童遊戯
ブルマの激しい鼓動が耳に心地よい。
その体の震えも。
「痛い、放してよ…」と訴えるブルマのせつなげな声を聞くと、とても気持ちがよく、麻薬に酔ったような酩酊を覚えた。蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶が、逃れようとして、無様に羽ばたいているような光景が繰り広げられている。
素晴らしい。
ぞくぞくしてきた。
その妖しい体感の最中、さて今夜はどうやってこの女を色地獄に落としこんでやろうかと企みながら、しきりにマニキュアを弄っていると、ふと頭の奥から、全く違った記憶がよみがえってきた。
「そうだ思い出した。オレの一番最初の記憶は、この色なんだ」
うってかわって、妙にご機嫌な声で言いながらブルマの爪を撫でる。ブルマは弱々しく抵抗しながらも、結局されるがままになっている。はあ、はっ、はあ、と呼吸がうまく出来ていない。
汗がこめかみを伝っている。
ブルマの表情が見えないが、どんな心境でいるのか察しはつく。
「この赤い色、これよりもっと暗めの赤色が、目の前に一面広がっているんだ。地面にも、壁にも、窓の回りにも。…窓にはガラスが無い。ああそうかここは王宮だな」
「お、お城、……ベジータは、お城に住んでたの?……それはどんなお城だった?キレイなお城なの?」
質問を絞り出すブルマの声が、かすれている。
喉がからからに渇いているからだろうな、と思った。
さっきまで見せていた余裕も、枯れ果てている。それでも声をふりしぼって話題を変えようとしている。もう引き返せないというのに、しつこい女。
「王族なんだから豪奢な城に住むのは当然だろ。バカかお前は。ああそれでな、その血の主が何者だったのかは忘れたが、ソイツを始末したのがオレだって事は覚えている。この手がソイツの心臓を握りしめている感覚が、今でも明確に」
「も、もう、いい…。分かったから」
「心臓の温度や、弱まる脈動が、ハッキリと思い出される。覚えていて良かった。もしも、他人の殺しなんてものが最初の記憶として残っていたら……とてもじゃないが、サイヤの王族など名乗れんからなあ」
ブルマの目の前で、その時と同じ仕草をしてみせた。手の中にボール一個分の空間を残しつつ、閉じたり開いたり。
最後にギュッと握りしめると、同時にブルマが顔を背けた。笑いが込み上げてくる。自分にとって愉しい昔ばなしが、女をビビらせている現状がこの上無く快感だ。
だからズルズルと記憶をたぐった。
何かもっとこの女が怯えるような記憶を探すのだ、残酷で、むごたらしい記憶を……。
ベジータは意識を己の内側に集中させて、膨大な記憶の海に飛び込んだ。その時点で、目的が変わりつつあった。ブルマを怖がらせる為、という目的を忘れてしまっていた。単に残酷な記憶だけを探す、という目的に変化していた。まぶたの裏に様々な絵が、連続して現れる。古くてボロボロの絵だ。それをそのまま、脳内で繋げて物語にし、言語化し、語る。
「殺し合いゲームを……下ろされた後に」
「もういいの、わ、分かったから。そうよ、あんたには」
「フリーザの命令で、戦場に駆り出され……フリーザの命令で舟に乗り……見知らぬ惑星で役割を果たした、フリーザを満足させる為だけに。勿論、沢山殺せたさ。しかしそれが純然たる遊びだと感じるのは稀だ、フリーザに従っていた頃の殺しはオレにとっては単なる義務でしかなく」
「あんた……あんたには、普通の子供時代が、全然……」
「一介の戦闘員として、あの腐りきった軍隊の中で、このオレが名ばかりの待遇を受けて、このオレがフリーザの為に、このオレ様が、下働きを、」
「ベジータもう止めて!」
ブルマの叫び声が聞こえる。
だが、どこか遠い所から聞こえてきて、現実味がない。ブルマとの間に半透明の膜があるような感じだ。……記憶の海は深かった。今、頭の中に鮮明にあるのは、フリーザの笑みと、指図の言葉と、丁寧に包み隠された脅迫の眼差しだけ。
「な、ぜ、この、オレ様が、てめえの家来として、ガキの頃から」
「ベジータ、もうこんな話止めましょ?ね?子どもの頃の話は、もうおしまい」
