【幕】夜商人の甘いかおり
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夜の四つ時、夢主の時代でいう夜の十時頃、夜番を外れた斎藤と沖田が揃って屯所に残る夜だった。
夢主は斎藤の部屋の奥に充てがわれた僅かな空間にいた。安心感の中、ぐっすり眠れるはずが、夢主の目はすっかり冴えている。
布団の上に座り込む夢主は、障子越しに薄ら感じる月明かりに顔を上げた。明るい夜だ。柔らかに透ける薄明かりの美しさに、溜め息が漏れた。
「眠れないんですか」
「おっ、沖田さん、何でいるんですか」
衝立の向こうから、沖田が顔を覗かせた。
夜は自室で眠るはずがどうしてと、理由を知るはずの部屋の主を探す。衝立の向こうは、文机に置かれた油皿に火が灯って仄明るい。首を伸ばして灯りの中を覗く夢主の視界に、沖田が割り込んだ。
「あははっ、密談ですよ密談」
「密談?!」
「揶揄うな沖田君、勝手に押しかけただけだろう」
珍しく揃って屯所にいるのだからと、寝る前に斎藤の部屋を訪れた沖田は、夢主の寝息に聞き耳を立ててから自室に戻るつもりだった。
音もなく訪れ斎藤に睨まれた沖田だが、夢主の様子が気になり奥まで入り込んだのだ。
「それより、どうしたんですか。溜め息が聞こえましたけど」
「溜め息では……理由はないんですけど、目が冴えてしまって」
優しい沖田の笑みに自然と微笑み返す夢主だが、斎藤の視線を求めて目を泳がせていた。
斎藤も沖田も同じ白い夜着を身につけている。薄灯りに映える白い夜着、それを纏う斎藤の瞳もまた、暗がりの中で灯りを湛えて映えている。
立ち上がった斎藤の美しい瞳と目が合うと、夢主は溜め息とは異なる息を、ハッと漏らした。
「眠れないのでしたら、いっそ外にでも出てみましょうか。確か夜商人の汁粉屋がいたはずです。どうですか」
斎藤に頬を染める夢主を間近で見るハメになった沖田は、業を煮やして幹部として良からぬ夜出話を持ち掛けた。
「夜……あきんど?」
「夜の物売りか。この時分に汁粉の物売りが出ているとは、沖田君は甘味には詳しいな」
沖田の言葉に視線を向ける夢主だが、すぐに斎藤を求めて顔を上げていた。
「甘味だけ、ではありませんけどね。夜は冷えますから、何か一枚羽織って出かけましょう。僕たちが付き添うんですから問題はないはずです」
「まぁ、そうだな」
夜の京は物騒だ。毎夜、物売りが出るとは限らない。副長も口煩い。しかし幹部二人が付き添う規則は守るのだ、文句を言われる謂れはない。不逞な輩が出ようが己と沖田、二人揃えば十分だ。問題ないだろう。
夢主と目を合わせた斎藤は、三人揃って夜の町に出るさまを想像した。頭の中で算段を整え、頷くなり黒い長着を羽織り、刀を手に支度を整えると夢主を促した。
「簡単でいい、一枚肩に掛けて行くぞ。煩い副長に気付かれる前にな」
「ふふっ、わかりました」
いいのか、悪いのか、わからないが本当はいけないのだろう。でも、きっと大丈夫。
夢主は悪戯に微笑んで首を傾げると、夜着の上に藍色の半纏を羽織った。沖田も通りすがりに自室から持ち出した一枚を羽織り、刀を手にする。三人は早歩きで屯所を抜け出した。
静寂の町に、三人の足音が響く。その中で一つ、小さく軽い足音が目立っていた。
いつも通り、沖田が夢主の横を行き、斎藤はしんがりを務めるが如く、背後を守って後ろから気を尖らせている。そんな張りつめた空気を打ち消す軽やかさだ。
「夢主ちゃん、わくわくしていますね」
「ふふっ、怖いんですけど、ちょっと楽しいです」
「怖いですか、僕たちがいますから平気ですよ」
「副長の小言と、京の夜に漂う血の匂い。確かに、前者は厄介だ」
「どちらも怖いですけど、土方さんに知られたら……ふふっ」
冗談を言って笑えるほどに、土方への信頼が回復している。斎藤と沖田は確かめるように静かに目線を合わせていた。
