8.出陣の雨に消える声
お相手の名前変更
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
日が暮れて、二人は社を後にした。
時尾は斎藤に屋敷まで送り届けられて、名残惜しく別れを告げた。
宿舎へ戻る斎藤の背中が見えなくなるまで見送りたい、そんな想いを見越してか、斎藤は敢えて時尾を先に屋敷の中へ追いやった。
時尾は後ろ髪を引かれるように振り返り、屋敷の中へ消えていった。
家に戻った時尾は弟の詮索をやり過ごし、いつもと変わらぬ夜を過ごして布団に潜り込んだ。
普段通りだ。何も変わらぬ夜なのに、時尾は布団に入ってからも眠れず、天井を見つめていた。
今日一日の出来事が何度も何度も頭の中に蘇り、心が落ち着かない。淋しそうなあの人の目、優しく広がった大きな袖に、中から見えた逞しい腕……温かい体と、触れた唇──。
時尾は一気に布団を引き上げた。布団の中に隠れて、激しく首を振った。
今日は時尾にとって、特別すぎる一日だった。
やがて落ち着きを取り戻して布団から顔を出すが、時尾は再び天井を見つめていた。
今思えば、取り乱して喚いた自分は、至極情けない。けれどもあの人は責めるどころか、案じてくれた。
盛之助とあの人の出会いも突然で驚いた。盛之助が心配だったが、あの人が全て打ち消してくれた。盛之助があんな素直に引き下がったのも驚きだ。あの人と何を話したのか、あの人は盛之助の心さえも掴んでしまったのかもしれない。本当に凄い人。
それから、社での出来事は、思い出すだけで体が熱くなる。初めての想いと出来事だらけで、嬉しくて仕方がない。
あの人が戦から戻ったら家の皆に挨拶を、二人でそう決めたから、二人の約束はまだ誰にも告げていない。けれども、盛之助は薄々勘付いているようだ。にやけた姉に、同じような顔を向けていた。
「斎藤様が、旦那様……」
呟いて、ふふっと忍び笑んだ時尾、もう一度布団をかぶってみるが、眠れなかった。
喜びと共にある不安のせいだ。斎藤の出陣が気掛かりだ。会津の行く末も、愛しい人の行く末も、思えば思う程に不安が渦巻いていく。
「生きて戻る、とても自信家のあの人が言うのだから、きっと戻ってくださる。くださるけど……」
この不安はどうすれば失せるのか。
鬱々と考えていると、時尾の耳に、何かが聞こえた。何かが屋根に当たる音だった。
小さな物音、ぱらぱらと、まばらに聞こえた音は、すぐに規則的な音に変わった。
濡れた音を聞いて、時尾は思わず布団から身を起こした。
「雨……」
時尾は雨戸を開いて、降り出した雨を覗いた。
外は、あっという間に濡れ景色だ。朝まで続きそうな降り具合。男達は雨の中を出陣し、濡れた体で戦に挑むのか。重い鎧は更に重みを増すだろう。銃や火薬を濡らさぬよう気を使い、足を取られて先を急げぬ行軍。
それでも男達は行かねばならない。殿をお守りするのはもちろん、故郷や大切な人、貫きたい義の為に進んでいく。どれ程行く手を阻まれようが、男達の歩みは続くのだ。
時尾は胸が握り潰されるような苦しさを感じた。
「せめて、雨だけでも止んでくれたなら」
今から朝まで祈り続けようか。祈りなど虚しいと知っているが、出来ることはそれくらい。
「あの社……」
もうやめようと決めた社詣。でも最後に、今宵、もう一度だけ手を合わせたい。この雨の中なら誰もいないだろう。時尾は雨がどんどん強くなっていく空を見上げた。真っ暗な夜の雨空に感じる恐怖。だが戦に出向く男達を思えば、小さな恐怖だ。
「御社は斎藤様の、宿舎の近く……」
もしかしたら、もう一度お顔を見られるかも。少しなら、覗いてみても良いだろうか。
時尾は馬鹿な考えに首を振って、偶然なんて起こり得ないし、覗くなどならないと自らを笑った。ただ雨が止むことを、皆の無事を祈ろう。
意を決して雨戸を閉めようとした時尾は、雨音に混じる違和を感じた。
「何」
誰かいる。呼ばれた気がした時尾は、寝巻に羽織の姿で急ぎ部屋を飛び出した。