鈴に、幾重にもエコーがかかっている。
膜の向こうから聞こえてくる女の声は、優しくて不思議なものだった。とても場違いな声だ、とベジータは思った。軍隊には、こんな声を出す者は居ないのだ。
居るのは。居るのは。
「ガキの頃からオレは」
「そ、そうだ!ねえ、すっごく美味しいワインがあるのよ!一緒に」
「ガキの頃からずーっとだ……ずーっとずーっとオレはあの野郎の言いなりだ。でもなあ、オレはそんなクソッタレな生活を何年も耐え続けたんだぜ、凄いだろう。何故かわかるか?それはな、いつかチャンスが巡って来る事を信じていたからだ。いつか絶対に、この手でフリーザの野郎をぶち殺す、ただその一心でオレは我慢し続けたんだよ、野郎の手下として!そしてある時、はははッ!運命の日と言っても良い、ラディッツのマヌケが素敵な情報を寄越してきやがったのさ!命と引き換えになあ!あのマヌケにしては上等の最期だった!不老不死!願いを叶える七つの玉だとよ!」
「ベジータ!!」
パン、と音が鳴った。
ブルマが、いつの間にかこちらに体を向けていた。
そして、手のひらで頬をひっぱたいていた。「しっかりして!」と叫びながら。
この顔色は、何の色か……、この目は一体何を訴えているのだろうかと、ベジータは首を傾げた。怒りの色では無いようだが、こんな色を見せる者は、軍隊では見かけなかった。軍隊ではない。
ではどこか。
ああそうだ、と思い付く。
あのヘドの出そうな、甘ったれた連中がうじゃうじゃいる星…。
「地球だ」
「ベジータ?ねえベジータ?大丈夫?しっかりしてよ…」
「地球だ。地球を制圧、してから……オレは不老不死となり、フリーザを倒すつもりでいたのに、そこであの下級戦士が!地球でひねり潰してやったのにあの野郎!クズの癖に、オレを超えやがって!なぜだ!?オレの方が、血は尊いというのに!オレの方が!比べ物にならんぐらいに経験を積み!そして苦しんできたのだ!ガキの頃からだ!それをあのふざけた野郎は軽々と飛び越えやがった!なぜだ!!」
「そ、孫くんの事は考えないで!考えちゃダメよ!」
ブルマが、ベジータの胸を拳で叩いてくる。必死の形相だ。
叩かれても痛みは感じなかった。
麻酔がかかったように、感触もあやふやだ。
だが、体を揺さぶられるうちに、深い記憶の海から徐々に引き上げられていった。針にかかった魚のように、ぐいぐいとひっぱられた。暗い水底から、光の見える水面へと。
やがて今いる場所、状況、相手の女がしっかりと見えてきて、現実として把握すると、ベジータは女の拳を両手で素早く捕まえた。
ブルマは眉をひそめて苦しそうな顔をしていた。
手を放して、今度はその顔を両手ではさみ、ギリギリまで顔を寄せた。
青い目がぱちぱちと瞬く。
額には汗が浮いているが、これは、怖がった為だろうか?とベジータは疑問に思う。今、青い目は、全く恐怖心を見せていないのだ。ただ苦しそうに、睫毛が少しだけ震えている。
「教えろ」
口から自然にこぼれた。息をするように容易く。なんだか、鍵があちこち壊れているような感じがした。とびきり特別のモノを隠している扉の鍵が壊れているような、こころもとない感じがして、寒気を覚えた。
ベジータは頭の中で聞いた、『黙れ』という声を。
全く同感である。
ここは全力で黙るべきなのだ。…絶対に喋ってはならない。
「あの野郎はなぜオレを超えた?」
「え?」
「カカロットだ、カカロットはなぜ、」
『黙れ』という声が、脳内で連呼される。黙れ黙れ黙れ黙れと、怒鳴りつけてくるコイツは誰なのか。自分自身なのだろうか。
しかし今、口を動かして喋っているのも、自分自身なのだ。『知りたい』と強烈に求める、この姿もまた、自分自身なのだ。
どちらを優先すべきか。
ここで選択を誤ってはならない。優先すべきなのは、頭の中のコイツ……。コイツを優先させて口を封印しなければならない。
「教えろ、オレとカカロットの違いを。奴にあってオレに無いものとは…何だ?お前は昔、奴と一緒に地球を遊びまわっていたんだろ。オレよりも付き合いが長いんだから分かるはずだ。奴にあってオレに無いものは何だ?何が違うんだ」
