童遊戯



「はあ、はあ、て、提案…、提案がひとつ、あるのよ…」
「ううぅ……ぐえ…」

ナメクジと芋虫は、キッチンのドアを越えた先の、冷たい廊下の上で力尽きていた。
ものすごくのろい追いかけっこは15分ほど続けられ、結局ナメクジが逃げ切った。
二人が這ったあとには、汗の痕跡が残っていた。
ナメクジは、腰の感覚が回復してきていたが、芋虫の腹は悪化の一途をたどっていた。
時々「うげ」とえずいている。

「馬鹿げてるわ、こんなやりとり、それにアンタ、卑怯なのよ、いつも力ずくで、私を襲って…ずるいわ」
「うるせ……女ってのは、生まれながらに、そうされる宿命に、あるんじゃねえか、ばかめ!」
「なんて野蛮で、原始的な考えなの…!知性の、かけらもないのね、サイヤ人って!」
「なんだとこのアマ…その口を…二度ときけなくしてや……ううッ…」

ベジータの手は、未だにブルマの足指に向けて伸ばされている。
隙を見つけて捕らえようとしている。
この執念深い男にうっかり捕まらないように、ブルマは警戒を怠らなかった。

「一体何が、気に入らないのか知らないけど、ここは、フェアに、いこうじゃないの。あんたは力を使わない、私は道具を使わない。お互いに頭だけを使ってゲームで勝負をするのよ、どう?」
「ゲームだと~?誰がそんなふざけた方法にのるものかッ…」
息を切らしながらベジータが拒んだ。 するとブルマは、大げさなくらいにでっかいため息をついて、「この手だけは使いたくなかったんだけど仕方ないわねえ」と前置きしながらベジータに言った。

「ねえベジータ、あのニジイロオオドクフグって…どのあたりで釣れるのかしらねえ…?」
「な……!!」

ベジータが目を見開き、ビクリと震えた。
ブルマは白々しく目を細めてベジータを見つめていた。悪事を企む時の狡い目付きだ。
その美貌に、笑みは全く無い。本気で言っているようだった。

「確か、南の海で食べたのよね?浅い場所に棲息しているのかしら、それとも沖の方で釣れるのかしら…餌は何がいいのかしら」
「な、なんだそれは。脅迫しているつもりか?」
「ふん。あんたが私にしょっちゅうやってる事じゃないの」
「……」

その通りすぎて、ベジータは何も言い返せなかった。
ニジイロオオドクフグの毒の恐ろしさに、身の毛がよだつ。あれを再び食わされたら、また長期間の闘病生活を強いられてしまう。
――地獄だ。
ギリギリとベジータの歯が鳴った。

「卑怯だぞ!」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」

ブルマが即答する。
ベジータもすぐに切り返す。

「頭脳ゲームだかなんだか知らんがオレは御免だぜ。やらなくとも最初からオレが勝つのは目に見えている。時間の無駄だ!」
「言うこと聞かないともっと時間を無駄にする事になるかもしれないのに」
「バカめ。お前を監禁すればあの魚は手に入らん」
「ふふ。よく言い切れたものね。もう色んな所に手配済みかもしれないのよ?私の広大なネットワーク舐めてんじゃないわよ」
「でまかせだろ。どうせハッタリだ」
「ベジータったら……。私が家出る寸前に言った言葉を忘れちゃったの?」
「……」

また、言葉に詰まった。
玄関を乱暴に閉めた時に放たれた、ブルマの台詞を思い出す……。怒鳴っていても鈴のように耳を打つあの声。
記憶を遡っているうちに、ブルマの足指が3センチ程動いて離れていった。
ベジータの手は動かないままだ。

「私はずーっと考え続けていたのよ。あんたが寝たきりになってくれたおかげで、考える時間が増えて予定外の作戦もいくつか立てられた」
「毒を盛るつもりならば、てめえの用意する食事を拒否するまでだ。オレはブタを探しに行く」
「単純ね。食べ物だけに仕込まれているとは限らないのに」
「……」