二人の思いをよそに、夢主は汁粉屋を探して楽しそうだ。俄かに冷たい風が吹き抜けても、気にする素振りはない。
「沖田さん、その夜商人って言うのはいつもいらっしゃるんですか、同じ場所に?」
「そこまで詳しくありませんが、僕が食べたい時は出会えますので、大丈夫ですよ」
おかしな自信で胸を張る沖田に、夢主を目を丸くして、程なく笑い出した。細い肩が大きく震えている。
「そんなに笑うな、響くぞ」
「すみません、ふふっ、沖田さんおかしくって」
「おかしいのは認めるがな」
「失礼ですね、あっ、夢主ちゃんはいいんですよ」
斎藤を睨みつけた沖田が首を振ったと思えば、夢主に笑顔を向ける。
呆れた斎藤はフンと鼻をならして歩み出て、沖田の場所を奪った。袖が触れて驚いた夢主が身を縮めると、斎藤はさりげなく腕を組んだ。
心配りに気づいた夢主は、自ずと身を解いて顔を上げた。見えたのは、見慣れた横顔。見慣れているのに、夜気の中、少し違って見える。通った鼻筋も、窪んだ頬も、澄んだ空気に月明かりが注ぎ、白く透き通るように美しい。
「行くぞ」
「あっ、ずるいんです!」
場所を奪われた沖田が、ならばと大きく回り込んで夢主の隣を確保する。
その間、斎藤は横目に夢主の姿を入れていた。美しい横顔の、鋭い目尻から見下ろされた夢主は、否応なしに頬を染めてしまった。
「さぁ、すぐそこですよ、夢主ちゃん。冷えてきましたし、温かい汁粉が待ち遠しいですね」
夢主が頬を染めた熱を感じる前に、沖田の明るい声が賑やかに響いた。
二人に挟まれた夢主が小さく笑うと、微かな風が吹き抜けた。今度は風に気付き、指を擦る。屯所を出た時よりも冷えている。
汁粉の温かさが待ち遠しくなり、軽やかな歩みが早まった。
程なく角を曲がると、沖田にとって馴染みの男が見えた。
真っ暗な夜の通りの真ん中に灯りを置き、餅を焼いて汁を煮たてている。仕事上がりの職人か、男が二人、食べ終えて立ち去るところだった。
「いました、こんばんは御主人!」
「おぉアンタは」
「はい、壬生狼の沖田です!」
沖田が挨拶をすると、汁粉屋の主人は自分で言うかいと大笑いで器を三つ用意した。
騒がしくしちゃいけねぇと声を潜めるが、主人は沖田を大層気に入っているらしく、手を動かしながらも会話を止めない。
会えそうな気がしたと伝える沖田に、来ると思っていましたよと返す主人。沖田が主人に夢主と斎藤を紹介する頃には、三つの汁粉の器が完成していた。
「夢主ちゃん、出来たては熱いですから、気を付けてくださいね」
「俺のは沖田君にくれてやる。代わりに夢主、冷めるまで持っててやる」
器に触れた途端、夢主の指が逃げたのを見逃さず、斎藤はすかさず手を伸ばした。
「あ、ありがとうございます」
ならばと、主人は器を一つ、小さな台に残した。
沖田が汁粉好きなのは承知。二つ平らげるのも容易い。だが、両手が塞がっては食べられまいとの気遣いだ。何やら不思議な三人の関係にも気付き、楽しそうにその場を見守っている。
「出来たては美味しいですけど、少し冷めるまで、お願いします」
「構わん」
夢主の汁粉を持った斎藤は、いっそ息を掛けて冷ますかと思案するが、思いとどまった。そこまでする義理はないうえに、下心が透ける気がした。
ところが何を思ったか、斎藤が持つ器に向かって、夢主がふぅふぅと息を吹きかけ始めた。
その程度で冷めるわけがないだろう。箸で餅を動かしたほうがまだ早い。言ってやりたい斎藤だが、滑稽な夢主の仕草が妙に愛らしく、柄にもなく見つめてしまった。
「折角ですし、斎藤さんも一口いかがですか、斎藤さんなら熱いお汁粉も……あっ」
自分のものをお裾分け。何気なく勧めたが、夢主は同じものを口に含む恥じらいに気付いて言葉を濁した。
「ごめんなさい、おかしなこと言っちゃいました、あの、そういうつもりでは……」