「な、何って……」
ブルマの返事が、針のように耳をつんざいた。
頭を叩き割られたような衝撃を感じた。黙らなければならないのに、なぜコントロールが利かないのだろうか。訳がわからなくなってきた。ベジータは目眩がしてきた。ぼんやりと目の前に見えるのは、ブルマのふとももだ。
自分が今、俯いているという事に気づくまで、数秒かかった。
顔を上げたい。
顔を上げて、青い目を見れば、もしかしたら正気に戻れるかもしれない。正しい自分に導かれたい。いつもの強い自分に戻りたいと願った。しかし首が動かない。
なぜこの女は、叩かないのだろう。さっきのように、頬をひっぱたいたり、胸を叩いたり、なんらかの刺激を与えてくれれば自分は元に戻れて、上から女を見下ろして笑っていられるはずなのだ。
ブルマは、こちらの手を握っている。脱力して顔から放した手を、優しく握っている。
手は、汗ばんでいる。
汗をかいているのは、どちらだろう。
「教えろと言ってるんだ。奴との違いを……。何故黙る!オレは今!カカロットがやりやがった訓練の、何倍もの負荷をかけて鍛えているんだぞ!それでも、超えられん!なぜだ!?野郎の“猿真似”をするしか能の無い、このオレが悪いのか!?では一体!これ以上何を工夫しろというんだ!!教えろ!!なんとか言えブルマ!!」
「う、うるさいわよ!!」
いきなり目の前が真っ暗になった。
顔が、何かに強く押し付けられていて、目が塞がれて見えなくなっている。頬には、温かくて柔らかいものが当たっている。
遠い昔にも、頬で感じた事がある気がする。一体いつの事だろうか。遠すぎる。思い出せない。
よく知っている匂いが鼻腔をくすぐる。汗と香水のまじりあった、夜の濃密な匂い。軍隊には無かった匂い。ハーレムにすら無かった匂い。
――気がつくと、ブルマに頭を抱かれて、胸に引き寄せられていた。
柔らかな肉の向こう側から鼓動が聞こえてくる。さっきと違って、ゆっくりな鼓動。呼吸音も聞こえてくる。それは深くて長いものだった。
だが、ベジータはやがて気づいた。
ブルマの鼓動と呼吸が鈍いのではない。自分の鼓動と呼吸の方が速くなっているのだ。
「ぐ……」
歯を食い縛った。
胸からせりあがってくる嗚咽を、ベジータは必死に殺す。それは誰にも見られたくない姿。誰にも聞かれてはならない声だ。鍵の壊れた所から、溜まりに溜まった感情が、とめどなく溢れてくる。止められない。どうしたら良いのか分からない。感情が情けない呻きとなって漏れてしまう。
ブルマの腕の力が、その時急に強まった。さらに顔を、胸に押しあてられた。ぎゅっと圧迫された瞼からは涙が零れた。それが、ブルマの汗と一つに混じりあい、コロコロと、乳房の間を転がり落ちてゆく。
「知らないわよ!」
「く……うぐ……」
「知ってたらとっくに教えてるわよ!そうすりゃ、めんどくさい重力室の修理に、追われなくて済むんですからね!あんたの話、全ッ然わかんないしつまんないんですけど!戦闘マニアの話なんか、私、興味が無いのよ!ああー退屈ねえー!なんか刺激的な事して遊びたいわ!ほらいつもの感じで遊びましょうよ!私がゲームに勝ったんだから言う通りにすんのよ!いつもみたいにやりなさいよ!どうしたの!?やれないなら私が上になってやるわ!」
ブルマがベジータの頭を抱きながら、体重をかけてきた。そのまま押し倒し、ガチャガチャとジーンズのベルトを外し始める。絶対にやってはならない行為を、ブルマはしようとしていた。
すぐにベジータがブルマの服を掴み、ベッドに横倒しにした。勢いで、服のボタンがいくつか飛んだ。そして次には布地が破れた。裸体が露になっていき、ブルマの悲鳴があがった。悲鳴は、同じ音量のまま、矯声へと変わっていった。いつもより、大きな声だった。いつもよりも激しい暴れ方で、ブルマは抗った。男をひっぱたく、蹴る、殴る、引っ掻く、噛み付く、髪を掴む。そして大声で罵倒した。バカ、あんたなんか最低、触らないで、どこが王子よ、やめて、汚らわしい、大嫌い、あんたなんか大っ嫌いよ。
……………
……………
――あんた、何見てんのよ?
