【幕】涙雨
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梅雨の終わり、息が詰まりそうな蒸した町が、冷たい雨に覆われていた。
突然降りだして、叩きつけるように降り注いでいる。むせ返る暑さは一気に消えた。
雨どいはすぐに限界を超え、瓦を伝う雨が、雨どいを超えて滝のように流れ落ちている。大きな音を立てて地面を、庭石を、叩く。
前川邸の庭、縁側近くに並ぶ石は、穴が開くのではと思うほど大きな音を立てていた。
既に半刻は降り続いている。そんな雨の中、夢主が斎藤の部屋の前で立ち尽くしていた。
大きく強い雨粒が体中を打ちつけて力を奪う。このまま朽ちて溶けてしまうのではと感じるほどの雨が、夢主を襲っていた。
おろした髪も、薄い着物も、雨を吸って体に纏わりつく。強く張り付いて、肌と同化してしまいそうだった。
「何をしている」
「……斎藤、さん」
夢主のもとへ、雨音の中、聞きなれた声が通り抜けてきた。
眉間にしわを寄せた斎藤が、縁側に立っていた。袖に手を隠して腕を組み、庭で濡れる夢主を見下ろしている。
「風邪を引くぞ」
「そう……ですね……」
雨に冷えたせいか、夢主の顔に生気がない。
斎藤は溜息を吐きたいのを堪え、言葉を繋げた。
「倒れたいのか」
屯所にやってきて数か月、ようやく落ち着いたと思った夢主が、蒼白な面持ちで雨の中に佇んでいる。どうにもならぬ絶望のあまり、雨の中に身を投げたのか。斎藤は青白くなった夢主の唇に目を留めた。
「俺にこの雨の中、庭に降りろというのか」
「そんな」
よく見れば、夢主の体が小刻みに震えている。随分と長い時間、この雨の中にいたのだろう。斎藤は夢主を睨めつけた。
「お前が体を壊して責任を問われるのは俺なんだよ」
「ごめんなさい……」
斎藤が一歩踏み出すと、夢主はようやく屋敷のほうへ歩みだした。
歩き出すと体の震えは止まったが、唇が小さく震えている。斎藤は近づく夢主の、震える唇を見つめていた。
夢主が雨を凌げる踏み石の所まで戻ると、斎藤は唇から目を反らし腕組みを解き、懐に忍ばせていた手拭いを差し出した。
夢主は受け取る前に髪を絞り、手の水滴を払ってから手を伸ばした。その間、伸ばされた斎藤の手は微動だにしなかった。
髪を絞る間に頬の雫を拭いてやろうか、そんな考えが浮かんだが、何もせずただ待っていたのだ。
「お前は以前も雨の中、庭に降りていたな」
体を拭う夢主を眺めて斎藤が言った。
ゆっくり体を拭きながら、夢主は黙って頷いた。手拭いはすぐに濡れ満ちてしまった。すっかり雨濡れた体を乾かすには至らない。手拭いを絞ってみるが、一度濡れた手拭いは大した役割を果たさなかった。
斎藤は仕方なく、部屋から新しい手拭いを持ってきた。
「何か」
嫌なことでもあったか。問いかけて、愚問だと気付いた。
雨に隠れていた涙が、夢主の目尻に溜まっていた。ほんのり鼻が赤いのは、冷たい雨のせいだけではなかったのだ。渾沌と湧きおこる感情に飲み込まれ、泣いていた。
新しい手拭い受け取った夢主は、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「雨に打たれて気が紛れるのかもしれんが」
斎藤は、うぅむと顎に手を置いて、大袈裟に考え込むフリをした。
珍しい声に顔を上げた夢主は、斎藤につられて首を傾げた。
「そうだな、滝行にでも行くか」
「えっ」