ブルマの言葉は、あらかじめ用意されていたかのように流暢だった。ベジータの顔が青くなる。
反論が出来なくなってしまった。しばしの間沈黙が続く。
ブルマの言っている事の真贋が、ベジータには見極められなかった。フグの毒が恐ろしいあまり、会話のやりとりに集中出来ない。
腹も痛い。
正直、すぐにでもトイレに行きたいぐらいだ。
持ち上げていた顔がガクンと落ちる。
ベジータは、床の上で脱力した。
反逆のエネルギーが、とうとうなくなってしまった。

「…そのゲームにオレが勝てば……お前はオレの言うことを聞くんだな?」

くぐもったベジータの言葉には、青白い諦念が混じっている。
ブルマが一瞬目を丸くした。
それから、「そうよ」と言って、穏やかな微笑みを作った。そして闘い疲れた体を床いっぱいにくつろげて、緊張を解いた。
ベジータに対する警戒は、すっかり無くなっていた。



ゲームの約束の後、ベジータは治療に専念した。
同時に、ブルマの魂胆がどんなものなのかを考え続けていた。
“私にも考えがあるんだから覚悟してなさいよ~~!”
と、あの時ブルマは言った。
“世界的科学者”を自負する者なりの、何か大がかりなカラクリを用意しているのではないか……。当然ながらゲームを作る側が有利なのは明白である。舐めてかかれば、負けるかもしれない。
だが、逆にこちらが勝てば、向こうも一切の文句は言えまい。
ベジータはおとなしく身体を治しながら、頭の中を戦闘時と同等に、クリアに研ぎ澄ませていた。
女を奴隷にする大チャンスを、むげにするわけにはいかない。
静かに精神集中をしながら、運命を左右する日を真剣に待ち続けた。

やがて会社の定休日が訪れると、ブルマからゲームの誘いがかかった。
いよいよ勝負の時が来たか、とベジータはシャツの襟を正し、気を引き締めた。
フグにやられた腹は完璧に治っていた。
精神状態も高め安定。
頭脳戦を行うにはもってこいの、抜群のコンディション。余裕のベジータは、自信満々の面でブルマにゲームの内容を訊ねた。

「……」

そのゲームの名前を聞いたとたん、ベジータはたちまち目眩をおこした。
背後から毒矢を射たれた野性動物みたいに、グニャ!と変な角度でよろめき、キッチンテーブルに辛うじて両手をつく。
そのままなだれこむように椅子に座った。
硬い筋肉で支えられていた凛々しい背中が、ふにゃ~と丸くなる。ベジータの身体からネズミ色のオーラが湧いた。見た感じ、人生の岐路でつまずいた引きこもり青年のようである。

「信じられん…」

放心状態になって、テーブルに突っ伏すサイヤ人。
灰のような顔色である。
一方のブルマは腰に手を当てて、不思議そうに男の様子をうかがっていた。

「あら。どうしたの?やらないの?」
「何を…?」

ベジータが灰色の顔をゆっくりと向けながらブルマに聞いた。

「だから、“かくれんぼ”をさあ…」
「うわあーー畜生~~~!!」
「やらないんなら不戦勝で私の勝ちになっちゃうんだけど、いいの?」

―かくれんぼ―

この五文字を頭に思い浮かべると、ベジータは気が狂いそうになった。うぎゃあと叫んで、激しく貧乏揺すりした。悔しいやら馬鹿馬鹿しいやら、訳のわからぬ怒りに狂わされてベジータは叫んだ。

「返せー!オレが固めた覚悟の気持ちと、無駄になった準備期間を返しやがれーー!」
「やらないんなら不戦勝で私の勝ちなんだけど?」
「不戦勝だとー!?何を勝手に…」
「やるわよね?そんじゃあ、あんたが鬼ね。まずは目を閉じて60数えてね。その間に私がCCの中に隠れる。三分以内に私を見つけられたらあんたの勝ち」
「話を聞かんか!」
「三分で私を見つけられなかったら、私の言うことを聞いて貰うから。わかったわね?」
「鼓膜破れてんのかてめえは!それに、なぜオレが最初から鬼なんだ!全然フェアじゃねえじゃねえか!」