上からいつも偉そうに。
見てるだけで何もしてくれないあんたなんか、消えちゃえばいいんだわ。
なんで何もしてくれないくせに、そこにいるのよ。ずうずうしい。
……見ないでよ。
今のこの人を見ないでよ。
早くどっかから雲を呼んできなさいよ、そして目をふさいでいなさいよ。
こっちは、忙しくてカーテンが閉められないんだから。
ねえ、お願いよ。どこかへ行って。
今のこの人を、誰にも見せたくないのよ。
今のこの人の声を、誰にも聞かせたくないのよ。
私の声はちゃんと大きく出せているかしら?自然な叫び声になってるかしら?
私は今、この人を上手く隠せているかしら?
隠してみせるわ、なんとしてでも。
誰にも見せてやらないわ、今のあんたを、絶対に。――
ユサユサと揺れるブルマの視線の先に、夜を映した窓がある。
カーテンのすき間に煌めく一粒の星を見て、ブルマは心の中で文句をつけると、再びその心の全てを、狂いかけた男に向け、大声で喘いだ。
【完】
2012/11/2
その体の震えも。
「痛い、放してよ…」と訴えるブルマのせつなげな声を聞くと、とても気持ちがよく、麻薬に酔ったような酩酊を覚えた。蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶が、逃れようとして、無様に羽ばたいているような光景が繰り広げられている。
素晴らしい。
ぞくぞくしてきた。
その妖しい体感の最中、さて今夜はどうやってこの女を色地獄に落としこんでやろうかと企みながら、しきりにマニキュアを弄っていると、ふと頭の奥から、全く違った記憶がよみがえってきた。
「そうだ思い出した。オレの一番最初の記憶は、この色なんだ」
うってかわって、妙にご機嫌な声で言いながらブルマの爪を撫でる。ブルマは弱々しく抵抗しながらも、結局されるがままになっている。はあ、はっ、はあ、と呼吸がうまく出来ていない。
汗がこめかみを伝っている。
ブルマの表情が見えないが、どんな心境でいるのか察しはつく。
「この赤い色、これよりもっと暗めの赤色が、目の前に一面広がっているんだ。地面にも、壁にも、窓の回りにも。…窓にはガラスが無い。ああそうかここは王宮だな」
「お、お城、……ベジータは、お城に住んでたの?……それはどんなお城だった?キレイなお城なの?」
質問を絞り出すブルマの声が、かすれている。
喉がからからに渇いているからだろうな、と思った。
さっきまで見せていた余裕も、枯れ果てている。それでも声をふりしぼって話題を変えようとしている。もう引き返せないというのに、しつこい女。
「王族なんだから豪奢な城に住むのは当然だろ。バカかお前は。ああそれでな、その血の主が何者だったのかは忘れたが、ソイツを始末したのがオレだって事は覚えている。この手がソイツの心臓を握りしめている感覚が、今でも明確に」
「も、もう、いい…。分かったから」
「心臓の温度や、弱まる脈動が、ハッキリと思い出される。覚えていて良かった。もしも、他人の殺しなんてものが最初の記憶として残っていたら……とてもじゃないが、サイヤの王族など名乗れんからなあ」
ブルマの目の前で、その時と同じ仕草をしてみせた。手の中にボール一個分の空間を残しつつ、閉じたり開いたり。
最後にギュッと握りしめると、同時にブルマが顔を背けた。笑いが込み上げてくる。自分にとって愉しい昔ばなしが、女をビビらせている現状がこの上無く快感だ。
だからズルズルと記憶をたぐった。
何かもっとこの女が怯えるような記憶を探すのだ、残酷で、むごたらしい記憶を……。