雨の音が響く中、傘を手に門を出ると、屋敷前の通りを覗いた。
「斎藤、様」
少し気まずい顔をした、斎藤が雨に濡れていた。
時尾は斎藤に屋敷まで送り届けられて、名残惜しく別れを告げた。
宿舎へ戻る斎藤の背中が見えなくなるまで見送りたい、そんな想いを見越してか、斎藤は敢えて時尾を先に屋敷の中へ追いやった。
時尾は後ろ髪を引かれるように振り返り、屋敷の中へ消えていった。
家に戻った時尾は弟の詮索をやり過ごし、いつもと変わらぬ夜を過ごして布団に潜り込んだ。
普段通りだ。何も変わらぬ夜なのに、時尾は布団に入ってからも眠れず、天井を見つめていた。
今日一日の出来事が何度も何度も頭の中に蘇り、心が落ち着かない。淋しそうなあの人の目、優しく広がった大きな袖に、中から見えた逞しい腕……温かい体と、触れた唇──。
時尾は一気に布団を引き上げた。布団の中に隠れて、激しく首を振った。
今日は時尾にとって、特別すぎる一日だった。
やがて落ち着きを取り戻して布団から顔を出すが、時尾は再び天井を見つめていた。
今思えば、取り乱して喚いた自分は、至極情けない。けれどもあの人は責めるどころか、案じてくれた。
盛之助とあの人の出会いも突然で驚いた。盛之助が心配だったが、あの人が全て打ち消してくれた。盛之助があんな素直に引き下がったのも驚きだ。あの人と何を話したのか、あの人は盛之助の心さえも掴んでしまったのかもしれない。本当に凄い人。
それから、社での出来事は、思い出すだけで体が熱くなる。初めての想いと出来事だらけで、嬉しくて仕方がない。
あの人が戦から戻ったら家の皆に挨拶を、二人でそう決めたから、二人の約束はまだ誰にも告げていない。けれども、盛之助は薄々勘付いているようだ。にやけた姉に、同じような顔を向けていた。
「斎藤様が、旦那様……」
呟いて、ふふっと忍び笑んだ時尾、もう一度布団をかぶってみるが、眠れなかった。
喜びと共にある不安のせいだ。斎藤の出陣が気掛かりだ。会津の行く末も、愛しい人の行く末も、思えば思う程に不安が渦巻いていく。
「生きて戻る、とても自信家のあの人が言うのだから、きっと戻ってくださる。くださるけど……」
この不安はどうすれば失せるのか。
鬱々と考えていると、時尾の耳に、何かが聞こえた。何かが屋根に当たる音だった。
小さな物音、ぱらぱらと、まばらに聞こえた音は、すぐに規則的な音に変わった。
濡れた音を聞いて、時尾は思わず布団から身を起こした。
「雨……」
時尾は雨戸を開いて、降り出した雨を覗いた。
外は、あっという間に濡れ景色だ。朝まで続きそうな降り具合。男達は雨の中を出陣し、濡れた体で戦に挑むのか。重い鎧は更に重みを増すだろう。銃や火薬を濡らさぬよう気を使い、足を取られて先を急げぬ行軍。
それでも男達は行かねばならない。殿をお守りするのはもちろん、故郷や大切な人、貫きたい義の為に進んでいく。どれ程行く手を阻まれようが、男達の歩みは続くのだ。
時尾は胸が握り潰されるような苦しさを感じた。
「せめて、雨だけでも止んでくれたなら」
今から朝まで祈り続けようか。祈りなど虚しいと知っているが、出来ることはそれくらい。
「あの社……」
もうやめようと決めた社詣。でも最後に、今宵、もう一度だけ手を合わせたい。この雨の中なら誰もいないだろう。時尾は雨がどんどん強くなっていく空を見上げた。真っ暗な夜の雨空に感じる恐怖。だが戦に出向く男達を思えば、小さな恐怖だ。
「御社は斎藤様の、宿舎の近く……」
もしかしたら、もう一度お顔を見られるかも。少しなら、覗いてみても良いだろうか。
時尾は馬鹿な考えに首を振って、偶然なんて起こり得ないし、覗くなどならないと自らを笑った。ただ雨が止むことを、皆の無事を祈ろう。
意を決して雨戸を閉めようとした時尾は、雨音に混じる違和を感じた。
「何」
誰かいる。呼ばれた気がした時尾は、寝巻に羽織の姿で急ぎ部屋を飛び出した。
雨の音が響く中、傘を手に門を出ると、屋敷前の通りを覗いた。
「斎藤、様」
少し気まずい顔をした、斎藤が雨に濡れていた。