冗談に決まっていると言わんばかりに、斎藤は大袈裟に考え込むフリを続ける。程よい滝はあるか、一番近い場所はどこか、己も同行すべきか、ぶつぶつとわざとらしく呟いている。
「……ふふっ、滝行は面白そうですけど、やめておきます」
黙って顔を強張らせていた夢主から、笑い声が漏れた。その声に安堵して、斎藤は顎から手を離した。
「ククッ、そうだな、それがいい。滝行は考えるよりも辛いそうだからな」
「大変そうですね、それに、私が行くとなればご迷惑をおかけしますし」
「迷惑、か」
そういうことは考えるなと言ったはずだが。
責めたい気持を押さえて、斎藤は夢主から手拭いを奪った。奪った手拭いを夢主の頭に乗せて、掻き乱すように荒々しく髪を拭く。
夢主は目を閉じて、乱暴な扱いに耐えた。乱暴だが、大きくて温かい手がやけに心地良い。
荒っぽさは、面倒くささではなかった。夢主を案じるあまり斎藤に生まれた気掛かり、抱え込んで潰れるなと励ましたいが出来ないもどかしさ、頼ってこない夢主への苛立ち、そして、そうさせてしまった不甲斐ない己への不満。それらが無意識に荒々しい動きに変わっていたのだ。
仕上げに額や頬の水滴を拭くと、拭かれた夢主はふふふと笑みを溢した。
子供扱いを受けているようでいて、顔を拭く仕草がやけに紳士的で、丁寧だった。
首筋まで垂れた水滴を拭き取られ時は、流石にびくりと体が反応してしまった夢主だが、そっと触れては離しを繰り返して、水滴を手拭いに滲み込ませる斎藤の仕草は、驚くほど穏やかだった。
様子を確かめに覗き込んでくる瞳は真っすぐで、夢主の心までをも確かめているようだった。
「やれやれ、終いだ」
夢主の髪を拭き終えた斎藤は、満足そうに手拭いを丸めた。
「湯屋にでも行くか。風邪をひく前に、あと、誰かに見つかったら面倒だからな、俺の後ろに隠れてついてこい」
「はい」
手早く乾いた着替えを用意したのは斎藤だった。
夢主はまだ濡れたまま、斎藤に連れられて屯所を小走りに抜けていった。濡れた姿を誰にも見られぬよう、素早く通り抜けた。
二人きりの湯屋。本当はいけない二人だけの外出。夢主の鼓動は速まっていた。
外に出る間際、傘を差し出した斎藤が、空を見上げて、ふっと表情を和らげた。
反射的に傘に手を伸ばした夢主だが、思わぬ表情に動きを止めた。
「雨はお前の涙だったのか、本当の涙雨に変わったな」
「涙雨……」
雨に隠れて泣いていた夢主の激しい感情を映したような強い雨が、すっかり弱まっていた。傘を開いても音を鳴らさぬ、さらさらと降る細かい雨。
夢主が傘を受け取ると、軒の向こう、斎藤と目が合った。一本しかない傘、自分が使って良いものか。二人で入るのは気恥ずかしいが、独り占めは出来ない。
「さ、斎藤さんも……」
夢主が慌てて傘を差しだすと、
「俺はいらん。お前が持っていろ」
そう言った斎藤が、夢主には笑んでいるように見えた。
立派な傘は、前川家からの借りものだろうか。夢主は、ちらと斎藤を見てから、空を見上げた。
空の端には、微かに光を感じる。雨はきっと、上がるだろう。
「あの、傘、私もいいです。ここまで濡れていますし」
「そうか。まぁそうだな。ならば、俺もお前も雨の中を濡れて行くか」
「はぃ」
柔らかく包む霧のような雨の中、二人は連れ立って歩きだした。
目に入る霧雨に夢主が目を細めると、斎藤はさりげなく雨の盾となり、夢主を庇った。空中を漂う軽い雨は、体を張ったところで防げるものではないが、斎藤の心遣いが夢主に染み入る。夢主の目尻りに溜まる涙の理由が、斎藤の優しさに変わっていた。
温まった二人が湯屋を出る頃には雨は上がり、空には鮮やかな夕焼けが広がっていた。