騒ぐベジータにはおかまいなしに、ブルマは真面目な顔でルール説明を続けた。

「建物の中は広いんだから、大きな声で数えんのよ?最上階にも聞こえるぐらいに」
「ちょっと待て、貴様、今から耳鼻科に行って耳を掃除してこい!それから改めて、じゃんけんして鬼決めだバカヤロー!いや、いやこのふざけたゲーム自体を変更すべきだ!仕切りなおしだ!」
「あのさあ、あんたは私よりず~~っと賢くていらっしゃるんでしょ~?だからこれぐらいのハンデが無いとフェアじゃないのよ~。それともなあに?かくれんぼ“ごとき”で怖じけづいてるの?私を見つけられる自信が無くて?」
「いちーー!にぃーー!」
「きゃ!」

まだスタートって言ってないじゃないの!とブルマは叫んで、キッチンを飛び出した。

「時計の秒針に合わせて数えんのよー!?」

ルールを追加する甲高い声が廊下の方から聞こえた。怒るベジータの逆立ち髪には静電気がまとわりついており、所々でちっちゃい稲妻が光っている。
ブルマは跳び跳ねるようにキッチンを出ていったが、それは怖がりながらもちょっと楽しんでいるような走り方に見えた。遊び半分の態度を見ると、ベジータの怒りはますます猛った。ゲームという名の勝負に、真剣に挑むつもりでこの日を迎えたというのに…。
随分となめられたものだ。
腕時計の秒針に合わせて、数を怒鳴り続けていると、ペキ、と音をたてて、時計盤にヒビが入った。睨み付ける眼力が強烈すぎて、割れてしまったのだ。それでもなんとか針だけは働き続けていて、正確な時を刻んでいた。
高級腕時計とのにらめっこが続いた。針の動きがやたらのろく見える。一刻も早くブルマを捕らえたい。仕置きをしてやらねば気がすまない。
やがて秒針が一周し、

「60だくそったれェーー!!」

と、CC全体を揺るがすような絶叫があがった。
同時に腕時計が粉々になった。ベジータが手首から引きちぎって、握り潰していた。その残骸を、乱雑に床に投げ捨てて、憤然と立ち上がる。
怒りをはらんだ目は真っ直ぐにキッチンのドアの向こうの廊下……女が逃げて行った方向に向けられていた。噴き出される殺気のために、室内の温度が真夏の炎天下並みに上がっている。カーテンがパタパタと勝手に揺れていた。

「舐めやがってー!勿論覚悟は出来てるんだろうなあ!てめえは今夜からオレ様の奴隷人形だ!滋養強壮ドリンク飲みまくってオレが満足するまで精々奉公しやがれ!昼間はメイドと技術者を兼ねて休む事無く働くんだ、オレの言うとおりになあ!」

ベジータは怒鳴りながら歩き出した。一歩一歩、でかい足音をたてて。
その音を聞かせて、ブルマを怯えさせるためだった。
恐怖心で縮こまったブルマを捕らえたら、その場ですぐに狼藉を働くつもりでいた。黒いネルシャツのボタンを全て外して、いつでも脱げるようにしてから、全身黒ずくめの悪漢はブルマの捜索を始めた。

「こんなくだらねえ“ゲーム”のせいで、人生がまるっきり変わっちまうなんて憐れな女だよなあ!だが同情はしねえぜ自業自得だ!」

ベジータはブルマが隠れていそうな場所、例えば、部屋のクローゼット、ベッドの下、あちこちにある床下収納、観葉植物の裏、階段下の用具入れなど、手当たり次第に暴いていった。
しかしブルマはそのような、すぐに思い付く場所には隠れていなかった。
ベジータは一度冷静になって、考えを巡らせた。
エレベーターに向かう。
見るとエレベーターは最上階の所で止まっている。最上階には重力室がある。ベジータはエレベーターには乗らずに非常階段に回った。長い階段を螺旋状に舞空して、ものの数秒で最上階まで上がると、重力室前で立ち止まった。
重力室にはいくつもの鍵がある。
ベジータが、外部からの邪魔を嫌って、ブルマに作らせたのである。内部からかけられる施錠方法はいくつもあって、密室にすることが出来る。
外からも鍵は掛けられるがこちらはひとつだけ。
ひとつだけだが、頑丈である。
ベジータは、分厚いガラスがはめこまれた小さな覗き穴に目をこらした。中は暗くて何も見えない。
ジッと、夜目をきかせて目をこらす。

“死なないで!今開けるから…!ああ、もうッ!なんて厄介なロックなの!”

