃうんです」
「あぁ、悪いことをしたな。勉にも、お前にも」
照れ隠しに夢主を睨むも、夢主は動じず、微笑んで手の中のどんぐりに視線を落とした。
大好きな斎藤が発した言葉で、可愛い勉が行動を起こして見つけた、特別な贈り物だ。
夢主は、どんぐりにそっと口づけた。生まれたての我が子の頬に触れるような温かい姿に、斎藤は息を呑んだ。斎藤は緩んだ口元を隠すため、咳払いの素振りで口元を覆った。
「とっても、嬉しかったです。勉さんの気持ちも、一さんのお気遣いも、お言葉も」
夢主の優しい仕草と言葉に、斎藤はんんっと短く喉を鳴らして目を反らした。一瞬、己の感情を整えるような間をおいて、夢主に向き直る。
斎藤は、いつもの様子に戻っていた。
「夢主」
「はぃ」
「その特別な贈り物、大切にするんだろう」
「はぃ、もちろんです」
にこりと笑んで、夢主はどんぐりを握った。
たおやかな笑顔にも今度は照れることなく、斎藤はニッといつも通りの笑みを返した。
「いいな。だが今、少しばかり置いてくれないか」
「えっ」
「割ったり、失くしては困るだろう」
「ぁ……」
斎藤はいつも通りのしたたかな手慣れた動きで、夢主を引き寄せた。
どんぐりを握る手にだけ自由を残し、もう一方の手を掴んで、腰に手を回した。
顔が迫り、斎藤の声が響くたび、夢主に熱い息がかかる。
思わず顔を背ける夢主だが、斎藤はさらに体を引き寄せて、顔を覗き込んできた。
「特別な女には、格別の扱いを」
「一さっ」
引き寄せられた夢主は慌ててどんぐりを握る手を伸ばした。
辛うじて手が届いた座布団の真ん中に、どんぐりを置く。
我が子の気持ちが籠った贈り物の安全を確かめた斎藤は、早くこちらを向けとばかりに、夢主の体の自由を奪った。
驚く夢主に向かい斎藤は指を立てて、「しぃ」と物音に気を付けるよう悟らせた。
途端に夢主の頬が紅潮していく。
斎藤はしぃと立てた指で夢主の唇に触れると、軽く指を押し込んで舐めさせた。
恥じらいながら応じる姿にフッと笑んだ斎藤は、濡れた指で夢主の頬をさすり、耳に触れて、耳輪を辿るように指を滑らせて、後ろ首に手を回して囁いた。
「部屋を移ったほうがいいか」
「は…はぃ……」
「そうだな」
控えめに望みを伝える夢主に同意して安心させた斎藤は、夢主の唇を塞ぎ、んっ、と抗いと羞恥の声を漏らさせた。
何度も続けて喰むように口を吸い、絡む唾液が音を鳴らすまで、口づけを続けた。
力を失った夢主から、んぁ……と切なく甘い声が零れると、斎藤はようやく顔を離して、にやりと笑んだ。
「さぁ、移るぞ」
頷く夢主を軽々と抱えた斎藤が立ち上がった。
だらりと足が垂れる夢主だが、力を振り絞って斎藤に手を回した。顔をうずめるように隠している。
赤い耳が見えた斎藤は、その耳に軽く口づけて夢主をびくりとさせてから、部屋を移動した。
ククッと小さく笑い声が響くと、夢主は斎藤に強くしがみついた。
❖ ❖ ❖
上着に手を通して出勤支度を済ませた斎藤は、シャツの首回りを引っ張って緩ませると、夢主に続いた。
普段は家の中で夫を見送る夢主が、珍しく玄関を出て、すぐ左手にある庭への木戸を押した。わざわざ玄関を経由して庭に出たのは、斎藤がこのまま仕事に向かえるように気遣ってのことだ。斎藤は既に刀も帯びている。
「見てください、一さん」
「何だ、このどんぐりの山は」
嬉しそうに夢主が見せたのは、庭の隅に積みあがったどんぐりの山だった。
選び抜かれたとみられる幾つかが、どんぐりの山の淵にそって綺麗に並べられている。
実りの季節、山どころか道端にも秋の恵みが落ちている。
幼い勉は、どんぐりを拾うのが大好きだった。
「ふふっ、勉さんが拾うんですよ。遊びに出ては、両手いっぱいに持って帰るんです」
「それでこの山か。どうする気だ」
「どうってコトは特にないんだと思います。見つけて拾うのが楽しいんでしょうね」
「お前に渡すのが楽しいんじゃないのか」
ふふっと笑う夢主は、庭の向こう、奥の障子に目をやった。今朝、勉はまだ眠っている。