「お前が冷ましてくれるならいいぞ」
「えっ」
冗談が過ぎて怒られるだろう、斎藤がそう考えて吐いた戯言を、夢主は馬鹿正直に真に受けて、顔を火照らせた。
おいおい、と止めるべきだが、赤い顔で口をまごまごさせる姿が可笑しくて、斎藤は餅を箸で摘まみ上げた。
「ぁっ……」
箸で摘ままれた餅が自らの重みで伸びて、素肌でも晒すように焼目の間から白い姿を覗かせた。
斎藤に向かって唇をすぼませた夢主が、息を吹きかけるのを躊躇って固まっている。赤らんだ顔が、やけに艶めかしい。戸惑い気味に吐きだす息は短くて、汁粉に届く前に消えてしまった。
その様子を見た沖田は熱い汁粉にむせて、激しく咳き込んだ。
「がはっ、んん”っ、何させてるんですかっ斎藤さん! 往来で、破廉恥な! 夢主ちゃんも、しっかりしてくださいっ!」
「あっ、ぁ、ご、ごめんなさい」
我に返った夢主は、口元を覆った。
恥じらいで顔の火照りは耳まで達する。
汁粉屋の灯りに照らされて、夢主は赤々と色づいていた。
「冗談だ阿呆、まともに受けるな」
「夢主ちゃんは悪くありません、そんな冗談いう貴方がいけないんですよ斎藤さん!」
「あの、あのっ」
騒々しい三人の客に耐えかねて、汁粉屋の主人が笑い声を上げた。流行りの芝居を見るより楽しいやりとりだ。こりゃ堪らんと笑っている。
「壬生狼は恐ろしいなんて言う輩もおりますが、なんやその実、楽しいあんちゃんの集まりやなぁ!」
赤い顔の夢主だが、主人の言葉には笑って同意した。
男達を知ると、全くその通りなのだ。
京の町に血の雨を降らせているのは事実だ。だが、彼らが動き出してから無用な天誅が減ったのも事実。恐ろしい噂の陰で、着実に町の平穏に貢献している男達だった。
「とってもいい方たちです。みなさん、素敵です」
「そうかい、それで、アンタの好い人はどちらさんかね」
「えっっ」
口覆いで主人に問われた夢主は、動揺の声をあげた。問われているのに、心を読まれた気がして、恥じらいは一気に頂点に達した。
火照った顔とその瞳で反射的に斎藤を見てしまうが、慌てて目を伏せる。汁粉に目を落とし、手を伸ばした。
「あ、さ、斎藤さん、もう冷めましたから、戴きますね」
急いで器を受け取ろうとした夢主は斎藤の手を包んでしまい、悲鳴のような声を上げて飛び退いた。
「自分で触って自分で驚く阿呆がいるか、黙って食わんか」
「ご、ごめんなさい」
煩いぞと怒られた夢主は肩をすぼめて器を受け取った。
斎藤の手の中で冷めた汁粉は、ほどよい温かさに落ち着いていた。これ以上冷えた風が吹けば汁粉は冷たくなり、夢主の体も冷えてしまう。
斎藤は夢主にとって一番美味しい状態を早く味わえと、伝えたつもりだった。
「……美味しいです」
「フン」
「ありがとうございます、斎藤さんも、沖田さんも。あの、ご主人も」
丁寧に頭を下げる夢主に、男達が笑った。妙な気恥しさで笑ってしまう。笑ったのち、沖田だけが「どういたしまして」と堂々と応じた。
夢主が一杯の汁粉をゆっくり味わう間に、沖田は一杯目の残りと、二杯目を平らげた。
斎藤は二人を見守りながら、時折、通りの向こうに目を向けている。西と東、町家の隙間にも目を配る。何が起こるか分からぬ京の夜に、抜かりなく警戒を続けていた。続けながら、汁粉を味わう夢主を目の端に入れていた。
「すっかり温まりました、ゆっくり眠れそうです」
食べ終えて、ごちそうさまと器を返した夢主が、しみじみと呟いて大きく息を吐いた。温まった体から出た息は、幸せが満ちている。
「良かったな」
思わず目を細めた斎藤が、微笑むように首を傾げた。
夢主の目に仄白く見えた斎藤の顔が、今は汁粉屋の優しい灯りに照らされている。
穏やかな笑みに驚いた夢主は、ゆっくりと頷いて「はい」と答えた。
その息に鼻を擽られた気がした斎藤は、フンと小さく鼻をならした。それは、汁粉の甘い香りを含んだ温かい息だった。