いつの日か密室で死にかけた時、ブルマはあらゆる工具を使って配線を切りまくり、ドアを無理矢理破壊した事がある。
重力室のドアは分厚い。

ベジータは、ドアに手を当てて力を入れた。完璧な暗闇が、興味をそそった。中にブルマが居るかもしれない。
少しずつ力を込めてドアを押す。
今までに、重力室のドアを壊した事は一度も無い。
大きな気弾を当てれば簡単に破壊できるのだろうが、中にブルマが居るとすると、下手すればドアの破片などがぶつかって、怪我をさせてしまう恐れがある。
ベジータは慎重に力を込めながら思った。
なんとめんどくさく、憎たらしい女だろうか、と。
ドアに一筋の亀裂が入った。
更に力をこめて押すと、瞬く間に放射状のヒビが広がり、内臓されているロックが高い音をたててショートした。
壊れたドアをこじ開ける。
重力室の中を歩き回って点検したが、ブルマは居なかった。

「……どこだ」

タイムリミットは3分だ。
重力室から出ると、非常階段に向かって走った。
途中にあった壁掛け時計を見ると、もう2分が過ぎていた。非常階段に戻ろうとしたとき、視界のすみっこに、白っぽいモノが映りこんだ。
見ると、非常階段の先のエレベーター近くの廊下に、はしごがひっくりかえっている。
急いでそこまで駆けていき、はしごの真上の天井を見てみた。一見、何の変哲もない白い天井だが、隠し扉があるのかもしれない。
舞空して、その天井に触れてみる。
すると、真四角の天板が簡単に外れて、暗い天井裏に繋がった。
ベジータは一瞬呆気にとられたが、すぐに大笑いした。

「ハーッハッハッハ!マヌケめーー!頭隠してなんとやらとはこのことだぁーーーー!!」

……しかしブルマはそこにも居なかった。
目をこらして見たが、天井裏には埃が均等に積もっているだけで人間が這い回った跡が全く見当たらない。

「……」

ベジータは、忍者のような俊敏さで天井から飛び降りると、非常階段に突入した。
弾丸のスピードでCC内を飛び、各階の怪しい箇所をくまなく探しまわった。刻々とタイムリミットがせまってきている。度々目に入る時計の針に、ベジータは焦り、歯軋りした。
焦りながら探しているうちに、ベジータの頭の中に1つの疑惑が浮かんできた。
これだけのスピード、これだけの注意深さを持って探しても一向に見つからないのはどうもおかしい。もしやブルマはルール違反をして、屋外に隠れているのではなかろうか?
廊下を高速で飛んでいたベジータは、急に止まって、すぐそばにあった窓を、肘で叩き割った。ガラスの破片が派手に飛び散り窓が全開になった。

「この卑怯者めーー!分かっているぞ、お前が外に隠れていることは!よくもオレ様を騙しやがって……ただではすまさんぞ!おとなしく出てきやがれーー!」

♪ピンポンパンポ~ン♪

「……」

どこからともなく、間の抜けたチャイムが聞こえてきて、ベジータは外に向かって口を開けたまま硬直した。

♪ただいまより、ゲームの終了時刻を、おしらせいたしまあす。
ぴ。
ぴ。
ぴ。
♪にょ~~ん♪

「……」

♪ベジータくんのマケ~~~
♪ベジータくんのマケ~~~

「なっ…!!なんだこのふざけた音声はーーーーーーー!!!!!」

♪ベジータくんのマケ~~~

つぶれたカエルみたいな音声で、タイムアップが知らされた。

カエルの声は下から聞こえてくる。
音の出所に向かってベジータは飛んだ。

飛ぶうちに気づいた。それはゲームを開始した、キッチンの方から聞こえてくる……。
非常階段を一気に飛び降りて、一階の廊下をダッシュした。
キッチンのドアが一瞬で迫ってくる。
それを思い切り蹴り破って、中に飛び込んだ。
目を走らせる。 キッチンの中央に、ブルマが悠然と佇んでいる。
さんざん探し求めた“標的”は、ベジータを見ると、優しい微笑みを投げかけた。

「私の勝ち」

と言うブルマの声は、柔らかく、余裕に満ちている。
そこに、勝者特有の高慢な響きは無かった。
まるで幼子に語りかけるような優しく甘い声だ。
つぶれたカエルの声が、壁際のオーディオから鳴っている。