❖ ❖ ❖
突然降りだして、叩きつけるように降り注いでいる。むせ返る暑さは一気に消えた。
雨どいはすぐに限界を超え、瓦を伝う雨が、雨どいを超えて滝のように流れ落ちている。大きな音を立てて地面を、庭石を、叩く。
前川邸の庭、縁側近くに並ぶ石は、穴が開くのではと思うほど大きな音を立てていた。
既に半刻は降り続いている。そんな雨の中、夢主が斎藤の部屋の前で立ち尽くしていた。
大きく強い雨粒が体中を打ちつけて力を奪う。このまま朽ちて溶けてしまうのではと感じるほどの雨が、夢主を襲っていた。
おろした髪も、薄い着物も、雨を吸って体に纏わりつく。強く張り付いて、肌と同化してしまいそうだった。
「何をしている」
「……斎藤、さん」
夢主のもとへ、雨音の中、聞きなれた声が通り抜けてきた。
眉間にしわを寄せた斎藤が、縁側に立っていた。袖に手を隠して腕を組み、庭で濡れる夢主を見下ろしている。
「風邪を引くぞ」
「そう……ですね……」
雨に冷えたせいか、夢主の顔に生気がない。
斎藤は溜息を吐きたいのを堪え、言葉を繋げた。
「倒れたいのか」
屯所にやってきて数か月、ようやく落ち着いたと思った夢主が、蒼白な面持ちで雨の中に佇んでいる。どうにもならぬ絶望のあまり、雨の中に身を投げたのか。斎藤は青白くなった夢主の唇に目を留めた。
「俺にこの雨の中、庭に降りろというのか」
「そんな」
よく見れば、夢主の体が小刻みに震えている。随分と長い時間、この雨の中にいたのだろう。斎藤は夢主を睨めつけた。
「お前が体を壊して責任を問われるのは俺なんだよ」
「ごめんなさい……」
斎藤が一歩踏み出すと、夢主はようやく屋敷のほうへ歩みだした。
歩き出すと体の震えは止まったが、唇が小さく震えている。斎藤は近づく夢主の、震える唇を見つめていた。
夢主が雨を凌げる踏み石の所まで戻ると、斎藤は唇から目を反らし腕組みを解き、懐に忍ばせていた手拭いを差し出した。
夢主は受け取る前に髪を絞り、手の水滴を払ってから手を伸ばした。その間、伸ばされた斎藤の手は微動だにしなかった。
髪を絞る間に頬の雫を拭いてやろうか、そんな考えが浮かんだが、何もせずただ待っていたのだ。
「お前は以前も雨の中、庭に降りていたな」
体を拭う夢主を眺めて斎藤が言った。
ゆっくり体を拭きながら、夢主は黙って頷いた。手拭いはすぐに濡れ満ちてしまった。すっかり雨濡れた体を乾かすには至らない。手拭いを絞ってみるが、一度濡れた手拭いは大した役割を果たさなかった。
斎藤は仕方なく、部屋から新しい手拭いを持ってきた。
「何か」
嫌なことでもあったか。問いかけて、愚問だと気付いた。
雨に隠れていた涙が、夢主の目尻に溜まっていた。ほんのり鼻が赤いのは、冷たい雨のせいだけではなかったのだ。渾沌と湧きおこる感情に飲み込まれ、泣いていた。
新しい手拭い受け取った夢主は、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「雨に打たれて気が紛れるのかもしれんが」
斎藤は、うぅむと顎に手を置いて、大袈裟に考え込むフリをした。
珍しい声に顔を上げた夢主は、斎藤につられて首を傾げた。
「そうだな、滝行にでも行くか」
「えっ」
冗談に決まっていると言わんばかりに、斎藤は大袈裟に考え込むフリを続ける。程よい滝はあるか、一番近い場所はどこか、己も同行すべきか、ぶつぶつとわざとらしく呟いている。
「……ふふっ、滝行は面白そうですけど、やめておきます」