ベジータは意識を己の内側に集中させて、膨大な記憶の海に飛び込んだ。その時点で、目的が変わりつつあった。ブルマを怖がらせる為、という目的を忘れてしまっていた。単に残酷な記憶だけを探す、という目的に変化していた。まぶたの裏に様々な絵が、連続して現れる。古くてボロボロの絵だ。それをそのまま、脳内で繋げて物語にし、言語化し、語る。
「殺し合いゲームを……下ろされた後に」
「もういいの、わ、分かったから。そうよ、あんたには」
「フリーザの命令で、戦場に駆り出され……フリーザの命令で舟に乗り……見知らぬ惑星で役割を果たした、フリーザを満足させる為だけに。勿論、沢山殺せたさ。しかしそれが純然たる遊びだと感じるのは稀だ、フリーザに従っていた頃の殺しはオレにとっては単なる義務でしかなく」
「あんた……あんたには、普通の子供時代が、全然……」
「一介の戦闘員として、あの腐りきった軍隊の中で、このオレが名ばかりの待遇を受けて、このオレがフリーザの為に、このオレ様が、下働きを、」
「ベジータもう止めて!」
ブルマの叫び声が聞こえる。
だが、どこか遠い所から聞こえてきて、現実味がない。ブルマとの間に半透明の膜があるような感じだ。……記憶の海は深かった。今、頭の中に鮮明にあるのは、フリーザの笑みと、指図の言葉と、丁寧に包み隠された脅迫の眼差しだけ。
「な、ぜ、この、オレ様が、てめえの家来として、ガキの頃から」
「ベジータ、もうこんな話止めましょ?ね?子どもの頃の話は、もうおしまい」
鈴に、幾重にもエコーがかかっている。
膜の向こうから聞こえてくる女の声は、優しくて不思議なものだった。とても場違いな声だ、とベジータは思った。軍隊には、こんな声を出す者は居ないのだ。
居るのは。居るのは。
「ガキの頃からオレは」
「そ、そうだ!ねえ、すっごく美味しいワインがあるのよ!一緒に」
「ガキの頃からずーっとだ……ずーっとずーっとオレはあの野郎の言いなりだ。でもなあ、オレはそんなクソッタレな生活を何年も耐え続けたんだぜ、凄いだろう。何故かわかるか?それはな、いつかチャンスが巡って来る事を信じていたからだ。いつか絶対に、この手でフリーザの野郎をぶち殺す、ただその一心でオレは我慢し続けたんだよ、野郎の手下として!そしてある時、はははッ!運命の日と言っても良い、ラディッツのマヌケが素敵な情報を寄越してきやがったのさ!命と引き換えになあ!あのマヌケにしては上等の最期だった!不老不死!願いを叶える七つの玉だとよ!」
「ベジータ!!」
パン、と音が鳴った。
ブルマが、いつの間にかこちらに体を向けていた。
そして、手のひらで頬をひっぱたいていた。「しっかりして!」と叫びながら。
この顔色は、何の色か……、この目は一体何を訴えているのだろうかと、ベジータは首を傾げた。怒りの色では無いようだが、こんな色を見せる者は、軍隊では見かけなかった。軍隊ではない。
ではどこか。
ああそうだ、と思い付く。
あのヘドの出そうな、甘ったれた連中がうじゃうじゃいる星…。
「地球だ」
「ベジータ?ねえベジータ?大丈夫?しっかりしてよ…」
「地球だ。地球を制圧、してから……オレは不老不死となり、フリーザを倒すつもりでいたのに、そこであの下級戦士が!地球でひねり潰してやったのにあの野郎!クズの癖に、オレを超えやがって!なぜだ!?オレの方が、血は尊いというのに!オレの方が!比べ物にならんぐらいに経験を積み!そして苦しんできたのだ!ガキの頃からだ!それをあのふざけた野郎は軽々と飛び越えやがった!なぜだ!!」
「そ、孫くんの事は考えないで!考えちゃダメよ!」