ベジータくんのまけ~
ベジータくんのまけ~

「てめえ…どこに隠れていやがった」

にらみながらベジータがたずねた。
急いでやって来たから、少々息が荒れている。ブルマはオーディオの停止スイッチをポンと押しながら

「さあてどこでしょうね?」

と、可愛くおどけてみせた。

「ふざけるな。答えろ」
「うふふふ」

カエル声のディスクをオーディオから取り出して、ブルマは楽しげに笑った。ディスクの表面に手書きの文字が見えた。

“かくれんぼ”と。

それがあらかじめ用意済みだったのかと思うと、悔しくてしょうがない。ベジータの拳が、わなわなと震えた。ブルマはにっこり笑いながらベジータを見ている。

「アレの裏にしゃがんで隠れていたのよ」

ブルマが指差したのは、キッチンに続くリビングにある大型テレビだった。
ベジータはそのテレビに目を釘付けにして、言葉を失ってしまった。テーブルからすぐ近く…リモコンの信号が届く距離に、大型テレビはあるのだ。

「いつから」

ベジータが、静かに問う。

「はじめっからよ」

とブルマが答えた。
それを聞くとベジータは再び言葉を失った。怒りで緊迫していた身体中から、みるみる力が抜けてゆくのを感じた。
ブルマは相変わらず微笑み、ディスクが生み出す美しい虹色をベジータに見せてやりながら、説明を始めた。

「私ね、ここを走って出ていったフリして、すぐに戻ってきたのよ。忍び足であんたの真後ろを歩いてね。あんたってばものすごく怒ってたから私の気配に気づかなかったのねー。テレビの裏にしゃがんであんたが廊下に出ていくまで笑いを堪えるのには苦労したけど、その後は余裕だったわ」
「おま、お前は……」
「すごい汗。あんたもしかして…、CCの全部を探し回ったの?たったの三分で?それって逆に凄いわねえ、さすがだわ」
「……」

ベジータはたちまち顔が熱くなるのを感じた。次に、異様な疲労が襲いかかってきた。
恥と、己の愚かさと、敗北感とがまぜこぜになり、水を吸った砂袋のようにのしかかってくる。
ひどく打ちのめされたように、椅子に腰かける。ドカッと背もたれに体重をあずけて。その椅子で60数えた事を思い出し、悔しくて叫びそうになった。一方のブルマはディスクを弄びながら立ったままだ。ベジータは平静を保とうと、目を閉じて、頭に浮かんだ事柄を呟いた。

「……エレベーターが……最上階に止まっていた」
「ええ、そこだけはひっかけようと思ってね、ボタンだけ押しておいたの。最上階まで行ったの?」
「……。最……最上階の廊下に…はしごがひっくり返っていた」
「ああ、あれは昨日の夜、倉庫から出して置いておいたのよ」
「オレに天井裏を怪しませる為か?」

押し殺した声でベジータが言うと、ブルマはきょとんと目を丸くした。

「へ?違うわよ。アレは重力室の天井のメンテナンスに使おうと思って、たまたま出しておいただけよ」
「………」

あっけらかんとしたブルマの台詞に、ベジータはショックを隠せない。身体の力がどんどん抜けてゆく。ズル、と姿勢が砕けた。

「なんなんだ……くだらねえ……あまりにも幼稚なゲームだ……」
「でもあんたは、そのゲームにのったわ」
「やらねばお前が…不戦勝になるとかほざきやがるから……ああクソッ!やはり納得がいかんぜ、このゲーム全然フェアじゃねえじゃねえか!なぜオレが最初から鬼なんだ!」
「だって。私のこと、普段からアホだのバカだの罵ってるんだから、あんたはすごーく頭がいいんでしょ~?さっきも言ったけど、このぐらいハンデがないとさあ…」
「もう寝る」

プイッとブルマを無視して、ベジータはとっととキッチンから逃げた。「待ちなさいよ」とブルマがその後をついてゆく。ベジータは自室に逃げ込むと即座にドアの鍵を閉めた。が、間もなくキュルキュルと音が鳴り、鍵が開けられ、ブルマが入ってきた。手にはポケットサイズの電動ドライバーが握られていた。
腹が立つほどに器用な侵入者に対して、文句を言う気にもなれない。ベジータはヘトヘトの身体をベッドに横たえて目をつむった。