黙って顔を強張らせていた夢主から、笑い声が漏れた。その声に安堵して、斎藤は顎から手を離した。
「ククッ、そうだな、それがいい。滝行は考えるよりも辛いそうだからな」
「大変そうですね、それに、私が行くとなればご迷惑をおかけしますし」
「迷惑、か」
そういうことは考えるなと言ったはずだが。
責めたい気持を押さえて、斎藤は夢主から手拭いを奪った。奪った手拭いを夢主の頭に乗せて、掻き乱すように荒々しく髪を拭く。
夢主は目を閉じて、乱暴な扱いに耐えた。乱暴だが、大きくて温かい手がやけに心地良い。
荒っぽさは、面倒くささではなかった。夢主を案じるあまり斎藤に生まれた気掛かり、抱え込んで潰れるなと励ましたいが出来ないもどかしさ、頼ってこない夢主への苛立ち、そして、そうさせてしまった不甲斐ない己への不満。それらが無意識に荒々しい動きに変わっていたのだ。
仕上げに額や頬の水滴を拭くと、拭かれた夢主はふふふと笑みを溢した。
子供扱いを受けているようでいて、顔を拭く仕草がやけに紳士的で、丁寧だった。
首筋まで垂れた水滴を拭き取られ時は、流石にびくりと体が反応してしまった夢主だが、そっと触れては離しを繰り返して、水滴を手拭いに滲み込ませる斎藤の仕草は、驚くほど穏やかだった。
様子を確かめに覗き込んでくる瞳は真っすぐで、夢主の心までをも確かめているようだった。
「やれやれ、終いだ」
夢主の髪を拭き終えた斎藤は、満足そうに手拭いを丸めた。
「湯屋にでも行くか。風邪をひく前に、あと、誰かに見つかったら面倒だからな、俺の後ろに隠れてついてこい」
「はい」
手早く乾いた着替えを用意したのは斎藤だった。
夢主はまだ濡れたまま、斎藤に連れられて屯所を小走りに抜けていった。濡れた姿を誰にも見られぬよう、素早く通り抜けた。
二人きりの湯屋。本当はいけない二人だけの外出。夢主の鼓動は速まっていた。
外に出る間際、傘を差し出した斎藤が、空を見上げて、ふっと表情を和らげた。
反射的に傘に手を伸ばした夢主だが、思わぬ表情に動きを止めた。
「雨はお前の涙だったのか、本当の涙雨に変わったな」
「涙雨……」
雨に隠れて泣いていた夢主の激しい感情を映したような強い雨が、すっかり弱まっていた。傘を開いても音を鳴らさぬ、さらさらと降る細かい雨。
夢主が傘を受け取ると、軒の向こう、斎藤と目が合った。一本しかない傘、自分が使って良いものか。二人で入るのは気恥ずかしいが、独り占めは出来ない。
「さ、斎藤さんも……」
夢主が慌てて傘を差しだすと、
「俺はいらん。お前が持っていろ」
そう言った斎藤が、夢主には笑んでいるように見えた。
立派な傘は、前川家からの借りものだろうか。夢主は、ちらと斎藤を見てから、空を見上げた。
空の端には、微かに光を感じる。雨はきっと、上がるだろう。
「あの、傘、私もいいです。ここまで濡れていますし」
「そうか。まぁそうだな。ならば、俺もお前も雨の中を濡れて行くか」
「はぃ」
柔らかく包む霧のような雨の中、二人は連れ立って歩きだした。
目に入る霧雨に夢主が目を細めると、斎藤はさりげなく雨の盾となり、夢主を庇った。空中を漂う軽い雨は、体を張ったところで防げるものではないが、斎藤の心遣いが夢主に染み入る。夢主の目尻りに溜まる涙の理由が、斎藤の優しさに変わっていた。
温まった二人が湯屋を出る頃には雨は上がり、空には鮮やかな夕焼けが広がっていた。
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