「最初はひとつふたつだったんですよ。毎日数が増えていって、こんなに大きな山になったんです。勉さんはどんぐりを見つけるのが上手ですね」
「今に庭が樫の木畑になりそうだな」
斎藤のぼやきに、夢主はくすくすと肩を揺らした。愛らしい笑顔だが、俄かに下がった眉は、小さな息子の可愛い熱意に困惑しているようだった。
「夢主」
「ふふっ、はぃ」
笑い声を潜ませて応じた夢主は、首を傾げて斎藤を見上げた。
「いや、……行ってくる」
「はぃ、行ってらっしゃいませ」
首を傾げたまま微笑む夢主に、斎藤は軽く口づけてから家を出て行った。
残された夢主は、不意打ちじゃないですかと呟いて、唇を袖口で覆った。触れた名残がすぐに消えてしまいそうな口づけを繰り返すように、自らの唇に触れていた。
この日、警察署の外に用が生じた斎藤は道すがら、道端に転がるどんぐりに何度も目をとめた。
庭のどんぐり山と、夢主の困った笑顔が思い浮かぶ。塵も積もれば何とやら、斎藤はフッと口端を緩めた。
日が暮れて、仕事を切り上げて家に戻った斎藤は、家族揃って夕餉を済ませ、片づけを夢主に任せて勉を座らせていた。
幼い勉は、嬉しそうに姿勢を正して、父を見上げている。愛くるしい瞳は父ではなく、母に似ている。
斎藤が夢主の瞳を思い浮かべて勉を見つめていると、勉はにこにこと首を傾げた。仕草まで母そっくりだった。
勉にとって、忙しい父が一緒に過ごしてくれる夜は珍しい。それだけでも嬉しいのに、父が男二人だけの話があると耳打ちしてきたのだ。嬉しくて、落ち着かなかった。
「勉、お前は母が好きらしいな」
「はい、もちろんです。父上がそうであるように、わたしも母上が大好きです!」
真っ直ぐな返事に、斎藤は思わず大きな咳払いをしそうになった。心配した夢主が顔を見せては困る。斎藤は静かに衝動を飲み込んで、拳を口元に近づけるだけに留めた。
「んっ、そうだな。お前、母にどんぐりを渡すのが好きらしいな」
「はい、大好きです! どんぐりってきれいです。母上に、きれいなおくりものをしたいのです、たくさん、おくりたいんです!」
「女に贈り物か、そいつは有効だ」
「ゆうこう?」
「母上は喜んでいただろう、大切な女に贈り物をするのは、いい事だ」
「はい、母上は、よろこんでくださいました!」
「そうだろう。だがな、しつこ過ぎると嫌がられるもんだぞ」
「そ、そうなのですか、母上は……めいわくなのですか」
「いや、喜んでいるがな、これ以上続けるのは賢くない」
「そうですか……」
父の言葉に、幼い顔がしゅんと俯く。
母は優しいから、困った顔を隠しているのかもしれない。勉の手が膝の上で小さな拳に変わった。察しが良く、周囲に気を払う性質は夢主譲りだ。勉は母の感情に想いを馳せて、口を噤んでいた。
「特別な
「とくべつ……ですか」
「そうだ」
頼もしい父の助言に、勉は顔を上げた。晴れやかな笑顔を見せた勉は、何やらひらめきを得ていた。
「わかりました、父上、ありがとうございます!」
笑顔で礼を述べた勉は、ぺこりと可愛く頭を下げてから立ち上がり、片づけを手伝うべく母のもとへ駆けていった。
斎藤は聞こえてきた夢主と勉の楽しげな声に薄い頬を緩めて、姿勢を崩した。
それから何日か経った朝、夢主は思い出したように「あっ」と声を上げた。
仕事に向かう斎藤に続いて玄関を出ると、見てくださいと庭に続く木戸を押した。
そこには、相変わらずどんぐりの山がある。以前、夢主が見せてくれた時から変わらないどんぐりの山だ。
斎藤は時折り庭を覗き、どんぐりの山に変わりがないことを確かめていた。その、どんぐりの山がどうかしたのか。斎藤は黙って夢主の様子を見守った。
「最近、勉さんがどんぐりを持ち帰らなくなったんです。まだ季節なのに、不思議ですよね。飽きちゃったのかな……貰えなくなると、寂しいものですね」
ふふっと笑う夢主が少し寂しそうで、引っ掛かりを覚えた斎藤は無意識に眉を動かしていた。