ブルマが、ベジータの胸を拳で叩いてくる。必死の形相だ。
叩かれても痛みは感じなかった。
麻酔がかかったように、感触もあやふやだ。
だが、体を揺さぶられるうちに、深い記憶の海から徐々に引き上げられていった。針にかかった魚のように、ぐいぐいとひっぱられた。暗い水底から、光の見える水面へと。
やがて今いる場所、状況、相手の女がしっかりと見えてきて、現実として把握すると、ベジータは女の拳を両手で素早く捕まえた。
ブルマは眉をひそめて苦しそうな顔をしていた。
手を放して、今度はその顔を両手ではさみ、ギリギリまで顔を寄せた。
青い目がぱちぱちと瞬く。
額には汗が浮いているが、これは、怖がった為だろうか?とベジータは疑問に思う。今、青い目は、全く恐怖心を見せていないのだ。ただ苦しそうに、睫毛が少しだけ震えている。
「教えろ」
口から自然にこぼれた。息をするように容易く。なんだか、鍵があちこち壊れているような感じがした。とびきり特別のモノを隠している扉の鍵が壊れているような、こころもとない感じがして、寒気を覚えた。
ベジータは頭の中で聞いた、『黙れ』という声を。
全く同感である。
ここは全力で黙るべきなのだ。…絶対に喋ってはならない。
「あの野郎はなぜオレを超えた?」
「え?」
「カカロットだ、カカロットはなぜ、」
『黙れ』という声が、脳内で連呼される。黙れ黙れ黙れ黙れと、怒鳴りつけてくるコイツは誰なのか。自分自身なのだろうか。
しかし今、口を動かして喋っているのも、自分自身なのだ。『知りたい』と強烈に求める、この姿もまた、自分自身なのだ。
どちらを優先すべきか。
ここで選択を誤ってはならない。優先すべきなのは、頭の中のコイツ……。コイツを優先させて口を封印しなければならない。
「教えろ、オレとカカロットの違いを。奴にあってオレに無いものとは…何だ?お前は昔、奴と一緒に地球を遊びまわっていたんだろ。オレよりも付き合いが長いんだから分かるはずだ。奴にあってオレに無いものは何だ?何が違うんだ」
「な、何って……」
ブルマの返事が、針のように耳をつんざいた。
頭を叩き割られたような衝撃を感じた。黙らなければならないのに、なぜコントロールが利かないのだろうか。訳がわからなくなってきた。ベジータは目眩がしてきた。ぼんやりと目の前に見えるのは、ブルマのふとももだ。
自分が今、俯いているという事に気づくまで、数秒かかった。
顔を上げたい。
顔を上げて、青い目を見れば、もしかしたら正気に戻れるかもしれない。正しい自分に導かれたい。いつもの強い自分に戻りたいと願った。しかし首が動かない。
なぜこの女は、叩かないのだろう。さっきのように、頬をひっぱたいたり、胸を叩いたり、なんらかの刺激を与えてくれれば自分は元に戻れて、上から女を見下ろして笑っていられるはずなのだ。
ブルマは、こちらの手を握っている。脱力して顔から放した手を、優しく握っている。
手は、汗ばんでいる。
汗をかいているのは、どちらだろう。
「教えろと言ってるんだ。奴との違いを……。何故黙る!オレは今!カカロットがやりやがった訓練の、何倍もの負荷をかけて鍛えているんだぞ!それでも、超えられん!なぜだ!?野郎の“猿真似”をするしか能の無い、このオレが悪いのか!?では一体!これ以上何を工夫しろというんだ!!教えろ!!なんとか言えブルマ!!」
「う、うるさいわよ!!」
いきなり目の前が真っ暗になった。
顔が、何かに強く押し付けられていて、目が塞がれて見えなくなっている。頬には、温かくて柔らかいものが当たっている。
遠い昔にも、頬で感じた事がある気がする。一体いつの事だろうか。遠すぎる。思い出せない。