「寝るから出ていけ」
「いやよ。私が勝ったんだから、言うことを聞いてもらいますからね、約束したでしょ?」
「へっ。誰が聞くものか、お前を犯して犯して犯しまくって、そんなくだらねえ約束の記憶なんか吹っ飛ばしてやる」
「犯すのはダメ。普通にするのはいいけど…」

乱暴に言い放った言葉を、ブルマが静かに咎める。
ベッドにそっと腰かけると、真剣な口調で話しかけてきた。

「私、イヤなのよ。モノみたいに扱われるの。言葉で虐められるのもイヤ。もっと普通にして頂戴。私のお願いはこれだけ」
「オレにはお前の言う“普通”がわからんのだからしょうがない」

目を閉じながらベジータは返答した。ブルマとの会話が鬱陶しくて、眉間に皺が寄る。このようなやりとりは今までに何度もしてきたから、ウンザリだった。

「じゃあ私が教えてあげるから学習して」
「そこまでしてお前とやりたいとは全く思わん、自惚れるな」
「ウソよ、あんたには必要なのよ、私という頑丈な器が」
「……器?」
「つまりその…、鬱憤とかゴチャゴチャしたものを、受け止める器が…」

小さく萎縮する、ブルマの言葉尻。
綿で包んだように、遠慮がちに紡がれた言葉は、ベジータの鼓膜を破かんばかりに打ちつけた。
閉じていた目をカッと開いてベジータは飛び起きた。
ブルマの言葉が脳みそに浸透するにつれ、形相が険しくなっていく。
それを見たブルマは、ベジータから少しだけ離れて、ギュッと身構えた。
だが逃げる事はしなかった。

「鬱憤とは何の事だ」

ベジータの低い声には力が籠っている。目がゆっくりと、ブルマの顔に向けられた。鋭い眼差しに、殺気立った怒りの色がベトリと塗りたくられている。
恐ろしい目付き、と一言で言っても段階がある。ベジータは様々な種類の睨み目を見せるが、その中には何度見ても見慣れる事の無いゾッとするような恐ろしい目付きがあって、今はそういう目をしていた。
だからブルマは、やっぱりゾッとして、更にベジータから少しだけ距離を置いた。
でも、逃げない。
ベジータはブルマの態度を見て、いぶかしんだ。いつもなら、「あわわわ」と慌てふためいて真っ先に逃げ出すのに、今日はなんだか違っていた。どういうつもりなのかと思い、ブルマに身体を向け、偉そうな所作で胡座をかいた。そして改めて真っ向からブルマを睨んだ。
ブルマがきゅっと体をこわばらせた。
でも、逃げずに話を続けた。

「私分かるわ。あんたがなんで私に乱暴なことするのか…。分かるわよ、目的に、その、到達出来ないのがどれぐらい不満を生むのか、」

ブルマは視線をあちこちに移動させながらゆっくりと説明をした。言葉を慎重に選んでいるのが分かった。たどたどしい女の言葉をベジータはすぐに断ち切った。

「なんだその物言いは。言葉を濁さなければオレが傷つくとでも思っているのか。傷つく訳がねえだろ。ただ猛烈に腹が立つだけだぜ」
「お、怒らせるつもりなんて、私、」
「『器』と言ったな?自ら『器』となって、オレの鬱憤をうけとめて“あげている”と言いたいのか?一体何様のつもりだ。まるでお前の方が一枚上手のように聞こえるなあ。オレをバカにしてるのか?」
その瞬間、ブルマは泳がせていた目をまっすぐにベジータに向けてきた。 「バ、バカになんて、してないわよ!私は出来る形で力を貸したいと思ってるのよ、で、でも、ああいう乱暴なのは、」
「力を貸したいって言うんなら、オレの奴隷になれ。その名の通り、器に徹して、モノみてえになっていればいいだろ?文句を言わずになあ」
「あんたは…。常に自分の方が上でないと耐えられないのよね。だから余裕が無くなるんだわ」
「何ぃ?」