その日の夕暮れ、斎藤は町で夢主を見かけた。夢主は何かを探して焦り、走っていた。
その場を離れられなかった斎藤は、夢主が向かった方角をしっかりと確認し、間もなく追いかけた。
一体どこへ向かったのか。予測した先に夢主はおらず、斎藤は速足で町中を巡回した。やがて見つけた夢主は、勉を連れて歩いていた。
「珍しいな、勉が迷子か」
焦りの正体は我が子の行方だったようだ。妻子の確かな姿に安堵した斎藤は、踵を返して任務に戻っていった。
今夜も早めに任務を切り上げるか。そんなことを考えながら、煙草を一本取り出した。脳裏には、夕日の中、仲睦まじく語らい歩く夢主と勉の姿があった。
斎藤が再び警察署を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。望んだ早い帰宅は叶わなかったのだ。斎藤は、夜道に紫煙をなびかせて歩んでいた。
やけに静かな夜だ。空気が冷えているから、そう感じるだけか。紫煙を吐き出す息の音が消えた後、己の靴音以外、何も響かぬ静けさだ。斎藤は静寂の闇に耳を澄まして、家路を急いだ。
家に着くと、勉は既に深い眠りの中にいた。
音もなく夢主がひとり、玄関で斎藤を出迎える。
一目見るなり、斎藤は夢主の異変を感じ取った。
いつも通りにこやかな様子で振舞いは穏やかだが、夫である俺に対して何か言葉を抱えている。
日中、勉が迷子になった報告だろうか。
斎藤が訊ねずにいると、刀を下ろして上着を脱いで、腰を下ろして一息ついたところで夢主が話を切り出した。
以前、斎藤が勉にそうさせたように、夢主が背筋を伸ばして座り直す。思わず斎藤も居住まいを正していた。夢主は半開きの襖の向こうで眠る勉を一瞥してから口を開いた。
「一さん」
「どうした」
「勉さんにおかしなことを吹き込みましたね」
「何か、変なことでも言ったのか」
斎藤は顎を俄かに引いて眉間に皺を寄せた。迷子の話ではないのか。
おかしな話をしたつもりはないが、思い当たる節は、ひとつしかない。勉とじっくり話したのは先夜くらいなものだった。どんぐりの山がこれ以上大きくならないよう、言い聞かせた話だ。
「今日、勉さん、突然姿を消したんです」
勉のヤツめ夢主に何を言ったと思案する斎藤に、夢主は後悔滲む声で告げた。
共に出かけてはぐれたのだろうと考えていた斎藤は、何、と声を漏らした。
「初めてです、黙って家を出て行ったんです。お昼寝の後に庭ではしゃいでて、それからどんぐりの山の前にしゃがんで、大人しくどんぐりで遊んでいると思ったんです。でも覗いたら、いなくて……それは、目を離した私が悪いんですけど」
「いや、子供は思いもよらぬ行動に出るものだ。しかし慎重で物分かりの良い勉が何故」
「一さんの話を真に受けて、こっそり家を出てしまったんです」
「俺の話だと」
斎藤は骨ばった手で口に触れて、呟いた。
どんぐりはもう渡すなと伝えたつもりだった。勉には、異なる部分が響いてしまったのだ。
「特別な……贈り物か」
答えを導いて声にしたところで、夢主は緊張を解して微笑んだ。小さくふふっと声を漏らして、斎藤の心を弛ませた。
この日、家を抜け出した勉は、上野の山のふもとで座り込んでいたのだ。
勉を見つけた頃には、日が傾いていた。
夕日の中、どうしたのと夢主が訊ねた時、我が子を見つけた安堵よりも、姿を見失った時の不安が強く残っていた。
そんな不安を察した勉は、素直にごめんなさいと謝り、顔を上げて夢主にどんぐりを手渡したのだ。
『どんぐり?』
『はい、どんぐりです。母上に、とくべつな……とくべつな、おくりものです』
夢主は斎藤の前に手を伸ばして、開いた。
帽子付きの大きなどんぐりがひとつ、姿を現した。
「最近どんぐりを拾わなかったのは、これまでと同じものばかりだったからだそうです。勉さんは、特別などんぐりを、それもこっそりと……見つけたかったそうです」
「そうだったのか、勉。そんな事があったとは」