よく知っている匂いが鼻腔をくすぐる。汗と香水のまじりあった、夜の濃密な匂い。軍隊には無かった匂い。ハーレムにすら無かった匂い。
――気がつくと、ブルマに頭を抱かれて、胸に引き寄せられていた。
柔らかな肉の向こう側から鼓動が聞こえてくる。さっきと違って、ゆっくりな鼓動。呼吸音も聞こえてくる。それは深くて長いものだった。
だが、ベジータはやがて気づいた。
ブルマの鼓動と呼吸が鈍いのではない。自分の鼓動と呼吸の方が速くなっているのだ。
「ぐ……」
歯を食い縛った。
胸からせりあがってくる嗚咽を、ベジータは必死に殺す。それは誰にも見られたくない姿。誰にも聞かれてはならない声だ。鍵の壊れた所から、溜まりに溜まった感情が、とめどなく溢れてくる。止められない。どうしたら良いのか分からない。感情が情けない呻きとなって漏れてしまう。
ブルマの腕の力が、その時急に強まった。さらに顔を、胸に押しあてられた。ぎゅっと圧迫された瞼からは涙が零れた。それが、ブルマの汗と一つに混じりあい、コロコロと、乳房の間を転がり落ちてゆく。
「知らないわよ!」
「く……うぐ……」
「知ってたらとっくに教えてるわよ!そうすりゃ、めんどくさい重力室の修理に、追われなくて済むんですからね!あんたの話、全ッ然わかんないしつまんないんですけど!戦闘マニアの話なんか、私、興味が無いのよ!ああー退屈ねえー!なんか刺激的な事して遊びたいわ!ほらいつもの感じで遊びましょうよ!私がゲームに勝ったんだから言う通りにすんのよ!いつもみたいにやりなさいよ!どうしたの!?やれないなら私が上になってやるわ!」
ブルマがベジータの頭を抱きながら、体重をかけてきた。そのまま押し倒し、ガチャガチャとジーンズのベルトを外し始める。絶対にやってはならない行為を、ブルマはしようとしていた。
すぐにベジータがブルマの服を掴み、ベッドに横倒しにした。勢いで、服のボタンがいくつか飛んだ。そして次には布地が破れた。裸体が露になっていき、ブルマの悲鳴があがった。悲鳴は、同じ音量のまま、矯声へと変わっていった。いつもより、大きな声だった。いつもよりも激しい暴れ方で、ブルマは抗った。男をひっぱたく、蹴る、殴る、引っ掻く、噛み付く、髪を掴む。そして大声で罵倒した。バカ、あんたなんか最低、触らないで、どこが王子よ、やめて、汚らわしい、大嫌い、あんたなんか大っ嫌いよ。
……………
……………
――あんた、何見てんのよ?
上からいつも偉そうに。
見てるだけで何もしてくれないあんたなんか、消えちゃえばいいんだわ。
なんで何もしてくれないくせに、そこにいるのよ。ずうずうしい。
……見ないでよ。
今のこの人を見ないでよ。
早くどっかから雲を呼んできなさいよ、そして目をふさいでいなさいよ。
こっちは、忙しくてカーテンが閉められないんだから。
ねえ、お願いよ。どこかへ行って。
今のこの人を、誰にも見せたくないのよ。
今のこの人の声を、誰にも聞かせたくないのよ。
私の声はちゃんと大きく出せているかしら?自然な叫び声になってるかしら?
私は今、この人を上手く隠せているかしら?
隠してみせるわ、なんとしてでも。
誰にも見せてやらないわ、今のあんたを、絶対に。――
ユサユサと揺れるブルマの視線の先に、夜を映した窓がある。
カーテンのすき間に煌めく一粒の星を見て、ブルマは心の中で文句をつけると、再びその心の全てを、狂いかけた男に向け、大声で喘いだ。
【完】
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