ベジータは、急に声を大きくして凄んだ。それでもブルマは逃げない。ベッドのシーツを必死に掴んで踏ん張っているように見える。

「自分で自分の首を締めてるのよ。だからすぐに、一杯一杯になっちゃってさ……あんた、いつだってはりつめて、上ばっかり目指して。た、たまには、気を抜きなさいよ。一日ぐらい訓練サボったっていいじゃないの」
「また説教か。お前も懲りん女だな。…場所はここでいいのか?汚れちまうからいつもお前の部屋に連れ込んでるが、今日は特別腹が立っている。移動するのも面倒くさい。ここで犯ってやってもいいがどうする?……ああ、しまった。うっかり“奴隷”に選択肢を与えちまった。今の質問は無かった事にしよう」

たちまち眼光が、陰鬱な色気を帯びて、全く違う類いの睨み目となった。
本能まみれのギラついた目。
襲いかかる寸前の。
雌を付け狙う雄の目…。
ブルマが真っ青になった。
ピンクの唇から吐き出される呼吸は、短くなっている。
しかし、踏みとどまっている。いつもならとっくに逃げているのに今日は違う。
恐怖で、身体中の産毛がそそけたっているのだろうな、とベジータは思った。体が勝手に逃げてしまいそうになっているのだろうな、と。それでも鳥肌の浮く両手で、ベッドのシーツを握りしめて己の身体を縫い付けている。この女。
一体どんな魂胆があって、ここに居続けるのか。

「あ、あんたがなんで、ゲームで負けたか分かる?」
「ああ分かる。お前が決めたルールが滅茶苦茶だったからだ」

ベジータは固い声で即答した。胡座をほどいて、立ち上がる。黒いジーンズには、壁で擦った痕がいくつもあった。
いかに必死に獲物を捉えようとしていたかを物語る証拠だ。いかに勝ちに執心し、目的を果たさんと、CCの中をかけずり回ったかを。
女を奴隷にする、というたった一つの目的の為にばかばかしいゲームに翻弄された。
うかつに、女の誘いにのった自分が悪いのだろうか?
そうだとしても腹立たしさは増すばかりだ。
スプリングを静かに鳴らして歩み寄ると、ブルマが負けじと睨みあげてきた。
なんという生意気な目つき。
その目つきが余計にこちらの嗜虐心に刺激する事を、なぜこの女は学習しないのだろうと、半ば呆れて笑いがこみ上げてくる。

「あんたの敗因は、遊び心が足りないからだわ。こ、子供に戻れば、私の事、簡単に見つけられたと思うわよ?童心にかえるのよ、一度リセットすればもしかしたら何か…」
「子供の頃も今も、さして違いは無い」
「おんなじ種族の子供と、遊んだり、しなかったの?そういえばベジータの子供時代の話って聞いたこと無いわね、どんな風に過ごしてたの?私はよく近所の子をCCに呼んで、今日みたいにかくれんぼしたり…」

ベッドの端に座るブルマの真後ろまで来ると、ベジータはぴったりくっつくように、背後に座った。すぐにブルマは顔を背けた。怯えている。ベジータは両足を前方に投げ出した。ブルマを足ではさみこむ形だ。それから片足をブルマの足首に絡みつけてやった。後ろから手を伸ばして、細い両手首を優しく掴む。
ブルマはそこで言葉を切ってしまった。
怖がっている。
腹が立っているので、もっと怖がらせてやることにする。
だから、このくだらない会話に付き合ってやった。
時間を使ってジワジワと、女を精神的に追い詰めてやろうと思った。

「同年齢で、気のあう者なんぞ皆無だった。オレの回りにいたのは、敬意に値する二人と、多数の家来、あとはその他大勢のクズ共」
「その、ケライの人たちとは、遊んで貰ったり、しなかったの?」
「したな」
「どん、どんな事を、して?」
「殺戮に決まってるだろ」

ギャッとブルマが声をあげた。平然と、なおかつ面白そうにベジータはその台詞を吐いたから、ブルマは取り乱して、ベジータの手から逃れようとした。
無論、逃がさない。

「そんなの、遊びじゃないわ!」
「遊びだ。オレにとっては紛れもなく」
「私が言ってる遊びっていうのは、今日やったかくれんぼとか、鬼ごっことか、」
「そういった“陣地取り”は遊びの範疇ではないな。戦地で応用する“学問”に近い」
「学…問?」
「身を隠したり敵を欺いたりってのは、戦場における戦術なんだよ……そうだろう?本当の遊びってのはその果てにあるんだ。…ああそうだ、思い出したぞ、こういうエピソードなんかはどうだ?」