❖ ❖ ❖
夢主は斎藤の部屋の奥に充てがわれた僅かな空間にいた。安心感の中、ぐっすり眠れるはずが、夢主の目はすっかり冴えている。
布団の上に座り込む夢主は、障子越しに薄ら感じる月明かりに顔を上げた。明るい夜だ。柔らかに透ける薄明かりの美しさに、溜め息が漏れた。
「眠れないんですか」
「おっ、沖田さん、何でいるんですか」
衝立の向こうから、沖田が顔を覗かせた。
夜は自室で眠るはずがどうしてと、理由を知るはずの部屋の主を探す。衝立の向こうは、文机に置かれた油皿に火が灯って仄明るい。首を伸ばして灯りの中を覗く夢主の視界に、沖田が割り込んだ。
「あははっ、密談ですよ密談」
「密談?!」
「揶揄うな沖田君、勝手に押しかけただけだろう」
珍しく揃って屯所にいるのだからと、寝る前に斎藤の部屋を訪れた沖田は、夢主の寝息に聞き耳を立ててから自室に戻るつもりだった。
音もなく訪れ斎藤に睨まれた沖田だが、夢主の様子が気になり奥まで入り込んだのだ。
「それより、どうしたんですか。溜め息が聞こえましたけど」
「溜め息では……理由はないんですけど、目が冴えてしまって」
優しい沖田の笑みに自然と微笑み返す夢主だが、斎藤の視線を求めて目を泳がせていた。
斎藤も沖田も同じ白い夜着を身につけている。薄灯りに映える白い夜着、それを纏う斎藤の瞳もまた、暗がりの中で灯りを湛えて映えている。
立ち上がった斎藤の美しい瞳と目が合うと、夢主は溜め息とは異なる息を、ハッと漏らした。
「眠れないのでしたら、いっそ外にでも出てみましょうか。確か夜商人の汁粉屋がいたはずです。どうですか」
斎藤に頬を染める夢主を間近で見るハメになった沖田は、業を煮やして幹部として良からぬ夜出話を持ち掛けた。
「夜……あきんど?」
「夜の物売りか。この時分に汁粉の物売りが出ているとは、沖田君は甘味には詳しいな」
沖田の言葉に視線を向ける夢主だが、すぐに斎藤を求めて顔を上げていた。
「甘味だけ、ではありませんけどね。夜は冷えますから、何か一枚羽織って出かけましょう。僕たちが付き添うんですから問題はないはずです」
「まぁ、そうだな」
夜の京は物騒だ。毎夜、物売りが出るとは限らない。副長も口煩い。しかし幹部二人が付き添う規則は守るのだ、文句を言われる謂れはない。不逞な輩が出ようが己と沖田、二人揃えば十分だ。問題ないだろう。
夢主と目を合わせた斎藤は、三人揃って夜の町に出るさまを想像した。頭の中で算段を整え、頷くなり黒い長着を羽織り、刀を手に支度を整えると夢主を促した。
「簡単でいい、一枚肩に掛けて行くぞ。煩い副長に気付かれる前にな」
「ふふっ、わかりました」
いいのか、悪いのか、わからないが本当はいけないのだろう。でも、きっと大丈夫。
夢主は悪戯に微笑んで首を傾げると、夜着の上に藍色の半纏を羽織った。沖田も通りすがりに自室から持ち出した一枚を羽織り、刀を手にする。三人は早歩きで屯所を抜け出した。
静寂の町に、三人の足音が響く。その中で一つ、小さく軽い足音が目立っていた。
いつも通り、沖田が夢主の横を行き、斎藤はしんがりを務めるが如く、背後を守って後ろから気を尖らせている。そんな張りつめた空気を打ち消す軽やかさだ。
「夢主ちゃん、わくわくしていますね」
「ふふっ、怖いんですけど、ちょっと楽しいです」
「怖いですか、僕たちがいますから平気ですよ」
「副長の小言と、京の夜に漂う血の匂い。確かに、前者は厄介だ」
「どちらも怖いですけど、土方さんに知られたら……ふふっ」
冗談を言って笑えるほどに、土方への信頼が回復している。斎藤と沖田は確かめるように静かに目線を合わせていた。
二人の思いをよそに、夢主は汁粉屋を探して楽しそうだ。俄かに冷たい風が吹き抜けても、気にする素振りはない。
