【明】桜より、甘く香る俺の花を
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桜は梅ほど香らない。故に花が開いても、人々が香りで開花を知ることはない。
だから人はその時を心待ちに、花の様子を見に行くのかもしれない。満開の桜を楽しみにして。
「おい、今日咲き始めの桜を見つけたぞ」
「本当ですか!」
帰宅した斎藤は開口一番、夢主に告げた。
夢主が声を弾ませる姿を眺めながら靴を脱いで手袋を外し、既にニ、三外れている制服の釦を外して胸元を広げていく。
風が温かく変わった頃から時折、斎藤は警視庁と我が家の行来、桜の木を見ていた。
わざわざ道を逸れずとも、道中見える桜の木がある。
冬の間、枯れて見えた枝に蕾は生じていた。小さな塊は徐々に育ち、いつしか、はっきり蕾と分かる形に成長し、やがて、蕾から花びらが覗くほど大きく膨らんでいた。
そろそろだな。開花が近いと感じてからは、毎日様子を見ていた。桜が特別好きなのではない。桜の開花を楽しみにしている夢主に伝えたいだけだった。喜ぶさまが、見たかった。
「まだ僅かだがな」
「でも嬉しいです、私も明日見に行ってみます」
「フッ、だったら明朝、案内してやる」
案内とは我ながら大袈裟だなと、斎藤は笑った。近頃、隣人の道場や知人の牛鍋屋の手伝いで忙しい夢主の良い気晴らしになるだろう。夢主は、もともと忙しさを苦に思う性質ではないが息抜きだ。斎藤がそう思った矢先、夢主に言葉をそっくりそのまま返された。
「一さんもたまには桜でも見て、息抜きしてくださいね」
「ククッ、明日は案内するだけだぞ、弁当なんざ作るなよ」
「つ、作りませんよ!一さんが忙しいの、わかってますから」
「そうか」
斎藤は膨れっ面の夢主を小さく笑った後、顔が見えなくなるまでその体を引き寄せた。
「そうだったな、誰より俺の仕事に理解があるお前だったな。誰より迷惑を掛けている、か」
「そんな、ことは……」
斎藤が軽く抱きしめるだけで、夢主は大人しくなる。膨れっ面は消え、もごもごと声を濁した。
揶揄って悪かったとばかりに頭を撫でられて、夢主はすっかり甘えていた。自ら身を寄せて、もっと撫でてくださいとねだっているようだ。そんな愛らしさを見せつけられては、斎藤はお手上げだ。
「今宵はまだ早いな。今から見に行くか」
「今から……ですか?」
「面倒か」
「そんなことありませんっ!行きます、連れて行ってください」
少しでも早く望みを叶えてやるか。斎藤が誘うと、夢主は笑顔に花を咲かせた。あまりの喜びように、斎藤からクククと声が漏れる。
「なんで笑うんですか、桜、連れて行ってください」
「すまん、お前はいつでも満開の桜だと思ってな」
「い、いいじゃないですか」
褒められているのか、また揶揄われているのか。嬉しいようで恥ずかしい言葉に、夢主は再び膨れっ面を見せた。今度は頬がほんのり色づいている。
「あぁ構わんさ。それにお前は酔えば乙女椿、だったな。桜よりも、お前は乙女椿だ」
「なっ……」
「椿もまだ、咲いてるぞ」
さぁ行くぞと斎藤が靴に足を入れ直す。先に靴を履いた斎藤は家を出る直前、足を止めて、草履を履く夢主を振り返って見下ろした。
「桜の後は、我が家で椿を愛でたいが、出来ると思うか」
「えっ」
「椿だよ」
斎藤は、くいくい、と酒を煽る仕草をした。お前と二人で久しぶりに一献、呑みたいと珍しい誘いだ。
「わ、わかりませんっっ」
鋭い目に見つめられて、夢主は既に乙女椿のように色づいている。
この調子ならば酒抜きでも乙女椿色に染まった夢主を見られそうだ。はにかむ夢主の顔は、斎藤にそう思わせた。
「行くぞ」
ニィと笑んだ目に操られるよう、夢主は斎藤に続いていた。体の芯を何かが駆け上る。
「桜を……見に行くんです」
夢主は自らに言い聞かせた。通りには夜になっても温かさが残っている。それなのに、ぞくぞくとするのは何故。
歩き出してすぐ、夢主は斎藤の袖をそっと摘まみ、斎藤が肩越しに振り替えると、摘まむ手を指先に移した。
帰宅した時に手袋を外した素肌の手。肌が触れて、手が軽く握り返される。
「珍しいか」
手を握り返すなど珍しいだろ。斎藤が首を傾げると、夢主は大きく一度、頷いた。
「だろうな」
そうだ、俺がお前の手を握るのはお前を抱く時ぐらいか。握ると言うより、掴むんだがな。
斎藤は軽く握り返していた手を強く握り、夢主を驚かせた。
さぁ思い出せ。俺がこの感触をお前に与える時の出来事を。
斎藤が横目で射竦めると、夢主の呼吸は乱れた。心と体に蘇る艶めいた記憶。浅くなる速くなる呼吸を整え、口内に溜まった唾液を喉に落とし、昂りを悟られまいと必死に堪えている。
その全てを、見え見えだぞと観察していた斎藤が、フッと目を細めた。
「まずは桜、だな」
戸惑う夢主を強く引いて桜のもとへ導く。
二人は束の間、開いたばかりの数輪の花を楽しんだ。
暗がりの中で咲く小さな花。たまに吹く夜風を受けて揺れていた。