ベジータはブルマのマニキュアを指で撫でながら、シャンプーの香る後頭部に額をあてて、「ははは」と笑った。
女の背中にぴったりと体をくっつける。ぎゅうと抱きしめると、面白いほどに震えが伝わってくる。じとりと汗をかいているのが匂いで分かる。
怖がれ怖がれ。

「フリーザの軍隊にぶちこまれた頃、同じ年齢のガキ共と一緒にゲームをやった事がある。様々な星から集められてきた多民族のガキ共と、“体育館”で楽しいゲームを」
「……ゲームって……どんな?」

フリーザの名が出てきたためか、ブルマがつばを飲みこんだ。
地球生まれの地球育ちの……温室でぬくぬくと不自由なく生きてきたおめでたい女である。これから話す“思い出話”に、なるべく現実味を持たせなければならない。遠いおとぎの世界の物語だと思われてしまっては台無しだ。
女のマニキュアを指の腹で撫でて、その滑らかさを楽しんだ。白い手首をしっかりと握って。
これで耳は、塞げない。
だから、聞くしかない。ベジータは出来る限りその当時の光景をリアルに思い出しながら、今起こっている出来事のような口ぶりで話し始めた。

「ガキ同士で、一対一での勝ち抜き戦をやるんだ。武器は各自好きなものを選ぶ。オレは素手だったけどな。戦って相手が死ねばこちらの勝ちだ。フリーザは高い観覧席から、笑いながら眺めている。ガキが泣いて鼻水垂らして、命がけで殺しあって、ギャアギャアと叫び声のうるさい事と言ったら耳を塞ぎたくなるほどだが、フリーザは『耳に心地良いですね』と言って笑っている。色んな色の血しぶきがそこらじゅうに飛び散ってる。このガキ共、加減がわからねえ“ド素人”ばかりだから死骸なんかグッチャグチャなんだぜ。もう死んでんのにな、攻撃が止まらねえんだ。防衛本能が暴れ続けるんだよ、ガキなりにな」
「や、やめて」

案の定ブルマは、その残酷な話に首を振った。
が、ベジータは全く意に介さずにスラスラと続けた。子どもの頃の記憶を鮮明に思い出しながら。

「ひたすら殺すだけのゲームは、当時のオレにとっては純粋に楽しい遊びだったぞ?ただ気に入らんルールがあって、最後まで勝ち抜いた二人を、フリーザは戦わせようとしなかったのだ。フリーザらしからぬ甘いルールだ。オレはいつも最後まで勝ち残ったが、もう一人の生き残りを殺す事が許されたら、もっと面白いゲームになったに違いない。オレはいっぺんフリーザに言ったんだ、『こいつ殺してもいいですか』ってな。そしたらあの野郎、『見込みのあるお方なので殺してはなりません』などとほざきやがった。ゲームは、戦闘員候補選抜の為だったんだよ。だから間引きすぎは良くないんだとよ、つまらねえ」

ベジータはブルマの首筋に耳をあててみた。そして、笑った。ドッドッドッドッ、と鳴るブルマの心拍の激しさが可笑しかった。それと同時に愛おしさも生まれた。
真っ黒な愛おしさだ。「やめて」とブルマが言った。その言葉に促されるようにベジータは記憶をたどり続けた。

「何回かゲームをやったがオレは途中で外された。楽しみを取られて残念だったのを覚えている。すぐに戦場に駆り出された。そこでは頭を使う戦術ばかりが求められた。“締め切り”があってな、ゆっくりと殺しを楽しむ余暇が無いんだ。しかも、面倒な雑務までくっついてきやがる。殺しに行ってんのに、死ぬほどつまらねえんだぜ。その死ぬほどつまらねえ生活が始まったのが、7歳ぐらいだったかな……。お前は7歳の頃、何をしていた?」
「……う……うう」
「思い出せんのか。7歳の地球のガキ……ははははは、想像もつかねえぜ」
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