「赤い目で涙を堪えて、道に迷ってしまったと言ってました。探すうちにどんどん知っている道を逸れてしまったみたいで」
「俺が余計なことをしたか。いや、伝え方を間違えたな」
俺の失態だと深く省みる斎藤を見て、夢主は柔らかに笑んでいた。
勉の思いもよらぬ行動は、芽生えた自我と優しさが起こしたものだ。
そのきっかけは予想外のものだったが、斎藤の思いやりが生んだもの。目の前で反省する姿は、我が子を大切に想う姿だ。見ていると、どうしても顔が緩んでしまう。もうひとつ、嬉しい言葉に、夢主の顔は緩んでいた。
「特別な人には、特別なものを……」
「んんっ」
ぽつりと呟かれた言葉、喜びが滲む声に突かれた斎藤は、控えめな咳払いをして、夢主を牽制した。
「ふふっ、勉さん、大切な人には特別な物をと、父上に教わったと言ってました。特別な物をというお話は……嬉しいですけど、お気を付けくださいね。勉さんは素直に受け取っちゃうんです」
「あぁ、悪いことをしたな。勉にも、お前にも」
照れ隠しに夢主を睨むも、夢主は動じず、微笑んで手の中のどんぐりに視線を落とした。
大好きな斎藤が発した言葉で、可愛い勉が行動を起こして見つけた、特別な贈り物だ。
夢主は、どんぐりにそっと口づけた。生まれたての我が子の頬に触れるような温かい姿に、斎藤は息を呑んだ。斎藤は緩んだ口元を隠すため、咳払いの素振りで口元を覆った。
「とっても、嬉しかったです。勉さんの気持ちも、一さんのお気遣いも、お言葉も」
夢主の優しい仕草と言葉に、斎藤はんんっと短く喉を鳴らして目を反らした。一瞬、己の感情を整えるような間をおいて、夢主に向き直る。
斎藤は、いつもの様子に戻っていた。
「夢主」
「はぃ」
「その特別な贈り物、大切にするんだろう」
「はぃ、もちろんです」
にこりと笑んで、夢主はどんぐりを握った。
たおやかな笑顔にも今度は照れることなく、斎藤はニッといつも通りの笑みを返した。
「いいな。だが今、少しばかり置いてくれないか」
「えっ」
「割ったり、失くしては困るだろう」
「ぁ……」
斎藤はいつも通りのしたたかな手慣れた動きで、夢主を引き寄せた。
どんぐりを握る手にだけ自由を残し、もう一方の手を掴んで、腰に手を回した。
顔が迫り、斎藤の声が響くたび、夢主に熱い息がかかる。
思わず顔を背ける夢主だが、斎藤はさらに体を引き寄せて、顔を覗き込んできた。
「特別な女には、格別の扱いを」
「一さっ」
引き寄せられた夢主は慌ててどんぐりを握る手を伸ばした。
辛うじて手が届いた座布団の真ん中に、どんぐりを置く。
我が子の気持ちが籠った贈り物の安全を確かめた斎藤は、早くこちらを向けとばかりに、夢主の体の自由を奪った。
驚く夢主に向かい斎藤は指を立てて、「しぃ」と物音に気を付けるよう悟らせた。
途端に夢主の頬が紅潮していく。
斎藤はしぃと立てた指で夢主の唇に触れると、軽く指を押し込んで舐めさせた。
恥じらいながら応じる姿にフッと笑んだ斎藤は、濡れた指で夢主の頬をさすり、耳に触れて、耳輪を辿るように指を滑らせて、後ろ首に手を回して囁いた。
「部屋を移ったほうがいいか」
「は…はぃ……」
「そうだな」
控えめに望みを伝える夢主に同意して安心させた斎藤は、夢主の唇を塞ぎ、んっ、と抗いと羞恥の声を漏らさせた。
何度も続けて喰むように口を吸い、絡む唾液が音を鳴らすまで、口づけを続けた。
力を失った夢主から、んぁ……と切なく甘い声が零れると、斎藤はようやく顔を離して、にやりと笑んだ。
「さぁ、移るぞ」
頷く夢主を軽々と抱えた斎藤が立ち上がった。
だらりと足が垂れる夢主だが、力を振り絞って斎藤に手を回した。顔をうずめるように隠している。
赤い耳が見えた斎藤は、その耳に軽く口づけて夢主をびくりとさせてから、部屋を移動した。
ククッと小さく笑い声が響くと、夢主は斎藤に強くしがみついた。
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