夜が更けた頃、斎藤の目の前には大輪の花が乱れ咲いていた。
甘い息と声を放つ乙女椿が、溢れる蜜で斎藤を深く深く、飲み込んでいった。
だから人はその時を心待ちに、花の様子を見に行くのかもしれない。満開の桜を楽しみにして。
「おい、今日咲き始めの桜を見つけたぞ」
「本当ですか!」
帰宅した斎藤は開口一番、夢主に告げた。
夢主が声を弾ませる姿を眺めながら靴を脱いで手袋を外し、既にニ、三外れている制服の釦を外して胸元を広げていく。
風が温かく変わった頃から時折、斎藤は警視庁と我が家の行来、桜の木を見ていた。
わざわざ道を逸れずとも、道中見える桜の木がある。
冬の間、枯れて見えた枝に蕾は生じていた。小さな塊は徐々に育ち、いつしか、はっきり蕾と分かる形に成長し、やがて、蕾から花びらが覗くほど大きく膨らんでいた。
そろそろだな。開花が近いと感じてからは、毎日様子を見ていた。桜が特別好きなのではない。桜の開花を楽しみにしている夢主に伝えたいだけだった。喜ぶさまが、見たかった。
「まだ僅かだがな」
「でも嬉しいです、私も明日見に行ってみます」
「フッ、だったら明朝、案内してやる」
案内とは我ながら大袈裟だなと、斎藤は笑った。近頃、隣人の道場や知人の牛鍋屋の手伝いで忙しい夢主の良い気晴らしになるだろう。夢主は、もともと忙しさを苦に思う性質ではないが息抜きだ。斎藤がそう思った矢先、夢主に言葉をそっくりそのまま返された。
「一さんもたまには桜でも見て、息抜きしてくださいね」
「ククッ、明日は案内するだけだぞ、弁当なんざ作るなよ」
「つ、作りませんよ!一さんが忙しいの、わかってますから」
「そうか」
斎藤は膨れっ面の夢主を小さく笑った後、顔が見えなくなるまでその体を引き寄せた。
「そうだったな、誰より俺の仕事に理解があるお前だったな。誰より迷惑を掛けている、か」
「そんな、ことは……」
斎藤が軽く抱きしめるだけで、夢主は大人しくなる。膨れっ面は消え、もごもごと声を濁した。
揶揄って悪かったとばかりに頭を撫でられて、夢主はすっかり甘えていた。自ら身を寄せて、もっと撫でてくださいとねだっているようだ。そんな愛らしさを見せつけられては、斎藤はお手上げだ。
「今宵はまだ早いな。今から見に行くか」
「今から……ですか?」
「面倒か」
「そんなことありませんっ!行きます、連れて行ってください」
少しでも早く望みを叶えてやるか。斎藤が誘うと、夢主は笑顔に花を咲かせた。あまりの喜びように、斎藤からクククと声が漏れる。
「なんで笑うんですか、桜、連れて行ってください」
「すまん、お前はいつでも満開の桜だと思ってな」
「い、いいじゃないですか」
褒められているのか、また揶揄われているのか。嬉しいようで恥ずかしい言葉に、夢主は再び膨れっ面を見せた。今度は頬がほんのり色づいている。
「あぁ構わんさ。それにお前は酔えば乙女椿、だったな。桜よりも、お前は乙女椿だ」
「なっ……」
「椿もまだ、咲いてるぞ」
さぁ行くぞと斎藤が靴に足を入れ直す。先に靴を履いた斎藤は家を出る直前、足を止めて、草履を履く夢主を振り返って見下ろした。
「桜の後は、我が家で椿を愛でたいが、出来ると思うか」
「えっ」
「椿だよ」
斎藤は、くいくい、と酒を煽る仕草をした。お前と二人で久しぶりに一献、呑みたいと珍しい誘いだ。
「わ、わかりませんっっ」
鋭い目に見つめられて、夢主は既に乙女椿のように色づいている。
この調子ならば酒抜きでも乙女椿色に染まった夢主を見られそうだ。はにかむ夢主の顔は、斎藤にそう思わせた。
「行くぞ」
ニィと笑んだ目に操られるよう、夢主は斎藤に続いていた。体の芯を何かが駆け上る。
「桜を……見に行くんです」
夢主は自らに言い聞かせた。通りには夜になっても温かさが残っている。それなのに、ぞくぞくとするのは何故。
歩き出してすぐ、夢主は斎藤の袖をそっと摘まみ、斎藤が肩越しに振り替えると、摘まむ手を指先に移した。
帰宅した時に手袋を外した素肌の手。肌が触れて、手が軽く握り返される。
「珍しいか」
手を握り返すなど珍しいだろ。斎藤が首を傾げると、夢主は大きく一度、頷いた。
「だろうな」
そうだ、俺がお前の手を握るのはお前を抱く時ぐらいか。握ると言うより、掴むんだがな。
斎藤は軽く握り返していた手を強く握り、夢主を驚かせた。
さぁ思い出せ。俺がこの感触をお前に与える時の出来事を。
斎藤が横目で射竦めると、夢主の呼吸は乱れた。心と体に蘇る艶めいた記憶。浅くなる速くなる呼吸を整え、口内に溜まった唾液を喉に落とし、昂りを悟られまいと必死に堪えている。
その全てを、見え見えだぞと観察していた斎藤が、フッと目を細めた。
「まずは桜、だな」
戸惑う夢主を強く引いて桜のもとへ導く。
二人は束の間、開いたばかりの数輪の花を楽しんだ。
暗がりの中で咲く小さな花。たまに吹く夜風を受けて揺れていた。
夜が更けた頃、斎藤の目の前には大輪の花が乱れ咲いていた。
甘い息と声を放つ乙女椿が、溢れる蜜で斎藤を深く深く、飲み込んでいった。