「沖田さん、その夜商人って言うのはいつもいらっしゃるんですか、同じ場所に?」
「そこまで詳しくありませんが、僕が食べたい時は出会えますので、大丈夫ですよ」
おかしな自信で胸を張る沖田に、夢主を目を丸くして、程なく笑い出した。細い肩が大きく震えている。
「そんなに笑うな、響くぞ」
「すみません、ふふっ、沖田さんおかしくって」
「おかしいのは認めるがな」
「失礼ですね、あっ、夢主ちゃんはいいんですよ」
斎藤を睨みつけた沖田が首を振ったと思えば、夢主に笑顔を向ける。
呆れた斎藤はフンと鼻をならして歩み出て、沖田の場所を奪った。袖が触れて驚いた夢主が身を縮めると、斎藤はさりげなく腕を組んだ。
心配りに気づいた夢主は、自ずと身を解いて顔を上げた。見えたのは、見慣れた横顔。見慣れているのに、夜気の中、少し違って見える。通った鼻筋も、窪んだ頬も、澄んだ空気に月明かりが注ぎ、白く透き通るように美しい。
「行くぞ」
「あっ、ずるいんです!」
場所を奪われた沖田が、ならばと大きく回り込んで夢主の隣を確保する。
その間、斎藤は横目に夢主の姿を入れていた。美しい横顔の、鋭い目尻から見下ろされた夢主は、否応なしに頬を染めてしまった。
「さぁ、すぐそこですよ、夢主ちゃん。冷えてきましたし、温かい汁粉が待ち遠しいですね」
夢主が頬を染めた熱を感じる前に、沖田の明るい声が賑やかに響いた。
二人に挟まれた夢主が小さく笑うと、微かな風が吹き抜けた。今度は風に気付き、指を擦る。屯所を出た時よりも冷えている。
汁粉の温かさが待ち遠しくなり、軽やかな歩みが早まった。
程なく角を曲がると、沖田にとって馴染みの男が見えた。
真っ暗な夜の通りの真ん中に灯りを置き、餅を焼いて汁を煮たてている。仕事上がりの職人か、男が二人、食べ終えて立ち去るところだった。
「いました、こんばんは御主人!」
「おぉアンタは」
「はい、壬生狼の沖田です!」
沖田が挨拶をすると、汁粉屋の主人は自分で言うかいと大笑いで器を三つ用意した。
騒がしくしちゃいけねぇと声を潜めるが、主人は沖田を大層気に入っているらしく、手を動かしながらも会話を止めない。
会えそうな気がしたと伝える沖田に、来ると思っていましたよと返す主人。沖田が主人に夢主と斎藤を紹介する頃には、三つの汁粉の器が完成していた。
「夢主ちゃん、出来たては熱いですから、気を付けてくださいね」
「俺のは沖田君にくれてやる。代わりに夢主、冷めるまで持っててやる」
器に触れた途端、夢主の指が逃げたのを見逃さず、斎藤はすかさず手を伸ばした。
「あ、ありがとうございます」
ならばと、主人は器を一つ、小さな台に残した。
沖田が汁粉好きなのは承知。二つ平らげるのも容易い。だが、両手が塞がっては食べられまいとの気遣いだ。何やら不思議な三人の関係にも気付き、楽しそうにその場を見守っている。
「出来たては美味しいですけど、少し冷めるまで、お願いします」
「構わん」
夢主の汁粉を持った斎藤は、いっそ息を掛けて冷ますかと思案するが、思いとどまった。そこまでする義理はないうえに、下心が透ける気がした。
ところが何を思ったか、斎藤が持つ器に向かって、夢主がふぅふぅと息を吹きかけ始めた。
その程度で冷めるわけがないだろう。箸で餅を動かしたほうがまだ早い。言ってやりたい斎藤だが、滑稽な夢主の仕草が妙に愛らしく、柄にもなく見つめてしまった。
「折角ですし、斎藤さんも一口いかがですか、斎藤さんなら熱いお汁粉も……あっ」
自分のものをお裾分け。何気なく勧めたが、夢主は同じものを口に含む恥じらいに気付いて言葉を濁した。
「ごめんなさい、おかしなこと言っちゃいました、あの、そういうつもりでは……」
「お前が冷ましてくれるならいいぞ」
「えっ」
冗談が過ぎて怒られるだろう、斎藤がそう考えて吐いた戯言を、夢主は馬鹿正直に真に受けて、顔を火照らせた。
おいおい、と止めるべきだが、赤い顔で口をまごまごさせる姿が可笑しくて、斎藤は餅を箸で摘まみ上げた。
「ぁっ……」
箸で摘ままれた餅が自らの重みで伸びて、素肌でも晒すように焼目の間から白い姿を覗かせた。
斎藤に向かって唇をすぼませた夢主が、息を吹きかけるのを躊躇って固まっている。赤らんだ顔が、やけに艶めかしい。戸惑い気味に吐きだす息は短くて、汁粉に届く前に消えてしまった。
その様子を見た沖田は熱い汁粉にむせて、激しく咳き込んだ。
「がはっ、んん”っ、何させてるんですかっ斎藤さん! 往来で、破廉恥な! 夢主ちゃんも、しっかりしてくださいっ!」
「あっ、ぁ、ご、ごめんなさい」
我に返った夢主は、口元を覆った。
恥じらいで顔の火照りは耳まで達する。
汁粉屋の灯りに照らされて、夢主は赤々と色づいていた。
「冗談だ阿呆、まともに受けるな」
「夢主ちゃんは悪くありません、そんな冗談いう貴方がいけないんですよ斎藤さん!」
「あの、あのっ」
騒々しい三人の客に耐えかねて、汁粉屋の主人が笑い声を上げた。流行りの芝居を見るより楽しいやりとりだ。こりゃ堪らんと笑っている。
「壬生狼は恐ろしいなんて言う輩もおりますが、なんやその実、楽しいあんちゃんの集まりやなぁ!」
赤い顔の夢主だが、主人の言葉には笑って同意した。
男達を知ると、全くその通りなのだ。
京の町に血の雨を降らせているのは事実だ。だが、彼らが動き出してから無用な天誅が減ったのも事実。恐ろしい噂の陰で、着実に町の平穏に貢献している男達だった。
「とってもいい方たちです。みなさん、素敵です」
「そうかい、それで、アンタの好い人はどちらさんかね」
「えっっ」
口覆いで主人に問われた夢主は、動揺の声をあげた。問われているのに、心を読まれた気がして、恥じらいは一気に頂点に達した。
火照った顔とその瞳で反射的に斎藤を見てしまうが、慌てて目を伏せる。汁粉に目を落とし、手を伸ばした。
「あ、さ、斎藤さん、もう冷めましたから、戴きますね」
急いで器を受け取ろうとした夢主は斎藤の手を包んでしまい、悲鳴のような声を上げて飛び退いた。
「自分で触って自分で驚く阿呆がいるか、黙って食わんか」
「ご、ごめんなさい」
煩いぞと怒られた夢主は肩をすぼめて器を受け取った。
斎藤の手の中で冷めた汁粉は、ほどよい温かさに落ち着いていた。これ以上冷えた風が吹けば汁粉は冷たくなり、夢主の体も冷えてしまう。
斎藤は夢主にとって一番美味しい状態を早く味わえと、伝えたつもりだった。
「……美味しいです」
「フン」
「ありがとうございます、斎藤さんも、沖田さんも。あの、ご主人も」
丁寧に頭を下げる夢主に、男達が笑った。妙な気恥しさで笑ってしまう。笑ったのち、沖田だけが「どういたしまして」と堂々と応じた。
夢主が一杯の汁粉をゆっくり味わう間に、沖田は一杯目の残りと、二杯目を平らげた。
斎藤は二人を見守りながら、時折、通りの向こうに目を向けている。西と東、町家の隙間にも目を配る。何が起こるか分からぬ京の夜に、抜かりなく警戒を続けていた。続けながら、汁粉を味わう夢主を目の端に入れていた。
「すっかり温まりました、ゆっくり眠れそうです」
食べ終えて、ごちそうさまと器を返した夢主が、しみじみと呟いて大きく息を吐いた。温まった体から出た息は、幸せが満ちている。
「良かったな」
思わず目を細めた斎藤が、微笑むように首を傾げた。
夢主の目に仄白く見えた斎藤の顔が、今は汁粉屋の優しい灯りに照らされている。
穏やかな笑みに驚いた夢主は、ゆっくりと頷いて「はい」と答えた。
その息に鼻を擽られた気がした斎藤は、フンと小さく鼻をならした。それは、汁粉の甘い香りを含んだ温かい息だった。
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